審判の意義

 

 今日まで人間たちは、互いに争ってきました。サタンとも争いました。また、天は皆さんを打ちました。このように、三面から人間たちを打ちました。地でもそうではないですか。陸軍や空軍、また海軍というものがあるではないですか。終末時代には、一人の人間を中心として、このように三つの形態で襲撃してくるのです。

陸軍のような人間たちの襲撃があり、海軍のようなサタン世界の襲撃があり、空軍のような天の世界の襲撃があるのです。このような形で襲撃してくるでしょう。

そのような大審判の時代が来るのですが、このような恐怖の時代が押し寄せてくるのは何のためでしょうか。滅ぼすためではなく、悪を打って歴史路程で押さえつけられていた心を回生させるためです。このような隠れた意図があることを皆さんは知らなければなりません。

人間を殺そうとする天ではなく、生かそうとする天です。ですから、天が私たちを押し出すのは、上がっていかせるようにするためです。私たちを威嚇するのは、ある面を解放するための力の作用です。それで私たちを威嚇するのです。したがって、恐怖の時期になったと落胆しないでください。恐怖と闘わなければなりません。正面には恐怖が現れますが、その裏面には新しい安息の基盤があります。これを人々は知らずにいます。

これから覆われたあらゆる恐怖の世界を退け、新しいもの立て直す時が来ます。そうです。人類を支配するのはサタンです。そのサタンは私の鼻を引っ張り、手を引っ張り、全身をつかんで引っ張り、終末には恐怖と死の場に引っ張っています。人類はまるで屠殺場に引かれていく牛のように、サタンに引っ張られているのです。しかし、人類はそのように引っ張られていますが、天は私たちのあとについてきていらっしゃるのです。

皆さんの心は、皆さんの行動を収拾して決定しています。そうではないですか。皆さんが先に行動しても、結果的な責任はすべて良心が担っています。これがそれを証する実証です。これが歴史的な全体の証拠です。

これと同じように、皆さんは引っ張られています。死亡の罠に引っ張られているのです。しかし、皆さんが引っ張られていく境遇でも、そのすべての恐怖を退けることのできる心的な衝撃を受ければ、すべて回れ右することができます。

ですから、私たちはそのような一時をもたなければなりません。私たちがいる場は目覚めているところではなく、暗闇の場であり死亡の場なので、これをひっくり返して崩すことのできる瞬間をもたなければなりません。その瞬間が歴史の終末である末世です。

ですから、皆さんは内的なあらゆるものが複雑になれば複雑になるほど、混乱すれば混乱するほど、恐怖の世界が押し寄せてくれば押し寄せてくるほど、人生の先端が目的に到達していることを感じなければなりません。生命線が死亡線の上に連結されていることを感じなければならないのです。そうではないですか。

今日の人類は、そのような事実を知らずにいます。皆さんは生きていますが、その後ろには死亡線が連結しているのと同じように、生命線が死亡線に連結されていることを、人類は知らずにいるのです。

今まで人間たちは、歴史的な方向と共に、心の方向を求めてさ迷いました。歴史的な方向と共に希望を見つめ、いかなる因縁と心情、あるいは事情においても、それを歴史的な方向と共に見つめてきたのです。したがって、このような憶測的な動きでそれを蹴飛ばして回れ右できる、その一時から新しい世界、新しい宇宙は展開されるのです。

それでは、今私たちが進んでいる方向を変えなければならないのですが、そのためにはどのようにしなければなりませんか。死亡の波が渦巻いているこの場から抜け出そうとすれば、どのようにしなければならないのでしょうか。皆さん自身は、歴史的な流れと飲み込まれる渦巻の中から抜け出そうにも抜け出せないので、その反対の立場にいる天の一点を求めていかなければなりません。(『文鮮明先生御言選集』 6-149、1959.4.19)

 

 終末における審判の内容

 

