【前編】では、「結果論的思考」とその弊害について説明し、神様は結果論者のような考え方をされないことをお伝えしました。
今回の【中編】では、「結果論的思考」とは真逆の「確率論的思考」について解説します。
この「確率論的思考」は神様の考え方と共通点が多く、私たちが堕落性を脱いで成長するためにも、組織の継続的な発展のためにも、体得しておいたほうがよい考え方です。
【前編】の復習
■「結果論的思考」とは?
ここで言う「結果論的思考」とは、「結果=原因・過程」と考え、結果を見て原因や過程の良し悪しを判断し、それ以上、探究しようとしない考え方のことです。
原因が結果として現われることは事実であり、「統一原理」の創造原理でも、自然界に普遍的に潜んでいる共通事実を探ることで神様の神性を明らかにしています。
しかし、堕落した人間には思考や物の見方に偏りがあるため、物事を客観的に見て、公平な価値判断をすることができません。
ですから、私たちが現われた結果だけを見て、その原因と過程の良し悪しを正しく判断することはとても困難なのです。
■「結果論的思考」の弊害
「結果論的思考」の弊害としては、以下のような点を挙げることができます。
・一貫性のある正しい判断ができなくなる
・人に対して不当な評価や過度な批判をしてしまう
・思考停止状態になってしまう
・短期目線になって目の前の実績だけに執着しやすくなる
・よい結果を出すために自分ができることだけをやるようになる
原因と過程を軽視して結果がすべてと考える「結果論的思考」は、神様の考え方とは相容れない思考です。
結果だけを見て物事の良し悪しを判断していると、神様を中心とする善悪判断ができず、サタン勢力に惑わされる確率が高くなってしまいます。
アダムは、霊的に堕落したエバが死んでいないという結果を見て、「取って食べると死ぬ」と言われた神様の戒めに対する信仰が揺らぎました。
そして、そのまま堕落してしまったのですが、この過程で生じた堕落性を私たちは受け継いでいるのです。
※参考記事
アダムとエバの堕落③アダムはなぜ堕落したのか?
■神様は結果論者ではない
神様は、召命した中心人物たちが何度失敗しても、原理原則を変更されずに今まで守ってこられました。
それは、神様が結果論者のような考え方をされない、ということを意味しています。
「確率論的思考」と「結果論的思考」
(1)「確率論的思考」とは?
ここで言う「確率論的思考」とは、「結果論的思考」と対極的な立場にある思考を意味しています。
この「確率論的思考」の特徴としては、多様性、失敗肯定、長期的視点の三つがあり、これらは「結果論的思考」の特徴と正反対のものです。
【「確率論的思考」と「結果論的思考」の主な違い】
多様性と画一性
失敗肯定と失敗否定
長期的視点と短期的視点
(2)多様性を認める思考
人間の個性について、『原理講論』には次のように記述されています。
したがって、神に内在しているある個性体の主体的な二性性相に対する刺激的な喜びを、相対的に起こすことができる実体対象は、その二性性相の実体として展開されたその一個性体しかないのである。
ゆえに、創造目的を完成した人間はだれでもこの宇宙間において、唯一無二の存在である。(『原理講論』p253)
このように、私たちひとり一人は唯一無二の存在なので、独自の考えと視点をもち、異なる意見をもつようになっています。
正分合作用の三段階は、それぞれ原因、過程、結果に相当しますが、分の段階で主体と対象に分かれます。
ですから、結論が出る前の過程段階では、様々な意見が出て、ときには全く正反対の意見が出る方がより原理的です。
それはちょうど堕落前のエバが「取って食べると死ぬ」という神様の戒めのみ言と、「取って食べれば目が開ける」という天使長の言葉を聞いていたのと同じ状況です。
これはアダムとエバが自らの責任分担を完成する過程で、必ず通過しなければならない段階でした。
そして、彼らが「責任分担を完成する前に取って食べると死ぬ」、「責任分担を完成してから取って食べれば目が開ける」ことを自らの責任分担として悟るべきだったのです。
このように、過程段階で異論や反対意見を統一、統合して出された結論は、一つ次元の高い洗練されたものになるのです。
逆に、一つの異論も反対意見もなく、そのまま通過した結論は、見落としや欠点があるものです。
異なる意見や反対意見を許容し、むしろ違うことに価値をおいて尊重することで、持続的な成長と発展を可能にします。
(3)失敗を許容し活用する思考
『原理講論』のp80には、「中心人物たちが、神も干渉できないそれ自身の責任分担を遂行するに当たって、常に失敗を繰り返してきた」とあります。
【前編】の復習のところでもお伝えしたように、神様は結果論者のような考え方はされません。
そのため、一つの摂理が失敗しても、その過程の中に善の条件を見出されるのです。
それが「心情の基台」というもので、これを神様は復帰摂理を延長できる善の条件とされました。
神はアベルが天に対して忠誠を尽くした、その心情の基台の上に、その身代わりとしてセツを立てられたのである(創四・25)。(『原理講論』p302)
ノアは、既にアベルが「象徴献祭」を神のみ意にかなうようにささげて、天に対し忠誠を尽くした、その心情の基台の上で呼ばれた。(『原理講論』p304)
アブラハムは「象徴献祭」に失敗したけれども、神はアベルやノアが、「象徴献祭」に成功した歴史的な心情の基台を条件として彼を再び立てて、もう一度献祭をせしめることができたのである。(『原理講論』p326)
アベルもノアもアブラハムも、結果的には失敗しましたが、その失敗に至るまでの過程で、彼らが天に対して忠誠を尽くした心情の基台を条件として復帰摂理は延長してきました。
