「統一原理」によると、人間は堕落することによって、「神性」をもつことができず、「堕落性」をもつようになったとされています。
それでは、「統一原理」で言う「神性」とはどのような性質なのでしょうか?
今回は、この「神性」とは反対の「堕落性」の概念を整理しながら、「神性」について深掘りしてみることにします。
『原理講論』の「神性」には二つの意味がある
「神性」という言葉は、キリスト教や「統一原理」独特の言葉ではなく、一般でも使われる言葉で、辞書でその意味を調べてみると、次のようになっています。
しんせい【神性】
1 こころ。精神。心性。
2 神の性格。神の属性。
『原理講論』では上記の2の意味で使われているのですが、「神の属性」の意味で使われている箇所と、「神の性格」に近い意味で使われている箇所があるので、それぞれ例文を挙げてみます。
【「神の属性」の意味で使われている箇所】
無形にいます神の神性を、我々はいかにして知ることができるだろうか。それは、被造世界を観察することによって、知ることができる。そこで、パウロは、「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」(ロマ一・20)と記録している。
あたかもすべての作品は、その作者の見えない性禀の実体的展開であるように、被造世界の森羅万象は、それを創造し給うた神の見えない神性の、その実体対象として展開されたものなのである。それゆえ、作品を見てその作者の性稟を知ることができるように、この被造万物を見ることによって神の神性を知ることができるのである。(『原理講論』p42)
【「神の性格」と近い意味で使われている箇所】
創造目的を完成した人間に復帰され、イエスが言われたとおり、天の父が完全であられるように完全になった人間とは、いかなる人間なのだろうか。このような人間は、神と一体となり、その心情を体恤することによって、神性をもつようになり、神と一体不可分の生活をするようになるのである。(『原理講論』p179)
このように、被造世界に備わっている「神性」は神様の属性のことであり、完成した人間がもつ「神性」は、神様の性格や思考、物の見方や考え方を意味します。
そして、「神の属性」の意味で使われている箇所では、性相と形状の二性性相、陽性と陰性の二性性相の解説があり、それらの二性性相はあらゆる被造物が備えている属性になります。
それに対して、「神の性格」と近い意味で使われている「神性」は、創造目的を完成した人間だけが備えることができるものです。
この点が、形象的個性真理体の人間と、象徴的個性真理体の万物が大きく異なるところの一つです。
「堕落性」と相反するのは、「神の性格」と近い意味で使われている「神性」ですから、今回はそちらを深掘りすることになります。
四つの堕落性と四位基台
『原理講論』には「神性」の内容について詳細な解説がありませんが、「堕落性」については具体的に説明されています。
ですので、「神性」を理解するために、まず「堕落性」について整理してみることにしましょう。
最初に「堕落性」の定義を『原理講論』で確認すると次のように説明されています。
そして、この「堕落性」を『原理講論』では次の四つに分類しています。
天使長が、神の愛をより多く受けていたアダムを愛することができなかったことによって堕落したので、「神と同じ立場をとれない堕落性」が生じた。(『原理講論』p294)
天使長が、神にもっと近かったアダムを仲保に立て、彼を通じて神の愛を受けようとはせず、かえってアダムの位置を奪おうとして堕落してしまったので、「自己の位置を離れる堕落性」が生じた。(『原理講論』p294~5)
天使長は自分を主管すべくつくられた人間、すなわちエバとアダムを逆に主管して堕落したので、「主管性を転倒する堕落性」が生じた。(『原理講論』p295)
天使長は取って食べてもよいという不義の言葉をエバに伝え、エバはそれをアダムに伝えて堕落したので、「罪を繁殖する堕落性」が生じた。(『原理講論』p295)
このように「堕落性」には主に四つのものがあり、この四つの「堕落性」は、それぞれ四位基台の中心、主体、対象、合性体と対応しています。
詳しくはこちらの記事「四位基台と4つの堕落性の対応関係」をご覧ください。
それでは、この四つの「堕落性」から、その正反対の性質と考えられる「神性」について探ってみましょう。
「統一原理」で言う「神性」とは?
