終末の審判を免れる道

 

 皆さんが歴史的な嘆息と峠を踏み越えていこうとするときに、もしそこでとてつもないサタン勢力から派生する恐怖の勢力と衝突するようになれば、皆さん自ら自分の行く道に向かって駆け上がることができず、横道に行かざるを得なくなるのです。

 ですから、今日の皆さんがその道を越えていくためには、皆さん自身の心と体が祭物になるとしても、全宇宙が皆さんの一身を嘆息の条件とすることがあるとしても、皆さんは命を捧げてその道を越えていくためにサタンと闘っていかなければなりません。

 そのような皆さんになってサタンと闘っていくことができなければ、皆さんはいつの間にか堕落したアダムとエバのあとについていかざるをえず、また神様のみ旨に背き、天倫に背いたカインのあとについていかざるをえなくなることを、肝に銘じなければなりません。

 今の時は、皆さんの一身を掲げて全宇宙的な嘆息を蕩減復帰しなければならない時なので、今日の皆さんには一人の友人もいません。また、今の時はアダムとエバが堕落する直前、神様が直接干渉なさることができなかった立場と同じ、そのような時なので、神様は堕落した人間が自ら新しい復帰過程に入って、今までのあらゆる嘆息の歴史を踏み越えていくようにするために、皆さんのことには直接干渉されないのです。

 ですから、今日の皆さんの周囲に現れる様々な現象は、今までのあらゆる嘆息の条件を開拓するために現れるものであり、見て、感じる、何かの事実があるとすれば、それは皆さんに嘆息の峠を自ら越えさせるための、すなわち嘆息の峠を蕩減させるための事実だというのです。

 それでは、今日、天地のあらゆる万象に染み込んでいる嘆息を除去するために、皆さんはどのようにしなければなりませんか。皆さんが天地の嘆息を解こうとすれば、まずあらゆる万象が皆さんを打とうとするでしょう。そのとき皆さんは、それに打たれて倒れることがあったとしても、死を覚悟して進んでいかなければなりません。

 今日の皆さんが歩んでいく路程には、必ず物質的な苦痛が伴い、またその物質が皆さんを打ち、万民が皆さんを打つ時があるのです。イエス様が人類を代身してこの地上で蕩減的な条件を立てるために現れたときにも、万民と万物がイエス様を打ち、たたきました。私たちがこのことを振り返ってみるとき、皆さんが歩んでいく路程でも、人間と万物が皆さんを打つ時があることが分かります。

 また、皆さんが歩んでいく路程において、神様が皆さんを打つ時、それに落胆し、天を恨む人になるとすれば、終末の審判の関門を通過しようとしても通過することができません。

ですから、キリスト教では、「すべてのものを捨てなさい」と言いました。「肉身的なすべてのものを犠牲にしなさい」と言ったのです。自分の中にある人間的なあらゆるものを軽視しなさいというのです。そのようにするとき、初めて人間は善の存在となり、父の栄華を思い通りに享受でき、父の愛の圏内に無限に吸収されて入っていくことができるようになります。そのような人になることができなければ、彼は、人間の骨の中に今まで染み込んできた嘆息の要素を抜き出そうにも抜き出すことができません。

それでは、その嘆息の要素は、どのような歴史過程を経てきたのでしょうか。アダムとエバの堕落以降、6000年の歴史過程を経て、その嘆息の要素を今日までサタンが引っ張ってきたのです。皆さんはこれを知らなければならず、またその嘆息の要素を皆さんの子孫にまで譲り渡してしまうかもしれない、瀬戸際の瞬間にいることを知らなければなりません。

したがって、今皆さんは、自分のすべてのものを捨てることができる人にならなければなりません。皆さん自身を天の前に屈服させて服従させ、誰よりも先に天を代身してサタンの矢を受けることのできる人にならなければなりません。サタンとの闘いに誰よりも先に立ち上がる人にならなければならないのです。また、人間に対してもやはりそうでなければならず、神様のみ旨に対してもそうであり、物質に対してもやはり先に自分を犠牲にしようとして立ち上がる人にならなければなりません。このような人になってこそ、終末の最後の審判を免れることができるようになることを、皆さんはっきりと知らなければなりません。(『文鮮明先生御言選集』 3-202、1957.11.1)

