【今回深掘りする原理のみ言】
 この時代においては、文芸復興の主導理念である人文主義と、これに続いて起こる啓蒙思想、そして、宗教改革によって叫ばれるようになった、信仰の自由などによる影響のために、宗教と思想に一大混乱をきたすようになり、キリスト教信徒たちは、言語に絶するほどの内的な試練を受けるようになるのである。(『原理講論』p483)

 

 上記のみ言の冒頭にある「この時代」とは、摂理的同時性の時代のうち「メシヤ再降臨準備時代」のことを意味しています。

 この時代にキリスト教徒たちは厳しい内的な試練を受けたのですが、今まさに成約聖徒たちもそれと同様、あるいはそれ以上の「内的な試練」を受けています。

 今回は、成約聖徒が受ける「内的な試練」とはどのようなもので、サタン勢力はどのようにして試練してくるのかについて深掘りしてみたいと思います。

※この記事は、2019年11月、本ブログに連載した記事を加筆・修正し、まとめたものです。

第3章 イエス様の12弟子に見る正しい神観と信仰観をもつための教訓

 最初に、ユダヤ教からキリスト教へと伝統的に継承されてきた一神教の信仰を確認してみましょう。

(1)復帰摂理歴史に見る神観の変遷

 ①旧約時代の神観-唯一絶対の神様

 旧約聖書の中心である「十戒」の第一と第二の戒律は、主が唯一の神であり、他のものを神としてはならず、偶像を崇拝してはいけないとなっています。

 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。(出エジプト20章3~5節)

 

 当時の宗教は多神教が主流で、唯一絶対の神様以外のものも神として祀られ、そこにサタンが入り込む余地が充分にありました。

 そのため、神様はモーセに十戒を与え、その中で主なる唯一の神以外は崇拝してはいけないと語られたのです。

 ②新約時代の神観-父なる神様

 イエス様は、「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである」(マタイ福音書6章8節)と語られ、神様が人間の父であることを明らかにされました。

 旧約時代の唯一絶対の神様に対する信仰の基台の上に、新約時代は「父なる神」を信奉してきました。

 イエス様は、この「父なる神」のひとり子ですから、「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ福音書14章9節)と語られました。

 そして、「人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来る」(マタイ福音書16章27節)と語って再臨することを約束されたのですが、サタンが偽キリストとして侵入してくる可能性がありました。

 そのためイエス様は、神様が十戒を通して唯一絶対の神だけに仕えよと言われたように、「人の子が天の雲に乗って来る」(マタイ福音書24章30節)と語られて、聖徒たちが天だけを仰ぎ見るようにされたのです。

 ③成約時代の神観-心情の神様

 文鮮明先生は、唯一絶対の父なる神様が心情の神様であることを明らかにされ、成約時代の新しい真理として「統一原理」を解明されました。

 この「統一原理」は、蘇生段階の旧約時代を経て、長成段階の新約時代の信仰に到達した人たちが受ける完成段階の神様の真理のみ言です。

 そのため、唯一絶対の神様が存在し、その神様と人間は父子関係である、ということが前提になっています。

 そして、神様とはどのような方で、私たち人間とはどのような関係にあり、その心情と事情とはどのようなものなのかを教えてくれるのが「統一原理」です。

 私たちが「統一原理」を実践することによって、日常の生活を通して神様の心情と事情を知り、体恤できるようになっています。

 『原理講論』のp31には「人間が、根本的に、神を離れては生きられないようにつくられているとすれば、神に対する無知は、人生をどれだけ悲惨な道に追いやることになるであろうか」とあります。

 「統一原理」が父なる神様の心情と事情を教えてくれるのは、私たちが真の幸福に至るためです。

 それでは、次に、イエス様の十二弟子の一人、ピリポを通して信仰の教訓を学んでみましょう。

(2)イエス様の十二弟子ピリポに見る信仰の教訓

 ①ピリポについて

 ピリポは、新約聖書に登場するイエス様の十二弟子の一人で、弟子たちの中で食材の調達を任されていた人物です。

 彼はイエス様が直接伝道された弟子の一人でもあり、そのことがヨハネ福音書に記録されているので紹介します。

 そしてシモンをイエスのもとにつれてきた。イエスは彼に目をとめて言われた、「あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケパ(訳せば、ペテロ)と呼ぶことにする」。その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされたが、ピリポに出会って言われた、「わたしに従ってきなさい」。(ヨハネ福音書1章42~3節)

