【今回深掘りする原理のみ言】
 万物は原理自体の主管性、または自律性により、成長期間(間接主管圏)を経過することによって完成する。けれども、人間は原理自体の主管性や自律性だけでなく、それ自身の責任分担を全うしながら、この期間を経過して完成するように創造された。(『原理講論』p79)

 

今回は、人間の「責任分担」とは何で、その内容はどのようなものなのかについて深掘りしてみたいと思います。

また、天使長に「責任分担」はあるのか、あるとすればどのようなものなのかについても言及します。

【前編】では、人間の「責任分担」に対する一般的な解釈とその矛盾点を明らかにしていきます。

「責任」の意味から見た「責任分担」

「責任」という言葉の意味を国語辞典で調べてみると、次のようになっています。

1 責めを負ってなさなければならない任務。引き受けてしなければならない義務。「親としての責任」

2 事を担任してその結果負うべき責め。特に悪い結果をまねいたとき、その損失などの責めを負うこと。「責任を感じる」「責任を取って辞任する」

このように、「責任」という言葉には、任務や義務、役割という意味と、結果に対して責任をもつ、感じるという意味の二つがあります。

これを見ると、『原理講論』の「責任分担」という言葉は、上記の1の意味に近いと言えます。

一方で、『原理講論』のp125には「責任のない自由はあり得ない」とあり、この場合の「責任」は、上記の2の意味で使われています。

『原理講論』に「責任」という言葉が出てきた場合、「責任分担」という意味で使われているときと、上記2のような「責任をもつ」の意味で使われているときがありますので、それぞれ例文を挙げておきましょう。

【「責任分担」の意味で使われている例】
 イエスは彼の第一の弟子として洗礼ヨハネを選ばれたのであるが、彼がその責任を完遂し得なかったために、その代わりとしてペテロを選ばれた。
 また、イスカリオテのユダを十二弟子の一人として選んだのであるが、彼が責任を全うし得なかったとき、彼の代わりにマッテヤを選ばれたのである(使徒一・26)。
 また、復帰摂理の目的を達成なさるためにユダヤ民族を選ばれたのであったが、彼らがその責任を全うすることができないようになったとき、その使命を、異邦人たちに移されたのであった(使徒一三・46、マタイ二一・33~43)。(『原理講論』p433~4)
 
【「責任をもつ」の意味で使われている例】
 第三には、連帯罪というものがある。これは、自身が犯した罪でもなく、また遺伝的な罪でもないが、連帯的に責任を負わなければならない罪をいう。
 例えば、祭司長と律法学者がイエスを十字架につけた罪により、ユダヤ人全体がその責任を負って神の罰を受けなければならなかったし、全人類もまた、共同的な責任を負って、イエスが再臨なさるそのときまで、苦難の道を歩まねばならなかったが、それはこの罪のゆえである。(『原理講論』p121)

 

それでは、次に人間の「責任分担」について考えてみましょう。

人間の「責任分担」についてよくある解釈

人間の「責任分担」についてよくある解釈が、「取って食べてはならないという戒めのみ言を守ること」というものです。

そのように解釈する理由として考えられるのは、『原理講論』に次のような文章があるからではないでしょうか。

 万物は原理自体の主管性、または自律性により、成長期間(間接主管圏)を経過することによって完成する。けれども、人間は原理自体の主管性や自律性だけでなく、それ自身の責任分担を全うしながら、この期間を経過して完成するように創造された。
 すなわち、「それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創二・17)と言われた神のみ言を見れば、人間始祖が神のこのみ言を信じて、取って食べずに完成するか、あるいはそのみ言を信ぜずに、取って食べて堕落するかは、神の側に責任があるのではなく、人間自身の責任にかかっていたのである。したがって、人間が完成するか否かは、神の創造の能力にだけかかっていたのではなく、人間自身の責任遂行いかんによっても決定されるようになっていたのである。(『原理講論』p79)

 

また、他にも人間の「責任分担」を「取って食べてはならないという戒めのみ言を守ること」と解釈できる記述があります。

 アダムとエバを中心とする神の創造目的は、事実上、善悪の実を取って食べないで、彼らに任された責任分担を、彼ら自身が完遂することによってのみ、完成されるようになっていた(創二・17)。(『原理講論』p243)

