体恤と実践(2)

1975年2月2日(日)
韓国ソウル・前本部教会
『文鮮明先生御言選集』76巻p117~157

 霊的役事の過程を通して肉身を純化させていかなければならない

 私たち食口は、祈祷する中で役事をします。役事というものがあります。霊的な力が電気作用と同様に入ってきます。皆さんが体験をしてみれば分かりますが、高圧電気に接したような、私たちの意識より強い力が入ってきます。超自然的な、超人的な感情が訪れて入ってくるようになれば、堕落性をもっているために、私たちの体が必ず反発するようになります。神様の神性と反発するようになるのです。

 それゆえ、堕落した人間に、どんな神様の性稟が強力に入ってきても、自然的に純化され得る立場になることができません。これが入ってくるには、プラス・マイナスのように、音波も強弱で伝播されていくのと同様に、必ずその力も一遍にすっと入ってくるのではありません。強く入ってきたり、弱く入ってきたり、このようにしながら開拓して入ってくるのです。そこに震動が起こり、自分の意識がなくなり、霊的な力が強く作用する現象が起こるのです。それが役事として現れます。

 このような役事を絶えずするようになれば、どうなるでしょうか。この体が、肉性というものが、堕落性が純化され、自然に100パーセント受け入れることができるようになるのです。そのようになれば、そのような現象がなくても、役事以上の立場に入って、天が教えてくれることをすべて受けながら、寸分も違わないのです。このような現象の過程を経て、純化される立場にまで上がらなければなりません。その過程で、啓示や指示という過程を皆さんは経なければならないのです。

 皆さんがそのような体恤段階に入れば、皆さんの心が皆さんに命令するのです。誰かにこのように話をしようとするのに、言葉が話せないようにするのです。あるいは、自分が良い言葉でその人のために言わなければならないのに、しかる言葉ばかりが出てきます。このような現象が起こるのです。このように理解できない現象が時々起こるために、これを調整するすべを知らなければなりません。過ったなら、狂人として扱われやすいために、それを調整するすべを知らなければならないのです。

 このような体恤的信仰を、必ずもたなければなりません。心で感じたことを、体恤したことをもって、実験を通じた体験の立場に入るようになれば、その人は強くなるのです。誰の言葉も聞かないのです。体恤と実践、これは私たちの信仰生活に最も必要なものであることを皆さんは知らなければなりません。

 人はおおよそ知的な人と霊的な人に分類される

 それでは、このような境地に入るには、どのようにすべきでしょうか。たいがい、私たち人間は二つの種類に分けられます。一つは知性的な人で、真理で何かを探求して、道理に合えば認めて、道理に合わなければ否定するタイプの人です。また他の一つは、そのような道理よりは、思いで把握する人です。それを私たち統一教会の言葉では、「知的だ」、「霊的だ」と言うのです。霊的な人は、内的な面から感じて外的に作用しようとする人であり、知的な人は、外的な面から感じて内的に適用しようとする人です。一つは出ていき、もう一つは入ってくるのです。この二つの種類があります。

 そのような立場にあるために、知性的な人は、大体祈祷を嫌います。それを考えると、迷信のようであり、信ずることができず、自分自体が否定されるような感じがするのです。これは、知性的な人です。理論を明らかにして、何かを探そうとする人、そのような人がいるのと同時に、生まれつき「神様」という言葉が、とても好きな人がいます。説明する前に無条件に喜ぶのです。「お父様」と言うようになれば、ご飯を食べなくてもいいというのです。そのような人がいます。

 そのような感度が異なるというのです。霊的な運動において、革命的な運動ができるのは、大抵どのような人でしょうか? 知性的な人はできません。大抵信仰世界で偉大なことをする人は、大抵、知的な人ではなく無学で愚鈍な人です。そのような人は霊的な人です。世の中がどうであれ、感じるままにするのです。神様が「やりなさい」と言ったからするのです。やってみると、それが実践する環境に百中する、そのようなことが起こるのです。これによって、偉大な人物として登場できるということも起こります。

