今回は、再臨のメシヤでいらっしゃる文鮮明先生が、儒教の家庭に降臨された原理的な理由について、復帰摂理の中心人物が歩む復帰路程の観点、そして摂理的同時性の観点から考察します。
(1)復帰摂理の中心人物が歩む復帰路程から見た理由
①復帰摂理の中心人物が歩む復帰路程
復帰摂理の中心人物が歩む復帰路程について、『原理講論』には次のように記述されています。
復帰摂理の目的を達成する中心人物は、サタンの世界から神の世界へと復帰する路程を歩まなければならない。それゆえに、ヤコブはサタンの世界であるハランからカナンへ復帰する路程を歩いたのであり(創三一~三三)、モーセは、サタン世界であるエジプトから、祝福の地カナンに復帰する路程を歩いた(出エ三・8)。そしてまたイエスも、この路程を歩まれるために、生まれてすぐエジプトに避難したのち、再び国に戻るという過程を経なければならなかったのである(マタイ二・13)。(『原理講論』p347)
このように、神様から召命された中心人物は、「サタン世界」から「神の世界」に復帰する路程を歩まなければなりません。
それは、人類始祖アダムとエバが、堕落したあとにエデンの園から追われ、そのまま人類歴史が始まったため、アダムの立場を蕩減復帰するために召命された中心人物は、追われたところからエデンの園、すなわち「神の世界」に復帰しなければならないのです。
そして、ヤコブが避難したハランも、モーセが生まれたエジプトも、宗教の観点から見れば多神教の世界です。ですから、ここで言う「サタン世界」とは、一神教ではない多神教などの世界を意味し、「神の世界」とは一神教の世界を意味しています。
このことから、文鮮明先生は、一神教ではない儒教の家庭にお生まれになり、10歳頃までその環境で成長され、そこから一神教のキリスト教に改宗することで、「サタン世界」から「神の世界」に復帰する路程を歩まれたと考えることができます。
②当時の朝鮮半島の儒教が「サタン世界」となる理由
18世紀から19世紀、キリスト教の宣教師が布教のために朝鮮半島に来たとき、儒教はキリスト教を邪教とみなして反対し、迫害しました。※
儒教がキリスト教を邪教としたのは、キリスト教に改宗した人々が、儒教の祖先崇拝の儀式を拒否したことが主な理由と考えられます。
当時の朝鮮社会では、儒教が社会の根本思想となっていたことから、李氏朝鮮政府はキリスト教に改宗することを禁止しました(1785年・朝鮮王朝正祖時代)。
このように朝鮮半島にキリスト教が布教されたとき、最も迫害したのが儒教であったため、当時の朝鮮半島の宗教界では、サタンの最も愛する存在が儒教だったと見ることができます。
※1845年、金大建(キム・デゴン)は上海において朝鮮初の司祭として正式に認められ、帰国後、布教活動を開始した。しかし当時の朝鮮社会では、儒教が国家と社会の根本思想となっていたため、カトリックは邪教と見なされ、激しい弾圧の対象となっていた。巡威島において外国人宣教師の密航計画を進めていた金司祭は、1846年に捕縛され、彼と103人の信徒は「キリスト教棄教」を拒んだため、ついに処刑された。金司祭と103人の殉教者は、1984年5月6日、ローマ教皇によってカトリック教会の聖人として正式に認められた。
(2)摂理的同時性の観点から見た理由
①ヤコブ・モーセ・イエスの路程
モーセとイエス様の幼少時について、『原理講論』には次のように記述されています。
モーセは、生まれたときは、パロ王の手によって殺されるよりほかはない立場にあったのであるが、その母親が彼を隠して育てあげたのち、パロの宮中に入り、敵の懐の中で、怨讐を越えて安全に成長したのであった。
これと同じく、イエスも、生まれるや否や、ヘロデ王の手により、殺されるほかはない立場に陥ってしまったので、その母親が彼を連れてエジプトに逃れ、隠れて育てあげたのちに、再びヘロデ王の統治圏内に戻り、敵の懐の中で安全に成長されたのである。(『原理講論』p352)
このようにモーセとイエス様は、殺害の危機を避けるため、一時的に一神教世界を離れて多神教世界に行き、再び一神教世界に復帰するという路程を歩みました。
アブラハム家庭において、サタン屈伏の典型路程を歩んで勝利し、「イスラエル」の称号を天から授かったヤコブも、自らの知恵と母リベカの協助により、エサウから長子の嗣業を奪って殺されそうになったとき、同じようにこの路程を歩んでいます。
ヤコブとモーセ、そしてイエス様の路程をまとめると次のようになります。
【ヤコブ】
こうしてエサウは父がヤコブに与えた祝福のゆえにヤコブを憎んだ。エサウは心の内で言った、「父の喪の日も遠くはないであろう。その時、弟ヤコブを殺そう」。(創世記27章41節)
