神に対する体恤と私たちの自覚(3/3)
 
 1972年6月25日
 

 絶対的に主体のために生きてこそ、体恤的な信仰圏内に入っていく

 
 主体や対象の関係において、絶対的に主体のために生きたり、対象のために生きる人は滅びません。主体と対象がなければ分かりませんが、あるなら滅びないのです。もし絶対的にために生きたのに、滅び得る場に行くということが起これば、神様は創造の神様なので、つくってでも成し遂げてくださいます。つくってでも成し遂げてくださるというのです。信仰者たちが、心配して見当違いな見方をしたり、利用しようと暴れまわったり……。そのような人たちは、遠からず滅びるようになります。自己弁明するのに口がぺらぺらしゃべる、そのような人たちは長続きしないというのです。
 
 皆さんが考えるときは、いつも「天が主体だ」と考えなければなりません。「私の目の主体は天だ。だから、私が見るとき、一人で見るのではなく、主体のために見なければ」と考えなければならないというのです。
 
 夫が妻に対しても、妻が夫に対しても、「あなたは私を本当に愛している?」と言ったとき、「愛しているが、この目一つだけは除いて、その他はすべて本当に愛している」と言えばうれしいですか? 目だけ除いて、それ以外は本当に愛していると言えば……。この一つの目が問題だというのです。これが問題です。それならうれしいという人がいますか?
 
 それでは、主体と対象の関係で、このような因縁を間違いなく分かったとすれば、全幅的にすべてのものが主体のために生きるものにならなければなりません。見ることもそうであり、聞くこともそうであり、また食べることもそうです。ご飯を食べるときも、「ああ、美味しい、ああ、美味しい」、このように食べるのは、自分のために食べることですが、主体のために食べれば、「本当にありがたいことだ」となるのです。
 
 「このような環境に私をつれてこられたので、きょうこのようなところでご飯を食べるのだな」と思えば、一人で食べるのではありません。それは主体のために食べることです。眠るのもそうです。「ああ、私が優れているからこのようにここで眠るのだ」、そうではないのです。「ああ、天が導き、滅びる運命で最後を迎えても恨みのない私が、きょうこのようになったのは、その滅びる運命を防ぐために天が何度も苦労した功があるからだ。本当に感謝だ」、そのように考えなければなりません。
 
 ですから、主体のための対象の立場は、不平があり得ないのです。不平があり得ますか? 不平は妄動です。破綻です。ですから、信仰の道は不平を許さないというのです。何を許さないのですか? 何ですか? 不平を許さないというのです。ですから、感謝だけがなければなりません。皆さんはそれを知らなければなりません。
 
 天はいつでも主体といらっしゃるので、主体と共に関係した運命をもち、それを離脱する生活の法度、生活の形態はあり得ないというのです。ですから、報告しなさいというのです。どこかに一人でいても、一人でいるのではありません。どこかに行って座っても、前後に天が来て共に座るのを感じるのです。そして、何かを鑑賞するようになれば、心でそれを感じるというのです。
 
 「ああ、お父様がこのすべての景色をご覧になってどのように感じられるだろうか? ソウル市をご覧になるとき、どのように感じられるだろうか?」、その歴史、その世界がそうだとすれば、そこに必ず関係を結んで入ってくるというのです。このような問題を中心として、いつでも皆さんは、天が主体であることを忘れてはいけないということをはっきりと知らなければなりません。そうでなければ、体恤的な信仰圏内に入っていくことができないのです。
 
 天理というものは、順序を正しく守るところで成立します。ですから、主体と対象の関係で、天は絶対的な主体だという立場に立たなければなりません。その主体を無視する人は対象になれません。自分が絶対的な主体の前に絶対的な対象になろうとするので絶対的に一つです。ですから、見て、聞いて、感じるすべてのことは、家庭に入って愛することまでも、すべて対象と主体の立場に立って、天のためにするのです。一切がそうなのです。そのような家庭は滅びません。
 
 主体と対象がよく与えてよく受ければ、何が起こるのですか? 何かが起こることは起こるのですが、よく与えてよく受けたのか、よく受けることができなかったのか、ということに比例してその結果が展開するのです。それで、統一教会で私が祝福してあげた祝福家庭に対して、「あなたたちの顔つきは、それぞれ思い思いの顔つきをしていますが、あなたたちの心情次第で天の福を受けることができる道が生じるのです」と言うのです。
 
