み言『体恤信仰の重要性』(1971年2月7日)音声動画版

み言『体恤信仰の重要性』(1971年2月7日)テキスト版

 体恤信仰が必要

 私たち人間がこの地上で信仰生活をしていく道は、一人で行く道ではないということを常に考えなければなりません。
 信仰というものを考えるとき、その(信仰の)対象は、私ではなく神様になります。どこまでも神様を(信仰の)対象としていく道です。言い換えれば、主体と対象の関係が神様と私の間に結ばれ、主体から成される事実が対象に及び、対象から成される事実が主体と関係を結ばなければならないということです。このような関係が結ばれなければ、み旨と共に完成する私自身になることができないのであり、み旨のために活動したと思うその結果が、天の摂理の前にプラスになることができないのです。
 神様と私たち人間は、必ず相対的な関係をもって連結されなければなりません。言い換えれば、授受作用をして一つにならなければならないということです。その一つになる程度に従って、私たちの生活環境に変遷をもたらすようになるのです。そして、その変遷した内容を私たち自体の生活面から見て、過去よりもっと価値あるものとして感じられるようになるとき、私たちは信仰の恵みを感じるようになるのです。

 体恤信仰の出発

 人は、大概相対的な関係を通して何かの意識を持つようになります。もちろん、自分の心の中でも考えるのですが、ほとんどは感覚的な器官を通して刺激を受け、相対的な関係を中心として意識を持つようになるということを、私たちは知ることができます。信仰生活をするにおいては、私たちの心の生活だけでなく、その心に感じられた事実をどのように相対的生活環境に適用するのかということが最も重要です。
 皆さん自身が、ある信仰の基準のもとで、一年ならば一年の間、「私はこれこれこのようにするつもりだ」という計画を立てたならば、その計画が私と関係を結ぶだけでなく、神様とどのように関係を結ぶのか、そして、主体であられる神様と対象である私が一つとなることによって、その結果をこの環境にどのように実らせるのかということが、原理的に見るときに重要なことなのです。
 主体と対象が完全に授け受けすれば、そこには必ず新しい繁殖、すなわち第三の結果をもたらすようになります。その第三の結果というものは、主体の目的だけでなく対象の目的、すなわち二重目的をもった結果として現れるのです。そこで、結果として現れたものが、それ自体で、主体と対象が因縁を結ぶ前よりも価値あるものになってこそ、より大きな刺激を感じることができ、より大きな喜びを感じることができるということを、私たちは知らなければなりません。
 今月ならば今月の一月を中心として、信仰的な面で、各自それぞれある目標を立てて実践していくとき、その目標を自分個人の目標と思ってはいけません。その目標は、常に主体と対象の共同目標であり、その結果も、常に主体と対象の共同価値の結果としてそれを追求していることを、自ら感じなくてはいけません。
 これはどういうことかというと、自分がすることだとしても、それは自分一人がすることではなく、そこには必ず神様が介入していらっしゃるという意味です。自分一人が動くのではなく、神様が同伴して動いていらっしゃるということなのです。
 このように、神様が共に動いていらっしゃるという事実を感じるようになるとき、ここから「体恤信仰」が出発することを、皆さんは知らなければなりません。ゆえに、日常生活においても、無意味に生活するのではなく、意識をもっているある主体がいれば、その主体と自分の考えを整列させ、自分の一日の生活過程が自分に限られた過程ではなく、主体と一つになって共になす過程だと感じられなければなりません。そのような立場に立つようになるとき、「体恤信仰」が始まることを知らなければなりません。

 自分の心を神様の方向と一致させることが重要

 人には心があります。そして、心には心の門、すなわち「心門」があります。また、神様が私たち人間に対するには、「時」があります。もちろん、神様はいつでも私たちに対していらっしゃいますが、私たち自身において、神様が私たちに対してくださるその方向に、心の門をどのように合わせるかということが問題です。これは非常に難しい問題だというのです。
 自然を見れば、春夏秋冬があり、朝昼夕夜があるように、人の性格もみな同じではありません。ある人は春の季節に該当し、ある人は夏の季節に該当し、ある人は秋の季節に該当し、ある人は冬の季節に該当します。また、朝のような型の人、昼のような型の人、夕のような型の人、夜のような型の人がいます。顔形を見てもさまざまです。
 このように、姿形がさまざまなのは、もって生まれた性質や生い立ちがみな異なるためです。身を置いている位置が、すべて異なった動機からもたらされたのが人間なので、その立っている基準に従って私たちの姿もみな異なってくるのです。ですから、春の季節に該当する人がいるかと思えば、夏の季節、秋の季節、冬の季節に該当する人がいるのです。このように、人は一つの中心を中心として、それぞれ春夏秋冬の立場に立っています。
 また、春の季節と夏の季節の中間型の人や、夏の季節と秋の季節の中間型の人もいます。このように四方を見るとき、人間がそれぞれ立っている位置は、すべて異なります。ですから、人間はいつでも中心を基準にして関係を結ばなければならない立場にあるのです。この中心は、絶対的な基準でなければならないので、この基準が私たちの主体的な立場とならざるをえません。その主体を中心として、主体自身も回りますが、対象である私たち人間も回っていかなければならないのです。
 そして、回っていくときに、神様が春の季節のような性稟で私に対されたとすれば、私もその性稟に合わせていつでも環境的に調節していき、それに相対する立場で合わせることができなければなりません。そのような立場に立つようになれば、必ず体恤的な刺激を感じるようになるのです。私一人でするのではなく、必ず天運が協助し、私が望まなくても自然にその環境が成されていくのを、細胞で感じることができる位置に立つというのです。

