【今回深掘りする原理のみ言】
 エジプト苦役時代においては、第一のイスラエル選民たちは、割礼を施し(出エ四・25)、犠牲をささげ(出エ五・3)、安息日を守りながら(出エ一六・23)、アブラハムの献祭の失敗によって侵入したサタンを分立する生活をしたのである。
 それゆえに、ローマ帝国迫害時代にも、第二イスラエル選民たちは、聖餐式と洗礼を施し、信徒自身をいけにえの供え物としてささげ、安息日を守ることにより、イエスを十字架に引き渡すことによって侵入したサタンを分立する生活をしなければならなかったのである。(『原理講論』p468)

 

先回の【前編】では、第2次世界的カナン復帰路程で実体的に復帰できなかった「実体基台」を内的に立てたのが「最後の晩餐」の儀式だったことを説明しました。

【後編】では、「統一原理」の観点からキリスト教の立場と使命を確認しながら、文鮮明先生のみ言から見た「聖餐式」の原理的な意義について解説します。

【前編】の復習-宗教の「食」に関する儀式の原理的意義

(1)「信仰基台」復帰のための「食」に関する儀式

各宗教には「食」に関連する儀式や戒律がありますが、その主なものとしては、収穫物を神様への供え物として捧げる祭祀や、一定の期間食を断つ断食があります。

供え物や断食の原理的な意義について『原理講論』では次のように説明されています。

 アダムが「信仰基台」を立てる人物となることができずに堕落してしまったので、それ以後今日に至るまで、神は「信仰基台」を復帰し得る中心人物を探し求めてこられたのである。堕落したアダムの家庭において、カインとアベルをして供え物をささげるようにされたのも、このような中心人物を探し求めるためであった。(『原理講論』p279)

 イエスが荒野で四十日間断食をされながら、サタンを分立されたのは、とりもなおさず、洗礼ヨハネの代理の立場で、「信仰基台」を蕩減復帰されるためであった。(『原理講論』p410)

 

このように、神様に供え物を捧げることや断食という行為は、「信仰基台」を復帰するための条件になっています。

(2)キリスト教の「聖餐式」の原理的意義

イエス様が「最後の晩餐」でパンとぶどう酒を弟子たちに与えられたことに由来して行われる儀式がキリスト教の「聖餐式」です。

イエス様が自ら制定された儀式として、解釈や意味は教派ごとにそれぞれ違いますが、教派を越えて今日まで2000年に渡って行われています。

「最後の晩餐」で行われた儀式のときにイエス様が語られたみ言について『原理講論』では次のように説明されています。

 人間の肉と霊にサタンが侵入して堕落性が生じたのであるから、ヤコブはこれを脱ぐための条件を立てなければならなかった。それゆえに、ヤコブは、肉と霊とを象徴する、パンとレンズ豆のあつものを与えて、エサウから長子の嗣業(家督権)を奪うことによって、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立て、アベルの立場を復帰しなければならなかったのである(創二五・34)。(中略)
 イエスが、「……あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった……人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」(ヨハネ六・48~53)と言われたのは、イエスも、この路程を見本として歩まれたということを意味するのである。
 これは、すべての堕落人間たちが、洗礼ヨハネの立場におられるイエスを信じ仕えることにより、霊肉共に彼と一体となり、「堕落性を脱ぐための世界的蕩減条件」を立て、彼をメシヤとして侍るところまで行かなければ、創造本性を復帰することができないということを意味するのである。(『原理講論』p345)

 

このように、「最後の晩餐」のパンとぶどう酒は、ヤコブ路程のパンとレンズ豆のあつものと同じように、イエス様の肉と血を象徴しています。

そして、それを受け入れることは、弟子たちがイエス様に長子権を渡すことを意味するわけです。

ですから、「最後の晩餐」での儀式によって「実体基台」復帰のための条件である「堕落性を脱ぐための蕩減条件」が内的に立てられ、イエス様はアベルの立場を確立したことになるのです。

 

※アベル的人物が立てる内的な「堕落性を脱ぐための蕩減条件」についてはこちらの記事を参考にしてください。

「統一思想」から見た「信仰基台」と「実体基台」とアベルの正道

 

キリスト教徒たちが迫害を受けた理由

イエス様の路程では、霊的救いの摂理だけが成就されたため、その後のキリスト教徒たちは、サタンを分立するためのローマ帝国迫害時代400年の路程を歩むことになりました。

 ローマ帝国迫害時代にも、第二イスラエル選民たちは、聖餐式と洗礼を施し、信徒自身をいけにえの供え物としてささげ、安息日を守ることにより、イエスを十字架に引き渡すことによって侵入したサタンを分立する生活をしなければならなかったのである。(『原理講論』p468)

 

このように、キリスト教徒たちは聖餐式と洗礼を守りながら信仰生活をしていたわけですが、彼らに対するこの時代の迫害について調べてみたいと思います。

まず、「最後の晩餐」のときにイエス様が語られたみ言を、ヨハネによる福音書で確認してみましょう。

 イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。
 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」。(ヨハネ福音書6:53~58)

