先回の【前編】では、原罪の理解とメシヤ観が直結していること、各一神教の原罪観、そして「統一原理」の原罪観などについて解説しました。
そして、原罪は、それをもって生まれた人間が知ることはできず、無原罪のメシヤによってのみ明らかにされるものだということをお伝えしました。
今回は、文鮮明先生が解明された「統一原理」を中心に、神様の心情の観点から見た原罪について深掘りしてみたいと思います。
【前編】の復習
(1)原罪の理解とメシヤ観
原罪を認めるか認めないか、これによって罪を贖うメシヤを必要とするかしないかが決まります。
もし原罪を認めなければ、贖罪のために来られるメシヤとは異なった革命指導者のようなメシヤ観をもつようになるでしょう。
そのため、原罪を認め、そしてそれが血統問題だったことを認識しなければ、実際にメシヤが降臨されても、その方をメシヤと認識できない可能性が高くなります。
また、革命指導者のようなメシヤ観をもっていれば、その方の原罪清算に関する言動に対して理解できず、その価値も分からなくなります。
ですから、救いという観点から見たとき、原罪についてどのように理解するのかということは、とても大切な問題です。
(2)キリスト教が中心宗教である理由
あらゆる宗教の中で原罪を初めて認めたのはキリスト教であり、同じ一神教のユダヤ教やイスラーム(イスラム教)には原罪という概念はありません。
このようなキリスト教の特徴について文鮮明先生は次のように語られています。
キリスト教が神様の復帰摂理において中心的な役割を担っている理由はここにあると考えることができます。
そして、原罪が性の問題であると主張したのは、イエス様が降臨されてから約400年後のアウグスティヌスです。
イエス様の降臨から2000年たった現在、文鮮明先生によって初めて原罪が血統問題であり、人間は堕落することによって神様の血統からサタンの血統になってしまったことが明らかにされました。
(3)「統一原理」の罪観
さらに「統一原理」では、キリスト教で不明確だった罪についても、それが「天法」と「行為」の関係概念であることを明確にしました。
例として、ノア家庭の摂理で次子のハムが失敗したときのことについて『原理講論』から引用してみましょう。
このようなハムの裸体を恥ずかしがった行動がどうして罪として成立してしまったのか、その理由はこちらになります。
それゆえに、ノアの家庭は、裸を恥ずかしがらず、また、それを隠そうともしないという感性と行動とを見せることによって、サタンと血縁関係を結ぶ前の、アダムの家庭の立場を復帰するための蕩減条件を立てなければならなかった。
したがって、裸を恥ずかしがらず、また、それを隠そうともしないというかたちでの蕩減条件は、アダムの家庭の代わりに立てられたノアの家庭だけが立てるべき条件だったのである。(『原理講論』p312)
ノア家庭の摂理では、「天法」にあたるのが上記の「裸を恥ずかしがらず、また、それを隠そうともしないという感性と行動とを見せる」の箇所になります。
ハムの「行為」がこれに違反するものだったため、サタンがノア家庭に侵入できるようになったことから、それが罪として成立してしまったわけです。
ですから、裸を恥ずかしがる「行為」それ自体が罪になるのではないというのが「統一原理」の罪観です。
原罪を分からせまいとするサタンの妨害
「統一原理」は、創造原理、堕落論、復帰原理の三つの項目で構成されています。
このうち創造原理は、他宗教の教理と通じるところも多く、共感し納得できる人が多いかもしれません。
しかし、おそらく最も受け入れがたいのが、人間の堕落が血統問題であるとする堕落論の内容ではないでしょうか。
キリスト教以外の宗教では原罪を認めていませんし、もちろん日本の神道にも原罪の概念はありません。
ましてや、それが血統にかかわる性の問題だったということを受け入れるのは大変難しいでしょう。
その主な理由の一つは、自分の罪状を知られたくないサタンが、総力をあげて妨害してくるからです。
最初にサタンが狙うものはメシヤの命なのですが、その理由について『原理講論』には次のように書かれています。
その理由は、神の四〇〇〇年復帰摂理の第一目的が、メシヤ一人を立てようとするところにあったので、サタンはそのメシヤを殺すことによって、神の全摂理の目的を破綻に導くことができると考えたからである。(『原理講論』p422)
そして、人類に対しては、メシヤをメシヤと認識できないようにし、その方の言葉や行動を理解できないように惑わしてくるのです。
その代表的な例として、『原理講論』には洗礼ヨハネがイエス様を不信したときのことが記述されています。
自分がエリヤである事実を自覚できなかった洗礼ヨハネは、特に、獄中に入ってから、他のユダヤ人たちと同じ立場で、イエスを見るようになった。したがって、イエスのすべての言行は人間洗礼ヨハネの目には、一様に理解できないものとして映るばかりであった。(『原理講論』p200)
ここで洗礼ヨハネは、「獄中に入ってから、他のユダヤ人たちと同じ立場で、イエスを見るようになった」とあり、「神と同じ立場に立てない」という第一の堕落性をもつようになったことが示されています。
この洗礼ヨハネの例から、人間の堕落や原罪についても、神様の立場に立って考えるようにしなければ正しく理解するのが難しいことが分かります。
