今回は、神の実在性について文鮮明先生がどのように語られているのかをご紹介します。
上の『原理原本』の一節にあるように、神自体の存在について先に考えるより、まず最も近い存在である自分自身について考えてみるべきであるというのが文鮮明先生の観点です。
その上で、文鮮明先生は、内的には人間の良心作用、そして外的には人間の人体構造から神の実在性を説明されています。
最初に、『原理講論』が提示する神の実在性を紹介し、その次に文鮮明先生のみ言を紹介します。
1.神の実在性‐『原理講論』が提示する三つの観点
文鮮明先生によって解明された「統一原理」が提示する神観は、相対性と数理(数的原理)性の両面性を備えた神です。
相対性を備えた神は、神の中で主体である性相と対象である形状が心情を中心として授受作用することによって「愛の神」として顕現されます。
そして、数理性を備えた神は、12数、4数、21数、40数といった数理性による秩序をもって被造世界を創造された「科学の神」を意味しています。被造世界の人間も数理性によって創造されたため、その歴史も数理的に展開することは言うまでもありません。
したがって、『原理講論』では、まず性相と形状の二性性相、そして数理性に基づく歴史の同時性の観点から神の実在性を提示しています。
(1)性相と形状の二性性相から見た神の実在性
今日の科学によると、原子を構成している素粒子は、すべてエネルギーから成り立っているという。それゆえ、そのエネルギーが素粒子を形成するためには、必ずそのエネルギー自体の中にも、素粒子形成の目的を指向する性相的な部分がなければならないということになる。
更に一歩進んで、このように性相と形状とを備えているそのエネルギーを存在せしめることによって、あらゆる存在界の究極的な原因となるところのある存在を我々は追求せざるを得なくなるのである。この存在は、まさしく、あらゆる存在の第一原因として、これらすべてのものの主体となる性相と形状とを備えていなければならない。存在界のこのような第一原因を我々は神と呼び、この主体的な性相と形状のことを、神の本性相と本形状というのである。(『原理講論』p45~46)
(2)数理(数的原理)性に基づく歴史の同時性による神の実在性
人類歴史が、神の創造目的を完成した世界に復帰していく摂理歴史であるということが事実であるならば、かくのごとくあらゆる法則の主人であられる神が、このように長い復帰摂理の期間を、何らの計画もなしに無秩序にこの歴史を摂理なさるはずがない。それゆえ、人類の罪悪歴史がいかに出発し、いかなる公式的な摂理過程を経、また、いかなるかたちで終結し、いかなる世界に入るかを知るということは、我々にとって重要な問題とならざるを得ないのである。
それゆえ、この新しい真理は、これらの根本問題を、一つ残らず明白に解いてくれるものでなければならない。これらの問題が明確に解明されれば、我々は歴史を計画し導いてこられた何らかの主体、すなわち、神がいまし給うということを、どうしても否定することはできなくなるのである。(『原理講論』p35)
上記の第一、第二、両イスラエルの歴史を中心として、同時性をもって展開せられた復帰摂理時代と、復帰摂理延長時代の内容をなしている各時代の性格を対照してみることによって、事実上、人類歴史は、生きて働いておられる神のみ手による、一貫した公式的な摂理によってつくられてきたということを、一層明白に理解することができるであろう。(『原理講論』p467)
さらに、『原理講論』では、良心作用から見た神の実在性についても、次のように説明しています。
(3)良心作用から見た神の実在性
古今東西を問わず、いくら悪い人間であっても、正しいことのために生きようとするその良心の力だけは、はっきりとその内部で作用している。このような力は、だれも遮ることができないものであって、自分でも知らない間に強力な作用をなすものであるから、悪を行うときには、直ちに良心の呵責を受けるようになるのである。もしも、堕落人間にこのような良心の作用がないとすれば、神の復帰摂理は不可能である。
では、このような良心作用の力はいかにして生じるのであろうか。あらゆる力が授受作用によってのみ生じることができるのだとすれば、良心もやはり独自的にその作用の力を起こすことはできない。すなわち、良心もまた、ある主体に対する対象として立ち、その主体と相対基準を造成して授受作用をするからこそ、その力が発揮されるのである。我々は、この良心の主体を神と呼ぶのである。(『原理講論』p52)
このように『原理講論』では、以上の三つの原理的観点、すなわち「性相と形状の二性性相」、「摂理的同時性の歴史」、「良心作用の力」から神の実在性を論じています。