 信仰者が注意すべきこと

 それでは、信仰生活で最も注意しなければならないこととは何でしょうか。あることに対するとき、ささいなことであろうと、大きなことであろうと、事のいかんにかかわらず、個人的に対してはならないということです。言い換えれば、皆さんの心がぱんと張っていなければならないのです。空気をぱんぱんに入れて、完全に丸くなったボールのような心の姿勢を持つのです。ぺちゃんこではなく、完全にぱんと張ったボールのような心の状態にならなければならないというのです。そうではなく、不安な心や、あるいは個人の欲望を中心とした邪悪な心をもてば、丸いボールのような心に角が生じます。
 この心が回るときには、平面的に接触しなければならないのですが、角ができると、とがった先の部分から接触します。そうすると、全体を円滑に刺激させるのではなく、全体に反発的な作用をするようになります。そのような立場に身を置けば置くほど、私たちの良心は呵責を受け、良心の基準がだんだんと削減されていくということを考えなければなりません。ですから、常に円満なボールのような心の状態が必要です。
 そして、その心に何かの刺激が入ってくれば、心自体が共鳴できなければなりません。固有の振動数が互いに同じ音叉、すなわち二つのものを置いて、一つを鳴らせば、もう一つはたたかなくてもその音波に刺激され、同じ振動数で鳴るのと同じように、私たちの心も、共鳴体となりうる円満な心をもたなければなりません。そして、常に、一つの主体から伝達されてくる霊的な波動を感知しようと努力しなければなりません。
 そのため、信仰生活をする人には、瞑想の時間が必要なのです。良いことを思い描きつつ瞑想をしなさいというのです。瞑想をするときは、心の門を開け放ち、心を丸くして、神様ならば神様を中心として、神様の本性と私の本性が完全に授受できるように、春の季節に該当する人であれば、春の季節の主体であられる神様と共に、その性稟が完全に共鳴できる心の姿勢をもたなければなりません。このように共鳴した内容を中心として、自分が要求する目的に接するようになれば、必ず神様が共にいてくださるのです。
 また、そのような共鳴を感じられない立場で物事に接するときには、「神様はこのことを望んでいらっしゃる。私と直接的な関係を結んでいることを感じることはできないが、関係は結んでいる。神様が先にこのことに介入していらっしゃる。神様のみ旨がここにある。今は、このみ旨を中心として私が接触する瞬間だ」と考えればいいのです。あることをなすときに、私一人でしていると思ってはいけません。その物事自体を中心として見るときに、そこには必ず神様のみ旨が既にあるというのです。それゆえに、先を行っているそのみ旨に従っていき、そのみ旨との一致点に基礎を置かなければならないというのです。私たちの生活を総合してみれば、そのようになっています。

 み旨と一致しようとすれば

 それでは、み旨との一致点に基礎を置くためには、どのようにしなければならないでしょうか。非良心的な立場に立ってはいけません。み旨を中心として、私の心が純潔な心で完全に授受でき、完全に共鳴できる生活態度をはぐくんでいかなければなりません。そのようにすれば、どんなに難しいことであっても、その難しいことが私にとってマイナスになるのではなく、プラスになるのです。そのようにすれば、そのことによって、今までいた立場よりも一段階前進することができるというのです。
 結局は、神様と主体と対象の立場で、心と体が授受する感触を感じながら物事に対していくようになれば、天が従ってくるのです。このような感触がないときは、神様のみ旨がすでにそこにある、そのように実感する感情をもちながら物事に対して行動する立場に立つようにすれば、すでにそのことにはみ旨が介在しているので、そのみ旨と私が完全に一体となるのです。
 しかし、ここで非良心的な基準ではいけません。純潔な良心を中心として行えれば、それをすることによって力を得るようになるのです。そのようにして力を得るようになるとき、神様が共にいらっしゃることを必ず感じることができるのです。これを皆さんは知らなければなりません。
 ですから、心に動機が体恤されなければ、み旨がすでにここに介在しているので、そのみ旨を成し遂げようという立場で、“相対的な立場にあるその物事の中に動機がある”と考えるのです。そして、私自体がその動機と一体となって結果をもたらすようになるとき、それが個人的な目的のためのものではなく、公的な目的に結びつくようになれば、それをすることによって生きがいを感じ、力を感じるようになります。そのような人たちは、祈祷生活をしなくても、祈祷生活をする以上の効果を上げることができるのです。
 それでは、私たちが日常生活で接しているものは、おおむねどのように区分されるのでしょうか。第一に、物に接すること、第二に、人に接すること、第三に言葉に接すること、言い換えれば、物に接する対物関係、その次に人に接する対人関係、その次に、対人関係において言葉を話す関係があるのです。言葉は間接的な目的、すなわち第三の目的のためのものです。
 ですから、物に接する関係において、天法、あるいは神様の前に引っかかってはいけません! 人に接する関係においても引っかかってはいけません! その次に言葉を話す関係においても、その法に引っかかってはいけません! このようになるのです。
 語る関係において、その語ったことに対して引っかからないためには、必ず行動に移さなければなりません。言葉は行動の動機になるので、語ったことに対して引っかかってはいけないのです。ですから、物に接する対物関係、人に接する対人関係、そして語ることに対して引っかかってはいけません。言葉は必ず行動を催促します。これが私たちの日常生活においての関係なのです。