 パウロのような人も知性的な人です。しかし、ダマスコで天の霊的な雷に一度打たれてから、気が狂ってしまったのです。ですから、外的に探求することよりも、内的に爆発的な道があることを感じたために、すべて否定してそれを尊重したのです。そこから、新しいキリスト教の革命の旗手になりました。それゆえ、理性的に問いただす人は、宗教的な心霊世界では指導者になれないということを私たちはよく見ます。

 自分がどちらの人間かを知って不足な面を補強しなければ

 私たち人間には、二種類がありますが、自分はどんなタイプの人かということを知るべきです。霊的に感じる人は、たいがい霊的には大きいのですが、真理の面では大きくありません。最初は太いのですが、最後が細くとがれば、これは始終如一(しじゅうにょいつ:終始一貫)でないために、永遠に行くことができないのです。ある時には、必ず転がり落ちます。また、真理は大きくても、霊的な面が小さければ、永遠に行けません。それゆえ私たちは、これを調整する生活をしなければなりません。

 祈祷と真理、神霊と真理で礼拝せよという言葉があります。それは何かというと、調和して一つになる場に入りなさいというのです。私たち人間は、霊界と肉界を調整しなければなりません。霊的世界の中央に立つべきです。真理の世界の中央に立って、調整し得る人間にならなければなりません。そのような人間にならなくては、完全な立場に立つことはできないのです。

 霊的にのみ強ければ外的な面が欠如し、(板書しながら語られる)このように真っ直ぐ行かなければならないのですが、このように行くというのです、このように。そうではないですか? 力で見れば、力の強い人に引っ張られていくのと同じです。真理的な面が強ければ、この二つが一つになって行かなければならないのですが、左側に行ってしまうということです。このような問題が起きます。ですから、これを調整しなければならないのです。

 先生は、霊的体験をしても絶対に話しません。体験があるのかないのか、皆さんはよく分からないのです。それをどのようにするのでしょうか。真理で調整しなければなりません。「これは、これこれこうであるために、このようになるのである」と言いながら、中庸の道を行くのです。そうしていつも天の摂理観に方向を一致させることによって、霊界の発展をもたらすことができ、地上世界の発展をもたらすことができると見るのです。

 そうするには、霊的世界がどのように動いており、真理とどのように関係が結ばれるのかを知った上で、霊界と関係を結ぶことを生活化しなければなりません。神霊と真理が必ず一つにならなければならないのです。この調和が取れていなければなりません。なぜそうなのかというと、私たち人間自体がそのようになっているからです。

 私たち自体がどこで幸福感を感じるのですか? 真理面で感じる幸福は方向的です。それを知らなければなりません。それはなぜ方向的ですか? 霊と肉、神霊と真理について見てみれば、どちらが主体ですか? 神霊が主体です。真理は相対的です。相対的というのは方向的ということです。これは変わります。しかし、神霊は変わりません。中心的なので、四方性を備えているので、変わらないのです。

 それでは、どちらの面を通して感じる幸福が貴いですか? 真理を通して感じる感じは方向的なので変わります。長く続かないということです。しかし、神霊を通して感じるその感じは、中心的なので長く続くのです。中心は二つではありません。これを知らなければなりません。何のことか分かりますか? 真理は相対的立場で、神霊的な面は主体的立場です。

 主体とは中心位置を意味するので、中心というものは二つはあり得ず、一つだというのです。中心は四方に対することができる立場なので、その主体的中心的立場の神霊面を通した喜びというものは、永遠と連結されるのです。ですから、霊的な体験を通して感じたその喜びは、一生の間、忘れることがありません。これは理論的な当然の結論です。このようになっているのです。

 このような二つの面の人がいるので、自分がどちらの種類の人なのかを知らなければなりません。知識を中心として真理を探求する人は、実践問題に入っていったときにどのようにしなければなりませんか? これを必ず補強しなければなりません。補強するためには、必ず祈祷生活を始めなければならなのです。また、祈祷だけをして神霊面にのみ重点を置く人は、どのようにしなければなりませんか? 必ず真理に対して研究しなければなりません。このように両面が補強されなければならないということを、皆さんは忘れてはいけません。

