【今回深掘りする原理のみ言】
新しい真理は、神の実在性に関することはいうまでもなく、神の創造の心情をはじめとして、神が御自身に対して反逆する堕落人間を見捨てることができず、悠久なる歴史の期間を通して彼らを救おうとして心を尽くしてこられた悲しい心情をも、我々に教えることのできるものでなければならない。(『原理講論』p31)

 

先回の【中編】では、神様の創造と復帰摂理にはそれぞれ心情的理由と原理的理由があることを説明しました。

特に、復帰摂理の原理的理由は、神様がこれまで誰にも語ることのできなかった神様ご自身の事情になっていることについても言及しました。

今回の【下編】では、もう一度神様の心情と事情について確認し、私たちが神様の心情と事情を知る方法について深掘りします。

復帰摂理歴史における神様の父母の心情と事情

一般的には、神様は完全無欠で全知全能、かつすべてを超越した存在という考え方が主流です。

それに対してイエス様は、「あなたがたの父なる神」(マタイ6章8節)と語られ、「統一原理」を解明された文鮮明先生は次のように語られています。

先生が昔、「この宇宙の根本は何ですか」と、深刻な立場でそのような祈祷をした時がありました。その時、答えは何だったかというと、「父子関係だ」というものでした。(『文鮮明先生御言選集』104-99 1979.4.15)

 

さらにこの「父子関係」について、このように語られています。

父子の関係だといって、今日の私たちを生んでくれて、一緒に暮らす父母のことではありません。それは天地を創造した絶対的な神様と、堕落していない本然の私たち人間の関係のことです。人類が到達すべき本然の価値の位置は、神様が父であり私たちは子女だという位置です。(『文鮮明先生御言選集』53-286 1972.3.4)

 

『原理講論』のp429にも「神は、霊的な父母として、人間を実体の子女として創造された」とありますので、ここでは父母なる神様の心情と事情について確認しておきましょう。

(1)誰よりも悲しい父母なる神様の心情

父母なる神様の悲しい心情について『原理講論』には次のように記述されています。

 サタンが人間を主管するようになってから、人間は神と対立するようになったので、神は子女を失った父母の心情をもって悲しまれながら悪逆無道の彼らを救おうとして、罪悪世界をさまよわれたのであった。
 そればかりでなく、神は、天に反逆する人間たちを救うために、愛する子女たちを宿敵サタンに犠牲として支払われたのであり、ついにはひとり子イエスまで十字架に引き渡さなければならないその悲しみを味わわれたのであった。
 それゆえに、神は、人間が堕落してから今日に至るまで、一日として悲しみの晴れるいとまもなく、そのため、神のみ旨を代表してサタン世界と戦う個人と家庭と民族とは、常に血と汗と涙の道を免れることがなかったのである。(『原理講論』p591~2)

 

このような神様の心情は、人間を愛する子女として創造されたからであり、単に神様が創造主で、人間が被造物の一つだったとすれば、ここまで悲しまれることはないでしょう。

さらに、誰よりも神様の心情を体恤していらっしゃる文鮮明先生は、復帰摂理歴史における神様の悲しい心情について次のように語られています。

 人間の悲惨な出来事が神様の心情に反映されるので、神様はもっと悲しく悲惨でした。神様は、いかなる個人よりも悲惨であり、いかなる民族よりも、いかなる国家よりも、いかなる世界よりももっと悲惨でした。いくら悲惨な立場にいる者だとしても、神様よりも悲惨な者はいませんでした。愛する子女が死んでいく姿を見ている母親よりも、もっと悲しい心情で神様は人間を見つめてこられました。(中略)
 歴史過程において、神様が送られた人たちには、堕落した人間たちを本然の世界に蕩減復帰しなければならない使命が賦与されていたので、神様は、彼らをより悲惨な環境に追い込まなければなりませんでした。このような事実を皆さんは知らなければなりません。
 神様は個人を打って家庭を救われました。より大きなものを救うために、反対する者を打たずに、代わりに立てられたその息子、娘たちを打たれたのです。より大きなものを救うために子女にむち打った神様の心情は、言い表せないほどつらいものだったことを、皆さんは記憶しなければなりません。(『文鮮明先生御言選集』16-332 1966.9.18)