このように神様は、たとえ結果が失敗に終ったとしても、その過程で何か善の条件はないかと探し、それをもって摂理延長の条件とされ、私たちに再び復帰のチャンスを下さるのです。
もちろん、同じ失敗でも、許容される失敗と許容されない失敗があるのも事実です。
その違いは、不確実性(運や偶然)による失敗なのか、それとも責任を果たさないことによる失敗なのかということです。
人事を尽くしてできることをすべてやったとしても、結果としてそれが実らないこともあります。
その場合の失敗は許容されるべきですし、そうでない場合の失敗は責任を追及されなければなりません。
「結果論的思考」で物事の価値判断をする人たちは、許容される失敗と許容されない失敗を区別できていないのです。
(4)長期的視点に立つ思考
善神の業と悪神の業の区別について、『原理講論』には次のように記述されています。
それゆえに、このような霊的な業は、原理が分からない人にとっては、それを見分けることが非常に困難であるが、時間が経過するに従って、その結果を見て、その内容を知ることができるのである。(『原理講論』p120)
私たちの身の回りで起きる出来事に対して、それが神様の役事なのか、サタンの業なのかを見抜くのはかなり困難なことです。
しかし、時間がたつに従って、水と泥が上下に分かれていくように、はっきりと見分けがつくようになります。
これと似たものに、確率論の基本法則の一つである「大数の法則」があります。
「大数の法則」とは、ある事柄を何度も繰り返すと、一定事象の起こる割合が回数を増すに従って一定値に近づく、という経験法則のことです。
例えば、コイン投げで裏と表が出る割合は(裏表の重量が均等という前提で)五分五分です。
しかし、短期的には裏が何度も連続して出ることもあるので、次にどちらが出るかを当て続けることは難しいです。
それが何百回、何千回となると、裏表の割合がだいたい五分五分になっていくわけです。
このことから、私たちがコントロールできない不確実性(運や偶然)の影響を低くするには、長期的な視点で考えて行動する必要があることが分かります。
「確率論的思考」は、不確実性のある世界、偶然の影響を受ける世界で、長期的な成功をもたらす考え方なのです。
「確率論的思考」と組織
(1)多様性と組織-人(特に責任者)はなぜ反論を嫌うのか?
組織の長の立場にいる人で、組織の構成員から自身が下した方針や結論に対して異論や批判を受けたとき、気分を害さない人はあまりいません。
過去に成功体験が多く、優れた実績を積み上げた人であればあるほど(※大概はこういう人が責任者に抜擢されます)、その傾向が強いようです。
過去の成功体験に固執し、自分のやり方に自信をもち、それが正しいと信じていると、「反論・批判=間違った意見」と考えやすいのです。
その心理的な理由の一つとして考えられるのが、人格と意見を同一視していることが挙げられます。
その場合、自分の意見に対する反論を聞くと、まるで自分の人格を否定されたかのように感じてしまうのです。
上述したように、すべての人に個性があるのですから、一つのテーマについて様々な意見があるはずです。
反論する側の人も同じように人格と意見を同一視していると、「反論=人格否定」と考えて反対意見を言いにくくなるので、両者が人格と意見を区別して議論しなければなりません。
(2)失敗を経ていない偉大な発見・発明はない
結果論者たちの多くは「失敗=絶対悪」と考え、失敗することを恐れてそれを避けようとします。
そして、その最も効果的な方法は何もしないことなので、チャレンジも試行錯誤もしなくなります。
そのような雰囲気が組織に蔓延すると、「失敗は成功の母」であるにもかかわらず、将来の大成功の芽も、初期段階ですべて摘まれてしまいます。
そして、組織自体の保全と現状維持が最優先になり、環境の変化に対応できない硬直化した組織になっていくのです。
失敗を許容しない
⇒チャレンジ精神の喪失
⇒環境変化への不適応
⇒組織崩壊
小さな失敗を活かして大成功したり、大発見をした例は数多くあります。
私たちがよく使っている3Mのポストイットや、ノーベル賞を受賞した田中耕一氏のエピソードは有名です。
映画『スター・ウォーズⅧ/最後のジェダイ』の中で、自責の念に駆られ、一歩前に踏み出せずにいるルークにヨーダが次のように語る場面があります。
学んだことを伝えよ
強さと熟達の業(わざ)
弱さと愚かさ
失敗も伝えよ、それが大事じゃ
失敗こそが最高の師
ルーク、わしらは超えられるためにこそある
それこそが全てのマスターの真の責務じゃ
この映画自体は、陽陰(光と影)と善悪を混同した善悪二元論的な描写が多いので、それほどおすすめではないのですが(※スターウォーズファンの方がいたらゴメンなさいm(_ _)m)、このヨーダの言葉はとても共感できます。
(3)継続的発展にとって成功こそ最も警戒すべきこと
「失敗は成功の母」という言葉は辞書にもあるのでよく知られていますが、「成功は失敗の母」という言葉もあるそうです。
これは「成功体験もそれに執着しすぎると失敗を生む」という意味で、東京経済大学の学長だった壹岐晃才氏の言葉とされています。
人は、過去の成功体験からなかなか抜け出せず、過去の成功事例をそのまま続けて当てはめようとする傾向があります。
そして、それが失敗すると、「やり方は間違っていない。他に原因があるはずだ」と考えてしまうのです。
過去の状況では成功したやり方でも、環境の変化によってうまくいかなくなることがあります。
成功体験を無条件に当てはめてばかりいると、小さな失敗を見過ごしてかえって大失敗し、組織の崩壊を招きます。
結果論者のように「成功=絶対善」と考えていると、一時的に成功することはできても、長期的な成長と発展は難しくなると言えるのではないでしょうか。
~【後編】につづく~