 それでは、知恵のある人はどのような人ですか? 自分自身が1人でこれを調整するのは難しいのです。ですから、友人をよく選択しなさいというのです。自分が神霊的であれば、真理的な人と一つになりなさい、ということです。そして、2人で「おい! 私の心はこうだが、お前の心はどうだ?」、このようにひそひそ話すのです。型が違います。1人は内向的で、1人は外向的なこの2人が、「私はこうだが?」、「私はこうだが?」、このように互いに議論し、互いに協助して完全に一つになることができれば、信仰世界において、互いに飛躍的な発展をもたらすことができます。それで友人が必要なのです。

 統一教会を信じる人たちは、たいがいそのような経験をたくさんしたでしょう。何がどうだこうだと、そのような話を聞いて心霊に打撃を受けては真っ黒になるのです。それは、自分一人でいくら祈祷して解決しようとしても、限りなく難しいのです。しかし、自分と相対的な、真理的で外的な人を中心として友人になっていれば、「おい、こいつ、このようにしてみろ」と言ってくれ、また真理的な面の人は、霊的な面の友人が「おい! 私が祈祷してみるとこうだ」とこのようになれば、簡単に解決するのです。ですから、友人が必要です。信仰者には必ず友人が必要だということを知らなければなりません。

 自分と相対的な素性をもった人を友人にしていかなければ

 皆さんが円満な人格をもとうとし、春夏秋冬、四季形態の心の畑、心田があれば、その心の畑を啓発しようとすれば、そのような素性の人を自分が友人として歓迎できる資格者にならなければなりません。「ああ! その人は見るだけでも嫌だ」、それではいけません。嫌な人が自分に最も近いことを知らなければなりません。嫌な人を歓迎できるようにすることは、この上なく悪なる人が善になることができる近道を行くことです。何のことか分かりますか?

 ですから、統一教会に入ってくると、必ず一番嫌いな人がいるのです。必ずいなければなりません。いなくてはならないのです。その嫌な人が私にとって怨讐ではありません。私と最も近くなり得るのです。真の道を開拓するにおいて、その人が最も近くなり得る友人になることもでき、近くになり得る怨讐になることもあるのです。

 このような観点から見れば、イエス様が十字架で亡くなっていかれながら、ローマの兵丁に対して祈祷したこともそうだというのです。ローマの兵丁が本来は最も近くになり得る位置にいましたが、最も遠い位置に立っていたのです。しかし、その人を遠い怨讐として扱ったのではなく、近くになり得る立場に立てたのです。このようにすることによって、その怨讐を包括して一番の友人にすることを願う心があったがゆえに、そのような祈祷をすることができたのです。ですから、「彼らをお赦しください」(ルカ福音書23章34節)という言葉も、そこに入っているのです。

 今日のこの死亡の世界は、怨讐が支配している世界なので、この世界は否定されなければならない世界です。否定されなければならない世界で肯定的な自分の立場を立てれば、それは永遠にこの悪なる世界を否定できないことになります。しかし、これ自体を否定するために、否定的な態度をもってくることによって、自らを否定し越えていける自然な環境を迎えることができるようになるのです。そのような境地があります。

 ですから、友人が必要だというのです。知的な人は祈祷が必要であると同時に、何が必要ですか? 神霊的な人は知的な面の補強が必要であると同時に、何が必要ですか? 友人が必要です。1人でやろうとすれば相当に難しいのです。それで、皆さんが人の証を聞き、経験を聞くことは、信仰生活にとても助けになります。

 それゆえ、真正な信仰生活をしたいと思うのなら、統一教会の幹部たちの証を聞きたいと思わなければならないというのです。分かりますか? 協会長はどうで、誰はどうで、誰はどうで……。すべて違うのです。私がこのようなことを相対として消化させることができる位置に立つようになれば、度数が広がります、度数が。(板書されたものを指しながら語られる)この中央線でなければ、これは長く、これは短く、すべて違うのです。

 自分の性格の足りないところを埋めるためには、証を聞きなさいというのです。これを聞いて、自分のものとして吸収するのです。補強しなければなりません。それゆえ、多くの人の体験談を聞かなければならないのです。