 アダムとエバを中心としたみ旨成就は、彼らが善悪を知る実を取って食べずに、責任分担を果たすことによって、成し遂げられるように予定されたのであった。(『原理講論』p244)

 アダムとエバが、善悪を知る実を取って食べるなと言われた神のみ言を守り、自分たちの責任分担を果たしたならば、善の人間始祖となることができたのであった。(『原理講論』p245)

 

もしこのように、人間の「責任分担」は戒めのみ言を守ることがすべてと解釈すると、「統一原理」全体から見たときにいくつかの矛盾が生じてしまいます。

次にこの人間の「責任分担」に対するよくある解釈の矛盾点をあげてみたいと思います。

人間の「責任分担」に対する一般的な解釈の矛盾点

(1)戒めのみ言を守るだけで人間が完成することになってしまう

人間が成長期間において戒めのみ言を守ることは当然ですが、果たしてそれだけで「責任分担」を全うしたことになるのでしょうか?

『原理講論』には、アダムが創造目的を完成するために必要だった条件について次のように説明されています。

 アダムが創造目的を完成するためには、二つの条件を立てなければならなかった。その第一条件は「信仰基台」を造成することであったが、ここにおいては、もちろんアダムが「信仰基台」を造成する人物にならなければならなかったのである。
 その「信仰基台」を造成するための条件として、彼は善悪の果を食べてはならないと言われた神のみ言を守るべきであり、さらに、この信仰条件を立てて、その責任分担を完遂するところの成長期間を経なければならなかった。そうして、この成長期間は数によって決定づけられていくものであるがゆえに、結局この期間は、数を完成する期間であるということもできるのである。
 一方、アダムが創造目的を完成するために立てなければならなかった第二の条件は、彼が「実体基台」を造成することであった。アダムが神のみ言を信じ、それに従順に従って、その成長期間を完全に全うすることにより「信仰基台」を立てることができたならば、彼はその基台の上で神と一体となり、「実体基台」を造成することによって、創造本性を完成した、み言の「完成実体」となり得たはずであった(ヨハネ一・14)。アダムがこのような「完成実体」となったとき、初めて彼は、神の第一祝福であった個性完成者となることができたはずである。(『原理講論』p277~78)

 

ここには、戒めのみ言を守ることは「信仰基台」造成のための条件とあり、この信仰条件に加えて成長期間を全うして数を完成しなければならないとなっています。

さらに、もう一つの条件として、神様と一体になり、創造本性を完成したみ言の「完成実体」にならなければならないとあります。

このように、人間が完成するためには、戒めのみ言を守ることだけではなく、成長期間を全うして数を完成すること、み言の「完成実体」になること、少なくともこのような条件が必要であることが分かります。

例えば、『原理講論』に次のような記述があります。

 アダムとエバを中心としたみ旨成就は、彼らが善悪を知る果を取って食べずに、責任分担を果たすことによって、成し遂げられるように予定されたのであった。ノアを中心とした復帰摂理も、ノアが箱舟をつくることに忠誠を尽くし、その責任分担を果たすことによってのみ、そのみ旨が完遂されるように予定されたのであった。(『原理講論』p244)

 

ノアは「取って食べてはならない」という戒めのみ言を守ることはもちろん、その上で箱舟をつくるように言われた神様のみ言(創世記6章14節)を守らなければなりませんでした。

アダム:戒めのみ言を守る+成長期間に祝福のみ言(「生めよ」個性完成)を実現する

ノア:戒めのみ言を守る+120年間で箱舟を完成する

(2)人間が自由によって堕落したことになってしまう

人間に自由が与えられていたことは事実です。しかし、人間が自身の選択の自由を行使し、戒めのみ言を守らないことを選択したことによって堕落したのではありません。

もし、そのようにして堕落したとすれば、人間は自らの自由意志によって堕落したことになってしまいます。人間が自らの自由意志によって堕落したのなら、自由意志によって本然の位置に復帰することもできるはずです。

ところが、『原理講論』のp59に「人間は堕落によってサタンの主管下におかれ、本心の自由が拘束されるようになった」とあるように、堕落した人間は自らの自由意志によって本然の位置と状態に復帰することはできないのです。

