【今回深掘りする原理のみ言】
 後のアダムとして来られたイエスと、エバの神性をもって来られた聖霊(前編第七章第四節(一))と天使の三存在が一つになって初めて霊的救いの摂理を成し遂げ、神の三大祝福を霊的に復帰することができたのである。(『原理講論』p547)

 후아담으로 오셨던 예수님과 해와의 신성(神性)으로 오신 성신(聖神)과(전편 제7장 제4절 Ⅰ) 천사장의 3존재가 합하여서 비로소 영적 구원섭리를 이루시어 하나님의 3대 축복을 영적으로 복귀하셨던 것이다.

 

 先回の記事(『原理講論』の「聖霊」には二つの意味がある)では、聖霊と聖神の意味の違いと区別について説明しました。

 今回は、聖霊と聖神の関係とそれぞれの働きについて深掘りしてみたいと思います。

 最初に、聖神がもつという「エバの神性」とは何かについて考察してみましょう。

(1)「エバの神性」とは?

 ①「統一原理」で言う「神性」

 まず「統一原理」で言う「神性」とは何かを確認しておきましょう。

 神を中心として心と体とが創造本然の四位基台を完成した人間は、神の宮となって(コリント・三・16)、神と一体となるので(ヨハネ一四・20)、神性をもつようになり、神の心情を体恤することによって神のみ旨を知り、そのみ旨に従って生活をするようになる。(『原理講論』p66)

 人間は堕落することによって神の宮となることができず、サタンが住む家となり、サタンと一体化したために、神性を帯びることができず堕落性を帯びるようになった。(『原理講論』p137)

 

 このように人間が完成すれば「神性」をもつようになるはずでしたが、堕落することによって堕落性をもつようになってしまいました。

 したがって、「神性」は堕落性と正反対の性質のものであると推測することができます。

 そして、「統一原理」では堕落性を次の四つに分類しています。

 1.神と同じ立場に立てない
 2.自己の位置を離れる
 3.主管性を転倒する
 4.犯罪行為を繁殖する (『原理講論』p123より)

 これらの四つの堕落性は、四位基台のそれぞれの位置に対応しており、人間が堕落していく過程で、このようなサタンを中心とする堕落性の四位基台をつくってしまったわけです。

 そのため、復帰摂理においては、カインの立場にいる人物が「堕落性を脱ぐための蕩減条件」として、次の四つの条件を立てなければなりません。

 1.神と同じ立場に立ってアベルを愛する
 2.アベルを仲保として自己の位置を守る
 3.アベルに従順に屈伏して主管性を正しく立てる
 4.アベルから善のみ言を伝え受けて善を繁殖する
 (『原理講論』p294より)

 「堕落性」と正反対の性質が「神性」だとすれば、人間がもつはずだった「神性」は次の四つに分類することができると考えることができます。

 1.神と同じ立場に立って愛することができる
 2.自己の位置を守ることができる
 3.主管性を正しく立てることができる
 4.善を繁殖することができる

 これが「統一原理」で言う「神性」であり、堕落していなければ、人間はこのような四つの「神性」をもつようになっていたでしょう。

 次に、「エバの神性」について考えてみましょう。

 ②「エバの神性」と聖神の働き

 カインが立てるべき「堕落性を脱ぐための蕩減条件」は、自分よりも神様に近いアベルを神様と同じ立場に立って愛し、仲保とし、屈伏し、善を繁殖することでした。

 このことからアダムの対象であるエバも、主体であるアダムに対して、神様と同じ立場に立って愛し、仲保とし、屈伏し、善を繁殖するのが原理であり、それはエバがもつべき神性です。

 ですから、このようなエバの神性をもってくる聖神は、霊的イエス様に対してこのような神性を聖徒一人ひとりがもつように役事するわけです。

 特に聖神の働きは、メシヤを通して与えられる神様のみ言を伝えることです。

 それは、エバがこの使命を果たすことができなかったため、聖神がそれを蕩減復帰しなければならないからです。

 善悪の果を取って食べるなという善のみ言を、神はアダムに伝え、アダムはこれをエバに伝え、エバは天使長に伝えて、善を繁殖すべきであった。しかし、これとは反対に、天使長は取って食べてもよいという不義の言葉をエバに伝え、エバはそれをアダムに伝えて堕落したので、「罪を繁殖する堕落性」が生じた。(『原理講論』p295)

 

 それでは、聖書の記録のなかで聖霊と聖神が降臨した場面について確認してみましょう。

(2)聖書に見る聖霊と聖神の降臨とその働き

 ①ヨルダン河でイエス様に降臨された聖霊

 次のみ言を見ると、洗礼ヨハネは、聖霊がイエス様に降臨されるのを見て、一度はイエス様を神の子として証しています。

 ヨハネ福音書一章33節から34節を見れば「わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかた(神)が、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人(キリスト)こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」と言った洗礼ヨハネの告白が記録されている。(『原理講論』p199)

 요한복음 1장 33절을 보면, 나도 그를 알지 못하였으나 나를 보내어 물로 세례를 주라 하신 그이(하나님)가 나에게 말씀하시되 성령이 내려서 누구 위에든지 머무는 것을 보거든 그가 곧 성령으로 세례를 주는 이(그리스도)인 줄 알라 하셨기에 내가 보고 그가 하나님의 아들이심을 증거하였노라고 한 세례 요한의 고백이 기록되어 있다.

