神に対する体恤と私たちの自覚(2/3)

1972年6月25日

 体恤的感情の体得が必要な信仰生活

 「神様がすべてやってくれてこそ私が信じるのであって、そのようにしてくれなければ、どうして信仰生活をするのか」と言いますが、そうではないのです。天がすべてしてくれるのが道理ではありません。人間が堕落したので、人間が訪ねていかなければならない復帰の行路があるのではないかというのです。

 それでは、復帰の行路の距離は何によって接近させるのでしょうか? 行動によって接近させることができるのではないというのです。心で接近させるのです。心しかありません。行動でしようとすれば、6000年築いてきたのと同じことをしなければなりません。飛び越えなければならないのです。

 しかし、心は本性を通して直行できるのです。心は何よりも早く、何よりも近くここに接することができます。心の道以外にはないのです。ですから、心で感じて、心で和合し、心で喜び、心でそこに相対できる姿勢が必要です。

 神様の愛を受けている人たちは、自分が侍って生きている主体である父の愛を受けていることを考えるとき、愛する方のあらゆるものを貴く感じられるのではないかというのです。ここからすべてのものが収拾されるのです。愛する人のハンカチ一枚をもって、一生を孤独な立場で生活したとしても、その環境を克服できる主導的な力がその場にあることを、私たちはこの世の中でも見ることができます。

 それと同じように、神様が愛する人を自分も愛するのです。愛そうとするのです。神様が愛そうとするその人を私が破綻させることができますか? その人を協助しなければならないのではないですか? 神様が愛する人を私が軽視できますか? 歓迎しなければならないのではないですか?

 ここであらゆるものがつながり、あらゆるものが発展の動機になっている事実を、今日信仰する人たちは、信仰生活をしていながらも知らずにいるのです。それを知らないというのはどういうことですか? そのような生活をしていないということです。ですから、「父よ」と言うとき、その「父よ」という言葉は、骨髄から響いて出てくるのではありません。しかし、骨髄が響き、骨髄が反応するのを感じられる場にいらっしゃる父だというのです。その父は世の中の父と違います。

 私たちが呼ぶその父は、どれほど苦労したかというのです。数千年間、人類を訪ねてさ迷いながら苦労したのは誰のためですか? 結局は私一人のためです。神様が全世界を動員し、歴史を動員し、宇宙を動員して今活動しているのは、愛する息子、娘、一人を取り戻すためなのです。

 それは、特定のイエス様だけが行く道ではありません。イエス様を送ったのは、仲保者として送ったので、道を開拓させるための先鋒者として送っただけであって、その根本の愛の主体として送ったのではないのです。愛の道を開拓し、万民をその愛に同参させるという共同的な目的を開放するために来られた方であって、イエス様の恣意的な目的を成し遂げるために来られた方ではないのです。

 皆さん、これが問題なのです。皆さんが寝ていても「父よ」と言うことができ、独り言でも「父よ」と言えなければなりません。世の中で人々が自分の相対を慕う、それ以上の慕わしさがこみ上げてこなければなりません。そして、御飯を食べるのも忘れ、寝るのも忘れながら、その生活の裏面で父に対する慕わしさをもって「父よ」と言えば、父がいないのに、父の手に捕まるようになるのです。そのようなことが起こります。夢のような事実が起こるのです。「父よ」と言えば、父の懐に抱かれるのです。このような表現的圏内で体恤的感情をどのように体得するのかということは、信仰生活で何よりも貴いことを皆さんは知らなければなりません。

 そのような体恤の感度、感じる度数、その量いかんがその人の信仰基準になり得るのです。そのような愛の心情をもったならば、どこかに行って「私がこれをしなければならない」というときは、「天よ、共にいてくださいますように」と言う前に、既に神様は共にいるのです。このようなことを皆さんが感じるようになるときは、「ありがたい神様」と思うようになるというのです。