 どのように物に接するべきか

 それでは、対物関係において、どのように天化させるのでしょうか。つまり、その物に対して、堕落した私として接するのではなく、神様が主体となって対したという立場をどのように立てるのかというのです。対人関係においても、私自身として接するのではなく、どのように神様と共に接するのか、また、言葉を語るにおいても、私独りで言葉を語るのではなく、どのように天の言葉を語るのか、これが問題です。その語ったことは、言葉だけで残すのではなく、必ず行動が伴わなければなりません。これが私たちの生活圏内において関係している内容なのです。
 私たちが物に接するにおいては職場生活が展開し、人に接するにおいては人倫関係が展開します。言い換えれば、道徳関係が展開するのです。そして、言葉を話す関係においては、行動問題が起こってくるのです。これが、私たちが生活圏内で関係を結んでいる与件です。
 ですから、物に接するにおいては、原則的な法度に背いてはならず、人に接するにおいても法度に背いてはならず、言葉を語るにおいても法度に背いてはならないというのです。物に対しても人に対しても同じです。もちろん、人を中心として対物関係が成立するのですが、このような立場で関係を結んでいるということを知らなければなりません。
 それでは、信仰者として物に接するとき、どのように対さなければならないのでしょうか。それは、どこまでも公的に対さなければなりません。公的に接するとき、それが十の価値をもっているとすれば、十の価値だけで見るのではなく、それをどのように千万の価値として見るか、この価値をどのようにより大きく見るかということが重要です。たとえ、その物の価値が微々たるものであっても、そこに神様が介在していると考えれば、その価値を千万倍に高めることができるのです。私が愛する物に神様が関係しているというとき、物の価値は無限な比重をもって現れるというのです。
 そのような心で物に接するようになれば、その物が実に慕わしく感じられます。皆さんの生活圏内で感じることや、皆さんの心の世界で感じることの中に、そのような感応が伝わってくるようになるのです。そのような心をもって物事に接すれば、その結果は、自分一人が期待していたものよりももっと立体的な価値の内容をもつようになります。
 一つの事や物に対したことによって、自分が環境的に大きな価値の結果を感じるようになったという事実はどういうことかというと、それによって自分がより高い霊的な内的価値を持つことができる位置に立ったということです。そのようにすれば、事をなしたのちにも感謝することができるのです。どんなに大変なことであっても、私がしている苦労よりも、天的に何百倍、何千倍の価値的な結果が現れるという、そのような価値を感じながら行動する人がいるとすれば、それがどんなに難しいとしても、難しいそのことがかえって感謝の対象となるのです。
 自分一人を置いてみても、対人関係において、ある難しいことに追い込まれて被害を受けたり、言葉にできないような苦役を克服しなければならない受難の道に入り込んだとしても、その受難の道を自分一人で行くと思ってはいけないというのです。その受難の道を無限な価値の中心である神様と共に歩んでいると考えるのです。そして、神様が共にいらっしゃる受難の道の前に自分が同参したという事実が、どれほど大きな価値であるかを感じ、その苦痛の代価よりも感謝の代価のほうがより大きいということを感じるようになるときは、どんな苦痛の道も感謝の道となり、むしろ神様の前に栄光の道となりうるというのです。
 ですから、物に対するときも、何の考えももたずに対してはいけません。物は、プラスでなければマイナスを私にもたらすようになると思わなければなりません。つまり、私にとって福になるか、そうでなければ災いになるということです。ですから、現在十の立場から私がその物に対するとき、十一の価値になるのか九の価値になるのか、すなわち、マイナスをもたらすのかプラスをもたらすのかということを考えて、マイナスになる立場を避けてプラスになりうる立場をどのように立てるかということに対して努力しなければならないのです。

 物事には原則を中心として対しなさい

 皆さんがそのような立場を訪ね求めていくようになれば、どんなことに対しても、既に心が知っているというのです。ある事や物に対するようになるとき、それが私にプラスになるのかマイナスになるのか、すぐに分かるのです。事をなすときにおいても、私の心とみ旨が、対象と主体が授受して一体となってこそ、本来の動機、すなわち神様の創造原理に一致する四位基台圏が展開するのです。
 そして、物が私と主体と対象の結果として符合するという価値を発見するようになるとき、それは神様の創造目的の結果が得られたということなので、神様の対象物として善の結果をもたらします。
 このような善の結果を私の周囲にたくさん積んでいくほど、私自体においては、再創造の過程の場がだんだんと広がっていくのです。高まっていくというのです。そのような生活をすれば、どんな物に対しても、既にその物自体から私に波長が来ます。円満な心で、邪心を断って共鳴する音叉のような心で、その物に深刻に対するようになれば、それがよいとか悪いという感情がわき出てきます。「それが私にプラスになるのか、でなければマイナスになるのか」、このようにいつも打診して確認しなければならないのです。
 もし、波長が来なければ、公的な立場から邪心を断ち、心を丸いダイヤルのようにして、さっと接したときの最初の印象や最初に入ってくる感情を通して、これは間違いなくプラスになるという感覚を持ってそれをやってみなさいというのです。何かをするときにも、無意味な立場から行うのではなく、神様が創造されたのと同じ心で、真実な立場で行うのです。行ってみれば、よしあしの結果が必ず現れます。
 そして、自分が最初に感じたことが、何パーセント的中するかということを、生活の中で点検してみなければなりません。そして、生活の中で、プラスになると最初に感じたことが何パーセント的中したかということを、いつも注視しなければならないのです。そのような生活態度をだんだんと習慣化させれば、十のうち五、六と、だんだんその体恤の度数が高くなっていくのが分かるようになります。これを育てていかなければならないというのです。その度数が高くなっていかなければなりません。その反対に、悪いと感じ、よくないと感じたことが、そのとおりによくない結果が出たというとき、それはみ旨が共になかったからです。
 このように、私たちの周囲にあるあらゆる物事に対するときには、無意味に対するのではなく、必ず原理原則を中心として対さなければなりません。四位基台の形態の内容を中心として、自己の体恤的な感情をどのように開発するのかという問題が、非常に重要だということを皆さんは知らなければなりません。
 皆さんが職場生活で物を扱うときもそうです。その会社の一員として、会社の物は公的な物であるにもかかわらず、いい加減に扱えば、その人は会社にとってマイナスになる人です。その物は国の物であり、神様の物であると考えれば、紙一枚でもおろそかに扱うことはできません。
 そのように、おろそかにしない心をもってその代価を追求し、ささいなことから大きなことに至るまで、全体を心情的な体恤の度合を広めるための条件物と考えて、それを取り戻すために努力し、生活的な感情に連結させるために努力するようになれば、生活圏内で神様が必ず共にいらっしゃるということを、忘れようとしても忘れることができないのです。対すれば対するほど、私が対するそのことにおいて、神様が共にいらっしゃるということを実感として感じることができるのです。
 自分一人で考えなく歩き回って損害を受け、その損害が現在の立場より極めて重大になるときは、そこから打撃を受けて落ちていってしまうのです。それゆえに、この体恤信仰の開発のためには、皆さんは常に物に対していい加減に扱ってはならないというのです。深刻に扱わなければなりません。これを誤ることによって、信仰の道全体が引っかかって倒れる、そのような条件もそこで成立するのです。
 何かを行うときにも、そのようにしなければなりません。例えば、女性たちが針仕事をするとき、そこには自分の夫のためのものとか、愛する人のためのものとか、あるいは願わない人のための針仕事もあるかもしれませんが、同じように精誠を尽くさなければなりません。
 賃金をもらって針仕事をする人も同じです。お金をもらうために、あるいは利益を得るためにただ適当に仕事をしていれば、道がふさがれてしまうのです。しかし、その仕事も自分のことのように、私の愛する人の服のように真心を込めた心情ですれば、その服を着る人がそれに接するとき、「これは良いものだなあ」と言うのです。もし、体恤信仰をする人がいれば、精誠を尽くしたか尽くしていないかということを、すぐに鑑定してしまうというのです。すべての物事を、そのように注意して見なければなりません。