【参考記事】
「統一原理」が提示する神の存在証明方法【前編】
2.文鮮明先生のみ言に学ぶ神の実在性
文鮮明先生は、神の実在性について、特に良心作用と人間の人体構造(顔など)の観点から多く論じておられます。
最初に神の実在を解明することの重要性について語られたみ言を紹介し、次に良心作用と人間の人体構造から神の実在性について語られたみ言を紹介します。
(1)神の実在解明こそ最も重要かつ一番の中心問題
世界の問題を解決するにおいて、一番の中心問題とは何でしょうか? 神はいるのかいないのかという問題をはっきりと解明することが、何よりも重要な問題であると見るのです。もし、神様がいることを全人類が分かるようになれば、神様のみ旨がどのようなところを指向しているかがはっきりと分かるようになり、その指向するみ旨が分かるようになるときには、その世界はそれこそ一つの世界であり、平和の世界であり、理想の世界であることは間違いないでしょう。
神様がいることさえ分かれば、共産世界も民主世界も、あらゆる問題が解決されます。神様がいらっしゃることが分かり、その神様のみ旨が分かる日には、人類はその神様と共に、そのみ旨に従っていくまいとしてもいかざるを得ないことは当然のことです。(『文鮮明先生御言選集』 56-128 1972.5.14)
人生において最も問題になることとは何かというと、まず神様がいるのかいないのか、ということです。ですから、罪人の中で最も大きな罪人とはどのような人かというと、神様がいるにもかかわらず「いない」と言う人です。例えば、父母が元気に生きているのに、子女が「父と母はいない」と言えば、その子女を孝行者と言うでしょうか、不孝者と言うでしょうか。不孝者と言います。
それでは、神様がいらっしゃるにもかかわらず「いない」と言う人は、どうなるでしょうか。そのような人は、みな滅びてしまうのです。ですから、存在する神様を「いない」と言うこと以上に大きな罪はありません。「神は死んだ」と言う人たちがいますが、これ以上に大きな罪はないというのです。(『文鮮明先生御言選集』 39-167 1971.1.10)
皆さんが勝共前線で働くとき、最も重要なことは何ですか? もちろん皆さんの決心も必要ですが、何よりも神がいるのかということです。神は本当にいるのかというのです。共産党は「神はいない」と言いますが、私たちはなぜ「神はいる」と言うのでしょうか? 神がいることをはっきりと感じなければ、共産党を打倒できる信念が生じないのです。
共産党が言うには、「物質が先だ」と言います。しかし、今まであらゆる哲学者たちは、「思惟や、あるいは何かの思いや思考というものが先だ」と言います。このような闘いをしてきました。結局、物質が先だという観念を中心として、世界的な経済思想体制をつくっていこうというのが共産主義です。ですから、このような観点において、神がいるという確定的な信念というものが最も大事なのです。(『文鮮明先生御言選集』 113-69 1981.4.26)
(2)良心作用から見た神の実在性
この宇宙は、存在世界であることを私たちは知っています。それは誰もが認めています。存在するためには、力がなければならないことを知っています。その力が存在するためには、力が先か、存在が先かということが問題です。力がなければ、存在もありません。ところが、その力というものは、作用をせずには現れないのです。力がある前に、作用という現象が必ず必要です。
また、作用をするためには、そこには必ず先行条件として、主体と対象が絶対に必要だということを否定できません。この主体と対象が授受するところから作用が始まり、作用が始まることによって力が存続するのです。言い換えれば、力が存在する前になければならないものとは何かというと、主体と対象だというのです。
主体と対象は互いに異なる立場にあるので、これらが作用をするためには、互いに相手の内容に合うようにしなければならないのです。そのようにしなければ作用することができません。ですから、主体と対象が作用するためには、主体の目的と対象の目的が一致できる基点がなければならないのです。そうでなければ作用しないというのです。
私たちが何かの用事で外に出ていくとき、自分が損をするために出ていく人はいないでしょう。ニューヨークのタイムズ・スクエアを大勢の人々が往来していますが、その人々が家から出るとき、「私はきょう、一ドルでも損をするために家から出ていく」といって出てきた人は一人もいないはずです。出てくる時は、必ず自分に利益になることを望み、自分にプラスになる何かを望んで出発するのです。