アダム家庭の復帰摂理では、「実体基台」を復帰するためにカインが「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てなければなりませんでした。
カインが四つの「堕落性」を脱ぐために立てなければならなかった条件は次のとおりです。
天使長の立場にいるカインがアダムの立場にいるアベルを愛して、神の立場にあるのと同じ立場をとるべきであったのである。(『原理講論』p294)
天使長の立場にいるカインがアダムの立場にいるアベルを仲保として、彼を通じて神の愛を受ける立場をとることにより、自分の位置を守るべきであったのである。(『原理講論』p295)
天使長の立場にいるカインがアダムの立場にいるアベルに従順に屈伏して、彼の主管を受ける立場に立つことによって、主管性を正しく立てるべきであったのである。(『原理講論』p295)
天使長の立場にいるカインが、自分よりも神の前に近く立っているアベルの相対となる立場をとり、アベルから善のみ言を伝え受けて、善を繁殖する立場に立つべきであったのである。(『原理講論』p295)
以上がカインが行うべきことだったのですが、ここから人間が堕落せずに完成すればもつはずだった「神性」の内容を考えてみましょう。
「堕落性」と正反対の性質が「神性」なのですから、「神性」は次のようなものだと考えることができます。
「神と同じ立場をとる神性」
「自己の位置を守る神性」
「主管性を正しく立てる神性」
「善のみ言を伝え受けて善を繁殖する神性」
『原理講論』のp118には「復帰摂理は、サタンの目的を指向しているこの堕落世界を、神の創造目的を成就する地上天国へと、その方向性を変えていく摂理」とあります。
この観点から見ると、人間は堕落して四つの「堕落性」をもつようになってしまったのですから、もし堕落せずに完成していれば、このような四つの「神性」をもつようになっていたはずです。
「神性」と「創造本性」の関係
さきほど、四つの「堕落性」についてお伝えしました。
それでは、四つの「神性」を総称する言葉は何でしょうか? それは「創造本性」です。
なぜかというと、「創造本性」と「堕落性」の関係について『原理講論』に次のような記述があるからです。
ここで一つ注意していただきたいことは、『原理講論』に記載されている「創造本性」には、「神性」と同じように二つの意味があることです。
つまり、『原理講論』には、四つの「神性」の総称としての「創造本性」以外に、他の意味で使われている箇所があるということです。例えばこちらです。
このように、『原理講論』に出てくる「創造本性」には、四つの「神性」の総称という意味と、欲望や知能などのようにもともと生物全般に備わっている性質として、「本能」に近い意味の二つの意味があるのです。
そして、「元来、天使長にも、創造本性として、欲望と知能とが賦与されていた」(『原理講論』p122)とあるように、天使にも「創造本性」があります。
しかし、四つの「神性」の総称という意味での「創造本性」をもつことができるのは人間だけです。
最も重要なのは「神と同じ立場をとる神性」
四つの「堕落性」がそれぞれサタンを中心とする四位基台の四つの位置に対応しているように、四つの「神性」も神様を中心とする四位基台の四つの位置に対応しています。
この四つのうち、復帰摂理において最も重要なのは、「神と同じ立場をとれない堕落性」を脱いで「神と同じ立場をとる神性」を復帰することです。
なぜなら、その最初の「神性」を復帰しなければ、残りの三つの「神性」を復帰することはできず、神様を中心とする四位基台をつくることができないからです。
そして、「神と同じ立場をとれない堕落性」を脱げば、その後の三つの「堕落性」も発動しなくなるのです。
それでは、この「神と同じ立場をとれない堕落性」を脱ぐことに成功した例と失敗した例を復帰摂理から挙げてみましょう。
【成功例:エサウのケース】
人類史上、初めて「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てて「実体基台」を立てることに成功したのはヤコブとエサウです。
このヤコブとエサウの勝利について、文鮮明先生は次のように語られています。
それでお金もたくさんあり、羊もたくさんいて、すべての面でもっているものがカインよりも多いというのです。母親との縁をもち、父親との縁をもち、物も送ってしきりにそのようにしました。兄にどんどん物を送ったのです。
それでカイン(の立場にいるエサウ)は、「弟は恐ろしい。神様が本当に弟を祝福したのだなあ。長子の特権を売ったのは私の過ちだった。そうだ、私が間違ったのだから、私は弟に及ばない。これから弟が来たら反対してはいけない。歓迎しなければならない」と考えました。神様がアベル(の立場にいるヤコブ)と共にいらっしゃることが分かったのです。(『文鮮明先生御言選集』106-181 1979.12.30)
このように、兄のエサウは、神様が弟のヤコブと共にいることが分かって、神様と同じ立場でヤコブを歓迎しました。
このみ言によると、エサウは、第一の堕落性である「神と同じ立場をとれない堕落性」を脱ぎ、神様と同じ立場で弟のヤコブを見ていたことが分かります。
さらに、アベルに従うカインの位置を守って主管性を立て、アベルの立場にいるヤコブを受け入れることで善を繁殖したことになるのです。
つまりエサウは、条件的ではありますが、四つの「神性」を復帰して神様を中心とする四位基台をつくることができたわけです。
【失敗例:洗礼ヨハネのケース】
第1次世界的カナン復帰路程でアベルの立場にいたのがイエス様であり、カインの立場にいたのが洗礼ヨハネです。
ヨハネ福音書の1章33節から34節を見ると、洗礼ヨハネは、一度はイエス様を神の子として証をしています。
ところが、このあと洗礼ヨハネは、神様と同じ立場でイエス様を見ることができなくなり、自己の位置を離れてしまいます。
このように、神様と同じ立場に立てなくなった洗礼ヨハネは、エリヤの使命を果たすという自己の位置を離れてしまいます。
そして、イエス様に侍って主管性を正しく立てることができず、他のユダヤ人たちがイエス様を不信するようにして罪を繁殖させてしまったのです。
このような洗礼ヨハネの失敗を通して、神様と同じ立場に立つことができないと、神様が送った摂理的中心人物が誰なのか分からなくなり、その方の言動も理解できなくなることが分かります。
そして、結局は自分の位置を離れて正しく主管性を立てることができず、不信仰の道を歩んでしまうようになるのです。
まとめ
■『原理講論』の「神性」には、「神の属性」と「神の性格」の二つの意味がある。
■被造物全般に備わっているのが「神の属性」を意味する「神性」、完成した人間がもつのが「神の性格」を意味する「神性」。
■「統一原理」で言う「神性」には以下の四つの性質がある。
「神と同じ立場をとる神性」
「自己の位置を守る神性」
「主管性を正しく立てる神性」
「善のみ言を伝え受けて善を繁殖する神性」
■「創造本性」とは四つの「神性」の総称である。
■四つの「堕落性」⇔ 四つの「神性」
■最も重要なのは「神と同じ立場をとる神性」である。
この「神と同じ立場をとる」ためには、「統一原理」を通して神様の心情と事情を知らなければなりません。
なぜなら「神と心情一体となれば、神性をもつようになる」(『原理講論』p215)からです。
私たちが「神性」をもつためには、神様の心情を体恤することが必要不可欠なのです。
【参考記事】