 

そして、復帰摂理のために犠牲の道を歩んだアベル的な人たちだけでなく、カイン的な立場の人たちに対する神様の心情についてもこのように語られています。

神様にとってはアベルも息子であり、カインも息子です。九十九匹の羊よりいなくなった一匹の羊を探しもとめていく父母の心情をもった神様でいらっしゃったので、カインも息子でありアベルも息子なのですが、九十九匹の羊のような神様の懐に抱かれたアベルよりも、いなくなった一匹の羊のようなカインを探しもとめるのです。これが真の羊飼いと同じ父母の心情ではないかというのです。(『文鮮明先生御言選集』30-295 1970.4.5)

 

このようなみ言を読むと、ある人が夢で神様の声を聞いたときの証を思い出します。

その方は、夢でイスラエル民族を追いかけてきたファラオの軍勢が海に沈むのを見て、イスラエル民族が助かってよかったと喜んだそうです。

しかし、そのとき「海に沈んだ彼らも私の子女である!」という神様の声を聞き、衝撃を受けたそうです。

この世界では、外部に敵をつくって内部の結束をはかる、ということがよく行われます。

ただ、原理的にはそうせざるを得ないときがあっても、心情においては神様と同じ立場に立てるようにしなければならないでしょう。

それでは、次に父母なる神様の事情について見てみましょう。

(2)語るに語れない父母なる神様の事情

父母なる神様が抱えておられる数多くの事情の中で、最も大きなものの一つに、その心情と事情を人間と共有できないということでしょう。

なぜ神様は子女である人間と心情と事情を共有できないのか、その理由について文鮮明先生は次のように説明されています。

 神様は、心情と事情と希望を抱いて人間に対され、庇護されました。神様は、私たちの心情を100パーセントご存じであり、事情を100パーセントご存じであり、希望を100パーセントご存じでしたが、語ることができませんでした。これが神様の事情です。なぜできなかったのでしょうか。それを話してしまえば、サタンが先に聞いてしまうからです。
 ある父と子がいて、まだ未熟な幼子で何も分からない世間知らずの息子に、「何々の宝がここにあり、何々の宝があそこにある」と言って、主人に背いた僕や怨讐がいる所でそれを相続してあげれば、彼らがそのまま息子に宝を持たせると思いますか。サタンはそのような立場です。神様がすべて話してしまえば、神様の息子、娘よりもサタンが先に知ってすべて奪ってしまうというのです。(『文鮮明先生御言選集』9-235 1960.5.29)

 

家庭でも、まだ幼い子供に、貯金通帳がどこにあって、暗証番号はいくつでといったことは教えません。

しかし、ある程度の年齢になって分別がつくようにさえなれば、そのような情報も共有することができます。

このことから、私たちが心情において成長することこそ、父母なる神様をこのような事情から解放してさしあげる唯一の道ではないかと考えることができます。

神様に対して私たちが最も感謝すべきこととは?

私たちが「統一原理」を通して学ぶこの世界の原理は、神様ご自身が定められたものです。

そして、【上編】でもお伝えしたように、絶対者であられる神様が定めた原理も、永遠不変の絶対的なものです。

ここで一つ考えてみてほしいことは、自分で決めたルールを自分で守り続けることがどれほど難しいか、ということです。

誰かが決めた国の法律をすべて守ることもそう簡単ではないですが、自分で決めたことを自分で守るというのはかなり困難なことです。

しかも、それを破ったからといって何か罰則があるわけでもない場合は、それこそ至難の業でしょう。

自分でルールを決め、誰も見ていない状況でそのルールを守り続けることは、相当の自制心と自らを律する心がなければできません。

※「自制」:自分の感情や欲望をおさえること。
「自律」:自分で自分の行いを規制すること。外部からの力にしばられないで、自分の立てた規範に従って行動すること。

それで、文鮮明先生は、「『宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ』というのが私の生活哲学です」(『文鮮明先生御言選集』201-353 1990.4.30)と言われているのです。

これを神様は気の遠くなるほど長い歳月に渡って続けれこられ、そして今現在もそれを続けていらっしゃるのです。

その理由はただ一つ、「ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられる」(ペテロⅡ3章9節)からです。