 その父母のもとに生まれた子女がいれば、その子女を見て父母を知ることができます。どのくらい信仰に関心をもち、天がここに同調することができ、天が共に揺れ動く環境的条件を備えてきたのかということが、自分の息子、娘を通して証されるのです。恐ろしいことです。恐ろしいことだというのです。
 

 主体と対象の関係を生活で徹底化しなければならない

 
 さあ、皆さん、神様に対する体恤が必要でしょう? 体恤したいでしょう? それで、自分一人で出ていくなというのです。何かの問題と向き合うようになるとき……。先生が若いとき、修養する一つの表題がそれでした。すべてのことは相談して決定しなさい、天と共に相談して決定しなさいというのです。万事を相談して決定するのです。それが絶対に必要です。
 
 皆さんが手紙を書くとしても、これが主体と対象の関係から外れない立場に立って書かなければなりません。私たち統一教会の教会員たち、さらには未婚の男女たちはそうでなければなりません。最近の若い人たちは、ひたすらこの険悪な世の中の風潮に従い、なっていない者たちがいるというのです。手紙の一枚でも勝手に書くことはできないのです。
 
 皆さんたちがそのような生活をしてみてください。自分の考えでは、きょうはうまくいかないようであり、よくないように感じ、思いがけないことが起こるというのです。このようなことをよく見分け、それを皆さんの生活の軌道として生きていかなければなりません。私は、どのような生活をしているか分かります。すぐに分かるというのです。このようにも生きてみて、あのようにも生きてみたからです。
 
 先生が地方巡回に行くときのことです。ここでは「どこどこに行く」と言っておいて、電話をして不意に他のところに行ってしまうのです。それは電波と同じです。誘導弾と同じなのです。誘導弾は、引っ張り込むことができる何か鉄の塊さえあれば、引っ張られていくのと同じように、そのような作用が起こるというのです。ですから、天国に送ってくださいと考えてはいけません。天国に行く行かないというのは、統一教会の文先生にかかっているのではないというのです。分かりますか? 行く行かないというのは、だれにかかっているのですか? 皆さんにかかっているのです。
 
 体恤信仰において最も重要な要件が何ですか? 主体と対象の関係です。「神様はいつでも主体だ」と思いながら、私を愛される神様なので、私が深刻であれば深刻であるほど、神様は私のことを忘れることができない、傍観することができない、ここに共にいらっしゃる、ということを感じなければなりません。ですから、祈祷に先立ち、感謝できる生活形態が展開するようになるとき、そこは天が共にいらっしゃるのです。それは、最初は感じませんが、ある段階に入れば感じるようになるのです。
 
 冬と春の日を中心として見てみれば、冬と春がいつ変わったのか分かりますか? 冬が終われば春が始まるのですが、いつまでが冬でいつからが春だ、ということを分かる人がいますか? それを感じる人がいますか? 同じことです。いつが境界線なのか分からないので、いつも「このようになる。間違いなく冬が過ぎていけば春が来る」と知っているだけです。これと同じように、皆さんも「間違いなくこのようになる」と知っていなければなりません。知っていてこそ、「ああ、そのようになった」ということを感じるようになります。そうすれば、自分がどの段階に入ってきたということが分かるようになります。
 
 ですから、この主体と対象の関係を生活的な面で徹底化させなさいというのです。分かりますか? 教会で「このようにしよう、国のためにやろう」と言うとき、国のためにやろうというのは何ですか? それは、天が国に役事するところに同参しようということです。分かりますか?
 
