【今回深掘りする原理のみ言】
 この時代においては、文芸復興の主導理念である人文主義と、これに続いて起こる啓蒙思想、そして、宗教改革によって叫ばれるようになった、信仰の自由などによる影響のために、宗教と思想に一大混乱をきたすようになり、キリスト教信徒たちは、言語に絶するほどの内的な試練を受けるようになるのである。(『原理講論』p483)

 

 上記のみ言の冒頭にある「この時代」とは、摂理的同時性の時代のうち「メシヤ再降臨準備時代」のことを意味しています。

 この時代にキリスト教徒たちは厳しい内的な試練を受けたのですが、今まさに成約聖徒たちもそれと同様、あるいはそれ以上の「内的な試練」を受けています。

 今回は、成約聖徒が受ける「内的な試練」とはどのようなもので、サタン勢力はどのようにして試練してくるのかについて深掘りしてみたいと思います。

※この記事は、2019年11月、本ブログに連載した記事を加筆・修正し、再編集したものです。

第4章 中心人物たちの信仰と「内的な試練」克服の第一歩

(1)神様の召命を受けた中心人物たちの信仰

 ①旧約時代の中心人物たちの信仰

 「ヘブル人への手紙」の11章には、復帰摂理歴史(旧約時代)の中で、神様の召命を受けた中心人物たちの信仰が次のように紹介されています。

 【アベル】
 信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。(ヘブル書11章4節)

 【ノア】
 信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。(ヘブル書11章7節)

 【アブラハム】
 信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。(ヘブル書11章8~9節)

 信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。(ヘブル書11章11節)

 信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。(ヘブル書11章17~19節)

 【イサク】
 信仰によって、イサクは、きたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した。(ヘブル書11章20節)

 【ヤコブ】
 信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。(ヘブル書11章21節)

 【ヨセフ】
 信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。(ヘブル書11章22節)

 【モーセ】
 信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。信仰によって、滅ぼす者が、長子らに手を下すことのないように、彼は過越を行い血を塗った。(ヘブル書11章24~28節)

 

 ここに登場した中心人物たちは、唯一絶対の神様を信じ、そのみ言を絶対視して行動した人たちです。

 イエス様に「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」(ヨハネ福音書14章8節)と言ったピリポの信仰と比べると、その違いが分かります。

 ②イエス様の神様に対する信仰

 そのピリポに対してイエス様は「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ福音書14章9節)と答えられました。

 このみ言から考えると、神様ご自身が、ヤコブやモーセなどの中心人物たちの信仰や行動を通して、当時のイスラエル民族にそのお姿を示されたということになります。

 それでは、唯一絶対の父なる心情の神様は、どのような心情をもち、何を信じていらっしゃるのでしょうか?

 堕落人間においても、その一人の子女でも不幸になれば、決して幸福になることができないのが、父母の心情である。まして、天の父母なる神が幸福になり給うことができようか。ペテロⅡ三章9節を見れば、「ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」と記録されている。(『原理講論』p235)

 

 このように、父なる神様は、私が神様を信じる前から、私が真の子女として戻ってくることを信じ、忍耐をもって待ち続けてくださっているということです。

 イエス様は、大祭司カヤパから「あなたは神の子キリストなのか」(マタイ福音書26章63節)と尋ねられたとき、「あなたの言うとおりである」(マタイ福音書26章64節)と答えられています。

 この返答によって十字架の刑が確定するのですが、イエス様はどうしてそのように答えることができたのかについて、文鮮明先生は次のように語られています。

 イエス様が、「私は神様の息子だ。私は神様を信じる」と語ることができたのは、自分が神様を父として信じているように、神様も自分を息子と思っていることを確信したからです。(『文鮮明先生御言選集』5-180 1959.1.18)

 

 このようなイエス様の信仰から、どのような苦難にも屈せず、死をも越える信仰は、神様が私を信じてくださっていることを確信するところから始まると言えます。

(2)歴史的な一神教の信仰と「内的な試練」の克服

 ①歴史的に継承されてきた一神教の信仰

 本来、信仰とは、唯一絶対の神様と私との間に結ばれるものなので、次のみ言のように、信仰者にとって神様を知ることは、何にもまして優先されるべきことです。

 心との関係がなくては、体の行動があり得ないように、神との関係がなくては創造本然の人間の行動もあり得ない。(中略)ゆえに、心を知らずには、その人格が分からないように、神を知らなくては、人生の根本意義を知ることはできない。(『原理講論』p82)