 父子関係の心情を体得して外面化させなさい

 この世の中で人に対して信じることは何でもないことです。世の中で人々がお互いについて議論して行う、その信義というものは、言葉で「そうだ、間違いない」と確かめてこそ、「そのとおりだ」と言うことができます。しかし、神様の私たちに対する信義というものは、「そうだ」と確かめることはあり得ません。確かめる必要もないというのです。とうにそれ以上の立場に立った天の信義は、すでにその決定的な立場を定め、あらゆる問題に臨んでいることを発見するようになるのです。確かめる前に「そのようになるときだ! 私は幸福な人だ」ということを感じるようになるというのです。

 結局、信仰生活というものは、外面的な環境と現在の自分の立場を和合させるものではないということです。内面的なその生活の裏面を中心として、天と私との関係、父子関係の心情を体得し、その方と私とは一つだという心情を体得してはじめて、それを内面から外面化させるのです。このようにして全体の前に適応できる人であれば、その人は天の息子であり娘であることは間違いないでしょう。そのように生きる人は、間違いなく天国生活を代行する人になるのではないか、ということを皆さんは知らなければなりません。

 このような観点から見るとき、統一教会の教会員たちが今まで霊的に体験したことは、あまりにも残念なことが多いのです。取るに足らない皆さんたち、取るに足らない皆さんたちだというのです。イエス様のみ言によれば、真珠を豚に投げるなとあります。皆さんは豚と同じです。あまりに大きなものを与えました。あまりに大きなことを体験させたということです。あまりによいものを与えたのです。

 ところが、受ける人がなっていなかったので、よいものだと知らなければならないのに、ただそういうものだと思っています。自分の誠意と努力を注がずに受けたため、安物だと思っているというのです。それではいけません。

 皆さんは誠意と努力を注ぎませんでしたが、その背後で、歴史始まって以来、多くの先祖たちが天と共に誠意と努力を注いだ基盤があるのです。そのような基盤を通して伝達される過程で、多くの犠牲の代価が払われたことを皆さんは忘却しています。ですから、自分勝手に行動する人が多いのです。「これが統一教会の行く道だ。私のような人たちで構成されているのが統一教会だ。それでも私は、その中ではこのように生きた」という、このような非正常な考えを正常だと思っている人たちが多いというのです。

 これを皆さん自身がいくら公認し、立証したとしても、神様が同感せず、公認しなければ、神様が加担されなければ、それは空だというのです。何も関係がありません。

 ですから、仕事をして振り返るときは、「お父様、きょうの仕事はどうでしたか?」と言うことができなければなりません。私が私を中心として神様の前に負債をつくることをしたのか、私が神様の前に負債を蕩減することをしたのか、負債をつくることをしたなら、その仕事を終えて振り返るときに、涙して胸が痛む自分を発見できてこそ、正常な人です。

 ある仕事を終えて振り返るとき、「アボジ、カムサハムニダ(お父様、ありがとうございます)」という心がなければ、顔を上げることができず、その場を離れることができずに涙を浮かべ、帰ってきても悔い改める、そのような生活を継続しなければなりません。そうでない人は天の生活ができていないと見るのです。これが伝統的な信仰生活だと見なければなりません。

 信仰生活に自信をもたず神様を体恤しなければならない

 ところが、皆さんは味気ない人です。ただ野良犬たちが争うように……。このような群れが多いというのです。皆さんが祈祷するときと、先生が祈祷するときは違います。「お父様」と祈祷するとき、その「お父様」という言葉にも、千態万状の差があるのです。人間だということは同じです。それでは何が違うのですか? 経てきた道が違うのです。素人が専門家を見れば、専門家が専門家のように見えないというのです。

 皆さん、文字を書くこと、つまり書道のようなものを見ても、もし小学生たちが天という字を書いたとすれば、測ったようにきちんとこのように書きます。しかし、このように書くと名筆のようになります。どちらが上手に書いたかというとき、素人はそれ(小学生が書いたもの)が最高に上手に書いたと思うかもしれませんが、専門家の目には違います。専門家は違うのです。いいかげんに書いたように見えますが、それが地上の全体標準にきちんとあてはまるというのです。それが違います。