 私たちの国に第三の解放が必要なこの時において、国を解放させるための天の願いがあるでしょう。私たちの願いもそれではないですか? 私たちの願いでしょう? 主体である天もその願いをもっており、私の願いも同じである以上、これを成就させるためには、国を解放させるためには、じっとしていてはいけないのです。
 
 解放されるためには、ありとあらゆることをしなければならないというのです。命を捧げなければならないなら、命も捧げなければなりません。それにもかかわらず、「主体は主体だが、私は違う」という者たちはサタンたちだというのです。一度そのようにやってみてください。統一教会の文先生の話が正しい限り、そうしていけば(解放も)遠くないのです。見ていてください。
 
 皆さん、統一教会に会社があれば、会社でもそうなのです。会社に責任をもった人たちが、み旨のために忠誠を尽くしても、不足さを感じなければならないにもかかわらず、教会の事業体にも足を踏み入れ、自分の事業もやろうとする人がいれば、その人の末路を見ていなさいというのです。うまくいく者がいれば、私の指を切ってください。そのようにしてうまくいくのなら、統一教会の文先生がすでにやっているというのです。二股をかけてうまくいくのか見ていてください。
 
 このあとに自分の子女たちの足が引き裂かれるのです。それは自分から現れます。ありったけ尽くしても不足なのに、それを分けて余計なことをしているのですか? そのようなことを私が見ても、何も言いません。そのような人たちを黙って見ているのです。テストケースです。「このようになる」と理解できるように話をしてあげて見ているのです。その公法は、今まで私が信仰生活をしていて間違いなかったのです。
 
 あとには、脱け出そうにも脱け出すことができず、切り抜けようにも切り抜けることができないかわいそうな境遇で、手を挙げてもう一度救ってほしいと天に訴えるということが起こります。それが自分の威信以上に誤ったときは、天が救いの手を広げることができません。恐ろしいことが起こるのです。統一教会の文先生はそれを知っているので、ひたすら追われて、追い出されても、この道を行くのです。
 

 統一教会を信じるか、逃げていくか、死ぬかしなければならない時が来るようになる

 
 私が今まで既成教会や世の中から数多くの迫害を受けてきたので、恨の多い人です。世の中で言えば、先生の性格は円満な性格ではありません。一度やると決めれば、足が折れようと、頭が割れようとやるのです。この上なく権威意識が強い人だというのです。自分の体面にこだわる剛直な人です。威信を失うことは、いくら殺されるとしてもできません。そのような性格があるのです。
 
 私の子どもたちを見てもそうです。一度我を張れば、以前のように父親が叱責することを知りながらも、すねて言い張っているのを見るとき、「やあ! どうしてあのように似たのか」と思うのです。似ているというのです。しかし、道理に叶っているというときは、いつそのようにしていたのかとさっと戻ってしまうというのです。先生にはそのような性格があります。道理に叶うときは、権威も威信もないのです。そこは、いつそうしていたのかと水平に戻ります。そのような何かがあるのです。今までそのような立場に立ち……。私がありとあらゆる……。怨讐と思えば許せないというのです。
 
 先生が若いときは、村でそれでも体格もそれなりで、すばしこかったのです。今は太っていますが、若いときはもじもじしてのろまではありませんでした。自分の自慢ではなく、事実がそうだったので話しているのです。私がいた村では、村から10里圏内で、私と相撲で勝った人は1人もいませんでした。ところが、ある人が現れました。この人は年齢が私より3歳上で、背丈も私より大きかったのです。この人を倒さなければならないのですが、力で見ても、年齢で見てもできないようになっていました。それで、一度相撲をしたのですが、負けたのです。3度やって2度負けました。それでもそれは負けたというのです。そのあとからは、ご飯も食べず、昼も夜もないというのです。
 
 私の家の畑の下にアカシアの木があったのですが、アカシアの木は本当に固いのです。皆さんの中で、田舎で育った人は分かるかもしれませんが、そのアカシアの木の皮を春の季節に剥がしておけば、ゆらゆらしているものを曲げても折れません。このように太いアカシアの木は、最初は曲げようにも曲げることができないのです。この皮を剥いで毎日相撲をするのです。夜通し……。こうして3ヵ月以内にその人を倒しました。そうしてからゆっくり眠ったのです。そのような性格です。それを見れば、神様もよく見込んだと思います。そのような粘り強い者を立てたので、今まで闘ってきたのです。統一教会の文先生は粘り強いのです。革のように丈夫ならとても丈夫で、粘り強いといえばとても粘り強いというのです。
 