 体恤信仰を開発する生活

 先生は、皆さんが笑いながら話をするとき、すぐに感じが伝わってきます。その笑みがどのような笑みなのか、神様の前にプラスになる笑みなのか、マイナスになる笑みなのかという感じが伝わってくるのです。皆さんもそのようになることができるように、習慣化して開発していかなければなりません。ですから、自分を中心として成される周囲のすべての要件には、無意味なものは一つもありません。すべてのことが、私を開発させ発展させるための一つの教材として登場するのです。そのような生活態度が必要です。ゆえに、一人だからといって自分勝手にはできないのです。
 このような生活態度を中心として生活するようになれば、初めて会う人でも、面識のある人でも、だれであってもいい加減に接することはできないのです。初めて会う人だから適当に扱えばいいだろうと、このようにしてはいけません。その人がどんな人なのか分からないではないかというのです。したがって、このような心情的基準を中心として、体恤的な環境を開発するようにしなければなりません。
 そのように、すべてのことにおいて、常に効果的な価値を発見して喜びを感じたとすれば、その人の信仰生活は、観念的なものではなく実質的なものであり、神様と共に生きる信仰生活なのです。
 そのような生活をする人は、どんなに困難な道を歩んだとしても疲れません。もし、死の道を行くとしても、その死がみ旨の前に妥当な死か、そうでないかということをすぐに知ることができるというのです。苦痛を受け、悔しい目に遭うことも、神様が私を蕩減させるためにすることなのか、マイナスにさせるためにすることなのかということをすぐに知ることができるのです。
 どんなにつらい道を行くとしても、それが体恤的な感情に接しながら行く道であるならば、なぜか心強く、希望がわき出てくるのです。反対する喚声が高くなればなるほど、それが衝撃となり、刺激となって、私自体の中心が折れてしまうのではなく、それを良い機会にして爆発的な力が作用するようになり、善意の闘争の力がわき上がってくるのです。このようなことを見れば、私の行く道が、神様が共にいらっしゃる道なのか、そうでないのかということを感じとって見分けることができなければなりません。
 そうでなければ、生活圏内で堕落が起き、失敗が起き、神様の前に裏切りが起こるようになるのです。これは眠っている時に起こるのではありません。私たちが目を開けて活動しながら接するすべての相対的要件を中心として、私が発展することもあり、後退することもありうるのです。このような関係になっているので、この関係をどのようによく調整して天化された結果をもたらすかということを、常に研究しなければなりません。
 物に対するときもそうですが、人に対するときでもそうです。人を見たとき、「あの人はどのような人だ」ということを分からなければなりません。その人の性質によってすべて違います。自分が人に対するとき、相手の人が自分よりも心情基準が低いというときは、自分の基準を低く調整して相手に対さなければなりません。そうでなければ、自分が打撃を受けます。
 ですから、印象でその人がどのような人なのかということを、すぐに分からなければなりません。第一印象でどのような感じがするのか、心のアンテナを通して、この丸い心でどのような感じを受けるのか、自分の先入観ではなく公正な立場で、はかりのような心でどのような感じが来るのかということを分からなければなりません。自分が中心になるのではなく、その感じとったことを中心として、神様を思いつつ進んでいかなければなりません。主体の前に私は対象の立場となるので、良い結果を基準として発展させようというのが主体の願いであり、相対である私たち人間の願いになるのです。
 したがって、私の個体が打診した結果を中心として見るのではなく、さっと見ながら、最初の感じといっしょに心に照らしてみるのです。そのようにすれば、最初の感じがすぐに来るのです。最初のうちはよく分かりません。ですから、それを発展させなければならないのです。そのようにすれば、「ああ、あの人は良い人だ」ということが分かるようになります。皆さんがそのような度数をだんだんと高めていくようになれば、一度だけぱっと見ても、心がどうで何がどうだ、ということがさっと伝わってくるというのです。
 例えば、先生が約婚してあげるときは、できるかぎり人の輪郭をはっきり見ないようにします。この人あの人とさっと見回してみるのです。どのような感じを受けるのか、心のはかりでさっと比較してみるのです。この二人はどうか、合うか合わないかと思いながら見るのです。あるときは、さっと見ると二人が一つになる場合があります。二人を見ると、あっという間に一つになる感じを受けます。これは間違いなく天によって定められたお似合いの配偶者です。
 そのような感じが何パーセント的中するのか、皆さんの生活過程を分析して、結果を確認しなければなりません。私が感じることは何パーセント合っている、何パーセント間違いないという、このような内的な因縁を、皆さんが環境圏内で結んで確認できるようにならなければなりません。そのような結果を測定できる立場に立たなくては、神様が共にいらっしゃるか悪が共にあるのか、分析することができません。したがって、必ずこのような信仰態度が必要です。
 このような信仰態度を育てていけば、間違いなく体恤されていきます。そのようになれば、道を行くとき、祈祷をしなくても大丈夫です。最初の一歩を踏み出すとき、この道がどんな道か、行けば神様が喜ばれる道か、悲しまれる道かということが分からなければなりません。最初に、「ああ、これは良い、悪い」と感じられるというのです。悪いと感じるときは行かないのです。これを鑑定できなくてはなりません。ですから、皆さんは、環境の中で体恤信仰を開発するために努力しなければなりません。
 ですから、皆さんが人を見るときも、何げなく見てはいけないというのです。だれそれの正常な表情はこうだ、ということを分析しなさいというのです。それだけでなく、だれそれの正常な態度はこうだ、また、正常な声はこうだ、笑うのも、正常な笑いはこうだ、ということを分析してみなければなりません。

