【今回深掘りする原理のみ言】
創造原理によれば、神の愛とは三対象の愛によって、三対象目的を完成した、四位基台の主体的な愛をいう。したがって、神の愛がなければ、人間創造の目的である四位基台が成就されないために、愛は人間の幸福と命の源泉なのである。(『原理講論』p112)

 

神様は心情の神であり、心情とは、「愛することによって喜びを得たいという情的な衝動」です。

そして、「統一原理」では神様の創造目的を喜びを得ることとしていますが、神様の中で、愛したいという願望と喜びを得たいという願望はどのような関係にあるのでしょうか。

今回は、神様の愛と喜びがどのような関係なのかを深掘りしながら、果たして神様は自分だけの喜びのために人間を創造されたのかということについて調べてみたいと思います。

神様の創造目的と心情について

(1)神様の創造目的(喜び)に反発する人がいるのはなぜ?

まず、神様の創造目的について記述されている箇所を『原理講論』から引用してみましょう。

神が被造世界を創造なさった目的は、人間をはじめ、すべての被造物が、神を中心として四位基台を完成し、三大祝福のみ言を成就して、天国をつくることにより、善の目的が完成されたのを見て、喜び、楽しまれるところにあったのである。(『原理講論』p64~5)

 

このように神様の創造目的は喜びにあるわけですが、これを聞いた人の中には、「神様は自分の喜びのために人間や世界を創造したのか、なんて独りよがりで自分勝手なんだ!」と反発する人がいるかもしれません。

なぜこのように反発する人がいるのかというと、その理由には次の二つがあります。

一つは、堕落して自己中心になった人間は、愛することよりも喜びを得ることを優先するようになったため、その基準で考えてしまうからです。(詳しくは後述)

もう一つは、神様が心情の神様であり、心情とはどのようなものなのか、神様にとっての喜びとは何か、ということが分からないためです。

(2)人格をもつ神様の中心は心情

神様がどのような方なのかということを知らないと、「統一原理」が言う神様の創造目的に対して誤解する人が出てきます。

『原理講論』の創造原理では、神様の属性について次のように定義されています。

神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。(『原理講論』p47)

 

このみ言にある「本性相と本形状の二性性相の中和的主体」とは、人間で言うと心と体が一体になっていることを意味し、神様が人格的な存在であることを明らかにしています。

そして、その人格の中心に心情があり、心情は「愛することによって喜びを得たいという情的な衝動」です。

それでは次に、神様についてさらに理解するために、神様の愛と喜びとはどのようなものなのかについて調べてみることにしましょう。

神様の愛と喜びについて

(1)神様の愛とは?

原理的な観点から見たとき、神様の愛とは次のようなものになります。

創造原理によれば、神の愛とは三対象の愛によって、三対象目的を完成した、四位基台の主体的な愛をいう。したがって、神の愛がなければ、人間創造の目的である四位基台が成就されないために、愛は人間の幸福と命の源泉なのである。(『原理講論』p112~3)

神の愛は三対象の愛として現れ、四位基台造成のための根本的な力となるのである。(『原理講論』p73)

このように、神様の愛とは、人間の幸福と命の源泉であり、神様を中心とする四位基台を形成するための根本的な力となるものです。

次に、心情的な観点から見た神様の愛について、文鮮明先生のみ言を見てみましょう。

 神様の愛はどのような愛でしょうか。与えて満足するものではなく、与えてもまた与えたいと思い、与えきっていないことを恥ずかしく感じる、そのような愛です。与えて恥ずかしく感じる人であるほど、本当の愛の主人です。
 父母は子供に服を着せてあげても、もっと良い服を着せてあげられずに申し訳なく思います。与えて満足するのではなく、不足だと感じるので、愛を通してそれを補充してあげるのです。(『文鮮明先生御言選集』38-326 1971.1.8)

 

神様の中では愛したいという思いが最も中心的な願望であり、与えても、それを忘れてまた与え続けたいと思う、それが神様の愛です。

(2)神様にとっての喜びとは?

次に、神様にとっての喜びとはどのようなものなのかを調べてみることにしましょう。

まず、どのようなときに喜びが生ずるのかについて『原理講論』には次のように記述されています。

喜びは独自的に生ずるものではない。無形のものであろうと、実体であろうと、自己の性相と形状のとおりに展開された対象があって、それからくる刺激によって自体の性相と形状とを相対的に感ずるとき、ここに初めて喜びが生ずるのである。(『原理講論』p65)

 

「統一原理」から見た場合、喜びとは自分の性相と形状に似た対象を通じて生ずるものだということになります。

創世記の1章27節に「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」とあるのは、人間を創造した目的が喜びにあったからです。

そして、人間が神様の喜びの対象になるには、「かたち」だけでなく、次の要件を満たさなければなりません。

 被造物がいかにすれば、神に一番喜ばれるのであろうか。神は万物世界を創造されたのち、最後に御自分の性相と形状のとおりに、喜怒哀楽の感性をもつ人間を創造され、それを見て楽しもうとされた。
 そこで、神はアダムとエバを創造なさったのち、生育せよ、繁殖せよ、万物世界を主管せよ(創一・28)と言われたのである。この三大祝福のみ言に従って、人間が神の国、すなわち天国をつくって喜ぶとき、神もそれを御覧になって、一層喜ばれるということはいうまでもない。(『原理講論』p64)

 

 

このように、人間が神様から与えられた三大祝福を実現して喜び、善の対象になったとき、神様は喜びに満たされるのです。

(3)なぜ三大祝福の実現が神様に似ることになるのか?