 人間が、根本的に、神を離れては生きられないようにつくられているとすれば、神に対する無知は、人生をどれだけ悲惨な道に追いやることになるであろうか。(『原理講論』p31)

 

 そして、人類の復帰摂理歴史は、正しい神観をもつ信仰へと段階的に発展してきました。

 モーセを中心とする旧約時代は「唯一絶対の神様」、イエス様を中心とする新約時代は「父なる神様」を信仰しました。

 そして再臨主を迎えた成約時代は、旧約と新約の信仰を基台とした上で「心情の神様」が信仰の対象となっています。

 これを個人の成長段階で考えてみると、神様が存在すると認識するのが旧約前の段階、その神様は複数いらっしゃるのではなく唯一の存在であることを信じるのが旧約段階です。

 そして、神様は私の父であることを実感するのが新約段階、さらに心情の神様であることを体恤するのが成約段階になります。

 神様が存在されること、神様はお一人であること、神様は私の父であられること、そして抑えることのできない愛の衝動をもつ心情の神様であられること、これが歴史的に継承されてきた一神教信仰の軸になるものです。

 ②唯一絶対の父なる心情の神様への信仰を狙うサタン

 このような一神教信仰の軸は、人体で言えば背骨のようなもので、背骨がずれると全身の至るところに歪みが生じます。

 サタンおよびその勢力は、気付かれないよう、この信仰の軸を少しずつ微妙にずらそうとしてきます。

 ですから、いつも祈りとみ言とその実践により、生活圏の中で神様の存在を身近に感じることができるように努力する必要があります。

 ③アブラハムの象徴献祭の教訓

 私たちの生活圏内に潜むサタンおよびその勢力が、どこをどのように攻めてくるのかを知るには、アブラハムの象徴献祭の失敗がよい教訓になります。

 アブラハムが象徴献祭としてささげた鳩と羊と雌牛とは、果たして何を象徴したのだろうか。この三つの象徴的な供え物は、三段階の成長過程を通じて完成する天宙を象徴するのである。すなわち、まずそのうち、鳩は蘇生を象徴したものである。(『原理講論』p319)

 

 アブラハムは、この蘇生を象徴する鳩を裂かずに捧げた結果、次のようになってしまいました。

 アブラハムが鳩を裂かずにささげたことは、サタンのものをそのままささげた結果となり、結局、それはサタンの所有物であることを、再び、確認してやったと同様の結果をもたらしてしまったのである。このように、蘇生を象徴する供え物である鳩がサタンの所有物として残るようになったので、蘇生の基台の上に立てられるべき長成と完成を象徴する羊と雌牛にも、やはりサタンが侵入したのである。(『原理講論』p323)

 

 アブラハムが供えた祭物のうち、蘇生期の鳩にサタンが入ったため、長成期と完成期の祭物も、すべてサタンに奪われてしまいました。

 このことから、サタンが侵入しようとして最初に狙ってくるのは、蘇生段階の信仰、すなわち唯一絶対の神様に対する私たちの信仰と言えます。

 特に日本人は、多神教の信仰と価値観に囲まれた生活圏で暮らしていますし、民族的にも善悪二元論的な価値観に陥りやすい傾向があります。

 例えば、天国と地獄を光と影のようにとらえ、天国があれば地獄もあるというような善悪と陽陰を混同してしまうところがあります。

 本来、善と悪は同時に同じところに存在することはできませんが、陽と陰は同時に同じところに存在し、一体化することができます。

 このような違いがあるにもかかわらず、善悪と陽陰を混同すると、天地創造の前から悪が存在することになり、結果的に人間の堕落を否定することになるので、サタンは自分の正体と罪状を隠すことができます。

 サタン勢力は、善悪二元論から多神教的な信仰へとずらしていきながら、自分たちが入り込む余地をつくろうとするので、唯一絶対の神様に対する信仰を守ることが、今、私たちが受けている「内的な試練」を克服する最初の一歩になります。

 

 【編集後記】

 本ブログ・記事のコンセプトは、「神様の創造理想世界を目指して一緒に歩みましょう」というものです。
 今回の記事の内容についても、私自身が正しい神観や信仰観をもっているということではなく、現時点ではこれがあるべき姿と考えるので、これを一緒に目指しませんか、というところに趣旨があります。
 今、まさに「内的な試練」に直面している状況を克服するのに一助となれば幸いです。

 祈

 

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【改訂版】今、成約聖徒が受けている「言語に絶するほどの内的な試練」とは?

 

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