実体基台を立てるためにカインが立てなければならなかった条件が「堕落性を脱ぐための蕩減条件」です。
しかし、『原理講論』をよく読むと、信仰基台を立てるアベルも堕落性を脱がなければならないことがわかってきます。
今回は、四位基台の原理を中心に蕩減復帰の意味を確認し、アベルが信仰基台と実体基台を立てる中で脱がなければならない堕落性について深掘りしていきます。
蕩減復帰摂理について
蕩減とは?
「蕩減」という言葉は日本語にはなく、韓国語では「税金・料金・借金などを帳消しにすること,免除すること」(『朝鮮語辞典』小学館より)という意味で一般的に使われている言葉です。
「統一原理」で使われている「蕩減」の意味について、文鮮明先生は次のように説明されています。
このように、「統一原理」では、罪を削って小さくするという意味で「蕩減」という言葉が使われています。
蕩減はどのように行うのか?
それでは、蕩減とはどのようにして行うものなのか、『原理講論』から引用して確認してみましょう。
もとの位置と状態に戻るために、そこから離れた経路と反対の経路をたどることによって蕩減条件が立てるわけです。
『原理講論』では、その具体例がいくつかあげられていますが、その中から神様と人間の例を引用してみましょう。
以上の内容から「蕩減復帰摂理」とは何かを解説すると次のようになります。
創造本然の位置と状態とは?
蕩減条件を立てて創造本然の位置と状態に復帰するのが蕩減復帰摂理ですが、創造原理から見たとき、創造本然の位置は外的、創造本然の状態は内的なものになります。
堕落した人間が創造目的を完成するまでの過程をまとめると次のようになります。
ここで長成期の完成級まで復帰するというのが、堕落する前の創造本然の位置に復帰することです。
そして、メシヤを迎えて重生するというのが、堕落する前の原罪のない創造本然の状態に復帰するということになります。
『原理講論』のp512には、「堕落人間は、外的な象徴献祭をささげた基台の上においてのみ内的な実体献祭をささげることができ、ここで成功することによってのみ、更に内的なメシヤのための基台をつくり得る」とあります。
このように、蕩減復帰摂理では、外的な天使が先に創造され、内的な人間があとに創造されたという創造原理に従って、外的なものから内的なものを復帰していくようになっています。
四位基台と蕩減復帰摂理
それでは、次に創造原理の四位基台から見た蕩減復帰摂理について確認してみましょう。
「四位基台と4つの堕落性の対応関係」の記事でも説明したように、堕落とはサタンを中心として四位基台をつくられてしまったことです。
ですから、蕩減復帰摂理では、反対に神様を中心として四位基台をつくることによって神様の喜びの対象にならなければいけません。
それが復帰摂理の目的なのですが、このことについて文鮮明先生は次のように語られています。
創造目的の三大祝福は、個性完成・子女繁殖・万物主管のそれぞれの段階で神様を中心とする四位基台をつくることでした。
蕩減復帰摂理は再創造摂理であり、創造原理に基づいて展開されるため、堕落によって失ってしまった神様を中心とする四位基台を復帰していく摂理なのです。
四位基台と信仰基台・実体基台・メシヤのための基台
創造原理の三段階原則により、堕落人間が本然の位置と状態に復帰するには、信仰基台、実体基台、そしてメシヤのための基台の三段階を経てメシヤを迎えなければなりません。
この復帰のための三段階にすべて「基台」とありますが、これはそれぞれの段階で四位基台をつくることを意味しています。
信仰基台の四位基台は、神様を中心としてアベルの心と体が一体となって個体的な合性体をつくることです。
実体基台の四位基台は、神様を中心としてアベルとカインが一体となって合性体をつくることです。
ここまでは「統一思想」で言う自同的(自己同一的)四位基台ですが、メシヤのための基台の四位基台は、発展的四位基台となります。
つまり、神様を中心としてアベルとカインが一体となり、その基盤が家庭、氏族、民族、国家、世界へと展開していくのがメシヤのための基台における四位基台です。
このように、信仰基台、実体基台、メシヤのための基台のそれぞれの段階で神様を中心とする四位基台をつくって、はじめてメシヤを迎えることができるようになっているということです。
アベルも堕落性を脱がなければならない
「四位基台と4つの堕落性の対応関係」の記事で、神様を中心とする四位基台をつくる過程は、堕落性を脱いで創造本然の性稟を体恤していく路程だと説明しました。
上記のように、信仰基台も神様を中心としてアベルの心と体が一つになって四位基台をつくるものだとすれば、アベルもカインと同じように堕落性を脱がなければならないことになります。
『原理講論』では、カインが堕落性を脱ぐことについては明示されていますが、アベルについての明確な記述はありません。
しかし、ノア家庭のハムやアブラハム家庭のヤコブの路程をよく見てみると、アベルの立場にいる人物もカインと同様に堕落性を脱がなければ信仰基台を立てられないことが分かります。
例として、ノア家庭のハムがアベルの位置を復帰することに失敗したケースを『原理講論』から引用してみましょう。
ノアが裸で寝ている姿を見たハムは、自分中心の考えでそれを善くないと考え、恥ずかしく思って自己の位置を離れ、他の兄弟を間違った方向に扇動して主管性を立てず、兄弟と一緒にノアの裸を着物で覆って悪を繁殖してしまいました。
それでは、ノア家庭のアベルの立場にいたハムは、本来ならどうすべきだったのでしょうか?
このように、ハムは、神様と同じ立場に立ち、自己の位置を守って恥ずかしがることなくノアと一つになり、神様の喜びの対象にならなければなりませんでした。
ここでは詳細な説明は省きますが、ヤコブが歩んだサタン屈服の典型路程でも、神様と同じ立場に立つ、自己の位置を守る、主管性を確立する、善を繁殖するという路程をヤコブは歩んでいます。
さらに、モーセについても同様で、モーセがエジプト人を打ち殺したことをサタンが讒訴できなかった理由について、文鮮明先生は次のように説明されています。
人を殺したという側面よりも、民族を愛する心情的な側面からそれを見るとき、「神様が選んだ民族がどうしてこのような立場にいるのか」という憤懣やるかたない心情を抱き、神様の心情と同一の心情をもっていたがゆえに、彼がエジプト人を打ち殺しても、サタンが讒訴できなかったのです。これは民族のためであり、神様のためでした。(『文鮮明先生御言選集』10-337 1960.11.27)
アベルの立場にいる人物は、カインがアベルに対して堕落性を脱ぐべきだったのと同じように、神様との関係において堕落性を脱がなければならないのです。
人間が体恤すべき創造本然の性稟とは?
それでは、堕落によって失ってしまった人間の創造本然の性稟とはどのようなものかをまとめてみましょう。
最初は、四位基台の中心である神様と同じ立場に立って考え、同じ心情をもって愛そうとするのが第一の創造本然の性稟です。
そして、四位基台の中心である神様の対象の立場にいる自分の位置を守ろうとするのが第二の創造本然の性稟です。
さらに、主体の立場では真の愛で対象を主管しようとし、対象の立場では本来主管されるべき主体から主管を受けて美を返そうとするのが第三の創造本然の性稟です。
最後に、神様の創造目的を実現することによって善を繁殖し、神様に喜びをお返ししようとするのが第四の創造本然の性稟ということです。
私たちは、復帰摂理の路程を歩む過程で四位基台をつくりながら、このような創造本然の性稟を体恤していくようになっているのです。