『原理講論』のp250には「エサウはヤコブに素直に屈服した」とあるのですが、どうしてエサウはヤコブに屈服したのでしょうか。
『原理講論』にはその復帰原理的な意味と経緯などは書かれていますが、内面的な理由は説明されていないので、【後編】では主に文鮮明先生のみ言からその理由を深掘りしてみることにしましょう。
【前編】の復習
神様は、人間を創造されたご自身の責任として、ヤコブの路程を通してサタンを自然屈服させる典型路程を表示してくださいました。
そのため、モーセも、イエス様もそのヤコブ路程に従ってサタン屈服の路程を歩まれ、私たち自身もそれに従って歩むことによってサタンを自然屈服させることができます。
そして、神様がこのようにアベル的な人物を立てて摂理されるのは、カイン的な立場にいる人物を復帰するためです。
ですから、アベル的な人物として召命され、「信仰基台」を復帰した人は、神様が自分を通して救いたいカインは誰なのかが分かるようになっているのです。
また、アベル的な人物が「信仰基台」を復帰すると、カイン的な立場にいる人物の背後にいるサタンの活動が制限され、その人は神側とサタン側の中間位置のような立場に立つようになります。
その段階は、ちょうど霊的堕落する直前のエバと同じような立場で、どちらと相対基準を結んで授受作用するかによって、神側に行くかサタン側に行くかが決まります。
ヤコブはそのとき、エサウに対して自分が苦労して築いた財物を贈り、自らも最大の敬意を払って会いにいき、エサウと一つになることに成功しました。
エサウはなぜヤコブに屈服したのか?
【前編】では、主にヤコブの側の路程を中心に解説しましたが、今度は背後にいるサタンの霊的な働きが制限されたエサウの内面に注目してみましょう。
まず、文鮮明先生のみ言からエサウがヤコブに屈服するようになった原理的な理由を確認してみます。
ところが、なぜヤコブを歓迎するようになったのでしょうか。その背後の理由としては、ヤコブがあらゆる冒険によってラケルの父を撃退し、天使を屈服させ、いわゆる霊的な天使と反対する実体のラバンを退けたという内面的な条件が成立していたからです。
エサウが神様のみ言に従うヤコブの家庭に反対すれば、神様も赦すことができません。神様はヤコブの勝利基準を保護しなければならないのです。ヤコブがもっているその条件を打てば、打った者が打たれるようになるということを、エサウ自身は知ることができませんでしたが、本心の中で自分が従わざるを得ないことを知っていたというのです。これはヤコブの勝利とラケルの勝利によってそのようになったことを知らなければなりません。(『文鮮明先生御言選集』15-16 1965.1.31)
このみ言を見ると、そのときのエサウは、以前よりも自分の心の声を聞き、その声に従いやすくなっていたと考えることができます。
これは、ヤコブが立てた「信仰基台」によって、エサウに対するサタンの霊的攻勢の道が塞がったためでしょう。
さらに文鮮明先生は、エサウがヤコブに屈服したときの心の内面について次のように語られています。
それでお金もたくさんあり、羊もたくさんいて、すべての面でもっているものがカインよりも多いというのです。母親との縁をもち、父親との縁をもち、物も送ってしきりにそのようにしました。兄にどんどん物を送ったのです。
それでカインは、「弟は恐ろしい。神様が本当に弟を祝福したのだなあ。長子の特権を売ったのは私の過ちだった。そうだ、私が間違ったのだから、私は弟に及ばない。これから弟が来たら反対してはいけない。歓迎しなければならない」と考えました。神様がアベル(の立場にいるヤコブ)と共にいらっしゃることが分かったのです。(『文鮮明先生御言選集』106-181 1979.12.30)
ヤコブは、外的な実績や基盤においても、兄のエサウが認めるくらいの基準を備えていました。
もしこのときにエサウの背後のサタンが切れていなければ、たとえそのような弟ヤコブの基盤を見ても、エサウは屈服しなかったかもしれません。