皆さんが友人たちに会って交流するとき、お互いがマイナスになり、今よりも悪くなりかねない立場では、絶対に一つになりません。甲と乙の二人が一つになるには、今よりプラスになる共通の目的があるからこそ、そこで作用が起こり、一つになるということが起こるのです。このように見るとき、力が作用するには、二重目的、すなわち主体と対象が互いの目的にプラスになるものがなければ、一つになることもなく、作用もしないという結論を下すことができます。
原子を例に挙げれば、原子は陽子を中心として電子が取り囲んでいます。それもやはり、二つの目的を結合して与え合う立場にあるので、一つの原子型を形成するのです。ですから、電子の目的と陽子の目的を兼ねた目的を中心として一つになっているというのです。
大きく見れば、神様も存在者です。神様が存在するならば、実存体としていらっしゃるのです。そうだとすれば、神様もやはり主体と対象の関係になっていて、完全に与え合うことができる二重目的を中心として、結合した位置に立たなければ、永遠に存在することはできません。それは、神様も、結局は主体性と対象性が一つになり、お一人の神様としていらっしゃるということです。
聖書の創世記1章27節を見れば、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」という聖句があります。それを帰納的に追究してみれば、神様は、一人の男性と一人の女性を合わせた方だという結論が出てきます。
そのような神様が一人でいてはいけないので、対象を必要とされ、そのために、この世界を創造せざるを得なかったというのです。それで、造られたのが一人の男性であり、一人の女性です。一人の人間について見ても、人間には心と体があります。この心と体が与え合うのです。もしこれができなくなると、苦痛を感じるようになります。どちらか一方が傾くというのです。しかし、これが一つになって一定の水準に達すれば喜びがあるのです。これが完全に一つになった男性がいるとすれば、彼は完全な男性です。(『文鮮明先生御言選集』 52-301~303 1972.2.3)
存在が生じるところでは、目的なしに生じることはありません。目的がなくて生じることはないのです。では、なぜ方向があるのかといえば、目的があるからです。ですから、目的があるところに方向があり、目的のないところに方向はないという結論が出るのです。
皆さんはけさ、明け方にベルベディアに向かって来たのですが、なぜベルベディアに来たのでしょうか?「ただその方向に行くんだ」、そのように思ったのですか? 先生のみ言を聞くという目的があったために、ベルベディアに訪ねてきたのです。方向があるということは目的があるからだという、そのような結論が出てくるというのです。
それでは、アメーバに自分以上の力を投入させる能力と、方向をもつことができる能力、そして目的を提示する能力があるのかないのかというのです。どうですか?(「ありません」)。不可能です。論理に合わないそのような話はやめなさいというのです。そして、共産党は弁証法的な発展を語ります。やめなさいというのです! そのような目的のない方向を提示する弁証法的論理は、あり得ないということです。目的観がなければ、その存在は完全に壊れます。それを尋ねてみると誰も分かりません。それ自体が目的や方向をもつことはできないため、それは力が加入された存在であり、投入された存在だというのです。このような問題が起こります。
このような観点から見るとき、動機的存在がいるという理論は妥当な理論であり、そのような理論を立てることは科学的だというのです。科学的とは何ですか? 仮説的なことが現実的事実と一致するようになるとき、科学的だと言うのです。ですから、「力が自然と出てくる」、それではだめです。それは科学的ではありません。力が出てくるには、火をたくとか、注射を打つとか、そのようなことがなければなりません。そうすれば必要な要件が備わるのです。私がこのようにすると、これはこのようになるということです。
磁石を南に回せば北に向かいます。その方向性を誰がもっているのかというのです。なぜそのようになるのですか? 目的とする対象がそこにあるからです。それ自体がそのようにできますか? 物質自体が、自然自体がそのような能動的な主体性をもつことができるのでしょうか? できないということです。できません。科学的であるというのは、理論に合わなければなりません。理論は仮説と証明と現実が一致しなければならないのです。同じ道理です。