 人が言ったことを批判してはいけません。批判するのはサタン側になるか、天の側になるか、二つのうちの一つを決定するということを意味するのです。批判した時は、サタン側になるか、天の側になるか、二つのうちに一つに分かれてしまうのです。それゆえに、批判することは、自分が発展することにおいて癌なのです。サタン側になった者が神側に行くことはできず、神側になった者がサタン側に行くことはできないのです。私たち人間生活において行くところには、直行することは絶対にできません。ジグザグに行くのです。

 先祖も善の先祖だけいるのではなく、悪い先祖たちもすべて関係しています。素性的に見るとき、自分自体が善の先祖の素性をたくさんもっているときはこのように行きますが、悪の先祖の素性を受けた部分もあります。自分の人生においてそのような時が来ます。そういうときは、必ずこのようにするようになります。批判すれば大変なことになるのです。それゆえ、「判断するな」という言葉も、みなそのような道理から出てくる言葉です。それゆえに、許すこともでき、許しを受けることもできるのです。

 神霊的な面に自分の素性が合う人たちは、ひたすら霊的なものに対して気になります。先生のような人は、本来生まれつきそのような人です。神様について話をすればとても気になります。ご飯を食べずに24時間聞いても、聞けば聞くほど楽しくなるのです。

 そのような人は、その一方向だけではなく、真理で補強しなければなりません。このように両面を心得ていかなければならないのです。自分の素性、自分がどちらの面の人なのか各自が分かるでしょう。ですから、反対の面を啓発するために努力しなければなりません。あるいは真理を探究し、あるいは神霊面で体恤するのです。ここには必ず何が必要かというと、祈祷と真理の探究が必要です。

 神霊的な人は、霊的に感じたものを真理で消化し得る基盤を築かなければならず、真理的な人、知性的な人は、その知性的な面に霊的な、神霊的な面を補強できる体恤的な基盤を築かなければなりません。そうすれば、それは必ず自分が離れることのない永遠の土台として発展できる基礎になるのです。それは自分一人では大変なので、必ず自分と相対的な素性をもつ人を友人とするか、師とするなどして指導を受け、協助を受けていくことが、最も正しい道であることを皆さんは知らなければなりません。

 もし皆さんが何かを感じて「あ! 私も今、分かった」と思ったときは、そこで終わってはいけません。実践するのです。自分がやってみなければなりません。ですから、学校でもそうではないですか。実験をしてみるのです。専門家とは、どんな人が専門家なのですか。同じことをたくさんやってみた人です。専門家が他にいるのではありません。技術者とは、どのような人が技術者ですか。同じことをたくさんやってみた人です。ですから、多くの実験をしてみなければなりません。

 体恤したあらゆる事実は相対性をもって日常生活圏内に接続させなければ

 霊的な、精神的な世界が、どれほど統一圏であるか分かりません。私が「誰かに会いたい」と思い、24時間待てばその人が来るのです。それが実現されるのです。集中するようになれば現れます。それは、方向性のある電波を送るのと同じです。そうするとその人は、受信機のような自分の心の基礎があるために、無性に気掛かりで行きたくてそうなるのです。

 我知らずその心が強くなれば、どのような現象が起こるのかというと、私が学校に行こうとして出発したのに、その行く道の方向を経て来てみると、教会に来ているのです。このようなことが起こるというのです。自分の意識的基準を越えて行動する、そのような結果を必ず体験します。

 統一教会の教会員たちも、反対されて迫害が絶頂の時、このおばさんたちが買い物かごを下げて市場に行くと出かけたのに、統一教会に来るのです。それは普通のことです。何も不思議なことではないというのです。ですから、狂ったとか、何か電気装置を使ったとか、何がどうでこうでと……。そのようなことが起こります。実際の生活に影響を及ぼし得るのです。それはそうならざるをえません。

 皆さん、催眠術のようなものも、人間がそのような体験を通してそれが可能なのです。神様を中心として神霊的なその道を通じれば可能にならざるを得ない、ということです。分かりますか? ですから、祈祷の能力がどれほど偉大かを、皆さんは分かるでしょう。この境地で起こるのです。

