日本には輪廻転生説を信じている人が多く、それが一神教的な信仰の伝播を妨げる一つの要因になっていると考えられます。
今回は、「統一原理」から見た輪廻転生について深掘りし、なぜこのような生まれ変わりの思想が生じたのかを考えてみたいと思います。
輪廻転生説について
(1)輪廻転生説とは
人間の生命は現世だけのものではなく、生と死をくり返しながら、前世、現世、来世へと続いていく、というのが輪廻転生説です。
この説は、インド古来の生命観で、インドから出発した仏教の伝播と共に、広く東洋の人々に影響を与えてきました。
日本でも、キリスト教系以外のほとんどの宗教がこの輪廻転生説を認めています。
(2)輪廻転生説に対するよくある批判とその反論
このような輪廻転生説に対してよくある批判の一つが、「輪廻転生が正しいのなら、どうして人間の人口が増えるのか」というものです。
人間の生命が生死を繰り返しながら輪廻しているのなら、人口が増え続けるはずはない、という批判ですね。
この批判に対して、輪廻転生説肯定派の人たちは、だいたい次のような反論をしています。
■人類以外にも生命が存在する
・「人間」以外からの転生もある
・地球以外にも生命が存在する星がある
・この宇宙以外にもたくさんの宇宙がある
・次元の異なる世界もたくさんある
■「魂」は有限ではない
・「魂」は増えていくものである
・魂と人間の関係は1対1とは限らない
・「待機中」の魂も存在している
■転生の周期が短くなっている。
・「中間世」の間隔が短くなっている
※「中間世」とは一つの世から次の世へと生まれ変わる間のことで、あの世に戻っている期間のことです。この期間が以前は数百年だったのですが、今は数十年に短縮されていると主張されています。
このような地球外生命の存在や多元宇宙、そして魂の増加や転生周期など、いずれの反論も、現時点では科学的に実証されていません。
それでは次に、「統一原理」の観点から見た輪廻転生説について考えてみましょう。
「統一原理」から見た輪廻転生説が生まれた原因
(1)創造原理の観点‐自然現象と人間の生命を同一視
創造原理の観点から見たとき、自然現象と人間の生命を同一の次元で見てしまったところからこのような説が生じたと考えることができます。
私たちが生きている自然界には、朝昼夕夜や春夏秋冬など、周期的な時の流れがあります。
人の一生にも幼青壮老の時期があることから、自然の一部である人間の生命や魂も、同じように「輪廻」している、と考えるようになっても不思議ではありません。
特に、多神教の場合、自然界のひとつ一つに神が宿っていると考えるため、そこに神聖さを感じ、自然を崇拝する傾向があります。
しかし、自然界の万物が神様の象徴的実体として創造されたのに対して、人間は神様の形象的実体として創造され、その創造目的もまったく次元の異なる存在です。
(2)堕落論の観点‐結果論的思考
堕落人間の思考は主体と対象が逆転しているので、主客転倒しやすい傾向があります。
原因と結果、そして過程と結果の関係に対しても同様で、結果のみを重視してしまうところがあり、その一例が「後知恵バイアス」です。
「後知恵バイアス」とは、物事が起きてから「そうだと思った」と予言者のように感じてしまう思考の偏りのことです。
スポーツニュースで、指導者の采配ミスに対する批判記事などは、この典型的な例です。
結果も大切ですが、そこに至る過程を一切考慮せず、結果だけを見て物事の良し悪しを判断するこのような考え方はとても危険です。
人を不当に批判したり、過度に自分を責めたり、逆に過度に傲慢になったり、堕落人間がもつ堕落性を助長させてしまうのが結果論的な思考です。
このような結果や現象だけを見て判断する結果論的思考が、輪廻転生説を生み出した一つの要因と言えます。
(3)復帰原理の観点‐堕落人間の願望
堕落した世界に生きている私たちは、心から満足する人生を送ることができる人はほとんどいないでしょう。
ですから、「できることなら、もう一度生まれ変わって人生をやり直したい」と考える人は多いのではないでしょうか。
そのような堕落人間の切実な願望こそが、輪廻転生説が生じたもう一つの原因と考えることができます。
一般的にも「歴史は繰り返す」と言われますが、それは、人間の責任分担が全うされなかったために摂理が失敗し、それが何度も繰り返されてきたからです。
この復帰原理の観点からの考察は、次の「再臨復活の原理」でより詳細に考えてみることにします。
「再臨復活の原理」から見た輪廻転生説
