分断された世界における言論の責任

 

1987年9月21日
第9回「世界言論人会議」
 
 尊敬する議長、貴賓、そして紳士淑女の皆様。第9回「世界言論人会議」に参席するために、はるばる遠方からお越しくださったことを、心から感謝申し上げます。
 
 私の祖国で開催されるこのたびの会議で、皆様に再びお目にかかり、心からうれしく思います。私は、会議という次元を超えて皆様を韓国にお招きすること自体に、個人的に大きな関心があることをお伝えしておきます。
 
 周知のとおり、私たちは、1年後にソウルで開催されるオリンピックの準備をしております。このような栄光は韓国の歴史上初めてであり、全韓国民は、間もなく訪韓してくる数十万人もの人々の期待に応えるために、準備に忙しく余念がありません。
 
 私は、言論に従事される紳士淑女の皆様に、事前にオリンピック大会の準備状況を見ていただき、世界に出て証人となっていただくことを願う気持ちから、今回の第9回「世界言論人会議」を韓国で開催することを勧めました。韓国人は、八八ソウル・オリンピック大会の成功と安全を保障できるほど、あらゆる苦難を克服していく強靭な信念と意志をもっている民族です。
 
 今回の会議のテーマは、「分断された世界における言論の責任」です。韓国はこの会議の開催地として最もふさわしい場所です。ちょうどここから30マイル北では、共産主義世界と民主主義世界が対峙しています。この二つの世界のうち、一方は神様を認める世界であり、もう一方は神様を否定する世界です。
 
 朝鮮半島ほど、対極的な二つの世界の違いを顕著にはっきりと現している所はありません。朝鮮半島は、自由と独裁、善と悪、民主主義と共産主義とが闘争する全世界の縮小版なのです。
 
 今日、私たちが好むと好まざるとにかかわらず、この二つの世界は戦争の渦中にあります。皆様は、この状況を第三次世界大戦と呼ぶかもしれません。その戦争の形態は、過去の二度の世界大戦とは全く違うものだとしても、それは全面戦争なのです。この戦争は、正に二つの人生観、二つの世界観の闘争です。二つの相矛盾する価値観は、社会全般において対立しています。それは軍事のみならず、政治、社会、経済、文化、スポーツまでもが戦略的に利用される戦争です。
 
 一方は、神様によって賦与された神聖不可侵の権利、すなわち生命と自由と幸福の追求を主張しており、他方は、人間の運命は国家によって決定されるという立場をとっています。また一方は、人間の生を神聖なものとし、人間はすべて神の子であると認めるのですが、他方は、人間を最も高度な社会的動物以上の何ものでもないと主張しているのです。
 
 一方は、永遠の存在と絶対価値を認めていますが、他方は、すべてのものを物質とみなし、一時的で相対的なものに固執しています。この二つの世界は、古代の闘士たちが死ぬまで戦ったのと同じように、死に至る闘争状態で固められています。
 
 多くの人々は、この二つの世界が平和的に共存できると信じています。しかし、私はそのような楽観論に共感できないのです。この宇宙の中では、到底共存できないものであることを看破しているのです。
 
 光と闇は共存することができません。光は闇を一掃します。真理と偽りは共存することができません。真理は偽りを克服します。また、生と死とは共存することができません。死んだ者は埋葬されなければならず、生きた者は続けて生を営まなければなりません。
 
 今日の民主主義と共産主義の世界的対決は、光と闇の戦いであり、真理と偽りの戦いであり、生と死の戦いです。周知のように、70年という短い歴史の間で、北朝鮮の強制収容所やソ連の集団労働収容所、東南アジアのジャングル地帯など、世界のあらゆる所における、共産主義による犠牲者は、およそ1億5000万人を超えているのであり、今日もなお、その殺戮は継続されているのです。
 
 私は韓国動乱以前に、北朝鮮で投獄されたとき、共産体制の残虐性を、身をもって体験しました。そこは刑務所というより、正に死の収容所であり、ある囚人は6カ月も生存することが困難でした。
 
 1950年10月14日、私の死刑執行が予定されていた日の前日、私はマッカーサー元帥の率いる国連軍によって救出されました。これは全的に神様の恩寵によってもたらされたものです。2年8カ月の収容所生活で、私は共産体制の邪悪さを骨身にしみて体験しました。
 
 私はこの目でマルクス主義の極悪な非人間性を目撃し、もしも共産主義を阻止することができない場合には、全世界は彼らの手によって破滅させられることを知るようになりました。それ以後、私は共産イデオロギーと闘争し、これを克服するためにこの身を捧げることを決心したのです。
 
 火を火で制するように、一つのイデオロギーはまた別のイデオロギーによってのみ克服することができるのです。ですから、今日、私たちが決着をつけるために命懸けで臨んでいる闘争は、理念の戦争です。この戦争は軍事力だけで戦うのではありません。共産主義者を買収して放棄させることはできません。共産主義に勝つ道はただ一つしかありません。光が闇を追い出すように、誤った理念は正しい理念によってのみ征服できるのです。
 
 さらに私は、共産主義の邪悪さの核心が、神様の実在を否定するところにあることを知り、また、人間の永遠の生を否定するものであることを発見しました。人が神様を否定するとき、人間の尊厳性の根拠を失うようになります。人間が神様の位置を占有してしまうのです。このような信条に立脚して共産主義理念が出現したのです。
 
 私たちは共産主義の本質が無神論にあることを看破するとき、これを克服するイデオロギーは、神様を認め、神様を中心とする理念でなければならないということは言うまでもありません。私たちは、このイデオロギーを「神主義」あるいは「頭翼思想」と呼びます。絶対的な神様中心の世界観こそ、共産主義から人類を解放する最も効果的な武器です。それは、「神は存在する」という真の真理のみが、「神は存在しない」という偽りを一掃することができるからです。
 