『原理講論』では、人間をして堕落線を越えさせたものについて次のように説明しています。

 エバが原理を脱線しようとしたとき、原理的な責任と実績を追求するその本心の自由は、彼女に不安と恐怖心を生ぜしめ、原理を脱線しないように作用したのである。また、堕落したのちにおいても、この本心の自由は、神の前に帰るように作用したのであった。
 したがって、人間は、このような作用をする本心の自由によって、堕落することはあり得ない。人間の堕落は、どこまでも、その本心の自由が指向する力よりも強い非原理的な愛の力によって、その自由が拘束されたところに起因するのである。すなわち人間は、堕落によって自由を失うこととなったのである。(中略)
エバが天使の誘惑により、知的に迷わされ、心情的に混沌となって誘惑されたとき、彼女は責任と実績を追求する本心の自由によって生ずる不安を覚えたのであるが、より大きい天使との愛の力によって、堕落線を越えてしまったのである。
 エバがいかに天使と自由に対したといっても、取って食うべからずと言われた神の戒めのみを信じて、天使の誘惑の言葉に相対しなかったとすれば、天使との非原理的な愛の力は発動し得ず、彼女は決して堕落するはずがなかった。
 それゆえに、自由が、エバをして、天使を相手とし、堕落線まで引っ張っていったことは事実であるが、堕落線を越えさせたものはどこまでも自由ではなくして、非原理的な愛の力であったのである。(『原理講論』p127)

 

このように、人間が堕落線を越えたのは、選択の自由によって人間自身がそれを選んだからではなく、非原理的な愛の力によって自由が拘束されたからでした。

したがって、戒めのみ言を守って成長期間を全うすることに加えて、神と一体となってみ言の「完成実体」になることが人間の責任分担です。

(3)天使長にも人間と同じ「責任分担」があることになってしまう

『原理講論』のp295に「善悪の実を取って食べるなという善のみ言を、神はアダムに伝え、アダムはこれをエバに伝え、エバは天使長に伝えて、善を繁殖すべきであった」とあります。

そして、創世記3章3節を見ると、天使長を象徴するへびは、エバから「園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」という話を聞いています。

戒めのみ言は神様のみ言ですから、それを伝えられたアダムも、エバも、天使長もそのみ言を守らなければならないはずです。

もし人間の「責任分担」が戒めのみ言を守ることだとしたら、天使長にも人間と全く同じ「責任分担」があることになってしまいます。

そうなると、神様が人間に「責任分担」を与えた理由から考えて、天使長も創造主になれることになってしまうでしょう。

神様が人間に「責任分担」を与えた理由について、『原理講論』には次のように説明されています。

 このように、人間がそれ自身の責任分担を完遂して初めて完成されるように創造されたのは、人間が神も干渉できない責任分担を完遂することによって、神の創造性までも似るようにし、また、神の創造の偉業に加担させることによって、ちょうど創造主である神が人間を主管なさるそのごとくに、人間も創造主の立場で万物を主管することができる主人の権限をもつようにするためであった(創一・28)。人間が万物と違う点は、正にここにあるのである。(『原理講論』p79)

 

「人間が万物と違う点は、正にここにある」というのは、神様と同じ創造主の立場に立つことができるのは人間だけであり、これが天使長を含めた万物と人間が違うところだということなのです。

だからこそ、人間は戒めのみ言を守ると同時に、み言の「完成実体」となるように創造されているのであり、実体のない天使長がみ言の「完成実体」になることはできません。

したがって、人間が天使長と同じ「責任分担」を与えられることはありえないのです。

戒めのみ言を守ることが人間の「責任分担」と解釈できる文章の解明

(1)『原理講論』p79の文章

さきほど紹介した戒めのみ言を守ることが人間の「責任分担」と解釈できる『原理講論』の文章を分析してみましょう。

 万物は原理自体の主管性、または自律性により、成長期間(間接主管圏)を経過することによって完成する。けれども、人間は原理自体の主管性や自律性だけでなく、それ自身の責任分担を全うしながら、この期間を経過して完成するように創造された。
 すなわち、「それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創二・17)と言われた神のみ言を見れば、人間始祖が神のこのみ言を信じて、取って食べずに完成するか、あるいはそのみ言を信ぜずに、取って食べて堕落するかは、神の側に責任があるのではなく、人間自身の責任にかかっていたのである。したがって、人間が完成するか否かは、神の創造の能力にだけかかっていたのではなく、人間自身の責任遂行いかんによっても決定されるようになっていたのである。(『原理講論』p79)

 

