【本記事で深掘りする『原理原本』のみ言】

 人間は神から始まり、万物もまた神から始まることは認めるが、根本となる神はいかに始まり、その前には何があったのかと問う人間が多い。しかし、神という存在の根本よりも、実際の問題は、最も近いところにいる自分が問題である。(『原理原本』p22)

 

 前回の【前編】では、神の実在性について、良心作用と人体構造から見た観点をご紹介しました。しかし、『原理講論』の総序には、次のような一節があります。

 今まで神を信ずる信徒たちが罪を犯すことがあったのは、実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、実感を伴うものではなかったからである。神が存在するということを実感でとらえ、罪を犯せば人間は否応なしに地獄に引かれていかなければならないという天法を十分に知るなら、そういうところで、だれがあえて罪を犯すことができようか。(『原理講論』p34)

 「観念的」というのは、現実を無視して抽象的、空想的に考える状態のことを意味します。

 ですから、神を信仰する人であっても、神の存在を実感できず、頭の中だけで神の存在を考えているだけでは、神様も願わず、自分の良心も願わない方向に行ってしまうことがあるということです。

 特に情報が氾濫し、自分自身で真偽を判断することが難しい今日のような状況では、論理的な判断だけで善悪を見極めるのは困難です。

 では、どうすれば神を実感することができるのでしょうか? 今回の【後編】では、その答えを文鮮明先生のみ言から引用してみることにします。

3.神の実在を実感するには?