 

そして、このみ言に対して弟子たちがどのように反応したのかについて次のように記録されています。

 弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに言われた、「このことがあなたがたのつまずきになるのか。それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。しかし、あなたがたの中には信じない者がいる」。
 イエスは、初めから、だれが信じないか、また、だれが彼を裏切るかを知っておられたのである。そしてイエスは言われた、「それだから、父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできないと、言ったのである」。それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。(ヨハネ福音書6:60~66)

 

イエス様から直接み言を聞いた弟子たちでさえ、そのみ言の真意を理解できず、多くの弟子たちがイエス様のもとを去っていきました。

そして、イエス様が亡くなられたあと、「聖餐式」を行うキリスト教徒たちに対しても、「彼らは人間の血を飲み、肉を食べている」と言うデマが民衆の間に広がりました。

「聖餐式」の意味も実際の行いも見ていない人たちの中には、その噂を信じて「キリスト教徒たちは本当に肉と血を食べている」と思ってしまった人たちもいたのです。

ローマ帝国迫害時代の苦難は、ローマの神々や皇帝を信奉しないこともその現実的な理由の一つでしたが、一般民衆にこのような誤解があったことも一つの大きな要因でした。

「統一原理」の復帰摂理の観点から見ると、キリスト教徒たちが「聖餐式」を行うことは、「実体基台」を立てる内的な条件になるため、サタンはこれを全力で妨害したのです。

そして、もう一つサタンがキリスト教を迫害する理由がありました。

それは、キリスト教を中心にあらゆる宗教を統一しようとする神様のみ旨があったということです。

 キリスト教で待ち望んでいる再臨のイエスは、他のすべての宗教で再臨すると信じられているその中心人物でもあるので、他の宗教を信じて他界した霊人たちも、彼がもっている霊的な位置に従って、それに適応する時機は各々異なるが、再臨復活の恵沢を受けるために、楽園にいる霊人たちと同じく再臨しなければならない。
 そして、各自が地上にいたとき信じていた宗教と同じ宗教をもつ地上の信徒たちを、再臨されたイエスの前に導いて、彼を信じ侍らせることによって、み旨を完成するように、協助せざるを得なくなるのである。したがって、すべての宗教は結局、キリスト教を中心として統一されるようになるのである。(『原理講論』p234)

 

それでは次に、このようなキリスト教の立場と使命について、「統一原理」の観点から調べてみましょう。

 

キリスト教で「聖餐式」が行われるようになった理由

(1)「統一原理」から見たキリスト教

『原理講論』にはキリスト教について次のような記述があります。

 キリスト教は、愛と犠牲により、イエスを中心として、人間同士がお互いに横的な授受の回路を回復させることによって、神との縦的な授受の回路を復帰させようとする愛の宗教である。それゆえに、イエスの教訓と行跡とは、みなこの目的のためのものであったのである。(『原理講論』p53)

 

信仰というのは神様や仏様を信じて仰ぎみることなので、まず神様や仏様と自分との関係を考えるのがふつうです。

これは、祭祀や断食など、「信仰基台」復帰のための「食」に関する儀式が多くの宗教で行われていることから見ても理解できます。

しかし、キリスト教は最初に人間同士の横的な関係を回復したのちに、神様との縦的な関係を復帰する宗教だというのが「統一原理」の見解です。

そして、「イエスの教訓と行跡とは、みなこの目的のためのものであった」(『原理講論』p53)とありますので、最初にイエス様と私との横的な関係を築き、次に私と私の周囲の人たちとの横的な関係を築く、という順序で人間同士の横的な関係を回復していくのがキリスト教です。

そのため「聖餐式」も、最初にイエス様が「最後の晩餐」で手本を示され、それを弟子や信徒たちが中心となって行っていくようになりました。

それでは、なぜ最初に神様との関係を回復させようとしないのかというと、それは次のような問題があるからです。

(2)横的な衝突を免れることができない信仰者たち

 霊通者(注)はみな、各自通じている霊界の階位と啓示の内容がお互いに異なるために(コリントI一五・41)、相互間の衝突と混乱に陥るのが普通である。霊通者は、事実上、みな同一の霊界を探し求めていくけれども、これに対する各自の環境、位置、特性、知能、心霊程度などが相異なるために各自に現れる霊界も、各々異なる様相のものとして認識されて、相互に衝突を起こすようになるのである。
 復帰摂理のみ旨に侍っている人たちは、各々摂理の部分的な使命を担当して、神と縦的な関係だけを結んでいるので、他の霊通者との横的な関係が分からなくなるのである。したがって、各自が侍っている天のみ旨が、各々異なるもののように考えられ、互いに衝突を起こすようになる。
 なお、神は各自をして復帰摂理の目的を達成させるに当たって、彼らが各自最善を尽くすように激励なさるため、「あなたが一番である」という啓示を下さるので、横的な衝突を免れなくなる。(『原理講論』p222)