 そして、無神論に基づいた共産主義世界は、人間の希望を充足させることに完全に失敗しました。そうかと思えば、自由世界も漸次、物質万能主義へと流れ、神様を忘れてしまいました。それは、自由世界が共産主義世界と同じような立場に転落してしまい、昨今の甚だしい世界の危機を克服するのに、何の役にも立っていない理由なのです。世界は今、混沌というものによって深い闇に覆われています。「神主義」はこのような世界に新しいビジョンを提示しているのです。
 
 多くの人々が、私の教えと統一運動は宗教界ばかりでなく、社会の様々な側面において、この世に新鮮で建設的な衝撃を与えてきたと証言しています。共産主義の支配下で呻吟している多くの人々を解放することが、私たち自由人が団結して履行すべき神聖かつ重大な義務であることを私は信じてやみません。
 
 そうだとすれば、私たちの目的は反共ではなく、共産世界の解放です。1976年、私たちはワシントン・モニュメント広場において、30万人のアメリカ人を集めた大会を開きました。これは、私がアメリカで行った大衆演説の絶頂でした。
 
 そして、正にその翌日、私はそのような形態の集会を、次はモスクワで開催すると公表しました。この解放運動の原動力は、憎悪ではなく、正に真の愛なのです。私たちはすべての人間が自由を勝ち取れるように努力しなければなりません。そして、全世界の隅々で自由の鐘が鳴り響くようにしなければなりません。
 
 共産独裁の統治下に生きている、20億に近い人々が解放の日を渇望しているという事実を私は知っています。自由人たちが躊躇し、優柔不断で、義務感を喪失している間に、他方で数百万人もの人々が、毎日死んでいることを私たちは忘れてはいけません。
 
 このような戦争の中で、言論は、その勝敗を決する重要な要因になるか、または決定的な要因になるかもしれません。理念を表現する言論人である皆様は、民主主義と全体主義の闘争で、主要な役割を果たしています。
 
 このような使命を悟っている言論人は、勝利的結果に大きく貢献できる一方、この責任を忘却する言論人は、必ず敵に利用され、巧みに操られてしまうのです。今までになく「ペンは剣より強し」という格言が、重要な意味をもつようになりました。その権限が大きくなればなるほど、それに正比例して、その責任も大きくなることを知らなければなりません。言論の絶大な力は、開かれた自由社会の正義を擁護するために、大きな責任を有しているのです。
 
 私は「自由言論」の信奉者です。それでいながら、その「自由言論」は「責任言論」でなければならないと確信する者です。そして、「責任言論」は、すなわち「道徳言論」でなければならないと信じています。それでは、「道徳言論」というのは何を意味するのでしょうか。私たちは人間が神様から賦与された権利と尊厳性をもっていることを認めています。人間の権利と尊厳性の擁護が、すべての倫理と道徳性の標準とならなければなりません。ですから言論は、自由を守護し、不義と闘う最前線に立たなければなりません。
 
 言論は、全体主義に対抗する闘争をリードしていかなければなりません。さらに「道徳言論」として、腐敗と人種差別主義に反対しなければならず、不当に迫害されている人々を擁護しなければなりません。「道徳言論」は、麻薬の乱用や猥褻な本や映画など、社会の様々な破壊的な非行に対抗し、憤然と立ち上がって闘いをリードしていかなければならないのです。すなわち、言論は社会の良心とならなければなりません。
 
 私は、言論が抑圧されているところには言論の自由を促進させるため、そして既に言論の自由があるところには、「責任言論」を具現するために、「世界言論人協会」を創設しました。また私は、すべての言論人が真理のためには妥協しない、真理の闘士となれるようにするために、同協会を設立したのです。
 
 私たちはこの「世界言論人会議」を毎年開催してきました。そして、ソ連、中国、南アフリカ共和国、モザンビーク、アンゴラ、カンボジア、中南米など、全世界にわたって言論人たちが共に旅行しながら、多くの事実を学び体験する言論人世界視察旅行を数回敢行しました。このような旅行は、真理を模索する旅程であり、言論人たちが世界を肌で感じる機会を提供するためのものです。
 
 私は、この「世界言論人協会」が過去9年間にわたり成し遂げてきたその業績を誇りに思っています。皆様がテレビや新聞を通して、私に関しての多くの話を聞いておられるとしても、私に直接会うのは恐らく今回が初めての方々が多いのではないかと思います。レバレンド・ムーンに関する数多くの興味ある話は、皆様の新聞をますます売れるようにし、皆様の番組の視聴者を増加させました。
 
 このように、私は長い間、皆様の事業を援助してきましたので、今度は私が皆様に一つお願いしても御理解いただけるのではないかと思います。それはほかでもなく、私の思想と生涯を一度研究してみてほしいということです。心の扉を大きく開けて、一度研究してみてください。そして、皆様御自身の結論を出してくださるようお願いします。韓国はこのような研究を始めるには、絶好の場となるでしょう。
 
 もしもここでの私たちの努力が、自由世界の理念具現に重大な貢献をすることができるならば、私たちはその高貴な目的の達成のために、自身のあらゆる努力と資源と生命までも捧げなければならないでしょう。私は、この価値ある課業における皆様の御参加を心からお祝いする次第です。
 
 神様の祝福が共にあることをお祈りします。
 
(『文鮮明先生御言選集』 168-234~239 1987.9.21)
 
 
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