(1)神と出会うことのできる信仰の基準

 私たちがきょうの私よりもあすの私がより善であろうとすれば、絶対的に実存される神を私たちの生活圏内に引き入れなければなりません。すなわち、その神を何か論理的な神や観念的な神としてのみ認識するのではなく、生活における実証的な神として認識しなければならないのです。これは、私たち信仰者にとって非常に重大な問題です。
 人間は堕落したために、どのみち堕落の運命から抜け出していかなければならない道が残っています。このような人間が行くべき道に対して、今まで大勢の預言者と道人たちが、あらゆる誠心と忍耐と至誠を尽くしましたが、その道はいまだ最後まで行くことができないまま、宇宙的な運命の道として残されているのです。
 また、人間が犯した罪によって生じた壁も一つや二つではなく、行っても行っても終わりなく立ち塞がっているので、私たちはこれを崩して越えていかなければならない立場に立っています。このような立場に立っている人間たちは、信仰の対象、すなわち絶対的な神、絶対的な実存体の神を欽慕してきましたが、彼らはそれに対して、理解できない様々な事実があることを感じるようになっていたのです。
 ですから皆さんは、漠然と観念的にのみ神の実存を認識しようとしてはいけません。しかし、論理的な面でのみ神の実存を認識しようとしても無理でしょう。なぜなら、論理圏内にだけとどまる神ではないからです。論理的に神を認識する信仰が、私たちの生涯を導いて永遠の生命の実体として完成させてくれるのかというとき、ここには問題点が多いのです。
 それでは、このような環境で生きている今日の私たちは、どのようにすれば、真の主と父の前に出ていくことができるのでしょうか。私たちが父の前に出ていこうとするのは、人間の歴史的な希望であると同時に、神様の摂理の目標となっているという事実を知らなければなりません。
 では、このような環境にいる私たちが神様を訪ねていき、信仰の道を訪ねていくようになるとき、私たちが行く道を何が妨げるようになりますか? まず、自分でも気付かずに生じる疑心が前途を妨げるのです。また、罪悪の試練が妨げるのであり、予期せず不意に襲撃する死亡の力が行く道を妨げるでしょう。私たちは、このような疑心の峠を越えなければならず、罪悪の峠を越えなければならず、死亡の峠を越えていかなければなりません。
 そして、人間たちは、各自が永遠の理想と関係が結ばれ、その結ばれた関係が自分の生活を支配し、自分の生涯の目的を支配してくれることを願う、そのような欲望を抱いてきました。また、このような永遠の関係を結ぶことができる、その一つの基準を人間たちは、我知らず待ち望んできたのです。人間はこのような過程を必ず経ていかなければなりません。
 また、皆さんは、生活圏内で神の実存を体恤することを願っていて、神の実体と出会うことを欽慕しています。しかし、その神の実体を信仰の対象として立てていこうとするとき、様々な疑心が生じることが多いでしょう。だからといって、その疑心の条件に引っかかって進むことができないようではいけません。それを通過しなければなりません。そして、皆さんは、死亡の大きな影の下にいることを感じなければならないのです。
 それでは、このようなことを感じた後にはどのようにしなければなりませんか? それらを自分の心に抱えているだけでは、真の信仰の道を行くことができません。このような問題を解く道がないというのです。皆さんが、神様がいらっしゃることを認めるなら、自分がもっているあらゆる疑心を神様に率直にさらけ出す、そのような信仰の対象者の立場にとどまることができなければなりません。また、自分のあらゆる罪悪による苦難、すなわち自分自ら犯した自犯罪から血統的に受け継いだ遺伝的な罪まで、すべてを率直に神様に告白できなければなりません。
 また、それだけでなく、前途を妨げているあらゆるものと闘うべき運命にあるにもかかわらず、永遠の希望の世界に向かって一歩一歩、前進しなければならないにもかかわらず、永遠の生命の理想を感じることができる約束の天国に入っていかなければならないにもかかわらず、いまだに無力な死亡圏内にとどまっていることを私たちは克服しなければならないのです。
 今、皆さんに父なる神を訪ねようと願う心があるなら、皆さんは、今までもってきた疑心と罪悪と死亡の内容を外に出してしまわなければなりません。皆さんが今までとどまっていたその場、罪悪の歴史と因縁を結んでいるその堕落の環境では、神様や善と関係を結ぶことはできないのです。皆さんが善になることのできる環境は、そのような環境ではない新しい環境でなければなりません。
 それでは、皆さんがこのような環境を抜け出るためには、どのようにしなければなりませんか? 皆さんは、「私はこのような不足な姿ですが、お父様、受け入れてください」という懇切な心情をもたなければなりません。そのような心情が皆さんの心の中に定着すれば、皆さんは永遠の生命の世界に近づいていくことができるようになるのです。
 そして、皆さんがいる周囲の環境から生じるようになった疑心を、包み隠さず に「お父様、私の心と体からこれを除いてください」と言うことができ、罪悪に捕らわれているこのような自分を、父の前やある信仰の主体者の前に、そっくりそのまま委ねることができる勇気をもたなければなりません。そうでなければ、そのような心情だけでも心の中心に立てなければなりません。そのようにできなければ、皆さんは信仰の道を歩んでいくことができないのです。
 神様が人間を訪ねてこられるとき、どのような条件を提示されるのかというと、信仰を提示されるのです。それで人間は、信仰で自分のすべてのものを忘れ、疑心が生じる環境を打破して、信じることができる環境を造成しなければならず、罪悪の環境を整理して善の環境をつくらなければならず、死亡の環境を打破して、生命の環境を造成しなければなりません。
 このようなことをすべて果たした後にこそ、永遠であられる神様の愛を中心とする、神様の無限大の栄光を神様に代わって歌うことができ、神様の権限を自ら現すことができるようになります。そのような一時を望んで、人間たちの心が動いてきたのです。(『文鮮明先生御言選集』 3-9~12 1957.9.8)