そのように見るとき、神様はこの宇宙の原因的な存在だというのです。このようなあらゆる作用の原因的な存在であり、このような力を加入する原因的な存在であり、方向を提示する原因的な存在であり、目的を提示する原因的な存在がいるということは不可避の結論です。私たちはその方を「人格的な神」と言うのです。「人格的な神」です。それはなぜそのように言うのかというと、必ず動機を中心に方向をもって目的を提示するがゆえに、それが一つの確実で間違いない立場なので「人格的な神」と言うのです。ですから、原因を通して方向を経て目的の世界に進んでいきます。そのような観点から見るとき、このような全体の原因的な存在が神様です。(『文鮮明先生御言選集』 89-72 1976.7.11)
人間には、否定しようとしても否定できない良心というものがあります。良心があることを否定する人はいません。堕落した人間たちは、神様がいるのかいないのか分かっていませんが、もし神様がいるという立場で考えてみるとき、その神様は創造主であり、その神様が造った人間は被造物です。そうだとすれば、そのような被造物と創造主が一つになることができ、一つの共同目的を提示し得る何かがなければなりません。
神様が人間を造ったとすれば、その造られた人間が神様の望む創造目的と一致し得る点に到達できる、何かの力の作用体を造らなければ人間は造れないという結論を下すことができます。神様は絶対者なので、絶対者である神様と被造物である私たち人間が一つになれる第一の基盤、接触できる第一の土台が必ずなければならないのです。
ですから神様は、人間に対してその目的とする結果に到達できるように、私たち人間の中で作用できる何かを存続させなければなりません。それがなければ、神様が願う第三の目的基準に到達し、神様も喜び、人間も喜べる位置を発見できないことは当然の道理です。
絶対的な神様が私たち人間を造るとき、人間を創造した創造目的の基準と、造られた人間として行くべき目的の基準が、それぞれ異なることはあり得ません。これが必ず一つになり得るところで、神様も喜ぶことができるのであり、人間も喜ぶことができるのです。そのように考えるとき、人間の中で絶対的な神様に代わり、それを求めて上がっていける何かの作用がなければなりません。その作用がなければ到達できないので、それを望む力がなければなりません。私を導き、私を刺激して引っ張り、押してくれる力がなければならないのです。その力が何かというと、皆さんが否定できない良心だというのです。
良心が作用するとき、必ずどのように作用するかというと、高まることを願って作用します。良心は、今現在の自分より良くなれ、良くなれと催促するのです。この作用だけは否定できません。良心は、現在の自分よりも高まれと促すのであって、現在の自分よりも低くなれと自分自身に促す、そのような作用はしません。きょうよりもあす、あすよりもあさってがより良くなるように、今年よりも来年、あるいは10代よりも20代、20代よりも30代、行けば行くほど、さらに高く、さらに価値のある自分を形成しなさいと促す、その力が良心作用です。
それでは、これがなぜこのように作用するのでしょうか? 先ほど言ったように、存在するためには必ず力がなければならず、力が形成されるためには作用がなければならず、作用をするためには主体と対象がなければならないと言いました。これが存在のための一つの原則です。このように見るとき、私たちの良心は、間違いなく作用をしています。良心は、幼いときから老いて死ぬときまで、一生の間、作用するのです。それでは、良心は単独で作用するのか、そうでなければ良心が作用できる他の相対的存在があるのか、これを今まで人間たちは考えませんでした。
作用するには、必ず主体と対象の関係が形成されていなければなりません。そうでなければ作用できません。電気を見るとプラスとマイナスがありますが、それが互いに連結しなければ決して作用しません。
これと同じように、私たちには良心があることを誰も否定できず、良心が作用を継続していることも否定できません。そして、良心が作用を継続するには、必ず主体と対象の関係がなければならないのですが、その主体と対象の関係がはっきりと分かっていないのです。良心があることは分かっていますが、作用しているその何か、主体となるその何かがなければ、作用を継続することはできません。ですから、良心自体について、その良心が主体か対象かということを考えてみるとき、私たち人間の良心は、あくまでも対象的な存在であって、主体的な存在ではないというのです。