 それで日本統治時代から日本人たちと闘ってきました。「打ちなさい! こいつ、私が正義を中心として宣誓し、誓った自分の口で白状するというのか? 打ちなさい、こいつ」というのです。そのときにある刑事がいたのですが、ソウルで名の通った人で、自分の手にかかれば屈しない者がいないという刑事でした。それでも先生は、「打ちなさい、こいつ! おまえが何者だというのか? 私は普通の者とは違う。こいつ、机の脚が四本まとめて折れて吹っ飛んでもびくともしない。打ちなさい、こいつ」というのです。先生の考えは違います。「私が正義の立場で闘うこの苦役の7倍以上、あなたたちの子孫に対して、世界の悪に対して打つことができるよい材料を収拾するようになるのだから、打ちなさい、こいつ」と考えたのです。考えが違います。そのようなことをしてきたというのです。
 
 今、大韓民国もそうです。統一教会に対して反対しなさいというのです。統一教会の文先生という人は、反対されたからといって後退する人ではありません。これからはそうです。統一教会を信じるか、逃げていくか、死ぬか、三つのうちの一つをしなければならないというのです。まだ時になっていないのでこうしていますが、その時を私がつくっているのです。このような闘いを今までしてきました。
 
 それで今は、私の命令であれば、何でもするという人たちが多いのです。復讐しようとすれば、すぐにでも復讐することができます。しかし、信仰の道は復讐では通じません。打たれて奪ってくる作戦なので、ひたすら……。既成教会がなぜあのようになったのですか? 統一教会を打ってあのようになりました。牧師たちがなぜ職業牧師になったのですか? 統一教会の文先生に反対してそのようになったのです。統一教会は打たれますが、滅びません。打てば打つほど、打つその鞭を通して彼らの福がすべて流れてくるのです。賠償金がどんどん加重されます。分かりますか?
 
 皆さんと私を比較してみるとき、皆さんは口を広げなければならず、私は……。競争するとき、お菓子をぶら下げておいてする競争があるでしょう? ちょうどそのようなものです。私はお菓子をつくってぶら下げ、こうしておかなければなりません。(行動で表現される)私が持ち上げれば顔を上げなければならず、私が下げれば顔を下げなければならない、このようなときが遠くない将来に訪れるでしょう。そこに必要なお金は、神様が文先生のところにもってきてくださらなければならないというのが先生の信念です。
 
 私が必要だと思うときは、先生の思いが空中に上がっていきます。すると、それができるのです。いくら皆さんが「衆口ふさぎ難し」(しゅうこうふさぎがたし:衆人の口をふさぐのは難しいこと)で騒いだとしても、「それはできる」と思えばできるのです。そのような意味で皆さんとは少し違います。ですから、小言を言うなというのです。先生のみ言を聞いて損をすることはないということです。何の話か分かりますか?(「はい」)。
 
 最後まで行くことができなければ損害です。これは、朝からなぜ布団を敷くのかということです。そうではないですか? どろぼうが居間に居座っているのに、そこで布団を敷いて愛する人を待つのですか? それは滅びる行いです。自分の愛する夫を怨讐の刃物で刺してしまう女性だというのです。愛する人を盗賊に奪われる人です。分かりますか? やるべきことをすべてやり、疲れ果てて倒れたあとに、さっと他の部屋に行って自分の愛する人と会おうとするのが知恵深い人だと考えるのです。何の話か分かりますか?
 
 世の中が騒ごうと騒ぐまいと、騒ぎ疲れて落ちていくのです。今ではもう、統一教会に反対して、すっかり疲れて落ちているというのです。新聞が騒ぐなら騒ぎ、反対するならしなさいというのです。いくらやっても統一教会の文先生はびくともしません。新聞記者たちにも、私は一度も会ったことがありません。今回、金浦空港に到着するときも、「ちょっと会おう」と言ってきましたが、何のために会うのですか。「会う時間がない」と言うと、「ああ、そうか」と言いました。それが伝統になっているのです。
 