 今まで人間たちが追求してきた真理探究の歴史を見てみると、人間たちの最初の探究対象は宇宙でした。すなわち、この宇宙はどのようなものなのかという問題をめぐって、人間たちは苦心してきました。その次には、人間を中心として探究してきました。すなわち、人間とは何かという問題をめぐって苦心したのです。このように人間は、理性を中心として今まで真理を探究してきたのですが、人間のその理性は完全なものでしょうか? そうではありません。理性それ自体だけでは完全になることができません。そして、その理性は、人間たちをして絶対的な価値を増進させることができず、永遠の人間の生活理念にはなり得ないのです。
 ですから、人間たちは絶対者、すなわち宗教的に言えば、「神」を認めざるを得なくなりました。しかし、その「神」は、人間たちが犯した罪の赦しを請うための人倫的な「神」でした。論理を超越した「神」として、個々人の人間と関係を結ぶ「神」となることはできなかったのです。どこまでも人間的な思考による「神」でした。このような神観は完全な神観ではありません。
 正しい信仰者たちは、このような立場から一歩飛躍し、絶対的な「神」を認めています。しかし彼らは、絶対的な「神」を認めながらも、信仰生活において、自らがその「神」といかなる因縁(関係)も結ぶことができていないのです。論理的な立場にとどまっているだけで、どのようにすればより飛躍して神の実存を感じることができ、その実存する神が生活の中でどのようにして私と因縁(関係)を結ぶことができるか、という問題は解決できずにいるのです。
 私たちは、これを解決してくれる理念をもたなければなりません。そして、その理念は、宇宙論を代理し、人間の理性の価値を代理し、人間の生命の価値を代理して、絶対者の理念、すなわち神の理念にまで通じることができなければなりません。そのような理念が私たちと関係を結ばなければならないのです。それは、どんな人間の表現でもできません。どんな人間たちの人格修養によってもできないのです。
 今日の私たちが天倫の新しい理念圏内に生まれた以上、私たちは、自らの生涯期間中に天宙的な理念を探し求めなければなりません。神の理念に通じたイエス様であられたことを知らなければならず、最高の良心基準と最高の善の基準に立たれたイエス様は、神の全体的な性稟を代理する方であることを、私たちは、自動的に信じることができ、知ることができる境地まで行かなければならないのです。
 それでは、どうして私たち自身は、イエス様のようになれないのでしょうか? それは、私たちが今何をするとしても、そのとどまっている環境では、何かをやろうとする私たちの心を抑圧する力が強く押し寄せてきているからです。人々はこのような事実を忘却しています。また、私の良心が最高の善、すなわち絶対者の実存に向かっているとしても、そのような心が順調に行動に移されていないのです。なぜそうなのかというと、堕落の応報により、この世界が罪悪の世界になったからです。
 私たちの本心、本性の力を抑圧している、私の心の力よりもっと強い暗闇の勢力が私たちを抑圧しているのです。この暗闇の勢力をキリスト教ではサタンと言うのです。私たちは、この暗闇の勢力をどのように打破していくのかということを考えざるを得ません。
 暗闇の勢力と私たちの体にある悪の諸要件は、私たちをして疑心をもたせ、罪悪の行動をするようにし、私たちを死亡の世界へと引きずっています。私たちは、これを防いで押し出すことのできる環境をもたなければなりません。このような環境を探し立てようとする宗教が、まさにキリスト教なのです。
