【今回深掘りする原理のみ言】
人間始祖は堕落して原罪をもつようになるに従って、創造本性を完成することができず、堕落性本性をもつようになった。ゆえに、堕落人間がメシヤを迎えて、原罪を取り除き、創造本性を復帰するための「実体基台」を立てるためには、まずその「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てなければならないのである。(『原理講論』p280)

 

実体基台を立てるためにカインが立てなければならなかった条件が「堕落性を脱ぐための蕩減条件」です。

しかし、『原理講論』をよく読むと、信仰基台を立てるアベルも堕落性を脱がなければならないことがわかってきます。

今回は、四位基台の原理を中心に蕩減復帰の意味を確認し、アベルが信仰基台と実体基台を立てる中で脱がなければならない堕落性について深掘りしていきます。

蕩減復帰摂理について

蕩減とは?

「蕩減」という言葉は日本語にはなく、韓国語では「税金・料金・借金などを帳消しにすること,免除すること」(『朝鮮語辞典』小学館より)という意味で一般的に使われている言葉です。

「統一原理」で使われている「蕩減」の意味について、文鮮明先生は次のように説明されています。

復帰しようとすれば蕩減が必要です。蕩減とは何でしょうか。「蕩」という字は、とかして削って小さくするという意味です。ですから、さまざまな損害を被ることによって罪を削って小さくするのが蕩減ということです。(『文鮮明先生御言選集』391-73 2002.8.15)

 

このように、「統一原理」では、罪を削って小さくするという意味で「蕩減」という言葉が使われています。

蕩減はどのように行うのか?

それでは、蕩減とはどのようにして行うものなのか、『原理講論』から引用して確認してみましょう。

どのようなものであっても、本来の位置と状態から離れた立場から原状へと復帰するためには、それらから離れるようになった経路と反対の経路をたどることによって蕩減条件を立てなければならない。(『原理講論』p276)

 

もとの位置と状態に戻るために、そこから離れた経路と反対の経路をたどることによって蕩減条件が立てるわけです。

『原理講論』では、その具体例がいくつかあげられていますが、その中から神様と人間の例を引用してみましょう。

人間が神のみ旨に反して堕落することによって神を悲しませたのであるから、これを蕩減復帰するためには、これと反対に、我々が神のみ旨に従って実践することにより、創造本然の人間として復帰し、神を慰労してあげなければならないのである。(『原理講論』p276)

 

以上の内容から「蕩減復帰摂理」とは何かを解説すると次のようになります。

堕落によって創造本然の位置と状態から離れるようになってしまった人間が、再びその本然の位置と状態を復帰しようとすれば、必ずそこに、その必要を埋めるに足るある条件を立てなければならない。堕落人間がこのような条件を立てて、創造本然の位置と状態へと再び戻っていくことを「蕩減復帰」といい、蕩減復帰のために立てる条件のことを「蕩減条件」というのである。そして、このように蕩減条件を立て、創造本然の人間に復帰していく摂理のことを「蕩減復帰摂理」というのである。(『原理講論』p274)

創造本然の位置と状態とは?

蕩減条件を立てて創造本然の位置と状態に復帰するのが蕩減復帰摂理ですが、創造原理から見たとき、創造本然の位置は外的、創造本然の状態は内的なものになります。

堕落した人間が創造目的を完成するまでの過程をまとめると次のようになります。

堕落した人間はサタン分立の路程を通して、アダムとエバが成長した基準、すなわち、長成期の完成級まで復帰した型を備えた基台の上でメシヤを迎え、重生することによって、アダムとエバの堕落以前の立場を復帰したのち、メシヤに従って更に成長し、そこで初めて創造目的を完成することができるのである。(『原理講論』p271)

 

ここで長成期の完成級まで復帰するというのが、堕落する前の創造本然の位置に復帰することです。

そして、メシヤを迎えて重生するというのが、堕落する前の原罪のない創造本然の状態に復帰するということになります。

『原理講論』のp512には、「堕落人間は、外的な象徴献祭をささげた基台の上においてのみ内的な実体献祭をささげることができ、ここで成功することによってのみ、更に内的なメシヤのための基台をつくり得る」とあります。

このように、蕩減復帰摂理では、外的な天使が先に創造され、内的な人間があとに創造されたという創造原理に従って、外的なものから内的なものを復帰していくようになっています。

四位基台と蕩減復帰摂理

それでは、次に創造原理の四位基台から見た蕩減復帰摂理について確認してみましょう。

「四位基台と4つの堕落性の対応関係」の記事でも説明したように、堕落とはサタンを中心として四位基台をつくられてしまったことです。

ですから、蕩減復帰摂理では、反対に神様を中心として四位基台をつくることによって神様の喜びの対象にならなければいけません。

それが復帰摂理の目的なのですが、このことについて文鮮明先生は次のように語られています。

皆さんが原理を学んで知っているように、神様は四位基台を失ってしまいました。ですから、神様の復帰摂理の目的は、四位基台を復帰することでした。ですから、聖書と神様の摂理の中には四数が多いのです。聖書には、四十年と四百年の蕩減期間がたくさんあります。すべての復帰、蕩減は、この原理に従って成されました。(『文鮮明先生御言選集』52-138 1971.12.27)

 