 さあ、そのような立場で来ましたが、私ががむしゃらにやればがむしゃらにやり、怨讐に対して復讐しようとすれば、だれよりも恐ろしい復讐をしていた人です。そのような人が、このように臆病者の振る舞いができますか? 非難されても黙っていて、ありとあらゆる冷遇を受けてもじっとして……。最近もそうです。今私たち統一教会が使う経費は、統一教会のためだけに使っていないのです。大学教授を日本から招請してくるとか……。すべて国のために使うのです。これからは国会議員たちにまでもそのようなことをしようと考えています。なぜですか? 自民党の国会議員たちを集めてアジアの国会議員たちを糾合するためには、それを先にしなければならないのではないかというのです。国ができないことを私たちがやることが、国のための忠の道ではないかというのです。
 

 天運に対して備えようとするため、常に死、苦痛、迫害がつきまとう

 
 最近になって、日本の政府が私たち統一教会に対して相当な関心をもっています。今から10数年前に、先生が宣教師を船に乗せて送り出しました。大韓民国の法治国家に所属する1人の国民の立場でそのようにさせたのです。なぜそのようにするのですか? 国家の運命は法を超越します。天運というものは、人間たちが制定した憲法を越えた場から訪れてきているのです。
 
 私は天運を知っているので、そこに対して備えることができる行いをしようとするため、いつも死が重なり合い、苦痛が重なり合い、迫害が重なり合うのではないですか? ついていこうとすれば、何らかの迫害がないだろうかというのです。人が喜ぶとおりにすれば、どうして迫害があるでしょうか。そのときはぶつかります。遮るときは遮るのです。ですから、統一教会の教会員たちはこのような道を行くというのです。
 
 統一教会のある者たちは、「ああ、統一教会のみ言はよいが、苦労が多くて行けない」と言います。そのような者たちは来るなというのです。来たら、正面からサッカーボールを蹴飛ばすように蹴飛ばしたいというのが先生の心です。そのような人は、国を利用する者です。統一教会を利用する者です。そのような群れは来るなというのです。そのような人たちが統一教会に来なくても、少しだけ見ていなさい。人の雪崩が起きます。そのような群れが乞食のように来なくても、ひと言だけ語れば、千里馬のように千里を駆けつけてくる人たちが無尽蔵に訪れます。
 
 私が1人でいても、そのようにできることを知っているので、このようにしているのです。皆さんもそうです。ここに残っている皆さんも……。皆さん自身が、あらゆることを充当できる使命を十分に果たしたと考える人がいれば、それは間違っています。そのような意味では、まだ先生についていかなければなりません。
 
 そのような受難の道を克服してきたのは何のためですか? 大韓民国が天の前に負った負債が大きいことを知っているからです。滅びて倒れるこの民族であるにもかかわらず、天は数千年間、その運勢を大事に守り、この民族に与えるために訪ねてきたのではないですか? それを受け継ぐために、数千年の歴史時代の受難の道で、露のように消えた多くの魂があるのではないですか? ですから、彼らが同情してくれる行軍の隊列を備え、彼が歓送できる勝利的結果を備えるときに、天地が喜べる一日があるのであって、そうではなく、一方は苦労し、一方は何の報酬も、何の功もないのにそのまま行かせれば、天が讒訴されるのです。そのようにはできないので、最後まで皆さんを苦労させていかなければなりません。
 
 何人残るか見てみようということです。若い人たちはみな流れていってしまいます。しかし、彼らでなくても天のみ旨ができます。今後、霊界が動員されるでしょう。今霊界が動員されているのです。このようなことを皆さんは知らなければなりません。
 
 私たちは歴史を創建する人たちです。時代を革新する人たちです。未来の保証者にならなければなりません。現実の信念の確証者にならなければならないのです。実践の主体性を備え、民族の前に、世界の前に堂々と立ち上がるべき群れが私たちではなかったのですか? それにもかかわらず、ぼろぼろの風呂敷をかかえてしきりにもがきながら行く、このような者たちを見れば……。それで、今ではもう私は何も話したくないというのです。
 
 これから先生は、皆さんと頻繁に会うことはしません。私が果たすべき責任はすべて果たしました。皆さんに対して果たすべき責任は果たしたのです。どの面から見ても、私の責任はすべて果たしたというのです。それで、今ではもうそのようなときが近づいてきたと同時に、皆さんが知らなければならないことは、天に対する体恤をもう一度再現させなければならないということです。そうしなければ、皆さんが世界的に行くことができる道はないのではないかというのです。
 