 それでイエス様は、自身が神様を信じて立ち上がったのと同じように、私たちに「わたしを信じなさい」と語られたのです。その「わたし」というのは、イエス様だけが成就した「わたし」でしたが、それと同じ個人をつくって人間世界に拡張させる運動を誰がするのでしょうか? これは、人間の力でできることではありませんでした。神様がしなければならないのです。しかし、ここには人間の信仰が必要です。
 言い換えれば、イエス様が神様を信じることによって、周囲の環境に広がっている暗闇の勢力を生活の中から退けられたように、私たちが神様を信じて立ち上がるようになるとき、瞬間的にサタンが私たちのやることと私たちが動くところに現れますが、結局、天が現れてくださり、サタンを退けてくださるのです。この一つの基準を立てるために、イエス様は信仰の条件を立てられたのです。
 それでは、私たちが信仰の条件を立てようとすれば、どの基準まで信じなければならないでしょうか? 皆さんが想像して信じることができる程度の適当な信仰ではいけないのです。皆さんの考えが及ぶ程度まで信じることではいけないというのです。その基準は、今日この世界で信じている基準ではありません。偉大で尊い神の実存体のために信じなければならないのであれば、その偉大で尊い神の価値に匹敵し得る信仰の基準を皆さんが立てなければなりません。
 それでは、現在の人間たちは、どの程度まで信じていると言えるでしょうか? その信仰の程度は、イエス様が「わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」(ヨハネ福音書3章12節)と語られたのと同じく、とても低いのです。イエス様は、このように人間たちの信仰の程度について落胆するみ言を語られました。そうだとすれば、今日、信仰をもつ人々が絶対的な信仰の基準を立てることができるか、これが問題です。
 今日までキリスト教は、聖書の中の神様としてのみ信じてきました。しかし、神様の中にも信仰があります。神様ご自身も、無限なる創造の理念がある限り、その理念を実現させるための信念があるのです。神様ご自身も、信じていらっしゃる何かがあるというのです。ですから、私たちは、無限大の信仰を追求していかなければなりません。私たちがそのような信仰を所有すれば、聖書の中にあるあらゆるみ言を信じることができるでしょう。
 また、聖書の中にあるあらゆるみ言を信じることができてこそ、イエス様がこの地に来られて語ることのできなかったみ言まで、皆さんが考えることができるのです。そこで、イエス様が語ることのできなかった部分を皆さんが見出してこそ、宇宙的な疑心の峠を越えていくことができ、宇宙的な死亡と苦難、そして宇宙的な罪悪の歴史を経てきた先祖たちを慰労してあげることができるのです。
 皆さんが今、信仰の主体であられる主を信じていますが、イエス様を信じることだけで終わってはいけません。皆さんは、イエス様を信じることによって、その信仰の条件を通して、永遠の生命を懸けてイエス様との関係と因縁を結ばなければなりません。そして、皆さんはイエス様と信仰の関係を結んだその基盤の上で、神様の実存まで感じなければなりません。皆さんが本当にイエス様を信じれば、このようなことを成し遂げられるでしょう。
 無限なる信仰の路程を探究していく人々は、無限なる発展を成し遂げることができます。今日の一般のキリスト教徒たちは、このような事実を知らずにいるのです。このような無限なる信仰の理念に魅了され、天国が成就することを願う真正なる信仰者を天は待っていらっしゃるという事実を、皆さんは知らなければなりません。(『文鮮明先生御言選集』 3-16~19 1957.9.8)