 

 審判の時においての自己責任

 

 今日の韓国の青年男女を見てみると、彼らは浮草のようにあてもなく流れています。このように波打つままに流れてどこに行くのですか! この波をさかのぼって違う方向に流れていくことができる動きはないのですか! 目覚めることができる道はないのですか! 今は、自分がいる環境を無限に憎み、憤る公憤の心情をもち、そのような道があれば悪の歴史と悪の世界を退けるために、今まで忠誠を尽くしてきたいかなる人よりも、忠臣、孝子、孝女になると覚悟して一大冒険ができる時代的な王者が必要な時代なのです。

そのような人たちが大勢いてこそ、この民族に希望の日が近づくのです。また、この世界に私たちが願った希望の時が開かれてくるのです。

しかし、このようなことを天がしてくださるのではありません。これは天がすることではなく、私たちがしなければならないことです。ですから、皆さんは現在いるところで満足するのではありません。天の懇切な心情を抱き、死亡圏にいる人間たちの死を心配し、人間たちを目覚めさせるために叫ぶ人はいないかと探し求めなければならず、その叫ぶ声を聞くことができなければなりません。その声を聞いて、叫ぶ人の姿を見つめることができなければならず、そして、聞いて見つめたのですから、行動を開始できなければなりません。

皆さん! 聞く耳をもちましたか。見つめることができなければならず、その次には、聞いて見つめたので、行動できる体の整備を行っていますか。これが問題です。ここでの聞くこと、見つめること、行動することは、歴史的な冒険の行動でなければなりません。そうしてこそ、歴史的な死亡圏を抜け出すことができるのです。

それでは、皆さんはどのような声を聞き、どのような姿を見つめ、どのような行動をしましたか。自分も見つめることができず、聞くことができず、行動できないので、そのようにできないと言う人が多いので、天はそのように見せてあげ、そのように聞かせてあげ、そのように行動する人たちを立てて役事してきていらっしゃるのです。

皆さんは生死の岐路で自らの行動を決定していってこそ、死ぬにしろ生きるにしろ、その勝敗を決めることができます。審判は、先に天がするのではなく、人間自身が先にするのです。したがって、先に自分自ら審判して勝利し、残る立場に立ってこそ、天の審判を受ける位置に立つことができます。ところが、自分自ら審判して残る姿になることができなかったとすれば、どうして天の審判があるでしょうか。

皆さんは、自分の一切の罪状を中止させ、自分の一切の感情を中止させ、自分の一切の生活をもう一度整理して、背を向けることができますか。それが問題です。歴史的な預言者たちは、そのような道を行きました。ノアもそのような道を行きました。天がノアに「背を向けよ」とおっしゃいました。「自分が暮らしていたあらゆる環境に背を向けよ」と命令されました。その命令に従って開始するべき行動は、ノア自身も今まで想像できない行動でした。船を山の頂上につくりなさい…。船は水の上につくるものなのに、山の頂上につくりなさいとおっしゃったので…。そのような無理強いがどこにありますか。しかし、ノアは従順にしたのです。

アブラハムも同じでした。天が「カルデヤのウルに向かいなさい」とおっしゃったときも、「はい」と言い、「イサクを燔祭として捧げよ」とおっしゃったときも、「はい」と言いました。

モーセも、民族の苦痛を憂いながら、それまでの栄華を捨ててエジプト人を打ちました。それを見て、民族でもよいと……。

その次に、イエス様も、「すべてを捨てて私に従いなさい」と言いました。

歴史はこのように流れてきました。ところが、そのような預言者たちの叫びを聞くことができる人、彼らの姿を見ることができる人、彼らの生活を憧憬できる人は、歴史路程に一人もいませんでした。これが天の悲しみでした。そして、神様の悲しみは、ゴルゴタの山上で死んでいくイエス様の姿を見つめて悲しまれたこと以外に、亡くなったイエス様を見つめ、天の心情を憂いで彼に同情して涙を流し、死の場も意に介さずに立ち上がる人がいないことでした。それをより悲しまれたことを知らなければなりません。