 

 文鮮明先生のみ言でも、洗礼ヨハネについて次のように語られています。

 イエスが洗礼を受けようと洗礼ヨハネのところに来たとき、洗礼ヨハネは霊的に感動してイエスを証しました。洗礼ヨハネは、聖霊が鳩のようにイエスの上に降りるのを見て、「彼は私が喜び愛する息子であり、彼が世を救うであろう」という声を聞いたときは、イエスを証したのです。
 しかし、彼が正気に戻ったときは違いました。聖霊が自分から去ってしまうと、それは夢のことのように思いました。ここに霊的に啓示を受ける食口がいれば、皆さんもそのような経験をしたことがあるでしょう。(『文鮮明先生御言選集』 52-115 1971.12.25)

 예수가 세례를 받으려고 세례 요한에게 왔을 때, 세례 요한은 영적으로 감동되어서 예수를 증거했습니다. 세례 요한은 성령이 비둘기같이 예수 위에 내리는 것을 보고, ‘이는 내가 기뻐하는 사랑하는 아들이요, 그가 세상을 구원하리라.’는 소리를 들었을 때는, 예수를 증거했습니다.
 그러나 그가 제정신으로 돌아왔을 때는 달랐습니다. 성령이 자기에게서 가 버리고 나자, 그것은 꿈만 같았습니다. 여기에 영적으로 계시받는 식구가 있으면, 여러분도 그와 같은 경험을 하였을 것입니다.

 

 以上のように、ヨルダン河でイエス様に降臨されたのは聖霊であり、そこにいた洗礼ヨハネも聖霊を受けてイエス様を神の子であると証しています。

 しかし、その後に洗礼ヨハネから聖霊が去ってしまうと、彼はイエス様と生死を共にする道を歩むことができなくなってしまいました。

 『原理講論』には、霊的なイエス様が信徒たちを訪ねてこられるときのことについて次のように説明されています。

 またある教派では、イエスが霊体をもって再臨されると信じている。しかしイエスはその昔、墓から三日後に復活された直後、生きておられたときと少しも変わらない姿をもって弟子たちを訪ねられたのであり(マタイ二八・9)、そのときから今日に至るまで、心霊基準の高い信徒たちのもとには、いつでも自由に訪ねてこられて、あらゆる事柄を指示されたのであった。(『原理講論』p573)

 

 このことから聖霊も、霊的なイエス様と同様に心霊基準が高い信徒にはいつでも降臨し、心霊基準が下がるとそこから去ってしまうということが分かります。

 ②五旬節のときに降臨された聖神

 モーセ路程で第2次民族的カナン復帰路程の実体基台を立てるため、三大奇跡と十災禍による「出発のための摂理」がありました。

 その三大奇跡の第二の奇跡が何を予示しているのかについて、『原理講論』は次のように説明しています。

 この奇跡は、将来イエスが後のアダムとして来られ、後のエバの神性である聖霊(前編第七章第四節(一))を送られることによって、贖罪の摂理をされるということを、象徴的に見せてくださったのであった。
 最初に手を懐に入れて、不治のらい病にかかったということは、最初に天使長がエバを懐に抱くことによって、人間が救われ難い立場に堕落してしまったということを意味したのである。
 そして、その手を再び懐に入れたとき、病気が完全に治ってしまったということは、人類の父性の神であられるイエスが来られて、人類の母性の神であられる聖霊(前編第七章第四節(一))を復帰し、めんどりがそのひなを翼の下に集めるように(マタイ二三・37)、全人類を、再びその懐に抱くことによって重生せしめ、完全復帰するということを表示されたのであった。(『原理講論』p363)

 이 기적은 장차 예수님이 후아담으로 오셔서 후해와의 신성이신 성신(전편 제7장 제4절 Ⅰ)과 더불어 속죄의 역사를 하시게 될 것을 상징적으로 보여 준 것이다.
 첫번 손을 품음으로써 고칠 수 없는 문둥병에 걸렸다는 것은, 처음에 천사장이 해와를 품음으로써 인간이 구원받을 수 없는 입장으로 타락해 버렸다는 것을 뜻하는 것이었다.
 그리고 그 손을 다시 품어서 병이 깨끗해졌다는 것은, 인류의 부성신되신 예수님이 오셔서 인류의 모성신 되신 성신(전편 제7장 제4절 Ⅰ)을 복귀하여 암탉이 병아리를 품듯이(마 23 : 37) 전인류를 다시 품어 중생시킴으로써 완전복귀한다는 것을 표시한 것이었다.