 それでは、これをどこから出発するのですか? 「私は絶対的な主体である天のためにいる。私の感情の一切、私の存在意識全体がそれによらなければ存在し得ない」という信念をもたなければなりません。「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26・39)と祈られたイエス様も、その基準を中心として行かれた方ではないですか? 皆さんの思いでは通じないというのです。
 
 ある人たちを見ると、「統一教会に入っていって、ただ適当にやろう、適当に…」、それは詐欺師たちだというのです。適当に行ってもいいのなら、統一教会の文先生が適当に行ったならどれほどよいでしょうか? 今回の3次世界路程でも深刻だったというのです。ついてきた人たちはどのように考えたか分かりませんが、私は深刻だったのです。「神様、歴史時代にあなたが先鋒に立つべきですが、東洋のかわいそうな韓民族を代表する1人の男が先頭に立ちました」、それは歴史的な瞬間なのです。
 
 ですから、皆さんは分かりませんが、そのような時点を中心として、国家の運勢や世界の運勢は一つの頂上の峠を越え、新しい方向を定めて天が行く道をより分けてあげるのです。それは死ぬか生きるかという問題です。信仰の道ではそのような生活が連続するのです。
 
 イスラエル民族を導いていくときに、先頭に立ったモーセがどれほど深刻だったでしょうか? 自分が一歩間違えば、60万の大群が倒れるのです。それは深刻な立場です。統一教会の文先生という人も、体は一つですが、行くべき公的な道をより分けていかなければならない、このような代表的な立場に立ったとすれば、その一歩が恐ろしいのです。寝ても覚めてもそのために……。ですから、歴史はそのような面を通して収拾されることを皆さんは知らなければなりません。
 
 皆さんはどれほど緊張してみましたか? どれほど国を愛してみましたか? どれほど世界のために生きてみたかというのです。さあ、包みを開いて調べてみましょう。最近来て感じることは、韓国にいる統一教会の教会員たちに対して、しきりに心が離れていきます。通り過ぎていくのです。これはよくない現象です。
 
 先生は無情な人ではありません。自分の利益のために生きる人ではないのです。こうであっては大韓民国の運勢がよくないので、私が血涙を流すことがあっても、身もだえしながらでもこれをまとめて抱きかかえ、最後の決着を見なければならない因縁がここに残っているはずですが……。そのような因縁が希薄になり、天はしきりに移っていこうとするのです。これは尋常でない兆候です。
 

 負債を負わせる立場で体恤することができる

 
 皆さん、ここにいる幹部たちは覚醒しなければならないというのです。皆さんがご飯を食べて暮らす、その立場が恐ろしい立場なのです。皆さんの息子、娘が学生かばんをもって出入りするのを見るとき、恐ろしい立場です。負債を負っているのか、負債を負わせているのかということを、いつても正しく悟らなければなりません。負債を負う立場は同情しないのです。同情してくれません。負債を負わせる立場を同情するのです。
 
 統一産業もどの会社もすべて同じです。一銭のお金というものが恐ろしいのです。ある人と会ったのですが、彼が「団体がこのくらいなら車が必要なのですが、何々車を買ってください」と言うとき、「そうか、買ってあげよう」と言いました。車を乗り回すのが自慢ですか? 車を乗り回すのが何だというのですか? 車を乗り回すのはうれしいかもしれませんが、その裏でかかる経費はどこから出てくるのですか? そこに比例する自分の心的態度が問題です。負債を負う立場ではないのかというのです。負債を負う立場なので問題なのです。負債を負う立場では天も同情しないというのです。
 
 先生は今までそうです。自分に対しては考えませんでした。ここにいるオモニもよく知っていますが、私は、背広がどうなった、しわがどうなった、これを直そう、このような人ではないというのです。忠臣は整った服を着たからといって忠臣になるのではありません。裕福に暮らしているからといって忠臣になるのではないのです。整った服を着たからといって孝子ではありません。かえって着ることもできず、食べることもできないところで、歴史が動かすことのできない心情の防御線が設定されるのです。これが必要です。
 