 信仰者たちが疲れる理由

 皆さんが指導者になろうとすれば、今後多くの人に接するとき、その人の正常の基準と非正常の基準、言い換えれば、悲しいときの基準とうれしいときの基準を判断できなければなりません。正常な基準を中心として見るとき、上に上がっていくときはうれしく、下に下がっていくときは悲しいということを、目だけ見ても、表情一つだけ見ても、すぐに推し量ることができなければなりません。話し声が正常なときはこうであり、うれしいときの話し声はこうだ、良くないときは目の色がどうだ、ということをすぐに判断できなければなりません。
 話す語調や抑揚、態度を見て、あの人があのように話す背後には良くない何かがあるということを、神様と共に私が鑑定しなければならないのです。そのようにすれば、二人が会うとき、表情だけ見ても、“何かあったのだなあ”ということが、さっと分かるようになるのです。このように、皆さんが鑑定したことを実験するのと同じように、それが符合するのかしないのかということを観察してみなければなりません。それがもし符合したと感じるときは、神様が私と共にいらっしゃるのは間違いありません。
 ですから、生活圏内で、私の感情が神様と密着して同化するのか、反対となるのかということを、最初に感じることを通して分析し、私の生活圏内でどのようにすれば良い結果をたくさん残せるのかということを考えなければなりません。それが信仰者にとって最も重要なことです。通りすぎる人を見ただけでも分かるのです。
 それゆえに、最も複雑なのが人間です。ある人が教会に来て、祈祷をして座っていれば、その人をぱっと見ると、元気があるなあ、元気がないなあという感じが伝わってくるというのです。このように対人関係においても、その感じが伝わってきて、ある事や物に接する感情も伝わってくるのです。また、言葉を話すときにおいても、自分が共鳴体のような立場に立ち、これが破格的か、でなければ順和的(穏やかで安らか)か、つまり和合するためのものか、そうでないかということを直ちに測定しなければなりません。同様に、何パーセント直接的な結果をもたらしたかということを分析しなければなりません。このようなことを皆さんが開発すれば、だれでも体恤信仰圏内に入っていくことができます。そのようなことを感じて暮らす人は、疲れようにも疲れることができません。
 今日の統一教会員たちは、天に引っぱられ、天が離れてしまえば疲れてしまうのです。それはなぜかというと、体恤的信仰の重要性を知らないからです。信仰というものは、生活圏内で、神様の目的を中心として、私が接する前よりも接したのちにより良い結果が訪ねてくるときは、どんなに迫害が来ても、そのまま押し通していくことができるのです。絶対に屈服しません。しかし、その結果がマイナスになるときは、どんなに力を出そうとしても後退するようになります。
 ですから、後退する可能性があることは絶対にしてはならないのです。その被害は、どれほど大きいでしょうか。一度後退すれば、それを立て直すのがどれほど大変か分かりません。一度間違いを犯せば、それを補充するのがどれほど大変かということを考えれば、落ちる可能性のあること、すなわちマイナスになる可能性があることは、考えることもしないというのです。そのようなものは見ようともしないのです。また、そのような人とは接しようとすらしません。
 それゆえに、初めて恩恵を受けるようになったときには、人をよく敬遠するようになります。物にもやたらにあれこれと接することができず、単調な物にだけ接するのです。その人が日常的に欲望をもって動く可能性のある物には、絶対に接することができないようにします。そうでない物、すなわち無関心に接していた物にだけ接するようにします。言葉も、自分を弁明しようとする言葉は話さないようにするのです。
 実際の信仰生活において、霊的な体験はそのように起こるのです。皆さんは、そのような霊的な体験をすることができなくても、生活の中で感じとったことを分析する度数を高めていかなければなりません。
 そのような段階に至れば、どのような現象が起こるのでしょうか。間接的な関係から直接的な結果を判断できる、このようなことがたくさん起こるのです。すなわち、第三のこととして、私とは何の関係もないことでも、関係を結ぶことによって、計画的ではないのですが、偶然に体恤的な感情を感じることができる体験をするようになるのです。このように努力するようになれば、第三のこととして私と関係ないことであっても、ぱっと感じとったことを通して、「関係を結ばなければならない」と考えるようになります。このように生活圏内において、発展できる動機をいくらでも見つけることができるのです。