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いつ父の前に私は立つのか

(2)神に対する体恤

 皆さん、「愛」と言えば、これは漠然とした言葉です。愛というものは、一人や言葉では理解ができないものです。父母の愛という言葉をいくら説明してみても、父母をもてなかった人には、それが到達できない境地です。あるいは、夫婦の愛をいくら説明してみても、一人で生きている人には理解することができません。また、「父母の愛がどれほど大きいか」と言っても、子女を生んで、子女を育ててみたことがない、このような体験をもつことができなかった人には、それは到達できない境地なのです。
 結局は、自分が感じることのできる主体や対象の圏内で、その人と私との行動的な一致点を備えることができるところで、その人が喜ぶことを私も喜ぶことができ、その人の願いが私の願いになります。その人のすべてが私のすべてとして連結される、その場でその相対に対する愛を感じるというのが私たちの日常生活であることを考えるとき、「神様」と言えば漠然としているというのです。その漠然とした神様が、私と共にどのような環境で一致点を感じるのか、出発点を提示するのか、これが最も重要なのです。
 皆さんが祈祷の時間にだけ、そのような因縁(関係)を結ぶことができるとすれば、その祈祷の時間以上の環境を自分の生活圏内に連結させる努力をしなければ、神と(自分が)同行しているという事実を体恤することは不可能です。
 神様と私たち人間を見てみるとき、「神様」と言えば高貴な感じがしますが、私たちの父と私、このような関係です。神様はどのような神様かといえば、父なのです。「私たち人間は神様の子女だ。私は息子だ。息子だが、二人といない息子だ。神様はその息子の父だが、世界に大勢いる誰とも比較できない最高の父だ」というのです。
 そのような内情的な面を、皆さんが信仰生活でどのようにして内心にその幅を広げ、その圏を広げるのかという問題、それが考えだけでなく、実践生活において、実践環境において、それをどのように適応させるかという問題を扱うときは、「私の愛する父が願う心情的要求、すなわち愛の父が要求しているのはこれではないか。ゆえに私はこのように実践しなければならない」と考えなければなりません。実践するその一日の生活も、あるいは一月の生活ももちろんですが、一生の生活をそのように見て、自分一人で見て考え、自分一人で感じることのできる生活をする、ここにおいて初めて体恤というものが始まるのです。祈祷するときに漠然となされるのではありません。
 大概の神霊的な体験をもつ人たちの弊害は何ですか? 祈祷や大会をするときはそのようなことを感じますが、生活面においての同和した体恤圏、または同和させることのできる体恤圏に対しては忘却してしまうのを、私たちは往々にして見ることがあります。それではいけません。自分が祈祷してもしなくても、その環境において天が共に役事していることを感じ得る自我をどのように確認し、確定するかということが最も重要なのです。ですから、神に対する体恤が私たちの命の要因となることを、皆さんは知らなければなりません。
 「神様がいる、神様がいる」というのは、言葉だけではありません。原理を通して主体と対象の関係を中心に見てみるとき、神様は不可避的に存在しなければならないという立場ではなく、神様は私が存在する前にいらっしゃったのではないか、私が考える前にいらっしゃったのではないか、私のすべての感覚、私の一切を主管する天ではないか、という立場なのです。それを認識することが何よりも重要な問題です。
 認識して知るのが原則ではないですか? 知って認識するのが原則ではなく、認識して知るようになっているのです。私たちは、寒ければ寒いことを知って感じるのではなく、寒ければ寒いことを感じて知るのではないですか。これと同じように、神がいらっしゃるとすれば、神がいらっしゃることを皆さんは感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。その境地が問題です。言い換えれば、体恤的立場をいかに私たちが確定するかという問題、これが問題だというのです。
 それでどのような環境で認識されるのかというとき、皆さんは神秘的な祈祷の中で、祈祷の時間にだけそれがなされることを願うのではないですか? しかし、大多数の人は、自分が精誠を尽くす、その時間にそのような因縁が結ばれるのです。もちろんそうです。私たちは、常習化した罪悪圏内に生活圏をもち、善とは遠い距離にあるので、あらゆる精誠を尽くして心と体が統一され、善に近くなれば近くなるほど接触点が近くなることは間違いないことですが、それが正常なことですか? 私たちの生活面でそれが正常なことにはなり得ないのです。
 私が聞き、語る、このあらゆることも、平面的ではなく立体的でなければなりません。私が「あなた」と言えば、「あなた」と言うときにも、その響く音波の伝達としてだけでなく、その裏面には必ず心情的内情が天と共に加重されているという立場で語り、聞くときも、やはりそのような面を聞くことができる、このような体恤的な立場が何よりも貴いのではないですか?
 このような生活を皆さんがするようになれば、飛んでいく鳥の鳴き声も偶然ではありません。吹いてくる風の音も偶然ではありません。朝に昇ってくる太陽の光も、自分には無限なその何かを教えてくれるのです。このような環境的な土台の上で、これをどのように自分が体恤するのか、私が体でどのように感じて体験をするのか、それをどのように感じるのかが問題なのです。