 皆さんが最近活動するとき、すぐに「本部で助けてくれないと」と言いますが、この思想は乞食の思想です。負債を負う思想なのです。ですから、先生自身は、今まで一生の間、負債を負うまいとしたのです。私が恩恵を受ければ返さなければならないのであって、それを返さなければ、食事もできない人だというのです。世話になるために生まれた人ではありません。皆さんもこのような生活を徹底しなければなりません。それはなぜですか? その家の威信が立つのです。天の国の威信が立つというのです。そうでなければ、天の伝統の威信が立ちません。
 
 ですから、天のために生き、主体のために生きる思いが心にしみわたるようになるとき、その主体は現実的に現れることのできない主体であるがゆえに、それを相対的な世界でこのようにしなければならないことは間違いないのです。これが信仰生活です。そのような人は、どこに行っても歓迎されます。損害を与える人は、どこに行っても排斥され、利益を与える人は歓迎されるというのです。
 
 統一教会は今までそうです。世の中は愚かな統一教会と考え、世の中を滅ぼす統一教会と考えていましたが、そうではないという立場に入っていきました。なぜですか? 世の中に対して私たちが損害を与えたことがないからです。このような諸般の問題、主体と対象の関係の正常な実現をどのように適応させるのかという問題を中心として、皆さんは努力しなければなりません。そのようにしなければ、体恤というものは来ないのです。
 
 文章を書くときも、一人でただ書くよりも、「この文章はだれのために書く。愛する天のお父様のために書く。愛する食口たちのために書く」というときに、どれほど意義があるかというのです。「愛する未来の国を支援するために私が文章を書くのではないか? 私が夜通し仕事をして、その日の朝を迎えて希望の心をもち、きょうこの時間、この夜を徹することによって所願成就できる一瞬間、私がその条件だけでも立てることができる一日になるのではないか」と考えるとき、夜を徹する日が疲労の日ではなく、希望を促進させることのできる刺激的な時間として受け入れることができるというのです。
 
 そのようになるとき、神様も人と同じです。神様が本当にそうであればです。神様のために公的な立場に立ち、疲れて倒れる人がいれば、天がそれを知らないと言うでしょうか? ですから、孝子は父母を泣かせるのです。忠臣は国王を泣かせるのです。烈女は夫を泣かせるのです。力で力を出させるのではありません。過去の日を振り返ってみるときに、自動的に完全に包囲され、自分のあらゆる事情をありのままに告げることができる能動的な力をもつのが孝の道であり、忠の道ではないかというのです。皆さんはこれを知らなければなりません。
 
 ですから、父母は孝子を見ては、隠れて涙を流します。千のものを与えても不足なことを感じ、与えながらも恥ずかしさを感じるのが父母の心であることを皆さんは知らなければなりません。与えて誇る心ではなく、与えても恥ずかしさを感じるのです。そのような父母の心を知らなければなりません。その心の前には、何でも与えざるを得ない方であるがゆえに、すべてを与えても誇ることができず、もっと与えたいと思うのが父母の心であることを知らなければなりません。
 
 そのような父母を主体として侍るようになれば、その人は不幸な人ではないというのです。ですから、皆さんが生活面でお父様が、天が涙を流すことができるようにしなければなりません。自分一代において、天が自分と共に痛哭した事実があるというとき、そのような人は滅びません。孝子を前にして、孝子のために涙を流す父母は不幸な父母ではないのです。幸福な父母です。その涙は悲しみの涙ではなく、希望の涙であり、喜悦の涙であり、感謝の涙ではないかというのです。
 

 天を主体として自覚し、世界を覚醒させる運動

 
 皆さんが、復帰路程で涙を流してきた天の前に、そのようにできる息子の姿をもち、そのようにできる忠臣の姿で現れることができれば、それ以上の栄光がどこにあるでしょうか? これを望みとして直線的な路程を追求していこうというのが、今日の統一教会の伝統的思想であることを皆さんは知らなければなりません。
 