このような神様の忍耐について、文鮮明先生のみ言を見てみましょう。

 愛する息子を怨讐に差し出さざるを得なかった神様は、権限がなく、能力がないからではなく、天理原則として立てておいた愛の天道を、ご自身自らが踏みにじることはできなかったので、涙で耐え忍び、復帰摂理を進めさせてこられた私たちの父でいらっしゃいます。
 創造主であられるご自身までも否定しなければならない辱めを受けながら、子女を捜し求め、はるか遠い蕩減復帰の道を歩んでこられたかたです。全知全能であられる神様も、真の血統を復帰するには、このように地獄よりもっとつらい路程を経なければなりませんでした。(『文鮮明先生御言選集』501-32 2005.7.14)

 

もし神様が人間の責任分担を無視して一時に救済されたとすれば、神様ご自身にはそれほど影響はないかもしれません。

しかし、神様の創造理想は永遠に実現不可能となり、人間は永遠に神様の子女の立場に立てず、万物を主管する立場に立つことができなくなってしまいます。

それは、人間の立場から見れば、本心から喜べる真の幸福を願っているにもかかわらず、それが実現不可能ということです。

復帰摂理歴史がこれほど長きにわたり延長に延長を繰り返してきたのは、ひとえに神様が忍耐してくださったからであって、私たち人間を愛してくださっていることの証とも言えるでしょう。

神様の心情を知る方法

(1)神様の立場とその事情を理解する

ある人の心情を知ろうとすれば、その人がかかえている事情や立場を知らなければなりません。

人間が堕落することによって、神様がどのような立場に立つようになられたのかを調べてみましょう。

文鮮明先生は、人間が堕落したあとの神様とイエス様とサタンの関係を、法廷にたとえて次のように語られています。

皆さんに霊界の大審判の法廷に出廷しなさいという命令が下る、ということを考えてみましたか。いつかは大審判の法廷に出廷しなさいという命令が下るのです。その法廷を管理して支配するためには、判事がいなければならず、検事がいなければならず、弁護士がいなければなりません。では、その判事は誰で、検事は誰で、弁護士は誰でしょうか。判事は神様であり、検事はサタンであり、弁護士はイエス様です。(『文鮮明先生御言選集』17-176 1966.12.18)

 

そして、この天の法廷では、神様とイエス様とサタンのあいだで、私をめぐって次のようなやりとりがあると説明されています。

 サタンが、「お前はこれこれこのようにしただろう?」と言って、さっと罠にかけ、神様に「この人は、このようにしなければならない」と言えば、神様もどうすることもできないのです。
 すると、イエス様は弁護士の立場で、「神様、この人の先祖はこのようなことをしました。本来、血統は悪くない人です。これこれの条件に引っ掛かったので、その条件に該当した蕩減条件を立てさせ、罪を脱がせてあげなければなりません」と言うのです。このようなことをしてきています。(『文鮮明先生御言選集』48-316 1971.09.26)

 

そして、天の法廷でも、最終的には判事の裁定によって釈放されるのですが、そこでは判事の判断だけでそれを決めることはできないようです。

刑務所から出てくるために、判事が公認してくれるのではありません。では、誰がしてくれるのでしょうか。検事が公認してくれるのです。公判廷では、検事はサタンです。それゆえ、裁判の場で検事の公認を受けなければ出てくることができないのです。ですから、サタンの公認を受けなければ、神様は「お前は私の息子だ。私が助けてあげよう」と言えないのです。必ずサタンの公認を受けてこなければなりません。(『文鮮明先生御言選集』17-124 1966.12.11)

 