※注
ここでは「霊通者」と訳されていますが、韓国語の「영통:ヨントン 霊通」という言葉は日本語にはなく、朝鮮語辞典では「霊験あらたかなこと」という意味になっています。したがって、ここでいう「霊通者」とは、霊能者や啓示を受けるほど信仰のあつい人たち全般のことを指していると考えられます。

 

このように信仰基準の高い人たちであっても、原罪と堕落性があり、創造原理的に見ても未完成です。

ですから、どうしても相対する霊界がばらばらになり、真の神様と直接、関係を結ぶことはできないのです。

その結果、各自が横的に衝突するようになるのですが、宗教同士、あるいは同じ宗教の教派同士の間に争いが生じる理由もここにあります。

そのため、「統一原理」では、宗教間の争いを終息させるため、メシヤによってもたらされる新しい真理が必要だとしています。

 歴史の終末期に至れば、彼らは各自の使命がみな復帰摂理の同一の目的のために、神から分担させられていたことを共に悟って、お互いに横的な関係を結び、一つに結合して、復帰摂理の全体的な目的を完成させる新しい真理のみ言を賜るようになる。
 そのときすべての霊通者は、自分のものだけが神のみ旨であるとの主張を捨て、より高次元的で、全体的な真理のみ言の前に出て、自分自身の摂理的な使命と位置を正しく悟ることにより、そこで初めて、横的な衝突から起こった過去のすべての混乱を克服することができるし、またそれと同時に、各自が歩いてきた信仰路程に対する有終の美を結ぶこともできるのである。(『原理講論』p222~3)

 

このように、復帰摂理の終末期には、メシヤによって新しい真理が与えられます。

そして、神様の真の愛と真理を中心にメシヤと信徒たちが一つになって「人間同士がお互いに横的な授受の回路を回復」(『原理講論』p53)することが神様のみ旨です。

キリスト教にはそのような使命があったため、「信仰基台」復帰のための供え物や断食の条件基台の上に、「聖餐式」という儀式が行われるようになったと考えることができます。

み言から見た「聖餐式」の意義

文鮮明先生は、キリスト教の「聖餐式」の意義について次のように語られています。

 「聖餐式」では肉と血の代わりにパンを食べて、ぶどう酒を飲みます。これは、私たち人間が堕落したので、イエス様の実体を中心として、新しい肉体を受肉しなければならないことを意味するのです。(『文鮮明先生御言選集』35-210 1970.10.18)

 

それでは、なぜイエス様の肉と血を象徴するパンとぶどう酒を飲食して、新しい肉体を受肉しなければならないのでしょうか?

その復帰原理的な理由は、人間始祖アダムとエバの犯した罪が不倫の愛の性関係であり、血統問題だったからです。

 エバは神を中心とする善なる愛をもって、善なる実を取って食べ、善なる血と肉を受け、善なる血統を繁殖しなければならなかったのである。それにもかかわらず、彼女はサタンを中心とする悪なる愛をもって悪なる実を食べ、悪なる血と肉を受けて悪なる血統を繁殖し、罪悪の社会をつくったのである。したがって、エバが善悪の果を取って食べたということは、彼女がサタン(天使)を中心とした愛によって、互いに血縁関係を結んだということを意味するのである。(『原理講論』p103~4)

 

創世記にあるエバが善悪の果を取って食べたという記録は、エバが天使と血縁関係を結んでしまったことを意味しているのです。

ですから、堕落した人間は、サタンから受け継いだ偽りの血統を転換させて神様の血統に復帰しなければなりません。

そのための条件として行われたのが「最後の晩餐」の儀式であり、「聖餐式」であることを、文鮮明先生は次のように語られています。

 神側では、サタンの偽りの愛の圏にいる人間を、より大きな神様の愛で取り戻してきて重生させるのです。人間は偽りの愛の父母、偽りの愛の先祖、偽りの愛の血統を通して生まれたので、真の愛の父母、真の愛の先祖、真の愛の血統を通して再び生まれてこそ、神様の子女、神様の民になるのです。
 イエス様の十字架の血潮の貴さも、「最後の晩餐」の儀式も、すべて血統転換を通して神様の子女になる摂理を形象的、象徴的に表すものです。人類は生まれ変わらなければなりません。これは堕落人間の運命的な道です。(『文鮮明先生御言選集』135-12 1985.8.20) 「聖餐式」とは何ですか? ぶどう酒はイエス様の血であり、パンはイエス様の体です。血肉を連結することを意味するのです。それがイエス様の血統を連結させることなのです。(『文鮮明先生御言選集』322-261 2000.5.21)

 

このようにキリスト教の「聖餐式」は、旧約時代に行われた割礼儀式の基台の上で、サタンの血統から神様の血統に転換したことを象徴する儀式です。

そして、旧約時代の割礼、新約時代の「聖餐式」の基台の上で、成約時代の再臨摂理において、文鮮明先生を中心に行われる血統転換の儀式が「聖酒式」なのです。