それゆえ、作用の原則に従って求めていけば、必ず作用せざるを得ない一つの主体がなければなりません。その主体と対象は、互いに損害が発生し、マイナスになることを望んで作用するのではなく、よりプラスになり得る、より良くなることに向かって作用するのです。ですから、皆さんの良心作用は、より良くなり得ること、より大きいこと、より価値のあること、より世界的なことに向かって作用しています。したがって、良心作用は単独で働くものではなく、主体と対象の関係における共同目的点を願って作用すると結論を下すことができるのです。(『文鮮明先生御言選集』 56-134~136 1972.5.14)
例えば、兄弟同士で楽しく遊んでいて、母親が市場に行き、好きなお菓子を買ってきて兄と弟に分けてあげたとしましょう。それで、兄はすべて食べ、弟は残しておいてあとで食べようと、お菓子の袋をさっと隠しておきました。そして、夜になって眠りにつきました。寝ていた兄は早朝に小便がしたくて起き上がり、小便をすませてまた寝ようとするのですが、弟が隠しておいたお菓子を思い出しました。そのときにそれを食べようとすると、心はどうしますか? 「こいつ!」と言うのです。そうですか、そうではないですか? 夜中にいくらこっそりやろうとしてもだめです。心は、監督官の中でも極めて精密な監督官です。(『文鮮明先生御言選集』 39-158 1971.1.10)
良心作用は、私たちを善なるところに行きなさいと催促しています。この良心作用は、誰も否定することができません。これは、夜も昼も、常に私を管理しながら作用しています。夜寝ていて、突然起きて悪いことをしようとしても、良心は「おい!」と制裁するようになります。
このように、継続的に私を管理しながら作用する問題について考えてみるとき、作用するためには、主体と対象の関係が設定されていないところでは作用しないと、さきほど述べました。損害が出る結果を望みながら作用することはないと言いました。作用することによって、よりよくなり得る価値が設定されるがゆえに、作用すると言ったのです。ですから、良心作用について考えてみるとき、良心が結果になるか主体になるかという、何らかの主体と対象の関係が成り立たなければならないということは、言うまでもありません。
私たち人間が主体ではありません。それゆえ、主体となるその何かがいなければならないのです。昔も今も、さらにこれから数千年が流れていっても、良心の作用には革命や発展がありません。その主体が絶対的なので、その主体が変わらないかぎり変わり得ないのです。
このように、私たちの良心が作用できる主体が存在することを考えるとき、その主体とは何かということが問題です。その主体を私たちは「存在しない」と言うことはできないのです。その主体を「神様」と言うか、「ゴッド(God)」と言うか、それは国ごとにすべてありますが、名称は何であれ、その主体が存在することは事実です。(『文鮮明先生御言選集』 53-103 1972.2.11)
(3)人体構造から見た神の実在性
私たち人間自身を見てみると、最も重要なところが顔です。その顔の中でも、最も重要なところが私たちの目です。この目を中心として一度考えてみるとき、この目の歴史をたどって上がっていき、この目がどこから来たのかを問うてみれば、「父母から来た」と言うことができるでしょう。それでは、その父母の目はどこから来たのですか。これは、先祖の先祖をさかのぼっていくと、最初の人間まで行き、目の歴史の根本はそこでとまるようになります。
それでは、目自体が生まれるときに、空に太陽があることを知っていたでしょうか。このように尋ねてみれば、その目自体は太陽があることを知り得ないと言わざるを得ません。それだけでなく、目がなぜ瞬きするのですか。この地球上には、太陽と輻射熱によって水分が蒸発することを知っているからです。さらに、私たちの目にまつ毛がありますが、そのまつ毛があるのは、空気の中にホコリがあるからだということを、私たちは常識的に知っています。
それでは、最初のその目が空に太陽があることを知っていたでしょうか。私たちは、いくら考えてみても、「知っていた」と答えることはできません。その目自体が、輻射熱によって水分が蒸発する地球星だということを知っていたかと尋ねれば、私たちは「知っていた」と答えることはできないのです。また、まつ毛自体が空気のあることを知っていたでしょうか。空気の中にホコリがあり、目の中に入ってくるのを防ぐために生じたことを知っていたかと尋ねれば、「そのまつ毛は空気中にホコリがあることを知っていた」と答える人はいません。
物質でできた私たち人間の目自体を見てみるとき、それ自体が備えた内容を考えてみれば、それは天文学的知識基盤の上に現れた事実であることを否定できません。目が生じる前に太陽があったのであり、目が生じる前に空気があったのであり、目が生じる前に蒸発作用があったことを、その目自体は知りませんでしたが、誰かがこれを知っていたという事実を、私たちは否定できないのです。