 ですから、信仰生活に自信をもってはいけないというのです。自信をもつ人は愚かな人です。孝の道の前で自信をもつ人がいれば、孝はそこで終わるのです。忠の道の前で自信をもち、自分を認識する者は、そこから下っていきます。自分一人でいて自信をもつというのは、死んだのと同じ行いです。神様が共にあって自信をもてばよいのです。神様が共にあるので、そこには自信をもたなければなりません。そのようになれば、自動的に自信をもつようになるものです。

 皆さんが公的な壇上に立つとき、その心は刑場に出ていく心情と同じでしょう。それは、公判廷で判事の峻厳な判決を願う、そのような瞬間に立った男のような心情でしょう。つまり、祭物だというのです。多くの命をこの時間に私が責任をもっているのです。ひと言正しく言えば生かすこともでき、ひと言間違えば殺してしまうこともできるのです。医者が間違って注射を打てば、その命を犠牲にしてしまうのと同じ立場です。最も恐ろしい場だというのです。その場には天が共にあります。ですから、行けば行くほど顔を上げるのではなく、行けば行くほど顔を下げなければなりません。

 自分はいいかげんに過ごしてきたのに、天は内外をより分けて自分を守っていたことを考えるとき、不孝この上ない自我を回想するそのとき、神様のことをありがたいと感じる、このようなことが多くなければなりません。ですから、その不孝この上ない恥ずかしいこと、その責任を果たせないこと、不快感を感じることは死んでもできない、という心をもたなければならないのです。

 このような事実を皆さんが感じて、自分の生活はこうでなければならない、ということが公式化した形態で現れ、それが自分の生活を通して展開されなければなりません。そうしてその生活が神様と共に一致することができ、同化され得る環境で体恤圏が現れて展開するようになるとき、そのような人と一緒にいれば、その人のそばに行けば行くほど離れたくないと思うのです。そうだというのです。他の世界は死亡圏ですが、その世界は天の圏なので、無性に近くに行きたいと思うのです。無性にではなく、事実がそうです。体が知らないので無性にという言葉が出てきますが、本心は知っているので、事実がそうだというのです。そこにしきりに行きたいと思うのです。一緒にいたいのです。これは、数学の公式よりももっと間違いのない公式のように皆さんの生活に反映されることを、皆さんは知らなければなりません。

 ですから、神に対する体恤です。「神様がいるかいないか分からない」というのは考えられないのです。神様と共にある立場で、「神様は歴史を超越された方ではないか? 時代を超越された方ではないか?」ということを感じながら、自分が何かを聞いたというときは、これは現在ではないというのです。現在だけで終わるのではありません。ここには必ず歴史性があるというのです。

 これがここに来るときまではどのような道を来たのですか? ですから、ここでは物質に対する価値観も公認しなければなりません。そこにはこのようになる過程があり、因縁を結んだ人も、制作者も入っているのです。これ一つも歴史的な物なのです。ですから、自分を考えるときは、私のために天の誠意と努力がどれほど大きかったかということを感じなければなりません。そうすれば、自分がこのように味気なく生きることはできないのです。いいかげんに価値なく立ち振る舞うことはできません。

 あらゆる存在が投入され投影された私であることを自覚せよ

 ですから、このような生活は、故意にでもそのようにしていかなければなりません。「私が神様の前に心から行きたいと思っていることを知っているではないですか? この心だけは間違いありません。私が天と共に生きたいと思う心があるではないですか? 間違いないではないですか?」という心が、誰が否定しても否定できない間違いない心である限り、その人は天と共に生きることができます。それは公式だというのです。同じことです。深い浅いの差、高い低いの差、広い狭いの差はあるかもしれませんが、その範囲において接しているのは事実です。

 その何かを中心として見ても、近ければ熱意があるのです。遠ければ、それに比例する立場の熱意を感じるのと同じように、今日の私たちが神様を中心として見るときも、同じ立場で感じることができるというのが公式的な原則です。ですから、皆さんが「私」と言えば、神様を中心として私が東側に立っているのか、西側に立っているのかというのです。気になれば祈祷してみてください。私がどの方向に合わせれば祈祷がよくできるか分かるのです。それは電波と同じです。アンテナを電波の方向と合わせればよく通じるのと同じように、祈祷してみれば分かるというのです。