 

 父性の神である霊的なイエス様と母性の神である聖神による霊的重生が実現したのは、五旬節のときです。

 五旬節に聖霊が降臨されてのち、復活されたイエスは霊的な真の父として、霊的な真の母であられる聖霊と一つになって摂理されることにより、信徒たちを霊的に接がしめて、霊的に重生せしめる摂理をされて、霊的救いの摂理だけを成就するようになられたのである。(『原理講論』p425)

 오순절에 성신이 강림하신 후 부활하신 예수님은 영적인 참아버지로서 영적 참어머니 되신 성신과 합하여 역사하심으로써 성도들로 하여금 영적으로 접붙이게 하시어 영적 중생의 역사를 하셨기 때문에, 영적 구원섭리만을 이루시게 되었다.

 

 以上のように、五旬節のときにイエス様の相対として降臨されたのは、霊的真の母の立場である聖神です。

 この聖神について文鮮明先生は、「イエスは真の父であり、聖神は母なので、この父母の愛を受けてこそ重生されるのです。(예수는 참아버지이고 성신은 어머니이므로 이 아버지, 어머니의 사랑을 받아야 중생된다는 것입니다.)(『文鮮明先生御言選集』 7-158 1959.8.30) 」と語られています。

 ③聖霊と聖神の働きの違い

 『原理講論』には、イエス様と聖神の役事について、次のような記述があります。

 イエスは男性であられるので、天(陽)において、また、聖霊は女性であられるので、地(陰)において、業(役事)をなさるのである。(『原理講論』p165)

 예수님은 남성이시므로 하늘(양)에서, 성신은 여성이시므로 땅(음)에서 역사하시는 것이다.

 

 イエス様は天のおいて役事され、聖神は地において役事されるとはどういうことでしょうか?

 まず、五旬節のときに降臨された聖神について語られたみ言を見てみましょう。

 124家庭というのは、イエス様が十字架につけられたあの五旬節のペンテコステにおいて、聖霊が降臨したが、その時120人の門徒が集まって一つになって祈った結果によって、聖霊の降臨を迎えることができたのである。聖霊降臨は国家基準を超えた基準において降臨すべきことだよ。イエス様が新婦を国家基準の基台の上に結ぶことによって、彼らが一つになる基台を霊的ながら、結んだんだよ。それで120人は何を象徴するかというと、120国家を象徴するんだよ。(『文鮮明先生御言選集』 55-168 1972.5.7)

 

 このみ言は、文鮮明先生が日本の東京教会において、日本語で語られたものです。

 全体の文脈から、ここで語られている「聖霊」とは、イエス様の霊的な新婦である聖神のことを意味しています。

 それは、下記のみ言で「聖神が降臨された五旬節」と語られていることからも分かります。

 十字架で死んで、もし復活していなければ、どうして救世主でしょうか。復活することによって失ってしまった3弟子を取り戻し、その次に12弟子と70門徒と120門徒を取り戻したのです。聖神が降臨された五旬節に、120門徒がすべて火を受けたので、世界的な代表として出発し、そこからキリスト教が出発しました。そこから霊的父母の血族を中心とする世界復帰活動が出発したのです。(『文鮮明先生御言選集』 160-65 1968.8.11)

 십자가에 죽어 가지고 만약 부활 안 했다면 구주가 무슨 구주예요. 부활함으로 말미암아 잃어버린 세 제자를 찾고, 그다음에 12제자와 70문도와 120문도를 찾은 것입니다. 성신이 강림하신 오순절에 120문도가 전부 다 불을 받았기 때문에 세계적인 대표로 출발하여 거기서부터 기독교가 출발했다는 겁니다. 거기서부터 영적 부모의 혈족을 중심삼은 세계 복귀활동이 출발한 거예요.

 

 このように、女性神である聖神が降臨するには、地上に120数の国家基準の基台が必要だということになります。

 そして、天と地は主体と対象、縦的なものと横的なものとの関係なので、イエス様が「天(陽)において」役事されるとは、聖徒一人ひとりとの縦的な関係を中心として役事されることを意味し、聖神が「地(陰)において」役事されるとは、地上の横的な基台を中心に役事されることを意味します。

 したがって、イエス様と同じように聖霊も、心霊基準が高い信徒にはいつでも降臨されますが、聖神の場合は地上に横的な国家的基準(数的には120数)が成立した基台の上に降臨されます。

 また、そのとき聖神は霊的重生の役事を行うために降臨されることから、単独で働くことはなく、霊的なイエス様と完全に一体となり、その対象として働きます。

 そのため、聖神が働くときには、聖霊も聖神に対して主体の立場で霊的なイエス様と一体となって働かれているのです。

まとめ

■聖霊は心霊基準が高い信徒にはいつでも降臨する。

■聖神は地上に横的な国家的基準(数的には120数)が成立した基台の上に降臨する。

■聖神は霊的重生の役事を行うため、単独で働くことはなく、霊的なイエス様と完全に一体となって働く。