【今回深掘りする原理のみ言】
ここに発表するみ言はその真理の一部分であり、今までその弟子たちが、あるいは聞き、あるいは見た範囲のものを収録したにすぎない。時が至るに従って、一層深い真理の部分が継続して発表されることを信じ、それを切に待ち望むものである。(『原理講論』p38)

『原理講論』は、1966年5月1日に韓国語の初版が発刊され、日本語版は1967年10月2日に発刊されました。

「統一原理」マスタークラブ(以下「UPMC」)では、「統一原理」>韓国語『原理講論』>日本語『原理講論』という順序でそのレベルを定めています。

今回は、「統一原理」と『原理講論』の関係性について深掘りしつつ、「UPMC」の『原理講論』や聖書に対する考え方をお伝えします。

「統一原理」と『原理講論』の関係

創造原理の観点から見たとき、「統一原理」と『原理講論』の関係は、性相と形状の関係にあると考えられます。

つまり、目に見えない「統一原理」という永遠不変の真理を、目に見える文字で表現したものが『原理講論』、ということです。

この性相と形状の関係の例として、『原理講論』に神様とイエス様の関係について記述されている箇所があるので紹介します。

神とイエスとの関係は、心と体との関係に例えて考えられる。体は心に似た実体対象として、心と一体をなしているので、第二の心といえるが、体は心それ自体ではない。これと同じく、イエスも神と一体をなしているので、第二の神とはいえるが、神御自身になることはできない。(『原理講論』p258)

 

「統一原理」と『原理講論』の関係は、この神様とイエス様の関係と同じだと言うことができます。

そして、無形なものを有形なもので表現するのですから、そこには当然、限界というものが生じます。

人間の場合に例えると、顔の表情からある程度、その人の心の状態を知ることができますが、心のすべてを知ることはできません。

だからこそ、冒頭で紹介した箇所のように、『原理講論』には「時が至るに従って、一層深い真理の部分が継続して発表されることを信じ、それを切に待ち望むものである」と記述されているのではないでしょうか。

「統一原理」と『原理講論』に関する文鮮明先生の質疑応答

それでは、劉孝元先生に『原理講論』の執筆を指示された文鮮明先生は、『原理講論』に対してどのような見解をもっていらっしゃるのでしょうか?

1977年、文鮮明先生は、アメリカの宗教哲学教授のフレデリック・ソンターク博士からインタビューを受けられたことがあります。

その中で、フレデリック博士は、「統一原理」と『原理講論』について文鮮明先生に次のように質問しています。

私が「統一原理」について知るところによると、最初は口伝によって伝達されたと聞いています。草創期の信徒たちは、原理を説教の形式で聞いたと私に語ってくれ、その後、釜山時代に初めて原理は執筆されたと聞きました。現在の『原理講論』は、初期のものとは異なり、とても精密で詳細に整理されています。現在の『原理講論』に何か変更や、整理して追加したり削除する内容があると思われますか? この形態で確定されたものですか?

この質問に対して、文鮮明先生は以下のように答えられました。

「統一原理」で表現されている部分的な多くの事項は、これから新しい表現が試みられることでしょう。しかし、初めから最後まで、啓示の基本的な内容は少しも変更しません。例えば「創造原理」、「堕落論」、「メシヤの降臨とその再臨の目的」などで見られる中心思想は、決して変わりません。(『文鮮明先生御言選集』91-124 1977.2.3)

 

「統一原理」の基本的な中心思想は不変であるが、その表現においては新しく試みられる可能性があると言及されています。

ただし、新しく表現するとしても、むやみに行われるのではないとして、次のようにも語られています。

「統一原理」は、それに対して協議をしたり、人々が喜ばないからといって変え得るものではありません。そのようなことは、決してあり得ないのです。また、いまだ発表できない相当部分の真理が残っています。私は、すでにそのような啓示を受けていますが、未来に公表しようと故意に保留しているのです。(『文鮮明先生御言選集』91-124 1977.2.3)

 

そして、いまだ新しい啓示の内容を公表していない理由として、次のように説明されています。

真理は実体化されなければなりません。真理は、生きている人間の中で存続して完成されなければならないのです。そうでなければ、真理はサタンに奪われて、誤って利用されることがあります。ですから、私は、すべての条件が造成され、真理がある線まで実体的に具現される時までは、新しい真理を明らかにしないのです。(『文鮮明先生御言選集』91-124 1977.2.3)

 

このインタビューは1977年に行われたのですが、文鮮明先生はその後、復帰摂理の勝利基盤が確定されるごとに、『原理講論』にはない、もしくは詳細には記述されていない新しい啓示の内容を公開されています。