天は私たちが進む道を、時代ごとに一つの表示として立ててくださったのですが、終末も同じでしょう。

死亡の恐怖が押し寄せてくれば押し寄せてくるほど、それを退けていける心的な切迫感を感じなければなりません。これを解決するためには、常に焦燥感を感じなければなりません。眠りが問題ではなく、食べることが問題ではなく、生きることが問題ではないと考えなければなりません。このような切迫した心情を感じ、心に衝撃を受けて冒険を覚悟し、未練なく立ち上がることのできる歴史的な新しい動きが出てきてこそ、この世界が生きる道が開かれるのです。(『文鮮明先生御言選集』 6-152、1959.4.19)

 

 愛のイエス様、審判主イエス様

 

 ここで語っている人は、そのような聖書を見れば、そのまま見過ごしません。1章を越えるのに10年かかっても、結着をつけて越えていくのです。今日のキリスト教徒たちがこのような姿勢で来ていれば、世界はすでに統一されていたでしょう。共産主義がキリスト教に入ってきて、一部のキリスト教が偏頗的な立場でその理念を受け入れたりもしましたが、それは考えることもできないことです。それによって今日のキリスト教徒たちが、環境的に苦痛を受けるようになりました。このような意味で共産主義がみ旨の摂理に支障となる面が多いのですが、天が共産主義を立てることを許諾されたのは、背後で摂理のみ旨を堅固にするために必要だからです。

今後、皆さんは、歴史的な伝統の上に立ち、最後の勝利者にならなければなりません。そのためには、歴史的な試練を受けなければなりません。アブラハムが見るとき、涙を流せる立場に皆さんが立っていなければならないのです。

アブラハムは、霊的な復帰は完結しましたが、肉的な面、すなわち霊肉を合わせた実体的な復帰は完結できませんでした。モーセもやはり同じです。

彼が、自分を愛してくれ、自分を守ってくれたエジプトの宮殿を捨てたのは、天の摂理のためであって、栄光が嫌だったからではありません。イスラエルのために華々しく死のうと考えたのです。豪華絢爛な生活が嫌でパロ宮中を捨てたのではなく、イスラエル民族を導き出してエジプトよりも立派な国をつくろうと考えたのです。そのような心があってこそ、指導者になります。

エジプトで圧制を受けるかわいそうなイスラエル民族を導き出し、反対にエジプトを支配できるその日のために、祖国の解放のために心が燃えていました。人間的に見るときには、とてもみすぼらしい立場にいましたが、困難な過去の祖国に対する公憤心に燃えていたモーセは、エジプトを征服しようという野望と征服感をもっていました。ですから、パロと闘うだけの気質があったために、神様がモーセを民族的な代表者として立てられたのです。神様はそのような気質を好まれます。

皆さんはイエス様を「愛のイエス様」と呼びますが、イエス様は、かわいそうな人の前では愛のイエス様でも、不義と悪を行う人の前には赦しのない審判主であられます。かわいそうな漁夫や取税人、そして娼婦のような人たち、つまりその時代から排斥され追われる群れが、伏して骨の髄から訴えを吐露する場では愛のイエス様なのですが、正義の道を行くための精誠を尽くす群れに刃を向けるローマ帝国とユダヤの役人のような群れには審判主だったのです。愛する息子、娘の前では愛のイエス様ですが、不義と悪を行う悪党の前には公義の審判主です。もしイエス様が愛のイエス様だけなのであれば、今日のキリスト教で言っている終末時代の審判の役事はあってはなりません。ユダやの役人たちは、全員地獄に行きました。事実かそうでないか、地上で分からなければ、霊界に行ってみれば分かります。

イエス様は闘士として、革命家として来られたのですが、革命ができずに逝ったので恨があるのです。サタン世界を審判できる権限をもって来られましたが、審判できなかったことがイエス様の恨だという事実を、皆さんははっきりと知らなければなりません。(『文鮮明先生御言選集』 14-308、1965.1.10)

 

 最高の審判主

 