 常に喜び、体恤的な感度を広げよ

 そして、皆さんが朝に家を出て夕方に戻るときには、絶対にマイナスになって帰ってきてはいけないのです。帰ってくる時は、必ず朝に出ていった時よりもうれしい立場、すなわちプラスになった立場に立ちなさいというのです。そのようにすれば家庭内の不和が起こりません。もし、マイナスになって帰ってくれば、自分の妻や息子、娘にもマイナスの感じを与えるようになります。それは罪です。善を追求していかなければならない立場から見るとき、このような立場に立つことは、善を傷つける立場になるので、これは神様の前に喜びとなれず、悲しみとなります。
 したがって、家を出て戻ってくる時は、どんなに困難な立場に立っていたとしても、必ずその困難を蕩減しておいて、喜びの条件をもって帰ってこなければなりません。もし、職場で悔しく気分の悪いことがあったとしても、それを家に来て解消しようとしてはいけません。その場で解消するか、でなければ別のことに置き換えて、「それ以上の喜びの条件で蕩減した」というようにしてから、家に入っていかなければなりません。
 そうするために、それを補強できる間接的な自分だけの秘法をもちなさいというのです。道を歩きながら、わざと電信柱に頭をぶつけて、その痛みによってでも蕩減の条件を立てなさいというのです。それをもって蕩減を受けたという悔い改めの祈祷をするのです。そうでなければ、子供たちにあげるあめ玉でも買って、子供たちが喜ぶ姿を思い描き、その喜びをもって家に入っていくのです。あるいは、歌が好きな人であれば、昔、自分が好きだった春の歌や秋の歌を歌い、きょうの悲しい感情を越えて昔のうれしかった感情を呼び戻し、それを中心として帰っていきなさいというのです。
 家に入ってくれば、妻に対しても、息子、娘に対しても、そのような喜びの表情と喜びの心を授受するのです。そうなれば、職場で打撃を受けた悲しみを完全に越えることができるのです。滅びるしかなかった環境を食い止めることができるというのです。皆さんは一日の全体を中心として、このような生活態度をもたなければなりません。これが一つの作戦となるのです。一日を何げなく生きてはいけません。
 どんなことに対しても同じです。山なら山を見るとき、その山を中心として神様の創造性に接する感じ、美しいとか神秘的だという感じを通して、神様が私という一つの価値をこのように高貴にするために、あんなにも素晴らしい相対的万物を造られたのだなあということを感じ、喜んで、うれしく思いながら神様の前に賛美を返すようになるとき、そこから衝撃的な刺激を感じるのです。そのような立場で完全に授受すれば、一つになるので酔いしれるというのです。
 そして、その中から離れたくなくなります。その中で寝転びたいと思い、幼子のような心になり、また父母と同じ心を感じることができるようになるのです。そのような感情は、何でもない自然を見る中でも感じることができます。あるいは、流れていく水を見ながらでも、いくらでも思索にふけることができるというのです。
 このような体恤的な感度を高めていくようになれば、神様が創造しながら感じられた喜びまでも、共鳴して入ってくるようになるのです。それは、何の考えもなく祈祷するよりもよいというのです。ですから、皆さんが、生活圏内において、このような生活を中心として体恤的な感度をどのように培養していくのかということが問題です。それゆえに、私が相手に接するとき、どのような表情で接しなければならないかを常に考えなくてはなりません。そのように研究していけば、自分がある表情をしたとき、「相手に良い印象を与えた、だから私はどのようにしていかなければならない」、このようなことが分かるようになるのです。

 すべてのものを神様のものとして消化

 私たちが接するすべての万物は教材です。私たちが、このような霊的な世界の直接的な感応、あるいは間接的な感応を起こすことができ、関係を結ぶことができる対象は、神様の創造物です。この創造物は、神様の性相に似て出てきたものなので、その中には、間接的ではありますが、その性相的な要素があるのです。従って、その中には、私たちが関係を結ぶことができる善の要素、内的な性稟が必ずあるので、その性稟に従って動き、それを連結させるための生活を広めていく人がいるとすれば、その人には、どのようなことも支障を与えることはできず、マイナスにならないはずです。
 さらに、皆さんは蕩減法を知っています。自分が中心的な存在になろうとすれば、公的な立場で蕩減しておく環境をたくさんもたなければなりません。そのようにしなければ、中心存在になることはできません。言い換えれば、自分がもっているものをたくさん差し出さなければならないというのです。もっているものをたくさん差し出すというのは損害です。ですから、自分が困難なことにぶつかった、被害を受けたというときには、蕩減法で消化しなさいというのです。
 私が善を行うときに、かわいそうな人のためにも与えますが、怨讐のためにも誠実に与えるのです。それは、どれほどすばらしいことでしょうか。ですから、どんな死地に行っても被害を受けません。そのような動機の存在は、怨讐になったとしても、公的な立場から消化して越えていくというのです。そのような状況でも、怨讐を怨讐と考えるのではなく、そのような位置を、両面的な価値を持つことができる唯一の位置だと考え、そこから感じられる深い価値を探求しようというのです。
 それゆえに、いかなる受難の道でも、その受難は自分にとって被害とはなりません。またそれが、引っかかれば死地に落ちてさまようかもしれないサタンの罠だとしても、その罠とは何の関係もなく、むしろサタンが怨讐視する勝利の結果をもたらすことができるというのです。したがって、このような信仰生活をするときには、サタンがどんなに作用したとしても、神様のものとして和解させることができる立場に立つのです。神様は、悪なる世界にいらっしゃったとしても、いつも神様の立場をとることができるかたです。いかなる迫害、いかなる困難があったとしても、それらが私自体をくじけさせたり、滅ぼしてしまうことはできません。むしろ、勝利の資料として、勝利の結果をもたらしてくれるのです。これは、神様が六千年の復帰歴史を導いてこられながら、サタンがどんなに反対しても、神様はそれを勝利の結果として体得し、消化させてこられたのと同じことです。ですから、このようにすれば、間違いなく神様の息子になることができるのです。このような生活態度と、皆さんは関係を結んでいかなければなりません。
 物に接するときよりも、人に接するときの感情がより早いのです。ですから、人に対しての研究をたくさんしなければなりません。人に接するとき、言葉で表現しなければなりませんが、言葉だけ語っては駄目です。責任を取れない言葉は語ってはいけません。言い換えれば、実行できない言葉は語ってはいけないということです。互いに授受する場で交流し、一つの共同目標を追求していくときは、必ず実践されるものと考え、そのように感じ、そしてそれが事実そのとおりになったというとき、その二人の間には、語って実行したその結果があるので、互いに喜ぶようになるのです。
 このようにして結ばれた友人は、同じ霊界に行くまいとしても行かざるをえません。そのようなよい友人を持てば、その友人が高い霊界に行くようになるとき、自分も彼についていくことができます。自分が常にそのような関係を結び、因縁が結ばれたならば、その友人が行った霊界に自分もついていくことができるというのです。なぜならば、彼が私と相対することを何よりも好むようになれば、私の足りないところを補って喜ぶその主体の前に、相対的位置を決定することができるからです。
 それで、良い師、良い友人を求めるのです。良い師と親しくし、授受しながら喜ぶことができる基準さえできれば、その師がどんなに立派であっても、その師が占有できる栄光の位置に同参することができるからです。ですから、このような体恤的な環境を発展させていきなさいというのです。
 皆さんが村に入っていけば犬がほえますが、そのほえる声を何も考えないで聞けば、鳴き声はすべて同じです。その「ワンワン」とほえる声は同じですが、霊的な雰囲気を中心として、神様が共にあるという立場から聞いてみると、それが千態万状に異なって聞こえます。村でほえるその犬が、金持ちの家の犬なのか、貧乏人の家の犬なのか、感じが伝わってくるというのです。滅びる家の犬がほえる声を聞くと、気分が悪くなります。
 しかし、善なる家の犬がほえる声は良く聞こえ、そのほえる声に酔いしれるようになります。気分が良いというのです。犬がほえれば怒ったりするではないですか。ところが、それが衝撃的で、気分の悪い鳴き声に聞こえなければならないのに、その鳴き声が拍子に合った和音のように聞こえる気分がするのです。そのような鳴き声を聞いてその家に行ってみると、予想どおり栄えている家の犬です。
 また、赤ん坊が泣いても、その赤ん坊が、繁栄する家の赤ん坊かそうでないかということを、そのような習慣的な立場から聞いてみれば、すぐに知ることができるのです。ちょっと聞いてみれば、「ははあ、あの赤ん坊は何々で泣いているのだな」と、それが伝わってくるというのです。そのように伝わってくる感じが合っているかを確認してみながら体験すれば、徐々に的中率が高くなっていきます。そのようにして感度を高めていかなければなりません。