 このように祈祷する人たちにとっては、神様がいるいないという話は必要なことではありません。ご飯を食べようと箸をもつときも、自動的にきょう私がこのご飯と向き合うのは……。

 私たち人間というものは、自分一人ではありません。人間とはどのような存在ですか? 人間というのは自分一人ではないというのです。宇宙共同の因縁を総合し、結実体として現れたのが人間ではないですか? このような人間には、あらゆる万物相がすべて総合して入っているのです。私たちの先祖から受け継いだ、大勢の先祖たちのあらゆる素性がすべて投入されたというのです。

 金某と言えば、その某一人ではありません。その人には、植物、鉱物、動物、あらゆる万物の形態がすべて入っているというのです。顔は、今自分の顔のように感じていますが、その顔ができるときまでに数万年の歴史を経てきたのです。数万年にかけて先祖たちの血を受け継ぎ、そのように生じたのです。それは奇跡的な実体です。

 それだけでなく、その背後には天との因縁がついてきているので、その人が残ったのです。天との因縁を念頭において見てみるとき、無限な曲折の因縁を経て今日の自分をつくりあげてきたことを知らなければなりません。

 万物のあらゆる関係的存在が投入され、投影された実体が自分なのです。「私」と言うとき、その私というのは、今日の皆さんが制限された立場、常習化した自分の立場の「私」ではないのです。共同目的を代わりに果たせる主体的な立場で、自我に対する自覚をしなければなりません。

 人間はそのようになっています。ですから、一人で動いているからといって、一人で動いているのではないのです。宇宙の出動です。歴史の出動をしているのです。そのような意識で自分を実現するようになるとき、この人は偉大な仕事をすることができます。たとえ制限されたこの地で語るとしても、その言葉は世界に向かって宣布しているのです。

 人間はそのような存在です。そうではないですか? 父母の顔に似ていない人たちは、昔の先祖に似たのです。自分の髪の毛や細胞の一部分に、自分の何千代前の先祖の分子がすべて投入されています。宇宙が動いて私一人を造成しているのです。歴史が動いて私一人を形成しているというのです。そのような実感を……。それは結実です。

 「その結実が輝く結実として現れよ、栄光の結実として顕現せよ、花咲き香り漂う私自身にならなければならないのではないか? 実を結ばなければならないのではないか?」、このような因縁を結んで出てきて、その因縁の主体が誰かというとき、人間ではなく天だというのです。天は、そこにおいて宇宙的な自我を発見し、体恤的な心情を論議していく者を冷遇することはできません。天がそのような者を冷遇すれば、存続することができないのです。そのような自覚圏内に立ち、神に対する体恤を感じる人は、何でもすることができます。ですから、信じる者にできないことがないのです。ここで信じるというのは、自覚した場で信じることを意味します。

 神を体恤するのに最も重要なこと

 皆さんが「ご飯」と言うとき、何が重要ですか? ご飯が重要なのではないのです。前後関係が逆さまになったものは悪になります。堕落とは何ですか? 前後関係が逆さまになったのです。上が下になり、下が上になったというのです。先になるべきものが後になり、後になるべきものが先になりました。相対になるべきものが主体になり、主体になるべきものが相対になったのです。前後関係が行き違いました。

 ですから、どちらが主体かというとき、「天のものが主体だ」という絶対的な観念が必要です。何が主体なのですか?(「天のものです」)。天のものが主体です。「私」と言えば、私が主体ではないというのです。私は天の前に対象として立った「私」です。その対象として、私というものが主体の要件の前に一致化できないときは、対象の価値がなくなります。それが原理観だというのです。私の目も、主体としての目ではなく、何としての目ですか? 口は? 手足は? 私の全体は? 対象としての私です。主体がなくなるときは生命がなくなるのです。そうではないですか?