ヤコブが「信仰基台」を立てて背後のサタンが切れていたからこそ、エサウは素直にヤコブの実力を認め、神様が共にいらっしゃることが分かったのです。
『原理講論』のp297に「実体基台は実体献祭を神のみ意にかなうようにささげることによってつくられる」とあります。
「信仰基台」はアベル的人物が万物を神様に捧げることで成立する「象徴献祭」ですが、「実体基台」は、カイン的人物がアベル的人物を神様に捧げることで成立する「実体献祭」の摂理です。
ですから、復帰原理の観点から見ると、ヤコブが神様の所有であることを認識したエサウは、この時点で内的には「実体献祭」に成功していたことになります。
そして、ヤコブを歓迎し「素直に屈服した」(『原理講論』p250)ことでそれを行動に表したので、外的にも「実体献祭」に成功したのです。
それでは、次に、失敗したアダム家庭のアベルと勝利したアブラハム家庭のヤコブの違いについて見てみましょう。
失敗したアベルと勝利したヤコブの違い
(1)アベルがカインに殺された理由
ヤコブ路程と同じく、『原理講論』にはその復帰原理的な意味と経緯などは書かれていますが、アベルが失敗した内面的な理由については詳細に説明されていません。
ですので、この問題について語られている文鮮明先生のみ言をいくつか引用してみたいと思います。
まず、カインとアベルが祭物を神様に捧げたあと、アベルがカインに対してどのような態度をとったのか、文鮮明先生は次のように語られています。
ところが、アベルは神様が自分の祭物だけを受けとられたので、自分が優れていて、神様が自分だけを好まれるから受けとられたと思い、「お兄さん、見てください。私の祭物は受けとられました」、そのように誇ったでしょう。間違いなくそうしたのです。
そうでなかったなら、じっとしているカインの顔がなぜ真っ赤になったのでしょうか。アベルが黙っていたのにそうなったのでしょうか。間違いなくアベルはカインに、「お兄さんは何ですか。私の祭物は受けとられました」としつこく言ったのです。(『文鮮明先生御言選集』34-271 1970.9.13)
神様に祭物を受けとってもらったアベルは、そのときの神様の心情や事情を考えることができず、有頂天になってしまったようです。
それでは、本来アベルは、祭物を神様に受けとってもらえなかったカインに対してどのように接するべきだったのでしょうか?
そして「ああ、お父様、なぜ私の供え物だけ受けとられたのですか」と言って泣き、兄のところに行って「私の供え物だけを受けとられた神様は嫌いです」と言ったなら、神様はどうされたでしょうか。間違いなくカインを愛さずにはいられなかったでしょう。(『文鮮明先生御言選集』34-271 1970.9.13)
もしアベルが文鮮明先生のみ言のようにエサウに接していれば、カインはそこまで激しく憤ることはなかったでしょう。
次に、アベルの祭物を神様が受けとられたあと、サタンがどのように動いていたのかを見てみましょう
(2)カインに対するサタンの働き
聖書を見ると、神様はアベルの祭物だけを受けとられたあと、カインに対して直接語りかけていらっしゃることが分かります。
このときのカインは、ちょうどアダムを通して「戒めのみ言」を聞いていた霊的堕落前のエバと同じ立場です。
「善悪を知る木からは取って食べてはならない」(創2:17)⇒ エバ
「あなたはそれを治めなければなりません」(創4:7)⇒ カイン
カインとしては、できる限りの精誠を尽くして捧げた祭物を神様に受けとってもらなかったのですから、その時点で悔しく思い、憤るのは当然でしょう。
しかし、それでもまだ弟のアベルを殺してしまうところまで憤ってはいなかったはずです。
そして、アベルの「信仰基台」が成立しているので、サタンはまだ「門口に待ち伏せてい」るだけの状態で、カインに侵入することはできません。
このあとのサタンの動向について、文鮮明先生は次のように語られています。
「統一原理」の観点から見ると、アベルが驕慢な心をもち、カインを批判することによってそれを行動で示してしまったことが讒訴条件になり、サタンがカインに侵入できる条件が成立してしまったということになります。
