先回の【前編】では、信仰者が罪を犯してしまう理由とサタンの侵入経路である「現実生活」について解説しました。
今回は、さらに具体的にサタンが侵入してくるタイミングや戦略、それを防ぐ「信仰基台」復帰の意義について深掘りしてみたいと思います。
サタンが侵入してくるタイミング
蕩減復帰摂理歴史を見てみると、サタンが侵入してくるタイミングとしては、主に次の三つになります。
1 新しい摂理を出発する最初の3日間
「新しい摂理路程を出発するとき、サタン分立に必要な期間となった」ということは、この最初の3日間にサタンが入りやすいということになります。
この時にサタンは、私たちの動機を微妙にずらして自己中心的なものにし、侵入できる条件をつくろうとしてきます。
2 一つの摂理期間の長成期完成級の時期
アダムとエバは、成長期間の長成期完成級でサタンに侵入されたので、一つの路程の中で長成期完成級、つまり全体の3分の2にあたる時期になると、様々な試練を受けるようになります。
その路程や人によって具体的な現象は異なるのですが、怪我や病気になるといった肉身的な試練の場合もありますし、人から認められない、自分の失敗で他者に迷惑をかけてしまうといった対人関係の試練もあります。
いずれにしても、「エバが天使の誘惑により、知的に迷わされ、心情的に混沌」(『原理講論』p127)となったことが再現されます。
そのようにして、私たちに愛の減少感をもたせ、他者から愛を奪うことでそれを満たそうとさせるのがサタンの戦略です。
3 一つの摂理期間が終わった直後
サタンは、40日断食の最中ではなく、それが終わってからイエス様を試練してきました。他にもこのような例があります。
サタンは、私たちが一つの路程を終えたあと、特に承認欲求に相対基準を合わせて侵入してこようとします。
承認欲求とは、「認められたい」、「褒められたい」といった欲求のことで、神様や他者に感謝できないように誘導しようとしてきます。
つまり、傲慢な思いをもたせて神様や霊界の協助を忘れ、感謝する心をもたせないようにしてくるのです。
サタンが侵入する条件
1 善悪分立の原理的意義
【前編】でも言及しましたが、サタンが侵入できる条件についてさらに深掘りしてみましょう。
この「サタンが侵入できる条件」とは何かについて『原理講論』では次のように説明しています。
このように「サタンが侵入できる条件」とは、「み旨を中心として、自身を善と悪に分立させない」こと、とあります。
それでは、善と悪を分立することに関して、その原理的な意義を確認しておきましょう。
そうなると結局アダムは、神とサタンという二人の主人に対応するという非原理的な立場に立つようになる。神はこのような非原理的な摂理をなさることはできないので、善悪二つの性品の母体となったアダムを、善性品的な存在と悪性品的な存在との二つに分立する摂理をなさらなければならなかったのである。
このような目的のために、神はアダムの二人の子を、各々善悪二つの表示体として分立されたのち、彼らに、神かサタンかのどちらか一方だけが各々対応することのできる、すなわち、一人の主人とのみ相対する、原理的な立場に立ててから、各自供え物をささげるように仕向けられたのである。(『原理講論』p290~1)
このように、「み旨を中心として、自身を善と悪に分立」するというのは、神様から見れば、それはその人が神様だけが対応できる立場に立つことを意味します。
このことから、復帰摂理路程における善の立場か悪の立場かというのは、神様だけが対応できるのか、それとも神様とサタンの両方が対応できるのかによって決まるということになります。
そして、神様のみ旨を教えてくれるものが真理であり、み言ですから、み言を中心として神様だけを絶対信仰する立場に立つことが「み旨を中心として、自身を善と悪に分立」するということになります。
2 アブラハムの象徴献祭失敗の教訓
それでは、善と悪に分立しないとどうなるのか、アブラハムが鳩を裂かずに捧げたことによって象徴献祭に失敗したことから確認してみましょう。
このように、蘇生を象徴する供え物である鳩がサタンの所有物として残るようになったので、蘇生の基台の上に立てられるべき長成と完成を象徴する羊と雌牛にも、やはりサタンが侵入したのである。したがって、この象徴献祭は、みなサタンにささげたという、結果に戻ってしまったので、鳩を裂かないことが罪となったのである。
象徴的供え物に荒い鳥が降りたということは(創一五・11)、何を意味するかを調べてみよう。人間始祖が堕落したのち、神が摂理されるみ旨の前には、必ずサタンがついてくるのである。すなわち、創世記四章7節を見れば、カインとアベルが献祭をするときにも、サタンが門口に待ち伏せていた。そればかりでなく、ノアのときにも、審判直後に、サタンがノアの家庭に侵入する機会をねらっていたということを、からすによって表示してくださった(創八・7)。