 ですから、皆さんが体恤したあらゆる事実を実践の場に適用させるにおいて、これをどのように相対性をもって日常生活圏内につなげるか、形成するかというのです。そのようにできる人は、偉大な信仰者です。漠然とした信仰者ではありません。彼は、神様の代役として、時代的な使命を果たし得る責任者になれる、このように見るのです。

 体恤するためには何をしなければならないというのですか? まずは祈祷をしなければならないです、祈祷。精神集中をしなければなりません。できれば零点の位置に降りていくか、そうでなければ、(判書なさったことを指して)この位置に行くかしなければなりません。

 それでは、最も早い道はどこでしょうか? この零点の位置に行くためには、ここに降りてくることが最も早いのです。それゆえに心が何ですか? 参禅する人は、「いったい心とは何か」という問題をおいて行うのです。

 心とは何かという問題は簡単です。心とは何ですか? 神様が永遠の理想的な善の主体でいらっしゃるならば、その主体的存在の前に相対的基台として、いつも変わりなく相対基準をなすことができるものが心の中心である、このように考えるのです。これを統一教会では生心の起源と見るのです。この相対基準さえぴったり合えば、超然とした力が現れます。そうだというのです。皆さんが神秘的な祈祷の中に入っていくようになれば……。

 釈迦牟尼のような男性も、神秘的な境地に入って、「天上天下唯我独尊」という言葉を言いました。修道しながら精神を統一して、霊的世界に入って神様の前に完全な対象の位置に入ると、「天上天下唯我独尊」という言葉が可能なのです。先生が世の中をぎゅっとつかめば、世の中がこの握りこぶしの中で溶ける気持ちがするのです。そのような境地に入るようになれば、奇跡は自動的に生じます。病気を治すのは、自然に信仰生活の付属物としてついて回るのです。

 それゆえ、皆さんが心門に合わせて、心田を啓発しなければならないのです。この心の畑を啓発して、方向基準を開拓するためには、必ず主体であられる神様を発見しなければなりません。ところが、主体であられる神様は曖昧です。曖昧な神様につながるには、精神を集中させて自分の心から出発する道以外にはないのです。自分の心から、心を清めておけば、必ず方向を知るようになるのです。自然についていきます。皆さんもそれを感じるでしょう。東に向かって祈祷をしたのに、神秘の境地に入れば、方向が変わるのです。そのようなことが繰り広げられます。ですから、心の門があるのです。

 祈祷がよくできるときがあるでしょう? それは皆が知っていることです。祈祷は、良くできるときもあり、いくら斎戒沐浴をして精誠を捧げてもできないときがあります。部屋によって、また部屋の位置によっても違います。一つの中心には東西南北があるために、その位置によって違うのです。また、方向によって違うのです。山に行っても、祈祷が良くできる所もあります。また、サタンが集まっている所もあります。それは陰地です。陰地と陽地は、霊的にそのようになっているのです。何回か体験すれば、そのようなことがみな分かります。

 そのようなすべての暗示や夢のお告げ、啓示、黙示などが起こるのは、人間と神様との関係を結ぶために広がる、開拓的で発展的な不可避な現象なので、これをおろそかにせず、生活に適用できるように努力しなければなりません。

 天との関係を結ぶためには必ず体恤的信仰をもたなければ

 それは、素性によって違います。Aという人とBという人では同じではないのです。ですから、多くの人の体験を参照しなければなりません。皆さんは、必ず体恤的信仰をもたなければなりません。そのようになれば、誰かが「信仰をもちなさい、教会に行きなさい」と言う必要がありません。そのようなことは問題ではないというのです。すでに自分が自分の行く道を……。お腹が空けばご飯を食べなければならないと同じように、のどが渇いたときに水を飲まなければならないのと同じように、自然とそのようになります。