 皆さん、今そうではないですか? 現在、私たちの国が危急な立場にいます。今後の大韓民国がどのようになるのか、簡単な問題ではないというのです。最近、先生が考えることは、この国のために生きることです。私は、この国のために多くの涙を流したのです。どの愛国者にも劣らず血涙を流してきました。「お父様、私が働いてきたこの国を、あなたはどのようにお考えですか?」と……。見てください。今、三面が包囲されています。そのような立場で霊感として来る答えが何かというと、「あなたがやらなければならないのではないか、国を愛する人が責任をもたなければならないのではないか」ということです。
 
 今回、世界を歴訪しながらも同じです。めちゃくちゃになり、雑巾の切れ端のようになった世界の頂上を見つめながら、「お父様、この世界をどのようにしなければなりませんか?」と言うと、「知る者がやらなければならないのではないか」と言われるのです。
 
 そのような立場で統一教会の思想から見るとき、国のために生きるのが忠の道か、世界のために生きるのが忠の道か、天を中心として見てみるとき、天は万国の大王でいらっしゃるのではないですか? ですから、世界のために生きるのが忠の道なのです。ですから、悲惨でかわいそうな大韓民国にいる統一教会の教会員たちを犠牲にさせてでも、世界を生かすために旗を掲げて進まなければならないのではないですか? それが先生の考えです。
 
 それでは、大韓民国に対して私が責任を果たしたでしょうか? 最近はそれを考えるのです。大韓民国に対して、私としてする責任を果たしたのかというと、二つのことができませんでした。それは皆さんには言いません。二つのことができなかったのです。それは簡単な問題です。一日で終わる問題です。その他のことはすべて責任を果たしました。民族を通して見ても、私は恥ずかしいことがありません。どの忠臣、烈士たちを見ても、私は恥ずかしいことがありません。天に対しても恥ずかしいことがありません。また、あなたが行く道に対しては、間違いなくそうだという天の公証を受けています。それは、ミスター文個人の決定ではないというのです。
 
 それでは、世界のために見てみるときはどうですか? 今から出発だとうのです。今から世界の隊列で歩むことができる統一教会の群れが、この国内にどれくらいいますか? これを考えるとき、子どもたちのことを考え、他のことを考える人たちは、すべて後進にしかなれません。そのように考えるのです。
 
 国家的に神に対する体恤をして、新しい自覚をして、世界を新たに覚醒させることができる運動をするためにあったのが、統一教会が受難の道を克服してきた路程ではななかったのですか? ですから、今になって皆さんの疲れた顔を見てみると、「天がいつ私と共にあったのか」と悲しみでいっぱいの顔をしているというのです。もう一度大きなことをやろうとするなら、これはすべて……。
 
 仕事はこれからです。これからだというのです。神に対する体恤と私たちの自覚というものは、時が近づいてくれば近づいてくるほど、小さくなるのではなく大きくなります。そのようになれば、することが簡単になるのではなく、より難しく、より複雑になります。皆さん、工場も精密で大きな機械をつくる工場は、段取りが多くて複雑です。単純ではありません。単純であることを願うのは、愚かな判断です。私たち統一教会がやることは多いのです。
 
 ですから、自分がいる部署で新しい自覚圏を拡大させ、私でなければならないという、天が保証できる人たちがいないので、私たちでなければならないという自覚をしなければなりません。私たちでなければならないという自覚をもった人として、自分だけの自覚ではなく、天を主体として侍った立場で自覚し、体恤的な環境圏と生活圏と時代的な権限を備えなければなりません。そして、皆さんが新しい目的意識に燃えて進んでいくところで、神様のみ旨は成し遂げられることを、皆さんは肝に銘じなければなりません。
 
 ですから、天は私がいなければならないというこのような自覚よりも、そのような体恤の環境を皆さんが備えなければなりません。体恤しなければならないのです。感じなければなりません。私がやらなければこのようになるということを感じなければなりません。そのようにしようとすれば、遠いところにいてはいけないのです。いつでも主体と対象の関係で接し、見て、聞いて、食べて、寝てという一切の生活は、すべて1人でするのではなく、主体と共に、主体の目的のためにする、ということを表面化させて感じなければなりません。
 
 このようなことを感じるところで、天が共にあるところで新しい自覚をして世界に向かっていくとき、はじめてそこから天のみ旨が成し遂げられることを、皆さんが理解してくれることを願います。
(『文鮮明先生御言選集』 58-309~ 1972.6.25)