人間がいつ堕落したのかについて、「統一原理」では成長期間の長成期完成級としています。
ただ、上記のみ言のように、『原理講論』では、人間始祖の堕落の前後の諸般の事情と復帰摂理歴史の経緯が実証するものとして、どうしてそう言えるのかなどについて明確には記述されていません。
今回は、まず人間始祖の堕落の前後の諸般の事情について深掘りし、考察してみることにします。
長成期完成級と祝福後の公式7年路程
人間始祖のアダムとエバが堕落することによって、人類は生まれながらにして原罪をもち、サタンから受け継いだ堕落性を内包したまま、その主管圏で生きるようになりました。
そのため、メシヤを迎えて原罪を清算し、堕落性を脱いで創造本然の位置と状態に戻る復帰の路程を歩まなければならないわけです。
『原理講論』では、堕落した人間の復帰路程について以下のように記述されています。
メシヤを迎えるのは長成期完成級ですから、堕落した人間が創造目的を完成するためには、残りの成長期間として完成期を歩まなければなりません。
それでは、このメシヤに従って歩む完成期は、具体的にどのくらいの期間になるのでしょうか?
一般的にも20歳で成人とされていますが、「統一原理」でも人間の成長期間を21数とし、蘇生、長成、完成の3段階からなっていると定義しています。
このように完成期は7数完成期間であり、文鮮明先生は、この完成期は7年であると語られています。
以上のように、メシヤが降臨が長成期完成級であること、そしてそのメシヤによって原罪清算したあとに完成期の路程を歩まなければならないことは、すべて人間の堕落が長成期完成級で起きたことが前提となっているのです。
これはとても重要な内容ですので、原罪清算される祝福の位置とその後の路程について、文鮮明先生のみ言を紹介します。
原理を中心として見るとき、祝福家庭はどの基準にいるのでしょうか。アダムとエバが長成期完成級で堕落したので、復帰路程においても、父母によって復帰していくことのできる祝福の起源となるところは長成期完成級です。ここで祝福を受けるのです。また、祝福を受けたのちに、そこから完成段階の基準に立とうとすれば、七年という期間を経なければなりません。この過程は先生自身も経なければならず、皆さんも経なければなりません。私たちは、全員がこの過程を経なければならない共同の運命をもっています。(『文鮮明先生御言選集』25-26 1969.9.21)
皆さんを祝福してあげても、七年路程を残した責任分担未完成圏があります。原理結果主管圏を通過しなければならない段階が七年間残っているのです。ここからサタンを分立し、七段階においての完成基準、すなわち本来の基準に到達しなければ、神様を中心とする本然の父母の愛の基準が顕現しません。(『文鮮明先生御言選集』137-254 1986.1.3)
皆さん自身の七年路程期間はいつでしょうか。人間はだれもがこの七年路程を経ていかなければなりません。これは絶対的な公式です。この七年路程は、だれが行かなければならないのですか。家庭が行かなければなりません。この七年路程を経て長成期完成級から神様の直接主管圏まで上がっていかなければならないのです。(『文鮮明先生御言選集』30-329 1970.4.6)
祝福の位置やその後の路程の根拠となっているのが、人間の堕落が長成期完成級で起きたということですから、そのように言える理由を明確にする意義がここにあります。
人間の堕落は未完成の段階で起きた
最初に確認しておかないといけないことは、人間の堕落は完成した後ではなく、未完成の段階で起きたということです。
この人間の堕落が完成後か完成前かという問題は、これをどう判断するかによって神観がまったく異なってしまうので、とても重要な問題です。
「統一原理」では、人間の堕落が未完成の段階で起きたとしており、『原理講論』には次のように記述されています。
人間始祖はいつ堕落したのだろうか。彼らは成長期間、すなわち未完成期において堕落したのである。人間がもし、完成したのちに堕落したとすれば、我々は、神の全能性を信ずることができない。仮に、人間が善の完成体になってから堕落したとすれば、善自体も不完全なものとなるのである。したがって、善の主体であられる神も、やはり不完全な方であるという結論に到達せざるを得なくなる。(『原理講論』p78)
個性を完成した人間は、すなわち、神の創造目的を成就した善の完成体であるが、この善の完成体が堕落したとすれば、善それ自体が破壊される可能性を内包しているという、不合理な結果になるのである。そればかりでなく、全能なる神の創造なさった人間が、完成した立場において堕落したとするならば、神の全能性までも、否定せざるを得なくなるのである。(『原理講論』p135)