このようにアブラハムが象徴献祭をするときにも、その供え物に侵入する機会だけをねらっていたサタンは、彼が鳩を裂かないのを見て、すぐその供え物に侵入した。聖書はこの事実を、荒い鳥が供え物の上に降りたということでもって象徴的に表しているのである。(『原理講論』p323~4)
このように、善悪に分立しなければサタンの所有物となり、サタンに侵入されてしまうということです。
そして、文鮮明先生は、アブラハムが鳩を裂かなかった理由について次のように語られています。
本来、神様に捧げる供え物は、その大小に関係なく精誠の限りを尽くして供えるべきものです。
しかし、アブラハムは、小さな祭物を軽んじたことによって、神様に捧げる供え物をサタンに奪われてしまいました。
これは、アブラハムの心にもサタンが相対基準を合わせて侵入できる条件が成立していたことを意味しています。
「信仰基台」を復帰する意義
1 神様の立場から見た「信仰基台」復帰の意義
私たちがサタンの所有から解放されて神様の元に復帰するためには、神様だけが対応できる立場に立たなければなりません。
そのために、最初に立てなければならない条件が「信仰基台」なのですが、その意義を神様の立場から見てみましょう。
人間が「信仰基台」を立てるのは、神様から見れば、それはその人が神様の所有であることを決定するためなのです。
ですから、サタンに侵入され、その所有物になることを防ぐために必要なのが「信仰基台」です。
2 堕落した人間でも完成できるものとは?
一方で、創造原理には、「神は彼らが完成したのちに初めて直接主管する」(『原理講論』p130)という原則があります。
堕落した人間が「信仰基台」を復帰した段階では未完成なのに、その段階で神様がその人と相対基準を結んで対応し、サタンに対して所有権を主張できるのでしょうか?
「信仰基台」を造成するための条件について、『原理講論』には次のように記述されています。
このように「信仰基台」を造成するための条件の一つに「数を完成する」というものがあります。
堕落した人間は、心情や愛の人格といった内的な基準では完成していなくても、この数を完成するという外的な基準は立てることができます。
ですから、条件的ではありますが、私たちが数を完成することによって、神様が干渉できる条件が成立するのです。
それでは、復帰の路程で具体的にどのような数を完成しなければならないのか、『原理講論』から引用してみましょう。
このように、12数、4数、21数、40数といった数が復帰路程には必要なのですが、その中でも特に40数は、サタン分立数として大変重要な数になっています。
ですから、サタンの侵入を防ぐためには、私自身が40数の数理的な蕩減条件を立てて「信仰基台」を復帰しなければならないのです。
謙虚と従順と忍耐の心にサタンは侵入できない
今この記事を読んでいるあなたは、「自分はサタンに狙われている」という自覚がありますか?
全体目的だけを追っていると、ともすれば観客席からボクシングなどの試合を見ているような感覚に陥ってしまうことがあります。
しかし、個体目的の観点から見れば、そのリング上で、今まさに相手と向き合っているのはあなた自身なのです。
そして、「サタンは歴史の終末をよく知っているので自分が滅亡することもよく知っている」(『原理講論』p412)ので、命懸けで私たちを道連れにしようとしています。
このように、常にサタンに狙われている私たちは、どのような心構えで歩めばよいのか、ノア家庭からそれを学んでみましょう。
しかしハムは、自己を中心として(自己の基準で)天の側に立っているノアを批判し、またそのことを行動に表したので、神がアダムから一六〇〇年も待って、四十日洪水審判を行使して立てられたノアの家庭を中心とする摂理は、結局成し遂げられなかったのである。これは、我々が神への道を歩むに当たっては、どこまでも謙虚と従順と忍耐の心がなければならないということを見せてくださっているのである。(『原理講論』p313)
蕩減復帰路程では、全体の摂理であれ、個人路程であれ、私たちの理解の範囲を超えた出来事がいくらでも起こります。
そのような出来事に直面したとき、自己の基準で判断したり、むやみに他者を批判したりするのではなく、神様と一問一答しながら、そこにどんな意味があるのかを尋ねもとめる必要があるのではないでしょうか?
【現実生活を通して侵入してくるサタン世界の構造がよく分かる参考書籍】
■大ウソ医学にだまされない極意
■医療ビジネスの闇