新しい啓示が公開されるためのもう一つの条件

天の側から見るとき、新しい啓示の内容は、ある程度までその真理が実体化された段階で公開されなければなりません。

実体的な基盤が整っていない段階で公開してしまうと、サタンに奪われて悪用されてしまう危険性があるからですね。

そして、新しい啓示の公開にはもう一つ条件があって、それは何かというと、人間の側の成長度合いであり、復帰の度合いです。

このことについて『原理講論』では次のように説明しています。

 神霊と真理とは唯一であり、また永遠不変のものであるけれども、無知の状態から、次第に復帰されていく人間に、それを教えるための範囲、或いは、それを表現する程度や方法は、時代に従って異ならざるを得ないのである。
 例をあげれば、人間がいまだ蒙昧にして、真理を直接受け入れることができなかった旧約前の時代においては、真理の代わりに、供え物を捧げるように摂理されたのであり、そして人間の心霊と知能の程度が高まるにしたがって、モ-セの時代には律法を、イエスの時代には福音を下さったのである。その際、イエスは、そのみ言を真理といわないで、彼自身が即ち、道であり、真理であり、命であると言われたのであった(ヨハネ一四・6)。
 そのわけは、イエスのみ言はどこまでも真理それ自身を表現する一つの方法であるにすぎず、そのみ言を受ける対象によって、その範囲と程度と方法とを異にせざるを得なかったからである。(『原理講論』p169)

 

このように新しい啓示の内容は、受ける側においてもある一定の段階にまで復帰されているという条件が必要なわけです。

ですから、イエス様は、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ福音書16・12)と語られ、すべてを明らかにされないまま亡くなられたのです。

UPMCの『原理講論』に対する考え方

以上のことから、『原理講論』に対しては聖書と同様に扱うのが適切だというのがUPMCの見解です。

これについては異論も多々あるかとは思いますが、聖書に対する考え方として、『原理講論』には以下のように記述されています。

真理は唯一であり、永遠不変にして、絶対的なものである。しかし、聖書は真理それ自体ではなく、真理を教示してくれる一つの教科書として、時代の流れとともに、漸次高められてきた心霊と知能の程度に応じて、各時代の人々に与えられたものであるために、その真理を教示する範囲とか、それを表現する程度や方法においては、時代によって変わらざるを得ないのである。したがって、我々はこのような性格をもっている教科書そのものを、不動のものとして絶対視してはならないのである。(『原理講論』p30)
聖書の文字は真理を表現する一つの方法であって、真理それ自体ではないということを、我々は知っていなければならない。このような見地に立脚して聖書を見るとき、新約聖書は今から二〇〇〇年前、心霊と知能の程度が非常に低かった当時の人間達に真理を教えるためにくださった、一つの過渡的な教科書であったということを、我々は知ることができるのである。(『原理講論』p169)

 

「UPMC」では、この聖書に対する考え方と同様の考え方で『原理講論』をとらえています。

もちろん、だからといって聖書や『原理講論』を否定しているのではなく、神様の啓示であることは間違いありません。

ただ、「統一原理」という無形の真理を有形の文字で表現するにはおのずと限界がある、ということです。

ですから、形ある『原理講論』という「真理の一部分」を通じて、無形な「統一原理」を自ら体得する必要があると考えています。

それはなぜかというと、霊的に無知におちいった堕落人間は、どうしても形あるものを優先しやすく、それに執着しやすい傾向があるからです。

祈りとみ言で「統一原理」を体恤

イエス様は「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネ福音書4:24)と言われました。

しかし、堕落した人間は、どうしても神霊と真理のバランスをとることができず、どちらかに偏ってしまう傾向があります。

『原理講論』のp174に「堕落した人間は神霊に対する感性が非常に鈍いために、たいていは真理面に重きを置いて復帰摂理路程を歩んでいくようになる」とあるように、どちらかというと真理面に偏りやすいのです。

これは今の私たちだけではなく、イエス様当時の人々も同様だったようで、パウロも次のように語っています。

外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。(ロマ二・28、29)

 

それでは、私たちはどうすればよいのでしょうか? その指針がこちらに示されています。

終末に処している現代人は、何よりもまず、謙遜な心をもって行なう祈りを通じて、神霊的なものを感得し得るよう努力しなければならないのである。次には、因習的な観念にとらわれず、我々は我々の体を神霊に呼応させることによって、新しい時代の摂理へと導いてくれる新しい真理を探し求めなければならない。そして探し出したその真理が、果たして自分の体のうちで神霊と一つになり、真の天的な喜びを、心霊の深いところから感ずるようにしてくれるかどうかを確認しなければならないのである。(『原理講論』p175)

 

祈りながら『原理講論』を読み、その真理への窓口を通して「統一原理」を心と体で体恤する、というのが「UPMC」のスタンスです。

 

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