冒頭で紹介したみ言のように、「統一原理」では、「再臨復活の原理を知らないで、ただ、その現れる結果だけを見て判断したために生まれてきた」(『原理講論』p232)のが輪廻転生説だとしています。
さきほど、堕落人間は過程を無視して結果を過度に重視する傾向があると言いましたが、霊人たちの復帰の過程を解明したのが「再臨復活の原理」です。
では、この「再臨復活の原理」とはどのような原理なのかについて調べてみることにしましょう。
(1)霊人体の成長原理と霊人たちが再臨する理由
人間の霊人体は、肉身の成長と共に成長し、肉身生活の善行によって善化され、完成するようになる、というのが創造原理です。
人間が地上で善の生活をして人格を完成することによって、霊人体も完成するようになるのです。
しかし、堕落人間にはサタンが侵入できる原罪があり、また善よりも悪に傾きやすいサタン世界に生きているため、地上で霊人体を完成できる人は皆無です。
そのため、霊人体が未完成のまま霊界に行くようになってしまうのですが、そこでは肉身がないために霊人体を成長させることができません。
ですから、地上人の肉身を通して完成する道を求めるため、霊人たちは地上に再臨せざるをえなくなるのです。
その時、霊界の霊人は、自分が担っていた使命と同じ使命をもつ地上人に臨んでくるようになります。
それは、相対基準を結びやすいからですが、このことについて『原理講論』には次のように記述されています。
このときに、その協助を受ける地上人は、自分自身の使命を果たすと同時に、自分を協助する霊人の使命までも代理に成し遂げるのである。
ゆえに、この使命を中心として見れば、その地上人の肉身は、彼を協助する霊人の肉身ともなるのである。(『原理講論』p231)
かつて地上にいた霊界の霊人たちが再臨するとき、完成できなかった自分の使命と同じ使命をもつ地上人に再臨するというのが原則です。
そして、その霊人が復活できるかどうかは、協助を受ける地上人が使命を完成できるか否かにかかっているわけです。
(2)輪廻するのは人の「魂」ではなく「使命」
地上で使命を果たす肉身は一つしかないので、使命を中心として見たとき、その肉身は、霊界から協助する霊人の肉身にもなります。
復帰摂理歴史でこの代表的な例を挙げてみると、預言者エリヤと洗礼ヨハネのケースがあります。
したがって、洗礼ヨハネはエリヤの肉身の身代わりとなる立場にあったので、使命を中心として見れば、彼はエリヤと同一の人物になるのである。(『原理講論』p205)
ですから、この現象だけを見て判断すると輪廻転生しているように見える、というのが「統一原理」の輪廻転生説に対する見解で、『原理講論』には次のように記述されています。
この再臨復活はすべての人に起こることなのですが、特にメシヤが地上に来られる終末期になるほど増えていきます。
したがって、すべての霊人は地上人たちに再臨し、彼に協助することによって、彼らが地上にいるとき、完成できなかった使命を完遂させるのである。
それゆえに、霊人たちの協助を受ける地上人は、彼に協助するすべての霊人たちの再臨者であり、したがって、その地上人はすべての霊人たちがよみがえったかのように見られるのである。(『原理講論』p232)
「私という個性体はどこまでも復帰摂理歴史の所産」(『原理講論』p287)なので、私自身も復帰摂理上の何らかの使命を担っています。
かつてその使命を担っていた人物が、使命完成のために私を協助しているのです。
以上のように、「統一原理」から見たとき、輪廻しているのは人間の「魂」ではなく、神様から人間に与えられた「使命」です。
文鮮明先生のみ言から見た輪廻転生説
霊人たちの再臨復活と輪廻転生説について、より詳細に語ってくださっている文鮮明先生のみ言がありますので、それをご紹介します。
堕落していない本来の人間は、天使世界と宇宙を主管できる価値のある存在です。人間が堕落することによって何段階も下に落ちたので、再びその位置まで上がっていかなければなりません。
上がっていくにも、一遍に上がっていくのではなく、段階を経て上がっていくのです。段階を経て、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙まで復帰して上がっていかなければなりません。
一遍に上がっていく道がないので、一段階、一段階を開拓しながら、個人から家庭へ、家庭から氏族へ、氏族から民族へ、このように段階を経ていかなければならないのです。