 このような立場にいる現世の私たちとしては、何をしなければならないのでしょうか。神様ご自身が審判する前に、私たち自身を審判しなければなりません。

世界の審判の時に先立って審判の権威をもち、審判の権威をもって審判を担当する人になるためには、民族以上の審判を通過した存在でなければなりません。つまり、国家基準以上の審判の権威と資格をもっていなければならないのです。したがって、歴史的背後の心情がどのように動いてきたのか、ということを原理によって学んでいる私たちは、あらゆる内情を通じて、心身を通じて、実践を通じて、その立場を立てていかなければなりません。

今の世界は二大主義になっています。すなわち共産主義か民主主義かということです。しかし、神様は共産主義でも民主主義でもありません。統一主義です。したがって、この世界は徐々に世界政府を叫ぶ時勢に移ってきており、それを立てるために経済的な統合運動が出てくるでしょう。そこに敵対するものがあれば、やむなく力で解決しなければならない摂理もあるでしょう。そして、最後には、各国が連合した国際的な一つの世界政府を保障できる方法も出てくるでしょう。言うまでもなく、私たち統一教会は、それよりもはるかに先立つものを立てなければなりません。

このようなことが成し遂げられる直前に立っている個人個人ができることは何でしょうか。神様は自分の家庭を審判する前に自分を審判せよと言われます。そのようにするとき、神様は同情されるのです。

それでは、審判とは何でしょうか。完全に屈服させることです。生きていても死んだようにすればよいというのです。目的はそこにあります。つまり、いかなることがあっても、神様を信じて従順にすることです。死なないというのは、神様を自分中心的に動かそうとすることです。

このような理念が地上に現れなければなりません。人間が本当に聖なる審判を担当する資格者になるためには、サタンと闘うときに実力で対抗し、正しい立場に立って勝利しなければなりません。そのような審判をする一人の完全な人を立てるためには、少し不完全な者の基準から完全な者になる基準上の峠を越えなければなりません。言い換えれば、その試練と存在価値の位置が、その内容に該当する者です。どのようなものが本物か、それに対抗してかえって逆にぶつかっていかなければなりません。

今まで神様を中心としたキリスト教がどのような審判を受けるのでしょうか。審判の歴史的な意味が何かというと、悪の歴史に対して本当に負けず、最後に残ってそれを整理できる力をもつことです。最後に残る人は最高の審判主です。そこから今後、最後の神様の理念に合うある世界的な動きが出てくるとすれば、その動きは個人と家庭と民族と国家と世界を審判しなければならないので、かつてなかった民族の混乱と、あるいは世界的な混乱の潮流の中で、ぶつかっていく事態が予想されるのです。民主主義や共産主義の世界の指導者たちも、どうにもできない試練の中でも倒れない者でなければ、それは真ではありません。

日本の名刀をつくるときにも叩き方があります。ただ一か所に精神を集中し、天宙の精神を注いで天地の力を合わせてハンマーで叩くのです。一つのハンマーに、自分の力と共に天宙の力を合わせて叩けば、私たちの動脈は躍動してくるのです。私たちが絶対的な審判の天意に立たざるを得ないことを知っているなら、どのようにして統一教会を残す教会にできるか、時代は過ぎていき、世界の思想、主義は過ぎていっても、統一教会の理念を残すにはどうすればよいかを考えなければなりません。問題はここにあるのです。

ここにおいて、私たちの覚悟はできているのですか。イエス様の最後と私たちの覚悟、イエス様は何を語ろうとされたのでしょうか。最後の審判を願われたのです。不完全な存在は認定できません。したがって、イエス様の教えは、途中で途切れるものではありません。現世になってなぜキリスト教会は力がなくなったのでしょうか。「ああ、これはだめだ。あれはだめだ」と思うからです。しかし、そうではありません。だめと思うものがだめなだけで、すべてがそうなのではありません。予定した思想観になっていません。

この世界の思想をもって誰かが当然やるべきことをやり遂げれば、そこに従って行動するのです。そして、それは前の位置を奪われるような信仰観念ではいけません。それは押しのけなければなりません。千回、万回押しのけてもそれを押しのけ、自分より権威と力をもったすべての人が認定できる立場に立つようになるとき、神様は最後の勝利を決定されるのです。(『文鮮明先生御言選集』 15-35、1965.1.31)

 