 宗教は考えから出発するものではありません。宗教というものは体恤から始まるのです。宗教の認識というものは、何かの観念的な知識的論理を通してなされるのではなく、実質的であり実際的な体験を通してなされるのです。体験をもつことができない信仰は、長久な信仰になり得ず、体験をもつことができない信仰の場は、自信をもつことができません。いくら自信をもったとしても、環境が食い違うようになるときは、その自信も流されてしまうのです。
 それでは、孤独なときに、その孤独は私だけの孤独ですか? 孤独だった天があるため、天と共に孤独になる立場に立つようになるとき、私が孤独である前に、先に天が孤独であることを感じることができれば、この人は不幸な人ではありません。
 喜ぶときも、私だけが喜ぶのではなく、天と共に喜ぶのです。私が喜ぶ前に、先に天が喜ぶのです。私は平面的に喜びますが、神様は立体的な立場に立って喜びを感じられ、喜ぶ私をご覧になって私に同調してくれ、私の歌に、あるいは私の踊りに刺激を加えることによって私に勧告されるのです。そのような環境で天が私を抱いてくださる立場に立つようになれば、それはどれほど幸福でしょうか? そのような場を体験した人がいれば、その体験した瞬間というものは、永遠に忘れようにも忘れることができません。
 どこに行っても、その喜びの感じが私を支配しているというのです。山に行っても、野原に行っても、家に行っても、都市に行っても、職場に行っても、一人で密室にいても、どのようなところでも、自分が喜びを感じたときのあらゆる因縁というものが、いつでも自分の心と自分の生活目標の中で、自分の生活環境を収拾しながら、明日へと導いていくことを感じることができるのです。
 ですから、一人でいても、考えることは何かというと、喜んだそのときを再現させようとするのです。あるいは、孤独で悲しかったときに、神様が私に「強く、雄々しくあれ」と勧告したことがあるなら、そのような場で新しい決意と新しい覚悟ができる心を再現できるのではないかと考えるのです。
 そのような立場を自ら感じ、そのような環境で自分の信仰生活を維持していく人がいれば、この人は不幸な人ではなく幸福な人です。その人が直面している環境と生活している舞台がいくら悲惨で凄惨だとしても、その人は不幸な人ではありません。孤独で凄惨な環境が、その人にとって孤独で凄惨なまま終わるのではなく、その孤独は未来に加重された希望を促進させ、その凄惨さは、現在だけでなく、未来に新しい希望を促進させる原動力になるのです。ここで初めて信仰の価値を知ることができます。
 このような環境で、初めて「私だけではない」というそのような境地になり、自分自らが「私はこのような人である。神様がいらっしゃる。その方は全知全能の神様であられる。神様と私とは一つだ」という自覚した立場に立ち、自分のあらゆる所信を、一つの目的に決定的に集中させて進み出るようになるとき、そこには新しいことが起こるのです。人間が想像できない新しい結果が起こるようになるというのです。
 そのような体恤的な場で、自分の新しい自覚をどのように確定するのかというのです。暴風雨が吹いてくるそのような環境の先端の場に立ったとしても、押し出されない自覚、いかなる困難な死線が私の前に立ち塞がることがあっても、それは問題にならないという自覚をしなければなりません。また、「神様は生きていらっしゃる。神様はあらゆる悪を審判する公義の主人公であられ、善に対しては絶対的な保護の権限、悪に対しては絶対的な審判の権限をもっていらっしゃる。それで私は善の立場に立っているため、悪を除去させることができる主体的な側ではないのか?」、このように自覚する立場で、初めて神様に代わることができる道が開かれるようになるのです。
 皆さん、ヨシュアとカレブを代わりに立て、少数の群れを導いてカナンの福地を訪ねなさいと命令された神様は、第一に、何の命令をしたのかというと、「強く、また雄々しくあれ」(ヨシュア記1章5~6節)と言いました。「強く、また雄々しくあれ」というのは、ただ漠然とした立場で「強く雄々しくあれ」と言われたのではなく、「天が共にあるのだから、強く、また雄々しくあれ」と言われたのです。共にいらっしゃるというのです。
 神様は、皆さんの困難に対して備え、背後で背水の陣を敷いて皆さんを訪ねてきており、皆さんと同伴していらっしゃるという事実を知らなければなりません。苦痛が加重するほど、その苦痛は皆さんを滅ぼすための苦痛ではなく、皆さんの価値を打診するための苦痛なのです。神様はこのように見ようとするのです。
 困難にぶつかるようにするのは、その困難によってその人に被害を与えてマイナスになるようにするためではなく、悪なるサタン世界の前に、悪なる歴史時代の人類の前に、失敗の原則に従ってきた人類の前に、また失敗の原則を提示するサタンの前に、彼らとは違うことを提示するための一つの条件に過ぎないのです。
 その受難の道を克服することによって、歴史はそこに頭を下げるようになります。皆さんが困難な環境を打開していくようになるとき、その環境に身を置いていた人類は、新しい希望の人物として追い求めるようになるのです。これが歴史的な事実です。
 ですから、そのような神様に対する体恤的感情を、どのくらい自分の生活の周辺に誘導して実現化させるか、ということが問題です。その実現化させる事実が、自分を中心として表現されるとき、自分だけでなく、自分の生活の周辺に新しい自覚圏を形成させることができるのです。(『文鮮明先生御言選集』 58-284~289 1972.6.25)

 

【このみ言の全文はこちら】
神に対する体恤と私たちの自覚1

神に対する体恤と私たちの自覚2

神に対する体恤と私たちの自覚3

 

 

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