 女性にとって夫がいなくなるときは、生命がないのです。いくら「ある」と言ってもありません。人情の厚い村に入っていって暮らしたとしても、一人で暮らしていれば、誰でもやってきて手を出すというのです。それが自動的な原則です。ですから、鼠を捕まえられない猫のように、稼げない夫だとしても必要です。そうだというのです。皆さんの主体は誰ですか? 天です。皆さんは天のためにいるのです。

 孝の道がどのような道ですか? 自分の主体意識が勃発するようになるとき、孝子の道は崩れていきます。「父母が何だ? 父母は父母だ」、このようになるとき、また他の主体意識が出発するのです。そうではないですか? 「父母なら父母であって、それが何だ? その老人が私を生んだのなら生んだのであって、それが何だ? 私が生んでほしいと言ったから生んだのか、自分たちが好きで生んだのだろう」、このようになれば最後だというのです。それは二つとも崩れていくのです。孝というものは主体意識をもちません。「私は対象だ」、このようにならなければなりません。

 忠というものもそうです。忠の道もそうだというのです。忠臣が「王は王であって、私は多くを学んで王よりも多くのことを知っている、彼の目と私の目の何が違うのか、同じようについているのに……。その体と私の何が違うのか? 同じではないか? その体より私はもっと優れていれば優れているのであって……」、このようになれば、忠臣の道はすべて崩れていくのです。主体と対象の関係が行き違うようになるときは、そのようになります。

 国の中心である王はどのような方ですか? 王は歴史を受け継いだその国と民族に代わり、共同の責任を担った責任者です。全体を代表した者です。そして、全体の前に立った私は、その何分の一に該当する私なのです。ですから違うというのです。

 それでは、父母は何ですか? 自分の血族や氏族を中心として、この氏族が正しく立てるか立てないかという、このような重要な責任を担った中心存在です。その父母の前に禍があれば、自分に禍があるのと同じなので、その方が安全で被害を受けず、その方がより輝くためには、主体を主体として侍り、対象は対象として順応していかなければなりません。そうすることによって、その関係が肉づいて育つのではないかというのです。このように考えるとき、その主体のために生きることが、結局は自分のために生きることなのです。最後まで主体のために生きてみると、結局は自分に帰ってきます。結局は主体までも占領できるのです。孝の道や忠の道というのは何ですか? 主体に対して完全に占領しようということです。このようになるのです。

 信仰生活もそれと同じです。今日の統一教会の教会員の中で、誰かが「私が主体だ」と言う言葉をひと言聞いただけでもかっとなって怒り、血を見てはじめて「それでも当然だ」という人がいれば、見込みがないというのです。そのような人は統一教会に出てきてはいけないというのです。出てきてはいけません。いくら出てきても通じないのです。そのような人は、天国に行こうと出てきたとしても、行くことができません。天国というものは、そのようにはなっていないのです。主体と対象の関係における順応の法度に従い、原理原則に和合できる道を行くようになっているのであって、自分がまた他の主体になり、「何がどうでこうで」と言うようにはなっていないというのです。

 皆さんは、いつも神に対する体恤をどのようにしなければなりませんか? 体恤するにおいて最も重要なことは、「私は対象だ」と考えることです。対象ですが、「よいときだけ対象であって、悪いときは対象ではない」という人がいます。よいときだけ対象で、悪いときは対象ではないという道理がありますか? 夫が死の場に入っていけば、妻も死ぬ運命に直面するのです。その夫が死の場に入っていったのに、「おお、あなたはよくぞ死の場に入っていった。私は荷物をまとめる」という妻は滅びる女性だというのです。夫も同じです。妻が死の場に入っていったのに、「おお、よくぞ死んだ。私がもう一度、妻をめとるな」という夫は下衆だというのです。