言い換えれば、博物学的な知識基盤の上で目自体が生じた事実を考えるとき、物質で構成されたその目自体は知らなかったのですが、その目自体が存在する前に太陽があり、空気中にホコリがあり、この地球星では水分が蒸発して水蒸気になるという事実を、私たち人間自体が誕生する前に誰かが知っていたというのです。ですから、それに備えることができるような状態で目が生じたと考えることができます。
私たちの目一つを見ても、数万人のアイドクター(眼科医)がいます。しかし、眼科の医師たちも、神秘的な目の未知の世界について、いまだすべてを明確には知り得ていません。このように、目は無尽蔵な神秘の宮になっているという事実を考えるとき、目自体が生じる前に、すでにこのようなことをはっきりと知って、これに合うように誕生させた存在があったのであり、そのように生まれざるを得なかったのが、私たち人間であることが分かります。
それではここで、どんな物質や存在自体よりも人間を先に考えた起源があることを悟るとき、その考えた主体が誰でしょうか。私たちはこれを神様と言わざるを得ないのです。
私たち人間が生まれるとき、すでに立って歩くことを知っていました。その理由は、眉毛を見れば分かります。眉毛は、額の汗が流れ落ちて目の中に入ることをあらかじめ知って、それを防止するために生じました。
さらには、皆さんの鼻も同じです。どうして皆さんの鼻が下にいくほど広がり、そしてここになぜこのように両側が溝のようになっているのでしょうか。汗が流れ落ちて口の中に入るのを防止するためです。このことから、あらかじめすべて知ってこのようにできているという事実を、私たちは否定することができません。
このように、誰かがすべてのことを知って私たち人間を生まれさせたのです。それでは、それを知っていた存在とは誰ですか。これを私たちは神様と言わざるを得ません。そのような意味で、私たちはここで神様がいるということを決定せざるを得ないというのです。(『文鮮明先生御言選集』 77-253 1975.4.14)
耳を一度見てください。耳介(じかい)が前向きになっていますが、反対になっていればどうなるでしょうか。この耳介がなければどうなるでしょうか。前から来る音が、そのまま通り過ぎてしまったらどうするのかというのです。遠くから話す声も聞くことができません。
また、耳は前から来る話し声を受けるようになっていますが、なぜでしょうか。相手と向かい合って話をするからです。後頭部に向かって話す人はいません。相手と会い、向かい合って話をするので、このようにできているのです。耳介がこのようになっているのは、前から来る声を聞くようになっていることを知っていたということです。
また、耳は空気があることを知っていましたか、知りませんでしたか。何のために耳介をこのように造っておいたのでしょうか。それは空気がそこに引っかかって和音になるように、そのようにできているのです。耳を一度よく見てください。大きな輪があり、小さな輪があって声をうまく調節します。大声が聞こえてくれば、この大きな輪でその声を弱めます。大声がそのまま耳に入ると衝撃を受けるので、大きな輪で声を一度弱めてから小さな輪に入るようになっています。そうでなければ大変なことになります。
さあ、音が空気に乗って正面から伝播されるという事実を、耳が知っていたでしょうか、知らなかったでしょうか。耳は知りませんでしたが、もとからその内容を知り得る存在が耳を造る動機がそこにあったので、そのような形になったのです。耳がそのようなことをすべて知っていて生じたのではありません。誰かが知っていたので、このように造ったということです。その張本人が誰ですか。造物主なのか何か分かりませんが、その何かが存在するというのです。
眉毛を一度見てください。顔に真っ黒な眉毛がついているのを見るたびに、「なぜこんなに真っ黒なものがあるのだろう」と言いながら気分を悪くするかもしれません。これがなければ顔がどれくらいすっきりしてよいでしょうか。それなのに、なぜこれをつけておいたのでしょうか。もし人間の顔に毛が生えていれば、眉毛が必要でしょうか。獣はうつ伏せになって這いまわるので、眉毛が必要ありません。それでもその形態はあります。しかし、人間は立って行き来するので、眉毛が絶対的に必要です。
眉毛が生えている所は、たいていわずかに高くなっています。眉毛の部位がわずかに高くなっていて、山脈をうまく形成しています。それこそ、よい場所の中でも一番よい場所です。なぜこのように造られたのでしょうか。人間が立って行き来することを知っていたからです。人間が這って行き来するなら、眉毛は必要ありません。本当によくぞくっついているというのです。
