洗礼ヨハネは「霊的な摂理が切れ」た結果、天を中心とする立場から自分を中心とする立場に戻ってしまったとあります。
今回は、このみ言にある「霊的な摂理が切れる」とはどういうことなのかについて深掘りしてみたいと思います。
【前編】では、洗礼ヨハネの立場と使命を確認し、「統一原理」の観点から見た「霊的な摂理が切れる」ことについて解説します。
洗礼ヨハネの立場と使命
最初に、洗礼ヨハネがどういう立場の人物で、どのような使命があったのかを確認しておきましょう。
彼は、ルカ福音書一章17節に記録されているとおり、エリヤの心霊と能力をもって、主のみ前に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いをもたせて、整えられた民を主に備えるために生まれた人物であった。それゆえに、彼は使命的な立場から見て、エリヤの再臨者となるのである。(『原理講論』p204~5)
エリヤは統一王国時代の預言者で、バアルの預言者とアシラの預言者850人を滅ぼすなど(列王上一八・19)、サタン分立の役割をして昇天した(列王下二・11)人物です。
ユダヤ教ではモーセ以後、最大の預言者とみなされ、マタイ福音書17章3節を見ると、変貌山でイエス様の前にモーセと共にエリヤが現れています。
しかし、天的な使命を完遂できずに昇天したため(列王下二・11)、神様の復帰摂理路程に再びサタンが横行するようになりました。
それで神様は、マラキ預言者マラキを通じてエリヤを再び送ると約束された(マラキ四・5)のですが、その人物が洗礼ヨハネです。
それでは次に、エリヤの再臨者である洗礼ヨハネの使命を確認してみましょう。
洗礼ヨハネがイエスに洗礼を授け、彼を証したことによって、彼の証人としての使命はみな終わったのであった。
では、その後における彼の使命は何であったのだろうか。彼の父親ザカリヤは聖霊によって感動させられ、生後八日目の洗礼ヨハネに対して「生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださるのである」(ルカ一・75)と、彼の使命を明白に預言したのであった。
それゆえに、洗礼ヨハネはイエスを証したのちには、彼の前に一人の弟子の立場で彼に従い、仕えなければならなかったのである。(『原理講論』p200)
このようにエリヤの再臨者である洗礼ヨハネには、メシヤの証人としての使命と1人の弟子としてメシヤに侍るという使命があります。
『原理講論』のp204には「イエスによく仕えたならば、彼は必然的に、イエスの一番弟子になるはずであった」とありますので、弟子の中でも最も優れた弟子になるはずでした。
霊的な摂理が切れたとはどういうことなのか?
こちらの記事(「統一原理」で言う「神性」とは何か?)で四つの堕落性から見た四つの神性について解説しました。
今回はこの四つの神性と四つの堕落性の観点から、洗礼ヨハネから霊的な摂理が切れたとはどういうことなのかを探ってみることにします。
(1)「その中心が天の方にあった」の意味
第一の堕落性が「神と同じ立場をとれない堕落性」(『原理講論』p294)ですから、人間が本来もつべきだった第一の神性は「神と同じ立場をとる神性」です。
そこから考えると、「その中心が天の方にあった」(『原理講論』p200)とは、洗礼ヨハネが神様と同じ立場に立ってイエス様を見ていたことを意味していると言えます。
ですから、神様がメシヤとして送られたイエス様を「メシヤと知って証した」(『原理講論』p200)わけです。
神様と同じ立場に立って見つめ考えることができるときは、自分の価値観や常識では理解できなくても、そこには何か意味があると考えることができます。
このときの洗礼ヨハネも、イエス様に対する自分の考えよりも、神様の考えを優先できたので、イエス様をメシヤとして証し、メシヤの証人としての使命を果たしたのです。
(2)「人間洗礼ヨハネに立ち戻る」の意味
「人間洗礼ヨハネに立ち戻る」(『原理講論』p200)とは、神様を中心とする立場から自分を中心とする立場に立ったことを意味しています。
これは、神様のみ言と自分の考えが同等になり、どちらが正しいのか分からなくなっている状態です。
ちょうど霊的堕落する直前に「天使の誘惑により、知的に迷わされ、心情的に混沌となって」(『原理講論』p127)いたエバと同じ立場です。
このときの洗礼ヨハネについて文鮮明先生は次のように語られています。
しかし、彼が正気に戻ったときは違いました。御霊が自分から去ってしまうと、それは夢のことのように思いました。ここに霊的に啓示を受ける食口がいれば、皆さんもそのような経験をしたことがあるでしょう。(『文鮮明先生御言選集』52-120 1971.12.25)
ある特定の状況で受けた霊的な恩恵が、以前の状態に戻ったとたんにその記憶だけが残り、心霊的な感動がなくなるということがあります。
このときの洗礼ヨハネも同様で、イエス様がメシヤであるという神様のみ言と自分の価値観との狭間で葛藤状態にあったと考えられます。
このことを『原理講論』では「人間洗礼ヨハネに立ち戻る」と表現されているのです。
(3)イエス様に対する洗礼ヨハネの疑念
それでは、洗礼ヨハネはイエス様に対してどのように見ていたのでしょうか?