それでは次に、神様の心情の観点から見た原罪について調べてみましょう。
神様の心情の観点から見た原罪
(1)原罪があるとは神様の悲しみの対象になっていること
『原理講論』のp276に「人間が神のみ旨に反して堕落することによって神を悲しませた」とあるように、子女であるアダムとエバが堕落したときから、父母である神様は愛する子女を失った悲しみの神様になりました。
そして、堕落した人間は、神様の心情はもちろん、その存在さえも分からなくなってしまいました。
アダムとエバが堕落したあと、神様がどのような心情を抱えて復帰摂理を展開してこられたのか、『原理講論』で確認してみましょう。
そればかりでなく、神は、天に反逆する人間たちを救うために、愛する子女たちを宿敵サタンに犠牲として支払われたのであり、ついにはひとり子イエスまで十字架に引き渡さなければならないその悲しみを味わわれたのであった。
それゆえに、神は、人間が堕落してから今日に至るまで、一日として悲しみの晴れるいとまもなく、そのため、神のみ旨を代表してサタン世界と戦う個人と家庭と民族とは、常に血と汗と涙の道を免れることがなかったのである。(『原理講論』p591~2)
このように神様は、ご自身の心情やみ旨を愛する子女である人間に伝えることもできず、アダムとエバが堕落したときの衝撃的な悲しみが今も続いているわけです。
ですから、神様が原罪をもって生まれた私たちを見るたびに、アダムとエバが堕落したときの衝撃的な悲しみが想起されてしまうのです。
こちらの記事「み言と「統一原理」から見た神霊と真理【後編】」で説明したように、心情が形状化したものが血統です。
原罪をもって生まれたということは、サタンの血統を受けて生まれたことを意味するのですから、原罪があるということは神様の悲しみの対象になっていることなのです。
これをどれくらい実感しているかによって、メシヤの価値とその必要性を感じる度合いが違ってきます。
これは原罪の清算にも影響を及ぼすとても重要な問題で、このことについて文鮮明先生は次のように語られています。
(2)メシヤによって原罪を清算するとどうなるのか?
【前編】で説明したように、原罪はメシヤにしか分からないので、それを清算する原理を創造する資格と能力があるのはメシヤだけです。
それでは、神様から見たとき、メシヤによって原罪を清算した人はどのようになるのでしょうか?
メシヤによって原罪が清算された人は、神様の悲しみの対象から喜びの対象に変わるのです。
つまり、神様がその人を見たとき、堕落したアダムとエバではなくメシヤのことが想起されるので、喜びを感じることができるということです。
なぜかというと、メシヤによって原罪清算すると、サタンの血統から神様の血統に転換されるからです。
そして、その人が神様の願いにかなった行動をすればするほど、神様の喜びは無限に拡大していくようになります。
無条件に教えることができない神様の心情と事情
今まで人類は、父母なる神様がいることが分からず、また分かったとしても、自分という存在そのものが神様の悲しみの対象になっていることが分かりませんでした。
神様の心情が完全に分かり、原罪について明確に理解できるのは、イエス様のように真の父母として地上に来られたメシヤだけです。
ですから、神様が人類に対して原罪を教えることができたのは、イエス様のときになってからです。
さらに、原罪が性の問題であることを教えるのにイエス様から400年かかり、実際に原罪を清算できるようになるまでイエス様から2000年もかかりました。
このように長い年月がかかったのは、さきほども説明したようにサタンが妨害するからであり、受け止める側の私たち人間の成長に左右される問題だからです。
何でも無条件に教えてあげたいにもかかわらず、私たちが成長した分しか教えることができないというのが神様の悲痛な事情です。
このような神様の事情について語られた文鮮明先生のみ言を紹介しましょう。
ある父と子がいて、まだ未熟な幼子で何も分からない世間知らずの息子に、「何々の宝がここにあり、何々の宝があそこにある」と言って、主人に背いた僕や怨讐がいる所でそれを相続してあげれば、彼らがそのまま息子に宝を持たせると思いますか。サタンはそのような立場です。神様がすべて話してしまえば、神様の息子、娘よりもサタンが先に知ってすべて奪ってしまうというのです。(『文鮮明先生御言選集』9-235 1960.5.29)
2000年前のイエス様も同様で、『原理講論』にはイエス様の悲しい心情が次のように紹介されています。
そればかりでなく、イエスは弟子達にまでも、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ一六・12)と、心の中にあるみ言を、みな話すことのできない悲しい心情を表明されたのである。(『原理講論』p171)
これはイエス様の心情ですが、神様の心情も同じであり、それは今も続いているのです。
それは、いまだ多くの人たちが原罪を知らず、それが血統問題だということを知らずに生きているからです。
1人でも多くの人がメシヤによって原罪を清算し、神様の悲しみの対象から喜びの対象になることを心から祈ります。