 先生のような人は、本当に自然が好きです。なぜ自然が好きかというと、先生の信仰生活において、そのような神秘的な内容を体恤したことがたくさんあるからです。その気分は常に新しいのです。その気分は名残惜しいのです。昔、自分が、恵み多き自然を見つめて瞑想したそのような境地、あるいは夜なら夜の空を見つめたそのような境地、春夏秋冬、その気分はすべて違います。皆さんは、多事多端な都会生活をしていますが、その生活圏内に囲まれて、自らの位置を忘れてしまってはいけません。

 それで、先生は、水沢里に行くときもあり、清平にもよく行きます。アメリカに行く前にも、毎日のように清平に行き来したというのです。昨夜行ってきたのに、朝にまた何をしに行くのか、ということです。ここから行こうとすれば、3時間、4時間かかるのです。それはなぜ行くのですか? 自然がとても新鮮なのです。感じられる何かが……。霊的にはプラスになります。心がすっきり晴れないときは、補うことができる何かがあるので、そのようなことをするのです。ですから、一方的ではないことを皆さんは知らなければなりません。

 ですから、そのような面を補強しなければなりません。このような体恤的な、本性の感度と言うか、そのような感じをいつも補強しなければなりません。それは自分が知っているのです。「ああ、今、自分がどのような段階に入ってきた」ということを、すぐに分かります。今、自分がどのくらいやっている、ということが分かるのです。

 み言を語ってもそうです。み言を語ってみると、必ずそのようなことが起こるというのです。さらに熱烈に血と汗を流して語れば、すぐにこれがある面に偏るというのです。これをすべて調整しておかなければなりません。ですから、信仰の道は本当に難しいのです。皆さんがそのような境地に入っていくようになれば、友人がいなくても1人で行くことができます。祈祷すれば分かるのです、祈祷すれば。

 そのような生活をすれば、人に対したとき、さっと見れば、説明する前にすぐにその人がA、B、C型のうち、どの型なのかを分析するのです。そのような何かがあります。先生は、そのようなことが素早いのです。そのような体恤が起こってこそ……。

 霊たちも無数です。人が多いのと同じように、ありとあらゆる霊がすべているというのです。人の中でも、ありとあらゆる人がすべているでしょう? 同じように、霊たちもそうです。ですから、霊を鑑定するためには、そのような自分自らの尺度、心の零点を中心として、これが左側に行くのか、右側に行くのかを分別できなければなりません。そうでなければ、これをより分けることができないのです。善神か悪神かということも、そのような感じを通してすぐに分析できるのです。ですから、必ず体恤的な信仰が必要だということを皆さんは知らなければなりません。

 体験があれば必ず現実との関係を結ばなければならない

 皆さんが体恤しようとすれば、必ず何をしなければなりませんか? 心の門を合わせ、心の畑を耕しながら、これをすべて啓発しなければなりません。そこには霊的な面の人、真理的な面の人がいますが、それを啓発するためには、私一人でするよりは、相対的なある指導者に従っていくか、ある友人に従っていくかして補強しながら、お互いが一つになる立場をとることによって、たくさんの補佐を受けてこそ、早く発展するのです。

 このような体験があれば、必ず現実との関係を結ばなければならないのです。必ず実践場がなければなりません。自分が何かを感じたなら、それは偶然のものではないので、「何があった」とただ忘れてしまうのではなく、それがどこに的中するのかを見てみなければなりません。必ず教えてくれるのです。教えてくれる内容によって、「このように与えてくれた」ということが必ず分かるようになります。どこに行き、何が、どのように当てはまるのか、ということを常に求めなければなりません。夢の予示や幻想の中で起こった事実が、現実に的中したということを発見できるようにしなければなりません。

 そのような面で専門的な体験をもってこそ……。聖書の預言書の内容で、世界の時がどのような時かということを分別できるというのです。「ああ、今、神様の摂理がどのような時に進んでいる」ということを分別できるのです。このような内的な体恤信仰を通して、皆さんが実践場で、生活的な環境において善なる環境を維持していかなければなりません。これが信仰生活で最も貴い生活であることを皆さんが理解して、これから努力してくれることを願います。

~つづく~

翻訳責任:当ブログ管理者

 

 

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