これが復帰摂理において怨讐を愛して自然屈服するようにしなければならない理由なのですが、神様ご自身もそのような立場に立っていらっしゃるのです。

(2)神様に侍る生活をする

文鮮明先生は、神様の心情を知るためには神様に侍る生活が必要であるとされています。

神様に侍る生活とはどのような生活なのかについて語られた文鮮明先生のみ言をご覧ください。

 神様の心情を知るためには、神様をただ知っているという程度ではなく、神様と一緒に生活しなければなりません。「神様を知っている。心情だ」と言うことができますか。これは生活を中心として言えることです。
 それでは、今皆さんは神様と一緒に暮らしていますか。そうだとすれば、皆さんが行き来することや、きょうはよい悪いということを鑑別できなければなりません。ですから、いつでも侍る生活をしなければならないのです。
 どこに行ってきても報告しなければならず、行かなくても、「家にいます」と報告しなければなりません。目を覚ませば、「目を覚ましました」と報告し、どこかに行くのなら、「行ってきます」と報告し、ご飯を食べるときも、「ご飯を食べます」と報告するのです。
 おいしいご飯を前にするときも、「いやあ、おいしそうだ」と犬のように何の考えもなく食べるのではなく、「お父様、私がこのような食事をお父様に準備してから食べなければならないのですが、そのようにできないのでどうすればよいでしょうか」と言うのです。そうすれば、神様から「食べなさい」という命令や感じが伝わってきます。このように感じながら暮らさなければなりません。(『文鮮明先生御言選集』33-258 1970.8.16)

 

このように、日常の生活で常に神様と一問一答しながら暮らすことが侍る生活であり、祈りの生活化になります。

(3)「統一原理」を実践する

神様の創造理想が完成するまでの段階が簡潔に記述された箇所が『原理講論』にあります。

真理に立脚した宗教によって、全人類が神の心情に帰一することにより、一つの理念を中心とした経済の基台の上で、創造理想を実現する政治社会がつくられるはずであるが、これがすなわち、共生共栄共義主義に立脚した、メシヤ王国なのである。(『原理講論』p508)

 

宗教、経済、政治の順番で復帰摂理が展開していくのですが、最初の宗教の段階は、真理を通して神様の心情に帰一するというものです。

この真理とは「統一原理」のことであり、これまで説明してきたとおり、神様ご自身が原理を守られ、原理に従って復帰摂理を展開してこられました。

そして、このことこそ、これまで語るに語れなかった神様の事情だったわけです。

ですから、私たちが「統一原理」のとおりに生き、信仰基台を立て、実体基台を復帰しようとするとき、そこで体験する困難や苦痛こそ、正に神様の事情であり心情なのです。

最後に ~「40日路程」のすすめ~

文鮮明先生は「真理に立脚した宗教」(『原理講論』p508)として「統一教会」を立てられたのですが、その「統一教会」について次のように語られています。

統一教会は、何を教えてくれる教会でしょうか。サタンから公認を受ける方法を教えてくれる所です。サタンから公認を受けると言っても、霊的にだけ公認を受けたのではいけません。霊肉を合わせた実体として公認を受けなければならないのです。(『文鮮明先生御言選集』17-124 1966.12.11)

 

そして、サタンから公認を受ける方法を教えてくれるのが「統一原理」であり、それを学ぶさいの注意点を次のように指摘されています。

 今まで統一教会で原理のみ言を学ぶ人たちを見ると、心情的基準や人格的基準を見出すことができず、み言によってのみ働き、動く人たちが多いのです。これではいけません。
 み言を学んだら、そのみ言を自分のみ言として吐露することができなければなりません。原理を語るとき、その原理がある師が教えてくれた原理としてではなく、自分の骨と肉を通して生命の絆を備えた立場で語らなければならないのです。
 そのような本然の主体性をもって語ることのできる人にならなければ、そのみ言によって因縁を結んだ人たちが、自分とは何の関係もなくなるのです。ですから、み言を中心とする実体的な人格を完成しなければなりません。(『文鮮明先生御言選集』19-132 1968.1.1)

 

このように、「統一原理」を実践することを通して、私たちは父母なる神様の心情と事情を体恤し、人格を完成しなければなりません。

その最初の第一歩が「信仰基台」を立てることなのですが、「統一原理マスタークラブ」では、その一つの方法として「40日路程」の実践を推奨しています。

あなた自身が「40日路程」を歩んで「信仰基台」を立て、その過程で体験する様々な心情や出来事を通して、神様の心情と事情を体恤してみてはいかがでしょうか?

 

『40日路程実践プロジェクト』【基礎編】②「40日路程」の実践方法