 善悪は生活の中で決定する

 善悪というものは、思いの中で決定されるものではありません。善悪というものは生活圏内で決定されます。天国と地獄は、皆さんの観念の世界で決定されるのではなく、生活舞台で決定されるのです。これは重要なことです。
 電車に乗って人々を見回してみると、気分の悪い人と気分の良い人がすぐに分かります。気分の悪い人は自分よりも霊力が低いのです。しかし、気分の良い人は、その相対以上の人たちです。もし、霊的な体験のある人がいれば、すぐに分かります。
 動物も自分の生死が分かるのに、万物の霊長である人間が、自分の人生を知らずに生きるのですか。すべて私利私欲にとらわれ、神様に背を向けて生きているので分からないのですが、神様と共に生きれば、分かるようになるのです。
 語るときにも天と共に語るのです。このように暮らせば、あるときは、何の題目も持たずに出てきてそのまま説教するときがあります。そして、自分が共鳴体になって語れば口が動きます。そのようになれば、それは神様の説教です。自然と題目が浮かぶのです。皆さんがどこかに行って語り、質問を受ければ、心の門をさっと開くのです。すると答えが分かります。早いというのです。その人が自分を困らせようとしているのかどうか、それを知ることができます。
 それゆえに、善なるものなのか悪なるものなのかを分別できなくては、天の道を行くことができません。先生が「間違いない」と言うことは間違いありません。このような何かがあってこそ、将来、人が知らない大きなこともすることができるというのです。
 それをどこから育てていくのでしょうか。生活で育てていかなければなりません。体恤信仰が重要なので、体恤信仰を育てていかなければなりません。そのようにしようとすれば、自分と関係した人を絶対にそのまま送り返してはいけないというのです。その人に接する前よりも、プラスになるようにしなければなりません。その人が私を攻撃したとしても、プラスとなったという条件を残しなさいというのです。
 そのようにすれば、私は、いつでも商いをして損をせずに利益を残すというのです。このようになれば、その人が私を利用しようとしてその目的が果たせなくなるときには、その人に奪われたすべてのものをそっくりそのまま取り返すことができるのです。
 主体と対象が一つになれば、その結果は主体と対象のものになるでしょう? 神様が主体となり、私が対象となれば、悪なる人に絶対に支配されないというのです。どんなに悪い人がいるとしても、その人の背後には、その人を後援する先祖たちの善なる功績が残っています。ですから、善は善で、悪は悪で取り戻してくることができるのです。このようなことが、私たちの生活の背後を中心として起こっているということを、皆さんは知らなければなりません。

 神様に侍って天国の人格を完成する道

 ですから、そのようにして、一日の生活を何げなく過ごしてはいけないのです。それは、すべて天が実際の生活を中心として天国を成すための一つの材料であり、一つの教材として私に接近させてくれるものです。そうだとすれば、それを良い結果として消化させることができる主体的な自我をどのように発見するか、ということに力を注がなければなりません。
 それを発見するためには、皆さんが最初に感じとったものを父の前に常に相談し、共鳴体とならなければなりません。心を開け放ち、昼夜を問わず、いつでも天に接することができるそのような基準にさえなれば、必ず霊波が来るというのです。
 皆さんがそれを知らないだけであって、これをだんだんと段階的に育てていかなければなりません。育てて、「ああ! 私が感じたことが何パーセント当たった」という自信を持つことができるまで、努力しなければなりません。それが体恤できなければ、「自分が精誠を尽くさず、完全な共鳴体になることができなかったためにそれを感じられなかった」と考えなければなりません。
 私たちはアンテナと同じです。ですから、純粋なアンテナのような立場に立って、霊界の波長を感知することができなければなりません。霊界は常に霊的な波長を送信しています。したがって、私が何かをするときに必ず関係を結んでいるので、どんなものが主体と対象の前に必要とされる二重目的の価値になるのか、あるいはならないのか、ということがおのずと分かるようになるのです。
 それを皆さんが、最初に感じとったものを通して分析し、発展させることに努力すれば、自然と自分自身が実際の生活に神様を迎えて生きるようになります。観念的な神様ではなく、生活的な神様として侍って暮らせば、この険悪な世の中で、堕落せずに天国の人格を完成することができるのです。
 祈祷を通して、神霊の役事を通して恩恵の基準に行くことができるかもしれませんが、それは霊界から霊人たちの協助を受けて成されることです。しかし、本来私たち人間は、生命体や生霊体を持つようになっています。私自体に霊があるというのです。従って、霊力を中心として霊の作用を開発してさえおけば、霊人たちが指導してくれなくても、私自体の生霊体において感知することができる能力が生まれてくるのです。
 このように、ある基準にまで達するようになれば、神様が悲しまれるとき、私にも形容することができない悲しみが伝わってきます。ある人に会ってから別れて送るとき、言葉に表せない悲しみを感じるようになれば、その人の行く道は、祭物の道か、あるいは神様が哀れむ道です。その二つのうちの一つの道であることに間違いありません。そのようなことを実際に感じ、生活圏内で刺激を受けることができる立場に立った人であってこそ、体恤的な生活をしている人です。