このような観点から神様の摂理を見てみると、旧約時代、すなわち個人を救い得る個人的な摂理時代以前に死んだ霊人たちは、その時代に入って恵沢を受けようとするというのです。
それで、一段階を上がっていくためには、必ず蕩減が起こります。一段階を越えるためには、カインとアベルのときのような蕩減役事が必ず起こります。
ある霊人が、この時代を経てきながら甲という人に協助してきたとしても、一段階を越えていくためには、そのままでは越えられません。ここには必ず蕩減期間があるのです。
それは、一日、二日に成されるのではなく、七年や四十年、七十年、あるいは何世紀を経ていくことがあります。ですから、ここで協助した霊人は、その蕩減期間が終わらないうちは続けて上がっていけないので、霊界に帰るのです。
その霊人は、地上にいる甲という人が基盤をすべて築いてくれるのを願っているのですが、その人がその期間内に蕩減を果たせずに死ぬことになれば、その霊人は、第二次に乙という人を選んで、乙に再臨するのを待ち望みます。ですから乙に再臨する霊人は、甲に再臨していた霊人です。
その霊人がパウロなら、パウロが時代的に一段階、一段階上がっていくためには、第一次に再臨した甲という人が蕩減期間内に蕩減を果たせずに死んだ場合、第二次として乙という人に再臨して、協助して上がっていくのです。
このように必ず蕩減期間があるのです。蕩減期間は、原理的な期間があって、短期間にはなされません。
第二次に選んだ乙という人が蕩減できなくなれば、その次には、丙という人を選んで再臨します。この時に、乙が「私はパウロの霊の協助を受けて今役事している」というような文章を書き残していたり、語ったりしていたとすると、その次の時代の丙という人も、「パウロの霊の協助を受けて役事している。私がパウロだ」と言います。
このようになるので、結局は、パウロの霊が乙として現れ、再び丙として現れたのと同じように見えるのです。このような現象が起きると、これだけを見て「輪廻だ」と言うのです。リーインカーネイション現象のようなものとして現れます。しかし、それは全体を知らないために、そのように言うのです。
本来の人間は、サタンの支配を受けず、神様の直接主管圏内で暮らさなければならないのに、堕落することによって堕落圏で暮らすようになったので、それを抜け出すためには、個人として蕩減し、家庭として蕩減しなければなりません。これを蕩減せずには抜け出せないのです。
霊人は、必ずその時代ごとに再臨現象を経て現れるので、それが輪廻、すなわち生まれ変わる現象に見えるというのです。
このような観点で見るとき、皆さんも同様です。皆さんが個人的にただ信じて死ぬようになれば、家庭をもてなかったために、家庭基準、氏族基準、民族基準、国家基準、世界基準といった段階をすべて越えていかなければなりません。ですから、何億万年かかるかもしれないのです。それは無限と同じです。
イエス様も国の基準を越えられなかったので、国の峠を越えるために再びやって来て、国の峠を越えて初めて天国に入ることができるのです。イエス様は、今楽園にいますが、同様の道理です。
このような立場で、イエス様がこの中のある人に再臨して、その人を直接指導するようになれば、イエス様が臨在したその人は、「自分がイエスだ」と言います。それだけを見れば、昔のイエス様が生まれ変わったと思うので、輪廻説のように見える現象が起こることになるのです。(『文鮮明先生御言選集』54-277 1972.3.26)
堕落観念が欠如している輪廻転生説
神様を中心とする復帰摂理歴史では、人間に与えられた使命が未完成の場合、次の人物に継承されていくようになります。
そして、その結果的な現象を見て、人の魂は解脱するまで輪廻転生していると考えるようになりました。
しかし、そもそも神様は、人間が何度も人生を歩まなければ完成できないようなレベルでは創造されていません。
創造本然の人間は、一度の人生で十分に完成できるよう創造されており、それができなかったのは堕落したからです。
輪廻転生の思想にはこのような堕落観念が欠けているため、堕落したこの世界をそのまま肯定してしまう傾向があります。
そうなると、サタンを認識して分立することが難しくなり、サタンに侵入されやすくなるので、神様の復帰摂理の進展を妨げてしまう危険があるのです。
最後に重ねて強調しておきたいことは、「統一原理」の観点から見たとき、輪廻しているのは人間の「魂」ではなく「使命」だということです。