 統一教会が先に審判を受けなければならない

 

 今日の大韓民国がこのようになることを皆さんは知っていましたか、知りませんでしたか。知りませんでした。まるで知らなかったのです。ですから、知らない民族を目覚めさせなければならないのではないですか。目覚めさせてあげなければなりません。このままいけば滅びます。滅びるこの民族を目覚めさせなければならないのです。今はどのような時かというと、み旨的な立場から見れば、イスラエル民族がエジプトを出発した時と同じです。分かりますか。今の時がその時と同じだというのです。

エジプトの地に住んでいる60万のイスラエル民族の中で、足の悪い人にまで一人残らず通告しなければモーセが引っかかります。モーセの責任は重大だったのです。そのように考えれば、統一教会がこの時代的な使命を担った群れとして3000万民族の前に立ち、「国をこのように愛してこそ生きる」ということを見せてあげなければならないのであって、見せてあげることができなければ、統一教会の行く道は塞がってしまいます。

もし審判するようになれば、統一教会の群れを先に審判しなければなりません。それが天道です。自分の息子、娘、自分の父母、自分の血族が過ちを犯せば、隠して人の責任にばかりするのは、世の中の道理であって天道ではありません。その上、天道は歴史を支配できるものなので、歴史的支配の心情的な内縁を築いた父子の因縁、夫婦の因縁までも超越した場で、伝統を重要視する起源が用意されなければなりません。

統一教会が先に審判を受けなければなりません。ですから、統一教会の群れを苦労させるのです。もし6か月の刑を受けた人たちを、1年間苦労の道を行かせればどうなるでしょうか。過ちを犯して6か月の刑を受けた人ですが、国のために1年間苦労したとすれば、その人は赦されるでしょうか、赦されないでしょうか。赦されるのです。3年の刑を受けるべき人が5年間国のために罪の代価の何百倍にもなる受難の道を行き、何百倍蕩減して苦労していくときに、特赦が与えられるのです。その道以外にはありません。

これを見るとき、私たち人類が歴史過程においてどれほど罪を犯したでしょうか。個人的に罪を犯した人がどれほど多いでしょうか。家庭的に罪を犯した人がどれほど多いでしょうか。氏族的に罪を犯した人がどれほど多いでしょうか。民族的に、国家的に罪を犯した人がどれほど多いでしょうか。そのような人たちが、今では世界的に罪を犯しているのです。さあ、この人たちを一度に赦すためには、どのようにしなければなりませんか。世界にない苦労をさせる方法しかありません。分かりますか。

聖書を見れば、終末には7年の大患難が来るとあるのですが、そのような観点から、その大患難という言葉は良いですか、悪いですか。ありがたい言葉、当然の言葉、妥当な言葉、神聖な言葉です。7年の大患難が来れば、子女がいれば子女を捨てて進んでいかなければならず、妻がいれば妻を捨てて進んでいかなければなりません。すべてのものを捨てて……。その患難の時に避難していきながら、「ああ、私の息子よ、私の娘よ!」と言う者たちは、避難していく途中で一度に死んでしまうというのです。

そのような時には、仕方がないので四つに別れて行くのです。結婚した息子、娘がいて、食口が10人以上いれば、四つの群れに分け、母親と行く息子、娘、兄と小さな妹、姉と小さな弟、そして父親と……。そうすれば種を残すことができるのです。分かりますか。このような考えをもてば、その家庭は、避難民の中で偉大な家庭として残ります。未来の国難を防止するための聖なる思想をもった、邪悪と分立できる因縁には未来の希望が宿るのではないですか。その悲しい過程で残されたものは、自分たちの、現代の家庭のためではなく、未来の子孫と血族のためだというときは違うというのです。そうではないですか。ただ、「ああ、離れたら死ぬ。ああ、早く来なさい」、このように言いながら死ねば、一度に全滅してしまうのです。非常時に避難する道では、互いに別れて荷物を背負い、東に逃げ、西に逃げるのが生きる道です。そのように、死の道でも生き残ることができる環境をつくっておいた人が、それでも知恵のある人です。そうではないですか。(『文鮮明先生御言選集』 61-36、1972.8.20)

 

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