⇒長子の嗣業を奪われたエサウは、怒ってヤコブを殺そうとした
カナンの地(エサウによる殺害危機)
→ ハランに移動(多神教世界への退避)
→ ヤボク川を経てカナンに復帰
【モーセ】
そこでパロはそのすべての民に命じて言った、「ヘブルびとに男の子が生れたならば、みなナイル川に投げこめ。しかし女の子はみな生かしておけ」。(出エジプト記1章22節)
⇒ユダヤの助産婦たちに騙されたパロは、怒ってユダヤの男の子の殺害を命令。
イスラエル選民として誕生(誕生時の殺害危機)
→ エジプト宮中で王子として育つ(多神教世界の中心に退避)
→ エジプト宮中で乳母(母)により選民教育
【イエス】
ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。(マタイ福音書2章16節)
⇒博士たちに騙されたヘロデは、怒ってベツレヘムにいる2歳以下の男の子を殺害。
ベツレヘム(誕生時の殺害危機)
→ エジプトに移動(多神教世界への退避)
→ イスラエルの地(ナザレ)へ帰還
②文鮮明先生の場合
文鮮明先生が誕生される1年前、大叔父の文潤國先生は、「三・一独立運動」の平安北道総責任者として、1919年3月8日に日本の憲兵に逮捕され、2年の懲役刑を受けました。
その際に親族まで捜査の手が及びましたが、親族が篤実な儒教の家系だったこともあり、逮捕されることはありませんでした。
それは、「三・一独立運動」がキリスト教、天道教、仏教の信者たちが中心となって行われたものだったからです。
もしそのとき、文鮮明先生の家庭や親族がキリスト教の信者であれば、文鮮明先生はお生まれになることができなかったかもしれません。
これは、モーセやイエス様が「敵の懐の中」で安全に成長されたことの摂理的同時性の出来事と言えます。
イエス様が誕生されたとき、ヘロデ王がベツレヘムとその地方にいた2歳以下の男の子をことごとく殺しましたが、その前に天使の知らせにより、ヨセフの家族はエジプトの地に逃れていたため、イエス様は死を免れることができました。
同じように、文家が儒教の家系だったため、文鮮明先生は儒教文化という、キリスト教にとっては「敵の懐の中」で安全にお生まれになり、幼少期を過ごすことができたのです。
参考資料:儒教に関するみ言
最後に、文鮮明先生のみ言の中から、儒教の長所と課題について語られたみ言をご紹介しましょう。
今までキリスト教で祭祀を行うことができないようにしたのも一理あるのです。祭祀は、神様と全人類の真の父母が受けなければなりません。天において祖先が先に侍られなければならないのです。ところが、堕落することによって、今まではそれを禁止してきました。
しかし、今や復帰時代において祝福を受けたので、今後は先祖を祭らなければなりません。韓国が500年間、儒教思想を通じて父母に侍る伝統を残したことは、(天が)この一時のために準備した伝統と一脈相通じるものがあるのです。(『文鮮明先生御言選集』 223-209 1991.11.10)
真の父母の伝統歴史の家門も、愛国忠臣の歴史的な伝統を備えなければなりません。私の家が不思議なことは、たばこを吸ったりお酒を飲んだりすると蕁麻疹(じんましん)が出ます。お酒も飲めず、たばこも吸えません。また、家庭の伝統で立派なことは、妾を置いたことがないことです。ですから、私の祖父の代から見ても、儒教思想を中心に最高の信仰をもってきたのです。(『文鮮明先生御言選集』 588-64, 2008.4.12)
【儒教の課題】
キリスト教には「ひとり子」という言葉があり、それは自動的に唯一神を意味します。人格的な神を意味するのです。仏教は法です。法が神様の代わりです。法の世界は、価値の理論的な基準で人格観を探し出す道理がありません。儒教もそうです。儒教では唯一神、唯一的人格神を発見する道理がないのです。(『文鮮明先生御言選集』 192-48 1989.7.2)
孔子の伝統的思想とは何かといえば、「元亨利貞は天道之常であり、仁義礼智は人性之綱」と言いました。総評をしました。しかし、人格的な神様が分からなかったのです。人格的といえば、知・情・意を備えていることを意味します。愛を中心として知識を備えて志を立てることができ、知・情・意を中心とする志というものは、変わることのない知識であり、変わることのない情でなければならないのですが、それは絶対的な神でなくてはそのようになることはできないのです。そのようなことが分からなかったので、人格的な神様が分かりません。理知的な神様は分かりましたが、人格的な神様が分かりませんでした。これは天使長型です。(『文鮮明先生御言選集』 295-174 1998.8.28)