 神様の心情を感じて暮らす人

 神様が喜ばれ、悲しまれることを、常に鑑別しながら暮らす人は、悪なる人になろうにもなることができず、天の法度に背こうにも背くことができません。そのような男性は、いくら美人が誘惑しても倒れません。そこに同化できないというのです。
 公的であれ私的であれ、神様が最も嫌われる人は、対人関係において、人を利用しようとする人です。そして、その次には、何でも自分の利益を中心として判断しようとする人です。神様が好まれる人は、譲歩する人です。譲歩とは何かというと、自分がその人についていくことです。その人が「こうしよう」と言うとおりについていくのです。ずっとついていけばまわるようになり、まわればあとから自分がその位置を占領するようになります。結局は、その人のすべてのものを占領できるのです。
 ですから、常に柔和謙遜にして、その人が「こうしよう」と言うとおりに従順、服従、屈服しなければなりません。それはなぜかというと、その人を完全に占領するためです。人だけを占領するのではなく、その人のすべてを占領するための作戦です。従って、私たちの信仰世界においては、自分を否定し、その代わりに相手の要求に完全に順応していく作戦をとらなければなりません。それは、自分自体がなくなるのではなく、相手を完全に占領するための一つの作戦なのです。このようなことを、皆さんは生活で感知しなければなりません。
 最近はそうではありませんが、先生は昔そのようなことをたくさんしました。道端に出て、通り過ぎる人を見ながら、どのような感じがするか調べるのです。「あの人は間違いなくこうだ」と思うとき、それが本当に当たっているか当たっていないか、ついていって確かめてみるのです。「あなたはこうでしょう?」と尋ねてみます。それは、霊界で教えてくれるのではなく、自分の心がすでに知っているのです。
 それで、「あなたはこのような人ですね」と尋ねてみれば、「どうして分かるのですか」と驚くのです。間違いなく当たります。じっと座って、あの部屋にだれがいるのか、良いことをしているのか、悪いことをしているのか、良い人が暮らしているのか、悪い人が暮らしているのかということを、すぐに知ることができるのです。皆さんも、アンテナをだんだんと高めていってそのように発展させなければなりません。ですから、宇宙のすべての因縁に従って鑑別する鑑別士の生活が信仰者の生活です。

 祈祷したことを実践しなければ

 ですから、体恤信仰がどれほど必要かということを知らなければなりません。祈祷だけしていてはいけません。祈祷すれば実践しなければなりません。祈祷は神様との公約です。祈祷は神様と人間との公約なので、これは誓いです。ですから、祈祷すれば必ず実践しなさいというのです。そして、一つの問題をもって毎日のように祈祷する必要はありません。心からの祈祷は一度するのです。そして、十年でも二十年でも、祈祷する姿勢で祈祷したことに出会うことを慕いもとめる心を持ちなさいというのです。そのような心を持って暮らす人が最も恐ろしい人です。
 私がお父様の前に宣誓し誓ったので、十年、いや生涯そのことが訪れることを歓迎する姿勢で、そのことにどこで出会うかを考えながらそれを求める人は、祈祷したことが成される場に向かっている人です。祈祷だけ十年する人よりも、一度訪ねていく人が知恵深いのです。十年してそれを見つけたとすれば、その人はすでに祈祷の目的を成した位置に立つのです。ですから、実践が問題です。
 その実践がどこにあるのかというと、天の国の神様の中にあるのではなく、私たちの生活圏内にあるのです。私たちの生活圏内で天国と地獄が分かれます。生活圏内で天国ができ、地獄ができるのです。皆さんの心と体を中心として行動する、ここにプラス世界とマイナス世界が行ったり来たりするのです。
 私たちの教会の周囲で暮らす人たちを見れば、そのように暮らす人は一人もいません。すべてぷかぷか浮かんで根のない浮草のようです。根がなければなりません。語るにしても何をするにしても、この三角関係を中心として、四位基台の目的を達成しなければなりません。皆さん、創造目的は何ですか。四位基台の完成ではないですか。四位基台はどこにでも通じるのです。
 仕事をするときも、心と体が中心と一つになって一体を成すことができなければ、これは悪です。心と体が本当に一つになれば、それが四位基台です。仕事も同じです。四位基台が目的です。私の心と体が一つになり、その仕事と一体にならなければ、四位基台の目的が成し遂げられないので、その仕事は何の役にも立ちません。監督がいるから、だれかが見ているから仕事をするのですか。天国と地獄は空中にできるのではありません。皆さんの生活圏内で心と体が一つになり、三対象目的圏を中心として、創造原理の法度によって成されていくのです。
 ですから、体恤信仰というものは、霊界から協助してするというよりも、生活圏内で鑑定し発展させていかなければなりません。自分が被害を受けることなく前進的な信仰過程と生活過程を具備できる人は、間違いなく神様が共にいらっしゃるのです。そのように発展した人に教えてあげれば間違いないので、その人が願わなくても神様が訪ねてこられるのです。
 その反面、祈祷だけして行動できない人には、神様が訪ねてこられても、また離れていくのです。ですから、体恤的信仰の基盤を私たちの生活圏内で立てることが、何よりも重要だということを知らなければなりません。(マルスム選集40巻275~299)
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