 終末の審判の一時は訪れるでしょう。審判の一日が訪れれば、その日、天はどのような内容をもって現れるのでしょうか。私は、このような栄光とこのような幸福の要素をもっているのに、あなたはなぜこのような幸福とこのような栄光の要素をもてなかったのか、と問うのではありません。審判の内容は、6000年間闘ってこられた悲しい人類の歴史と悲しい神様の歴史、苦痛の人類の歴史と苦痛の神様の歴史を知っているかということです。この歴史路程に神様が役事された手のあとがあることを知らなければなりません。このような天の前に息子の栄光を備えて立とうとする者、娘の希望を備えて立とうとする者に、「あなたはこの歴史と共にどれほど悲しみ、この歴史と共にどれほど苦痛を受けたか」と天は尋ねるでしょう。そのとき、「ありません」と言う人は、息子の栄光をもつことができないのです。

見てください。イエス様の手と足には釘のあとがあります。イエス様の頭には茨の冠がかぶせられ、イエス様の心臓には槍のあとが残っています。イエス様は死にましたが、悲しみの王者であり、苦痛の王者として合格し、神様の恨を清算するために死の峠を越えなければならないことを、今日のキリスト教徒たちは知らずにいます。イエス様は心情において合格者だったので、心情の指導的な権限として現れました。救世主とは何の救世主ですか。体の救世主ですか。違います。骨の髄から慕ってまた慕い、会いたくてまた会いたいと思う、永遠に一緒に暮らしたい心情の救世主です。心情に染み入る内容をもち、その心情を抱いて神様の悲しみを退け、歴史的な神様の苦痛をこの人間世界から押し出すことができる心的基準、一片丹心の心情でイエス様は救世主になることができました。

このような内容でもう一度推し量ってみましょう。終末は近づいています。終末は必ず訪れなければなりませんが、この終末に天は何をもって審判行事をされるのでしょうか。はっきりと理解してください。間違いない事実です。信じている方や信じようとしている皆さんは、はっきりと知らなければなりません。その終末に神様は、喜びの内容で笑いながら現れることはできないでしょう。主もそうでしょう。マグダラのマリアが復活されたイエス様を見て、「おお、主よ!」と言って触れようとしたとき、触れてはいけないと言われた理由は何でしょうか。悲しいイエス様の心情を通じ、苦痛を受けたイエス様の心情を通じて天倫の苦痛と悲しみの路程を通じたあとにこそ、イエス様に触れることができることを私たちはしっかりと知らなければなりません。

皆さん自身が悲しみの涙を流し、苦痛を受ける境地に入っていってお父様を呼ぶことができるようになるとき、お父様の性相を一度見てみてください。お父様の目は、6000年間涙が止まらなかった目です。お父様の耳は、6000年間あらゆる怨讐たちの嘲弄と非難と嘲笑を絶えず聞いた耳です。お父様の口は、6000年間語りたいみ言も語れず、飢えた人類と共に飢えに苦しんだ口です。お父様の手は、血と汗と涙にまみれた手であることを私たちは知らなければなりません。お父様の足どりも同じです。死のゴルゴタの険しい山を何百回、何千回越えた足どりです。お父様の体は、傷つき、無念に打たれた痕跡が残っています。

それでは、このお父様は誰のためにそうなったのでしょうか。かわいそうな人類のためでした。これを思うとき、私たちはこの上なく恐れ多い心をもたなければなりません。「私のような罪人は千万回死んでもお父様の悲しみを止めることはできず、私のような罪人は千万回死んでもお父様の涙をぬぐってさしあげることができません」。当然、このような心でいっぱいになりお父様と呼ばなければなりません。皆さん、そのように呼んでみたことがありますか。ないとすれば、悔い改めなければなりません。(『文鮮明先生御言選集』 7-119、1959.7.26)

 

 終末には自体審判過程を経て実体審判過程に入っていく

 

 皆さんに交差点があることを知らなければなりません。分かりますか。交差点がどこにできるのかというと、心臓の真ん中にできるのです。皆さん自身の心臓の真ん中です。

終末には、自体審判過程を経て、実体審判過程に入っていきます。初めて聞く話でしょう? 自体審判過程を経て実体審判過程を経なければなりません。それは何の話かというと、皆さん自身が問題になっているということです。