 

 このように、ペテロが伝道されたその翌日に伝道されているので、十二弟子の中で最も古い弟子の一人ということになります。

 また、イエス様の「わたしに従ってきなさい」というたった一言のみ言に素直に従っていることから、その人柄をうかがい知ることができます。

 そして、彼は十二弟子のひとりナタナエル(バルトロマイ)を伝道していますが、このときの様子も、彼の人柄をよく表しているといえます。

 このピリポがナタナエルに出会って言った、「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人、ヨセフの子、ナザレのイエスにいま出会った」。ナタナエルは彼に言った、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」。ピリポは彼に言った、「きて見なさい」。(ヨハネ福音書1章45~6節)

 

 ナタナエルからイエス様を否定されたとき、彼は反論や口論などはせず、自分の目で直接見て確かめてみるようにすすめています。

 これらのエピソードから、ピリポという人物は、とても素直で人柄がよく、争いごとは好まない性格だったようです。

 イエス様がなくなったあとのピリポの伝道活動はすばらしく、病人を癒すなどして大きな実績を挙げています。

 最後は異教徒たちに捕らえられ、二人の娘とともに十字架にかけられ、87歳で殉教したといわれています。

 ②エピソードⅠ-パンと魚の奇跡

 ヨハネ福音書には、さきほど紹介したピリポがイエス様から伝道された場面の他に、イエス様とピリポのやりとりが3ヶ所記録されています。

 その中の一つが、イエス様が5000人の人々に食物を与えようと、食材調達の担当だったピリポに話しかける場面です。

 イエスは目をあげ、大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て、ピリポに言われた、「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」。これはピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった。すると、ピリポはイエスに答えた、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」。(ヨハネ福音書6章5~7節)

 

 マタイ福音書の20章2節に「彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った」とあるので、当時の1デナリは労働者の平均日給だったようです。

 イエス様の問いかけにピリポは、「200日分の労働賃金で買えるパンがあっても、5000人を満足させるには足りません」と答えていることになります。

 食材調達を任されていたピリポだったので、この返答はかなり適切で現実的なものではありました。

 しかし、聖句にあるように、この問いかけは、イエス様のピリポに対する「試み」でした。

 このイエス様のピリポに対する「試み」とは、一般的な解釈では、ピリポの信仰心や真理の理解度を試したのであり、何が人を生かすのかを教えたかったということになっています。

 ここで想起されるのは、イエス様が荒野でサタンから三大試練を受けたときのことです。

 その第一の試練に対してイエス様は、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」(マタイ福音書4章4節)と答えて、その試練を退けられました。

 そして、マタイ福音書には、み言とパンに対してイエス様がどのような価値観をもっていらっしゃったのかが推察できる聖句があります。

 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。(マタイ福音書6章31~3節)

 

 このことから、イエス様のピリポに対する「試み」とは、み言とパンのどちらに価値をおき、どちらを優先するのか、というものだっと考えることができます。

 もしこのときにピリポが、「主よ、パンのことは心配なさらず、彼らにみ言をください。そうすれば彼らは満たされるでしょう」というような返答をするべきだったのかもしれません。

 実際には、とても素直だったピリポは、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」と言ってとても現実的な返答をしています。

 このようなイエス様のピリポに対する「試み」やイエス様の三大試練から、み言とパンは、それぞれ信仰生活と衣食住の日常生活を象徴していると考えることもできす。

 これは、サタンが経済問題で苦しむ人に対して、み言や信仰よりも現実の生活問題の解決を優先するよう誘惑してくることを意味しています。

 ピリポは食材調達の担当ですから、ある程度、お金も動かせる立場にいたため、イエス様は、サタンの誘惑を退けられるよう、このような「試み」をされたのではないでしょうか。