このようなサタンの動向を見ると、カインの立場にいる人たちの救いは、アベルの立場にいる人たちがどのように行動するかにかかっていることが分かります。
(3)アベルの失敗を蕩減復帰したヤコブ
さらに文鮮明先生は、アベルがカインに対してどうすべきだったのかについて次のようにも語られています。
もしアベルが、神様がカインの祭物を受けとられなかったことを哀れみ、涙を流して同情し、「私が相続したものは、すべてお兄さんのために受けたものなので、代わりに受けとってください」と言っていればどうなっていたでしょうか。
自分の貴い愛を、一つしかない貴い贈り物をカインにすべて与えていれば、それは天使長を誰よりも愛したという立場に立つようになるので、自動的に復帰されるのです。このようにできなかったことが恨です。それであらゆる宗教は、従順で温柔、謙遜であれと教えるのです。(『文鮮明先生御言選集』34-86 1970.8.29)
ここに語られていることを実際に行い、アベルの失敗を蕩減復帰したのがヤコブだったわけです。
もし自分が、家庭円満でビジネスにも成功して幸福の絶頂にいたとすれば、はたしてヤコブのように行動できるでしょうか。
まかり間違えば、財産を失うだけでなく、自分や家族の命まで奪われてしまうかもしれないリスクがヤコブにはあったのです。
それを考えると、ヤコブのとった行動は相当に困難なことだったと容易に想像がつきます。
しかし、ヤコブはそれをやり遂げたのですから、神の勝者を意味する「イスラエル」という名前を与えられるにふさわしい人物だったことが分かります。
それでは、最後に、ヤコブが歩んだサタン屈服の典型路程から見たアベルの正道について確認してみたいと思います。
アベルの正道~「実体基台」のスタートは僕の僕から~
私たちが「信仰基台」を復帰すると、アベルの失敗を蕩減復帰しなければならないため、心に驕慢な思いが生じることがあります。
そして、まわりの人たちの堕落性や欠点がよく見えるようになるので、批判したりしやすくなるのです。
しかし、神様がアベル的人物を立てる目的はカインの立場にいる人たちの救いと復帰にあるのですから、そこからが本当の長子権復帰路程のスタートになります。
本当のアベル・カインの関係が成立するのはどういうときなのか、文鮮明先生のみ言を引用してみましょう。
そのときにサタン世界の僕たちが、「何の希望ももてないどん底の中にあっても、あなたは希望を捨てることなく、力強く私を支えてくれた」と認め、「地上で自分の生命も惜しまず、愛と理想をもって犠牲的に尽くしてくれたのはあなたしかいません。私は誰よりもあなたを信じ、国よりも世界よりも、あなたのために尽くします」と言うようにならなければなりません。
その認められた事実を通して、初めて「自分はアベルであり、あなたはカインである」と言うことができるのです。アベル・カインの関係はその時から始まるのです。アベルにはカインがいなければなりません。
そのようにアベルが責任を果たすことによってカインが、「あなたは私の後ろに立ってください。サタン世界に対するみ旨は私が引き受けます」と言って、先頭に立って戦うようになるのです。その時点からカイン・アベルが成立するのです。
そして、「私のすべての財産と、すべての所有物をあなたの仕事のために捧げましょう。私の体が犠牲になっても構いません。私がみ旨の先頭に立ちます」と言えるのがカインです。そうすることで天の国に行くことができるというのです。(『文鮮明先生御言選集』106-177 1979.12.30)
このみ言によると、サタン世界の僕から長子権復帰しなければならないのですから、アベルの立場に立った人は、僕の僕の立場から「実体基台」をスタートしなければならないわけです。
ヤコブはこれを実践したので、エサウと一つになることができ、アブラハム家庭で初めて「メシヤのための家庭的基台」を立てることに成功しました。
「信仰基台」を立てたあと、ヤコブは驕慢になることもなく、僕の僕の立場でエサウに接することができた、エサウがヤコブに屈服した一番の理由はここにあるのです。