堕落した直後、一番の問題は何だったでしょうか。神様も混乱し、サタンも混乱し、人間自体も混乱しました。それで、終末には必ず神様も心配であり、サタンも最後の心配をするのです。なぜでしょうか。神様は復帰されてくるのかされてこないのかと心配し、サタンは「ああ、あれを越えていこうとしている。大変なことになった」といって奪われまいとするのです。反対の現象が起きるその時に、自らの心臓の真ん中で交差ができるのです。

私の心の奥で、「私は間違いなく天が指示するそのような交差路を歩んでいる。間違いなく通っている。この間違いのない決定に対しては、誰も第2の決定を提示する者はいない。絶対的であり、決定的な基盤の上に立った」と言える確信の上に立った自分になり、自分が今どこに向かっているということを知らなければなりません。「ただ適当に見て、適当にやろう」と考えているというのです。

最近、道人の群れ、山中で祈る群れは、霊界から「今は時になった。時になった。時になった」と教えてくれるので、「ああ! これから私が世の中に号令できる時になったのだなあ」、このように考えています。どろぼうのような者たちです。自分の時を語っていますが、神様の時を語るべきです。自分の時になったのではなく、「神様の時になった」と言っているのです。修行した自分の時だと思っていると滅びます。統一教会の文先生は、そのように愚かではありません。今、山で祈っている群れたち、ありとあらゆる……。これからそのようにしていては時を失ってしまい、3000万民族の最後に立つようになります。それを知らずにいます。そのようなことを知っているので、統一教会の文先生は、今このようなことをしているのです。

それでは、時になるように誰がしなければなりませんか。神様がしなければなりませんか、人間がしなければなりませんか。復帰の決定は神様がするのではありません。神様がするのであれば、6000年、何万年前にすべてやってしまっているでしょう。人間が決定しなければなりません。滅びるか栄えるかということは、神様が決定するのではなく、人間が決定するのです。なぜですか。堕落を決定づけたのは人間なので、救援も人間が決定しなければなりません。 ですから、人間として来られたメシアが、その全体を決定する責任を代わりに決定してくれるのです。ありがたいでしょう? 代わりに闘ってくれるのです。それで、闘って勝った栄光に対して、「ああ、ありがとうございます」と感謝し、その栄光を称賛するのです。これが救援です。(『文鮮明先生御言選集』 75-224、1975.1.5)

 

 火の審判とはみ言による審判

 

 火の審判とは一体何でしょうか。聖書のペテロ第二の手紙三章十二節を見ると、「天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう」とあります。めらめらと燃えて消えてしまうというのです。イエス様の時にそのようになりましたか。なりませんでした。

 それでは、イエス様のみ言を一度見てみましょう。ルカによる福音書十二章四十九節を見ると、「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」とあります。その火がつきましたか。火を投じたのに火がつかなかったのです。その火とは何ですか。その火は何かというと言葉を意味するのです。イエス様のみ言を意味するというのです。

 それでは、聖書にそのような言葉がどこにあるでしょうか。ヤコブ書三章六節を見ると、「舌は火である」とあります。また、ヨハネによる福音書十二章四十八節を見ると、「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」とあります。何が審判するというのですか。火ではありません。最後の日にみ言が審判すると言ったのです。火で燃やすのですか。終わりの日は何かというと裁判の日です。裁判長が誰かというと神様です。イエス様は弁護士であり、サタンは検事です。検事が火で焼くのですか。言葉です、言葉!