洗礼ヨハネがイエス様に対してどのように考えていたのか文鮮明先生のみ言を見てみましょう。
ですから、洗礼ヨハネも証をしておいて疑ったのです。「不倫な血統関係を通して生まれた息子が、そのような人がメシヤになるとは!」と疑いはじめたということです。天が(イエス様がメシヤであると)教えてくれましたが、それを疑わざるを得なかったのです。(『文鮮明先生御言選集』261-111 1994.06.09 )
洗礼ヨハネは、神様から直接イエス様がメシヤだということを教示されていました。(ヨハネ福音書1章33節)
しかし、イエス様の出生の背景を知っていたため、時とともに神様のみ言よりもイエス様に対する疑念の方が大きくなってしまったと考えることができます。
洗礼ヨハネがつくったサタン中心の堕落性の四位基台
イエス様に対する疑念が大きくなっていった洗礼ヨハネは、獄中に入ったあと、自分の弟子をイエス様のところに送って疑いを晴らそうとします。
ここまでの過程で洗礼ヨハネがつくってしまった堕落性の四位基台を整理してみることにしましょう。
洗礼ヨハネは、その中心が天の方にあったときには、イエスをメシヤと知って証した。けれども、彼から霊的な摂理が切れて、人間洗礼ヨハネに立ち戻るや、彼の無知は、一層イエスに対する不信を引き起こすようになったのである。(『原理講論』p200~1)
洗礼ヨハネは、神様と同じ立場に立ってイエス様を見ることができず、自分を中心にイエス様を見るようになりました。
イエスは、洗礼ヨハネを指して、彼こそまさしく、ユダヤ人たちが待ち望んでいたエリヤであると言われたのであるが(マタイ一一・14)、これと反対に、当人である洗礼ヨハネ自身は、既にこの事実を否認してしまった。(『原理講論』p195)
神様と同じ立場に立てなくなった洗礼ヨハネは、エリヤの再臨者であることを否定して自己の位置を離れるようになりました。
自分がエリヤである事実を自覚できなかった洗礼ヨハネは、特に、獄中に入ってから、他のユダヤ人たちと同じ立場で、イエスを見るようになった。したがって、イエスのすべての言行は人間洗礼ヨハネの目には、一様に理解できないものとして映るばかりであった。(『原理講論』p201)
自己の位置を離れた洗礼ヨハネは、他のユダヤ人たちと同じ立場に立ってイエス様を不信するようになりました。
そればかりでなく、彼もやはり、エリヤが来る前に現れたイエスをメシヤとして信ずることができなかったので、結局、自分の弟子たちをイエスの方に送って、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」(マタイ一一・3)と質問して、その疑いを解決してみようとしたのである。(『原理講論』p201)
イエス様に対する主管性を転倒して不信するようになった洗礼ヨハネは、自分の疑いを解決するために弟子に質問させて罪を繁殖させるようになりました。
そして、自分の弟子だけでなく、他のユダヤ人たちがイエス様の前に行く道まで遮り、さらに罪を繁殖させてしまったのです。
洗礼ヨハネがこのような堕落性の四位基台をつくってしまった結果、第1次世界的カナン復帰路程は失敗し、摂理は延長されました。
そして、イエス様ご自身が洗礼ヨハネの立場に立ってサタンから三大試練を受けることになってしまったのです。
~【後編】につづく~