もし人間の堕落が完成後だと考えれば、「全知全能の神」という神観が崩れ、善悪二元論に陥ってしまいます。
つまり、光と影のように、善があれば悪もあるといった考え方になり、アダムとエバを誘惑して堕落させたサタンも最初から存在したことになります。
宗教の中には、善神と悪神が最初から存在したとするものもありますが、「統一原理」はこれを完全に否定して、神のみ創造主であられるという一元論です。
このサタンという存在がいつからいたのかについて、文鮮明先生は次のように語られています。
皆さんの中で、神様はいるか、あるいはサタンはいるかについて考えたこともない人には、これは理解し難い問題かもしれません。しかし、皆さんが神様に対して真剣に祈れば、必ず妨害する存在がいることを体験できるはずです。そのような存在がいて、神様と人間が関係を結べないように反対作用をしているのです。
今まで、六千年という人類歴史を中心として、人間を苦痛の中に閉じ込めてきたサタン、神様が救援摂理をしているにもかかわらず、その救援摂理を成就できないようにしてきたサタン、神様に反対するこのサタンという存在がどれほど巧妙であるかということを私たちは考えざるを得ません。
そのようなサタンが神様と同じように最初から存在していたとすれば、今日、堕落した私たち人間が、そのサタンに勝利して天国に行くということは、これ以上ないほど難しいことです。
そのような立場に立てば、二元論になるのです。そのようになれば、目的が二つになります。相反する目的が二つになるので、一つに統一するということは、いつまでたっても不可能です。その間に挟まっている私たち人間が、神様の願う目的に行くというのも難しいことです。ですから、私たちが願う理想世界は、夢にも訪れません。
したがって、もとからサタンがいたと見ることはできないのです。このように見れば、サタンは、何かの事故により、途中で横から入ってきた存在だということを認めざるを得ません。(『文鮮明先生御言選集』53-328 1972.3.6)
以上のように、人間の堕落は、生まれてから完成する満20歳までの間に起きたということです。
「人間始祖の堕落の前後の諸般の事情」とは?
それでは、次に「人間始祖の堕落の前後の諸般の事情」から人間堕落の時期について考えてみましょう。
神の戒めと天使長の言葉を理解して会話できた
堕落する前のアダムとエバは、神様から「善悪を知る木からは取って食べてはならない」(創世記2章17節)という戒めのみ言を聞いていました。
そのみ言の深い意味は分からなかったとしても、どの木が善悪を知る木なのか判断できましたし、その神様のみ言を守ろうとしていました。
また、天使長ルーシェルから誘惑されたとき、エバは「死んではいけないからと、神は言われました」(創世記3章3節)と答えていることから、人の生死についてもある程度、理解していたと思われます。
そして、『原理講論』では、堕落直前のアダムとエバについて、以下のような記述があります。
このように、堕落前のアダムとエバは、神様や天使とも一問一答できたことから、7歳から8歳以上、つまり蘇生期を超えて長成期までは成長していたと考えられます。
本来主管すべき天使に逆主管された
『原理講論』には、当時のエバの成長段階について、次のような記述があります。
もしエバが長成期を超えて完成期に至れば、知恵においても、人格においても、天使長と同等のレベルになり、数年で天使長以上のレベルまで成長していたでしょう。
当然、知恵の天使長ルーシェルはこのことを知っていて、完成期まで成長して自分では支配できなくなる前に誘惑してきたはずです。
『原理講論』のp127に「エバが天使の誘惑により、知的に迷わされ、心情的に混沌となって」とあるように、天使長から誘惑されたとき、エバが知的にも心情的にも混沌となってしまったのは、完成期に至っていなかったからと推測できます。
したがって、年齢で言えば完成期に至る前の14、5歳以前に人間の堕落が起きたと考えることができます。
ちょうどこの年齢は、思春期に入って第二次性徴が現れ、子どもからおとなになりかける、心身ともに不安定な時期です。
しかし、この時期を越えていくと、神様との心情関係が結ばれ、良心の力がより強くなれば、天使長の誘惑に引かれていくことはなくなるはずです。
以上のような「人間始祖の堕落の前後の諸般の事情」から、堕落前のアダムとエバは、少なくとも成長期間の蘇生期を超えて長成期まで成長し、完成期にはまだ至っていなかったと考えることができます。