 政治に携わる人はマスコミや新聞を最も恐れるのです。火よりも恐れます。一度叩けば皆消えていくのです。副大統領も飛んでいき、長官も飛んでいき、大統領も飛んでいくというのです。火で何をするのですか。法廷では憲法に従い、該当する法律の条文に従って判決を下すようになっています。

 次に、テサロニケ第二の手紙二章八節を見ると、「その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し」とあります。つまり、み言で殺すとあるのです。火でするとありますか。口の息とは何ですか。言葉です。

 また、見てください。イザヤ書11章4節を見ると、「その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す」とあります。口のむちとは何ですか。舌です。くちびるの息とは何ですか。火で焼くのではなく、くちびるの息です。ヨハネによる福音書5章24節を見ると、「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」とあります。火で燃やしてしまうのですか。み言です。

なぜみ言を信じなければ審判するのでしょうか。エデンでみ言を信じずに不信の先祖になったので、これを除去し、これ以上の信仰でみ言を信じなければならないからです。これを凌駕できる信仰がなければ、戻っていくことができません。旧約聖書を信じていた人たちは、イエス様のみ言に対するとき、メシヤとして立ったイエス様のみ言を絶対的に信じなければなりませんでした。絶対的に信じなければならなかったのです。(『文鮮明先生御言選集』 69-123~4、1973.10.23)

 

 洪水審判を可能にしたノアの信仰

 

ノアは悲しい人でした。自分は鉄石のように堅く神様の命令とみ旨を信じたのですが、妻子たちは信じませんでした。その時の環境がどれほど困難で悲惨だったでしょうか。環境が困難であれば困難であるほど、「父よ、この地上で父を信じる者は私だけです」と言ったノアでした。しかし、迫害と嘲笑が大きくても、神様に対する信仰心が大きかったために、その時代の悪の勢力を抑えることができたのです。このような信仰の基盤がノアにあったことを私たちは知らなければなりません。

ノアは神様のみ旨を知ったので、死んでも行こうと考えました。ノアは、嘲弄され、迫害されることに対して、憤るひまもありませんでした。自分が冷遇されるのは腹立たしいことですが、自分を信じて訪ねてこられた神様が、120年後に世の中を審判すると語られ、箱舟をつくりなさいと命じられたのに、もし私がそのみ旨に反対すればどれほど悲しまれるかと、自分の悲しみを超えて神様を慰労することに忙しかったのです。それでノアは、120年間、耐えることができました。皆さんは1年でも耐えてみましたか。

ノアが箱舟をつくることに対して、朝に夕に妻子たちから反対されました。聖書にはありませんが、調べてみてください。祈ってみれば、嘘かどうか分かります。父親がすることに対して、互いに助けようとしなかったのです。ノアの妻が箱舟をつくることを承諾したでしょうか。そのような環境にいたノアでしたが、神様の近くに立ち、自分のために準備された神様を慰労しました。このようなノアの信仰によって、復帰の道を受け継いであまりある基盤が築かれました。ですから、神様の審判を行使することができたのです。

このように、苦労したノアを立てて成し遂げようとした神様のみ旨が、ハムの失敗によって崩れるようになった時、神様の悲しみは言い表しがたいほど大きかったのです。ノアを第2の人間始祖として立てて怨讐サタンを退け、天の血族によって新しい天地をつくろうとされた神様のみ旨が、ハムの失敗によって崩れてしまったのです。

そして、それから10代目にアブラハムを探したてましたが、アブラハムが献祭に失敗することによって、イサクとヤコブを経ていくようになりました。こうして3代の神様という名称が残るようになったのです。現代のキリスト教徒たちは、これをよい名称だと思っています。

2000年間神様はアブラハム家庭を求めてきましたが、献祭の失敗によってその家庭を失ってしまうと、再びエサウとヤコブを立てました。そして、ヤコブがサタン側と闘って勝利し、初めて「イスラエル」になりました。「イスラエル」とは、勝利したという意味です。誰に勝利したのでしょうか。地上のサタンに勝利し、その次に天使長に勝利したのです。

ヤコブが天使を屈服させたことは、天使長のルーシェルが天倫を破綻させたことを回復したのです。つまり、天使長を自分の本来の位置、僕の位置に戻したということです。それで初めてイスラエルという名前をもらうようになったことを私たちは知らなければなりません。このような基盤の上に、家庭、氏族、民族、国家的な基盤を4000年間積み上げ、メシヤとして送った方がイエス様です。(『文鮮明先生御言選集』 13-184 1964.3.15)

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