 互いがために生きる対象や主体は滅びない

 ですから、ために生きる対象やために生きる主体は滅びません。皆さんはそれを知らなければなりません。分かりますか? ために生きる対象やために生きる主体は滅びないのです。ために生きる主体がいれば、ために生きる一つの対象がいなくても、その対象が現れてくるようになるのです。対象がために生きているのに、その主体が現れていなくても、最後まで行けば現れるようになります。そのようになっているというのです。皆さんはこれをはっきりと知らなければなりません。何日かやってやめてはいけないというのです。「私が始めたのだから、死ぬときまで、私の1代でできなければ、何代かかってもやる」と思わなければなりません。できるというのです。何代も待てば待つほど悪いことではありません。それは、神様が世界的な祝福をしてくださろうと待っているのです。「あなたたちは根気のある一族なので、あなたの子孫を10代、20代待ち、そのときにこの世界的な、歴史的な祝福をあなたの一族にしてあげなければならない」、天はこのように考えるのです。

 さあ、そのようにしようとすれば、1日待って祝福を所願成就しますか、1年待って所願成就しますか? このように尋ねれば、答えは正しく答えられるでしょう? どうしますか? 1日ですか? それは小さなハエほどのものです。それは誰が見ても取るに足らない祝福だというのです。ですから、最後まで耐え忍ぶ者が救いを得るのです。そのような救いというのは、普通の救いではありません。それは最高を意味する言葉です。最後までというのは、何百年、何千年にもなり得るというのです。ですから、キリスト教は今まで2000年間、犠牲になってきたのです。

 キリスト教は、「来る、来ると言っていたイエスはなぜ来ないのか? そのイエスは詐欺師だ」と考えることができるほど待ちました。どれほど待って死に、どれほど犠牲になったか分からないのに、なぜ来ないのですか? 待って、待って、疲れて、疲れて、すっかり待ち疲れて離れていき、最後の1人が残るときまで、天は待つのです。

 なぜですか? 一等賞をあげようとそのようにするのです。一等賞は、最後に2人いてはあげることができません。そうでしょう? 1人だけが残らなければなりません。そのように考えていく信仰者の生活というものは、誰かが分かってくれる分かってくれないが問題ではありません。統一教会の人たちが、「先生、私がこれこれこのようにしたのですが……」と言い、分かってほしいと弁明するのは、私の好みに合わないというのです。自己弁明をするために口をこのようにしていれば、「ほう、あの者は天がよく分かっていない」と思うのです。弁明は必要ないのです。統一教会の文先生が弁明しようとすれば、弁明することが本当に多いというのです。私が統一教会の教会員たちに切々と訴えようとすれば、訴えることがたくさんあります。しかし、弁明する必要がないというのです。一か所だけ分かってくれればよいのです。そうではないですか?

 愛する妻は、夫が分かってくれれば十分だというのです。息子が分かってくれなければどうだというのですか。「分かってほしい」と目をかっと見開き、少しでも損をするかと心配になり、おしりが地につかずに落ち着かないでいるのを見ると、そのような群れは、統一教会を利用するために入ってきた群れだというのです。

 ですから、先生が人を見れば、「ああ、あの人は何年ものだ。私が一発叩けば、間違いなく離れる群れだ」、そのように考えるときが多いのです。しかし、世の中にいるので、あらゆる階層の発展と秩序というものを考えるとき、それも必要です。木を見てみれば、虫に食われた木があります。その葉の半分を虫に食われた木を見て、「ああ、私は虫に食われた木の葉は嫌いだ」と言いながら、それをすべて燃やしてしまえば、その木は死んでしまうのです。新しい春になるときまで、虫が食わないその日を願って待たなければなりません。このように考えているというのです。それが皆さんに対する先生の心情です。

 皆さんを100%は信じません。また、皆さんが先生を100%信じなさいということではありません。信じるなら信じて、信じないなら信じるなというのです。しかし、皆さんに対して教えていることは、正しく教えてあげるのです。それは間違いありません。霊界に行っても先生を讒訴できません。「あなたにこのように教えてあげたか、教えてあげていないか?」と言えば、その口で「はい、教えてくれました」と言うでしょう。それで、「なぜそのようにしなかったのか?」と言えばどうするのですか? 私が責任追及されることはしません。それで先生は、今まで皆さんを指導しているのです。

(『文鮮明先生御言選集』 58-297~ 1972.6.25)

 

 

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