最初の段落では、万物は成長期間を経過すればそのまま完成するのに対して、人間には「責任分担」があり、それを全うしてはじめて完成するようになっていることを言っています。

そして、次の段落には「責任」という言葉が3つありますが、最初の2つは「責任」の2番目の意味、つまり「責任をもつ」という意味で使われ、3つ目は「責任分担」の意味で使われています。

ですから、この2番目の段落では、人間に「責任分担」があるために、人間が完成するか堕落するかに対する責任の所在は人間にある、ということを言っているのです。

したがって、ここでは、人間の完成は神様だけの責任ではなく人間自身の責任もかかわっていることを主張しているのです。

(2)『原理講論』p113~4の文章

 未完成期にいた人間に、このような戒めを与えられたのは、単純に、彼らが堕落しないようにするためだけではなかった。更にいま一つ、人間が、自分自身の責任分担として、そのみ言を信じ自らの力で完成することによって神の創造性に似るようになり、併せて万物に対する主管性をも得るようにさせたいからでもあったのである。(『原理講論』p113~4)

 

上記の文章の「み言を信じ」ることと、「自らの力で完成すること」は分けて考えるべきでしょう。

復帰摂理歴史においては、堕落した人間が信じることによってその「責任分担」を完成したとされるのは新約時代までであり、それは霊的救いの段階です。

 イエスの十字架の死によって、復活摂理は完成されず、再臨期まで延長されてきた。このように延長されてきた二〇〇〇年期間は、霊的救いによって、長成復活摂理をしてきた時代であるので、この時代を長成復活摂理時代と称する。この時代におけるすべての地上人は、神の長成復活摂理による時代的な恵沢を受けられるのである。そして長成復活摂理は、神がこの時代の摂理のために下さったみ言を、人間が信じることによって、その責任分担を完成し、義を立てるよう摂理された。ゆえに、この時代を信義時代ともいう。(『原理講論』p218)

 

ですから、み言を信じるだけでは、霊肉共の救いを受けることはできないので、「自らの力で完成すること」もできません。

ここで言う「自らの力で完成すること」とは、人間がみ言の「完成実体」になることを意味しています。(詳細は【後編】で解説)

(3)『原理講論』p243・p244・p245の文章

 アダムとエバを中心とする神の創造目的は、事実上、善悪の実を取って食べないで、彼らに任された責任分担を、彼ら自身が完遂することによってのみ、完成されるようになっていた(創二・17)。(『原理講論』p243)

 アダムとエバを中心としたみ旨成就は、彼らが善悪を知る実を取って食べずに、責任分担を果たすことによって、成し遂げられるように予定されたのであった。(『原理講論』p244)

 アダムとエバが、善悪を知る実を取って食べるなと言われた神のみ言を守り、自分たちの責任分担を果たしたならば、善の人間始祖となることができたのであった。(『原理講論』p245)

 

これらはすべて『原理講論』前編の「予定論」にある文章で、「予定論」で主張していることは、キリスト教の「予定説」の問題点です。

「予定説」とは、カルヴィンが提唱した、救う者と滅びる者は予め神によって決められていると考える神学思想のことです。

この「予定説」の問題点を「予定論」では次のように指摘しています。

 復帰摂理の目的を完成するに当たって、神の責任分担と人間の責任分担との間には、果たしてどのような関係があるかを知らずに、すべての「み旨成就」を、神の単独行使として見てきたところに誤りが生じてくるのであり、カルヴィンのように、頑固な予定説を主張する人が出てくるのである。(『原理講論』p250)

 

このように、「予定論」では、人間には「責任分担」があり、神様のみ旨成就においても、神様の「責任分担」だけでなく、人間の「責任分担」が加担されなければならないことを主張しています。

ですから、上記の文章を「統一原理」全体の観点から解釈すると、人間には「責任分担」があるため、み旨成就に対しても、神様の責任だけではなく人間にも責任があることを強調している文章になります。

 

以上の内容をまとめると、「戒めのみ言を守ること」は、人間が完遂すべき「責任分担」の一部ではありますが、そのすべてではないということになります。

 

人間と天使長の「責任分担」の違い【前編】は以上になります。

次の【後編】では、天使長に「責任分担」はあるのか、あるとすれば人間の「責任分担」とどう違うのか、文鮮明先生の教会員との質疑応答から読み解いてみたいと思います。