そして、この眉毛は、片方が横に突き出ています。なぜこうなっているのでしょうか。水が流れるとき、一個所に流すためです。眉毛が片方に向かって突き出ていて、横に流れるようになっているので、水が流れ落ちるときに、間違いなく下に流れ落ちるのです。そうかそうでないか見てください。
もし眉毛がなければどうなるでしょうか。汗や雨水がすべて目に入るようになります。そのようになると、目が痛くてどうやって生きていきますか。我慢できないというのです。目をよく見ると、眉毛だけでは足らず、まぶたでまるく囲んでいます。まぶたで囲んでいますか、いませんか。まぶたで囲んで目を保護するようにしてあるのです。涙はへこんだところを通って、横に流れ落ちていくようになっています。安全が保障されているというのです。誰が設計をしたのか分かりませんが、何千年、何万年研究して造ったのでしょう。
また、鼻がもし逆さまになったとすれば、どうなるでしょうか。夕立でも来たら大変なことになります。どれくらい深刻なことか考えてみてください。笑いごとではありません。冷静に考えてみなさいというのです。鼻がマドロス・パイプのようにくっついていたら、どうなっていたでしょうか。本当に鼻はきちんとうまくついています。
また、鼻は顔の中央についています。見るのが嫌なら、本当に見たくないものになります。しかし、鼻がこのようについているので、洗顔するときは、頭を下げてあいさつしながらするようになっています。これは、神様が保護してくださることに感謝し、あらゆることに対してあいさつしなさいということです。朝夕にあいさつし、働いてからもあいさつします。ですから、洗顔するときも頭を下げてするのです。鼻柱は、万物の中央に位置する人間を象徴します。人間には天道があり、上下関係の秩序を守らなければならないというのです。
そして、鼻はなぜ下に向かって広がっているのでしょうか。もしそのようになっていなければ、口が大変なことになるのです。口にすべて流れて込むようになれば、口がどうなるでしょうか。それでこのようになったのです。このように考えながら顔を見ると、不思議だと感じることができます。(中略)
唇を見れば、どれほど奇々妙々ですか。唇と歯はよく調和していますか、調和していませんか。(「調和しています」)。唇と歯はどのくらい離れていますか。わずか数ミリしか離れていません。これが危険だとすれば、これ以上危険なことはありません。まかり間違えば大変なことになります。しかし、不安を感じますか。(「感じません」)。食べるときはただ食べることに忙しく、不安を感じたりすることはありません。
舌もどれほど奇々妙々ですか。口の中で引っ張ったり押したりながら、押切りのような歯の間を出たり入ったりしながらも、衝突することなく、どれほど上手に拍子を合わせるでしょうか。よく調和しているというのです。
今、私は本当に早く話をしています。このように早く話しているのに、どうしてこのように拍子を合わせ、初めて会った皆さんと親しくなるように話せるのか、本当に奇々妙々でよく調和しているというのです。もし舌が手の指と同じことをすればどうなるでしょうか。大変なことになります。
唇を見ても、ゴムの中で最高のゴムです。広がるときは思い切り広がり、縮むときはとても小さく縮むこともできます。とても自由自在です。革より優れ、生ゴムより優れています。話すときも、食べるときも、一つの囲いの中で唇と歯と舌が、どうしてそのようによく合うのか、本当に神秘的です。神秘だというのです。
また、鼻の穴の中にも毛が造られています。鼻毛がすべて真ん中に向かって集まるように生えているのです。それで、ホコリのようなものが、鼻の中に入ってくることができないようになっています。
このようなものを見るとき、鼻が生じ、耳が生じ、目が生じ、口が生じ、手が生じるとき、そのようにしなければならないことを知って生じたのでしょうか、知らずに生じたのでしょうか。それ自体は知らなかったのかもしれませんが、内容的には知って生じたのです。それでは、誰がそのようにしておいたのですか。ですから、その主人がいないというのはあり得ないというのです。
私たちは、統一教会に通い、イエス様を信じているので、神様が創造したと答えることができますが、信じていない人が神様を信じようとしますか。信じないので、このように神様を説明するのです。(『文鮮明先生御言選集』 38-246~249 1971.1.8)
⇒【後編】「3.神の実在を実感するには?」に続く