それでは、人間が三大祝福を実現することがどうして神様に似ることになるのでしょうか?

それは、人間に与えられた三大祝福が創造原理で明らかにされている神様の定義と対応しているからです。

1本性相と本形状の二性性相の中和的主体 ⇒ 個性完成

2本性相的男性と本形状的女性の二性性相の中和的主体 ⇒ 子女繁殖

3被造世界に対しては性相的な男性格主体 ⇒ 万物主管

※参考記事
神様が人間を創造された目的②神様の定義と三大祝福

 

ですから、私たち人間が三大祝福を実現するということは、すなわち神様に似た存在になることです。

そして、それは、神様の愛を中心とする私、神様の愛を中心とする家庭、神様の愛を中心とする世界を完成することなのです。

それを神様がご覧になったとき、はじめて神様は完全な喜びを感じることができるのです。

以上のように、神様には愛したいという願望と喜びたいという願望があり、愛することが主体的で第一の目的、喜びはその愛した結果として得られる対象的なものなのです。

愛と喜びの関係性が逆転した堕落人間

『原理講論』の冒頭に「人間は、何人といえども、不幸を退けて幸福を追い求め、それを得ようともがいている」とあるように、人間がもつ喜びを得たいという願望は、自分の意志では抑えられないものです。

しかし、その願望を完全に満たすことができた人は、一人もいないのではないでしょうか。

それは、完全な喜びとは、神様から来る愛を通してのみ得ることができるものだからです。

神様がそうであるように、人間の本性は本来、喜ぼうとする衝動よりも愛そうとする衝動の方が強いのです。

そして、愛と喜びは主体と対象の関係にあり、愛が喜びのための手段なのではなく、愛したことの必然的な結果として喜びが生ずるのです。

ところが、この創造本然の世界における愛と喜びの関係性が、人間の場合は堕落によって逆転してしまったのです。

つまり、堕落したことによって人間は神様の心情が分からなくなり、愛することよりも自分を中心とする喜びを優先するようになってしまったということです。

そのため、私たちが得ている喜びには永遠性がなく、一時的で限定されたものになっています。

このような堕落した人間の愛について、文鮮明先生は次のように語られています。

 人間は、堕落することによって神様の愛を失ってしまいました。神様の愛がない状態で関係を結んだのが堕落なので、今日私たちが世の中で結ぶ愛の因縁は、本性の人間が慕えない愛です。その愛は、地上ですべて溶けてなくなってしまうのです。
 ですから、いくら地上で仲の良い夫婦でも、霊界に行けば他人になってしまうのです。間違いなく別れてしまいます。しかし、もともと堕落せずに神様の愛で結合して出発した夫婦ならば、永遠に別れることはありません。(『文鮮明先生御言選集』18-329 1967.8.13)

 

初恋などのケースで、その人を好きだったという記憶は残っていても、その感情はなくなってしまうという経験をした人は多いのではないでしょうか?

それと同じように、地上で愛し合っていた夫婦が霊界では他人になるというのは、愛し合っていた記憶だけが残り、その愛の感情はなくなってしまう状態を意味しているのではないかと考えられます。

それは、地上での愛が神様を中心とするものではないために、永遠性がなく、限定されたものだからなのでしょう。

さらに、心と体の主体・対象の関係から、堕落した人間の愛は体を主体としたものであることを文鮮明先生はこのように語られています。

 人間の堕落によって、今日、愛は根本的に自己中心的になってしまいました。このような自己中心的な愛は、精神から来るものではなく、肉体を中心にしています。
 肉体はサタンが活動する所です。肉体はサタンの舞踏場であり、停泊地です。精神は神様が住まわれる所、すなわち主体の位置になります。
 しかし、精神の対象の位置にあるべき肉体がもう一つの主体になろうと努力しながら引き続き精神を誘惑し、だましています。(『文鮮明先生御言選集』201-208 1990.4.9)

 

堕落した人間は、神様とは反対に、本来主体であるべき愛が対象になり、対象であるべき喜びが主体になってしまっています。

これを目的と手段の観点で言い換えると、私たち堕落した人間には、肉身的な喜びを得るという目的のために、精神的な愛を手段として使ってしまう傾向があるのです。

肉身的な喜びや幸福自体は悪ではなく、創造本然のものなのですが、それは本来、愛した結果として得ることができるものです。

ところが、堕落して神様の愛を失い、肉身を中心とする自己中心的な喜びを求めることが主体になってしまったのです。

愛する対象として人間を創造せざるをえなかった神様

このように、愛と喜びの優先順位が逆になり、それが実際に展開されている世界に生き、日々それらを見聞きしているのが私たちです。

そういったことに違和感をもち、良くないことと考える人たちの中には、神様の創造目的が喜びにあると聞くと、神様が人間を愛するのは自分の喜びのためなのかと失望したり、反発したりする人が出てくるのです。

しかし、心情の愛そうとする衝動は、愛さずにはいられない欲望なので、どうしても愛する対象を必要とします。

被造世界が創造される前には、神は性相的な男性格主体としてのみおられたので、形状的な女性格対象として、被造世界を創造せざるを得なかったのである。(『原理講論』p47)

 

ここに心情の神様が人間を中心とする被造世界を創造された動機と目的があるのであって、自分だけの喜びのために人間を創造されたのではありません。

最初に神様が人間を愛し、そして人間が幸福になって喜ぶ、その姿を見てはじめて神様は喜びを享受できるようになっているのです。