創造目的の三大祝福は、個性完成・子女繁殖・万物主管のそれぞれの段階で神様を中心とする四位基台をつくることでした。

蕩減復帰摂理は再創造摂理であり、創造原理に基づいて展開されるため、堕落によって失ってしまった神様を中心とする四位基台を復帰していく摂理なのです。

四位基台と信仰基台・実体基台・メシヤのための基台

創造原理の三段階原則により、堕落人間が本然の位置と状態に復帰するには、信仰基台、実体基台、そしてメシヤのための基台の三段階を経てメシヤを迎えなければなりません。

この復帰のための三段階にすべて「基台」とありますが、これはそれぞれの段階で四位基台をつくることを意味しています。

信仰基台の四位基台は、神様を中心としてアベルの心と体が一体となって個体的な合性体をつくることです。

実体基台の四位基台は、神様を中心としてアベルとカインが一体となって合性体をつくることです。

ここまでは「統一思想」で言う自同的(自己同一的)四位基台ですが、メシヤのための基台の四位基台は、発展的四位基台となります。

 

つまり、神様を中心としてアベルとカインが一体となり、その基盤が家庭、氏族、民族、国家、世界へと展開していくのがメシヤのための基台における四位基台です。

このように、信仰基台、実体基台、メシヤのための基台のそれぞれの段階で神様を中心とする四位基台をつくって、はじめてメシヤを迎えることができるようになっているということです。

アベルも堕落性を脱がなければならない

「四位基台と4つの堕落性の対応関係」の記事で、神様を中心とする四位基台をつくる過程は、堕落性を脱いで創造本然の性稟を体恤していく路程だと説明しました。

上記のように、信仰基台も神様を中心としてアベルの心と体が一つになって四位基台をつくるものだとすれば、アベルもカインと同じように堕落性を脱がなければならないことになります。

『原理講論』では、カインが堕落性を脱ぐことについては明示されていますが、アベルについての明確な記述はありません。

しかし、ノア家庭のハムやアブラハム家庭のヤコブの路程をよく見てみると、アベルの立場にいる人物もカインと同様に堕落性を脱がなければ信仰基台を立てられないことが分かります。

例として、ノア家庭のハムがアベルの位置を復帰することに失敗したケースを『原理講論』から引用してみましょう。

ハムは自分の父親ノアが天幕の中で裸になって寝ているのを発見し、それを恥ずかしく思ったばかりでなく、善くないことと考え、彼の兄弟セムとヤペテとが恥ずかしい気持ちに陥るように扇動した。このとき、彼らもハムの扇動に雷同して、その父親の裸体を恥ずかしく思い、後ろ向きに歩み寄って、父の裸を着物で覆い、顔を背けて父の裸を見なかった。(『原理講論』p310)

 

ノアが裸で寝ている姿を見たハムは、自分中心の考えでそれを善くないと考え、恥ずかしく思って自己の位置を離れ、他の兄弟を間違った方向に扇動して主管性を立てず、兄弟と一緒にノアの裸を着物で覆って悪を繁殖してしまいました。

それでは、ノア家庭のアベルの立場にいたハムは、本来ならどうすべきだったのでしょうか?

ハムも、神と同じ立場から、神と同じ心情をもって、何ら恥ずかしがることなくノアと対したならば、ノアと一体不可分のこの摂理の中で、罪を犯す前、恥ずかしさを知らなかったアダムの家庭の立場に復帰する蕩減条件を立てることができたはずなのである。(『原理講論』p311)

 

このように、ハムは、神様と同じ立場に立ち、自己の位置を守って恥ずかしがることなくノアと一つになり、神様の喜びの対象にならなければなりませんでした。

ここでは詳細な説明は省きますが、ヤコブが歩んだサタン屈服の典型路程でも、神様と同じ立場に立つ、自己の位置を守る、主管性を確立する、善を繁殖するという路程をヤコブは歩んでいます。

さらに、モーセについても同様で、モーセがエジプト人を打ち殺したことをサタンが讒訴できなかった理由について、文鮮明先生は次のように説明されています。

 神様は、モーセを立てるまで、二千四百年間苦労しました。このような神様の血のにじむ苦労の心情を知って、「あなたが祝福された民族がどうしてこのようになり、あなたが呼び立てられた民族がどうしてこのようになったのですか」と嘆いたモーセでした。民族の悲しみを自分の悲しみと思い、民族の痛みを自分の痛みと思い、民族の無念を自分の無念と思ったモーセだったので、エジプト人を石で打ち殺したのです。
 人を殺したという側面よりも、民族を愛する心情的な側面からそれを見るとき、「神様が選んだ民族がどうしてこのような立場にいるのか」という憤懣やるかたない心情を抱き、神様の心情と同一の心情をもっていたがゆえに、彼がエジプト人を打ち殺しても、サタンが讒訴できなかったのです。これは民族のためであり、神様のためでした。(『文鮮明先生御言選集』10-337 1960.11.27)

 

アベルの立場にいる人物は、カインがアベルに対して堕落性を脱ぐべきだったのと同じように、神様との関係において堕落性を脱がなければならないのです。

人間が体恤すべき創造本然の性稟とは?

それでは、堕落によって失ってしまった人間の創造本然の性稟とはどのようなものかをまとめてみましょう。

最初は、四位基台の中心である神様と同じ立場に立って考え、同じ心情をもって愛そうとするのが第一の創造本然の性稟です。

そして、四位基台の中心である神様の対象の立場にいる自分の位置を守ろうとするのが第二の創造本然の性稟です。

さらに、主体の立場では真の愛で対象を主管しようとし、対象の立場では本来主管されるべき主体から主管を受けて美を返そうとするのが第三の創造本然の性稟です。

最後に、神様の創造目的を実現することによって善を繁殖し、神様に喜びをお返ししようとするのが第四の創造本然の性稟ということです。

私たちは、復帰摂理の路程を歩む過程で四位基台をつくりながら、このような創造本然の性稟を体恤していくようになっているのです。