 ③エピソードⅡ-最後の晩餐にて

 もう一つのエピソードは、冒頭で紹介した『原理講論』のみ言にある、ピリポがイエス様に「神様を見せてください」と言った話です。

 ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。(ヨハネ福音書14章8~10節)

 

 この出来事は、最後の晩餐のときのことですから、イエス様が十字架上で亡くなられる前日のことです。

 ここでイエス様は「こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか」と語られています。

 さきほど説明したように、ピリポはペテロが伝道された翌日にイエス様と出会っているので、弟子の中では最も長くイエス様と一緒にいた一人です。

 そのピリポから「神様を見せてください」と言われたのですから、イエス様は相当な衝撃を受けられたのではないかと思います。

 イエス様としては、「それではなぜ今まで私についてきたのか」という思いだったのではないでしょうか。

 このときのイエス様の心情について、文鮮明先生は祈りの中でこのように祈られています。

 ここで(ヨハネ福音書14章5節)でトマスは「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません」と言い、ヨハネ福音書14章8節でピリポは「父を示して下さい」と言いました。このように「父を示して下さい」と求める弟子たちを見るとき、イエス様の悲しみがどれほど大きかったかということを、ここにいる群れたちが共に感じるようにしてください。(『文鮮明先生御言選集』5-137 1959.1.11)

 

 このようなピリポの中に、目に見えない神様や真理よりも、実体の人間に従いやすい私たちの信仰課題が重なって見えます。

 最後の晩餐でのこのエピソードから、今の私たちの信仰姿勢をもう一度見直してみる必要がありそうです。

(3)天が望む「正しい信仰」とは?

 『新約聖書』の「ヘブル人への手紙」には、信仰とは何かについて次のような聖句があります。

 信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。(ヘブル書11章1~3節)

 

 このように、見ていない事実を確認するのが「信仰」ですが、もし見て、はじめて信じるのであれば、それは「信仰」ではなく、通常の「確認」と言ったほうがいいかもしれません。

 このような「正しい信仰」をもつにはどうすればよいのか、『原理講論』には次のように記述されています。

 我々が正しい信仰をもつためには、第一に祈祷により、神霊によって、神と直接霊交すべきであり、その次には、聖書を正しく読むことによって、真理を悟らなければならない。イエスが神霊と真理で礼拝せよ(ヨハネ四・24)と言われた理由はここにある。(『原理講論』p191)

 

 まず祈りと通して神様と霊的に交流し、その基台の上でみ言を正しく読むこと、これが正しい信仰をもつために必要なことになります。

 また、『原理講論』には、「正しい信仰」をもつことの妨げになるものについても、次のように指摘されています。

 我々は、因習的な信仰観念と旧態を脱けでられないかたくなな信仰態度を、断固として捨てなければならないことを、この洗礼ヨハネの問題を通じて教えられる。使命を果たして行った洗礼ヨハネを、使命を果たさなかったと信じることも不当であるが、事実上、使命を果たさなかった洗礼ヨハネを、よくも知らずに、全部果たしたと信じることも正しい信仰ではない。我々は神霊面においても、真理面においても、常に正しい信仰をもつために努力しなければならない。(『原理講論』p205)

 

 そして、文鮮明先生は、信仰とは神様と私との関係性の中で成立するものであることを次のように語られています。

 「信仰」というものは信じて仰ぎみることです。「信用」というのは人間社会で使われる言葉ですが、「信仰」というのは人間と天の間で成立するものなので、信じて仰ぎみるというのです。(『文鮮明先生御言選集』60-260 1972.8.18)

 信仰の道におけるその(信仰の)対象は、私ではなく神様です。どこまでも神様を(信仰の)対象にしていく道です。言い換えれば、主体と対象の関係が神様と私の間に結ばれ、主体から成される事実が対象に及び、対象から成される事実が主体と関係を結ばなければならないということです。(『文鮮明先生御言選集』40-273 1971.2.7)

 

 サタンとその勢力の狙いは、神様と私の関係を断ち切ることにあるので、日常の生活で神様と一問一答しながら、常に神様の立場に立って見つめ、考え、行動できるように努力しましょう。

 

~「第4章 中心人物たちの信仰と「内的な試練」克服の第一歩」につづく~

 

 

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