【今回深掘りする原理のみ言】
カインがアベルに従順に屈伏して「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てることによって、カインとアベルが、共に子女として「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を成し遂げた立場に立ち得たはずであった。(『原理講論』p299~300)

 

『原理講論』には、「実体基台」におけるカインの責任分担の内容が明確に説明されています。

冒頭のみ言では、カインが「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てると、アベルも一緒にそれを成し遂げた立場に立つことができるとあります。

カインが「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てるとき、アベルはただそれを見ているだけなのでしょうか?

今回は、「実体基台」を立てるとき、アベルに何か責任分担があるのかないのか、あるならどのような内容なのかを深掘りしてみたいと思います。

「堕落性を脱ぐための蕩減条件」はカインだけの責任分担なのか?

(1)「実体基台」におけるカインの責任分担とその結果

人類史上、初めてアベルカインの一体化に勝利したエサウとヤコブの摂理から、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てるさいのカインの責任分担を確認してみましょう。

エサウとヤコブは、神がアベルの献祭を受けられるときの、カインとアベルの立場を確立したので、彼らが「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てるには、エサウはヤコブを愛し、彼を仲保として立て、彼の主管を受ける立場で従順に屈伏し、祝福を受けたヤコブから善を受け継いで、善を繁殖する立場に立たなければならなかった。(『原理講論』p332~3)

 

このように、復帰摂理では、カインの立場にいる人が、アベルの立場にいる人を神様と同じ立場で愛し、仲保として立て、その主管を受けて従い、善を繁殖しなければなりません。

カインの立場にいる人が立てるこの条件を創造原理の四位基台の観点から見ると、次のようになります。

 神様:神様と同じ立場で愛する

 主体:仲保として立てる

 対象:主管を受けて従う

 合成体:善を繁殖する

※参考記事
四位基台と4つの堕落性の対応関係

 

冒頭で紹介したみ言では、もしカインがこのような神様中心の四位基台を立てることができると、カインだけでなく、アベルも一緒に「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を成し遂げた立場に立つことになっています。

(2)「実体基台」の成立はカインの単独行為なのか?

ここで一つ疑問に思うことは、「アベルはカインが堕落性を脱ぐ条件を立てるときに何もしないのか? 信仰基台を立てればアベルの責任分担はそれで終わりなのか?」ということです。

アベルは、「信仰基台」を立ててしまえば、あとはカインが責任を果たせるかどうか見ていればよいのでしょうか?

「信仰基台」を立てたあと、弟のアベルに対して兄のカインは憎しみをもつ立場になるわけですから、ふつうに考えれば、ただそのまま従順に屈服してその主管を受けるとは考えにくいです。

「実体基台」におけるアベルの責任分担について、文鮮明先生のみ言には次のようなものがあります。

 アベルが、カインすなわち兄と共に供え物をささげたとき、神様が自分の供え物だけを受けとられて兄の供え物を受けなかったとしても、兄に純粋に対さなければなりませんでした。兄のことを考えなければなりませんでした。
 そして「ああ、お父様、なぜ私の供え物だけ受けとられたのですか」と言って泣き、兄のところに行って「私の供え物だけを受けとられた神様は嫌いです」と言ったなら、神様はどうされたでしょうか。間違いなくカインを愛さずにはいられなかったでしょう。(『文鮮明先生御言選集』34-271 1970.9.13)

 

このみ言をみると、「実体基台」においてもアベルに責任分担があり、アベルがどう対応するかということが、「実体基台」の造成に影響があると推察できます。

それでは次に、「実体基台」を立てるとき、アベルにどのような責任分担があるのかを考えてみましょう。

(3)「実体基台」におけるアベルの責任分担

カインが立てる「堕落性を脱ぐための蕩減条件」のうち、最後の条件は次のような内容になっています。

 善悪の果を取って食べるなという善のみ言を、神はアダムに伝え、アダムはこれをエバに伝え、エバは天使長に伝えて、善を繁殖すべきであった。しかし、これとは反対に、天使長は取って食べてもよいという不義の言葉をエバに伝え、エバはそれをアダムに伝えて堕落したので、「罪を繁殖する堕落性」が生じた。
 ゆえに、この堕落性を脱ぐためには、天使長の立場にいるカインが、自分よりも神の前に近く立っているアベルの相対となる立場をとり、アベルから善のみ言を伝え受けて、善を繁殖する立場に立つべきであったのである。(『原理講論』p295)

 

このようにカインは、「罪を繁殖する堕落性」を脱ぐための条件として、アベルから善のみ言を伝え受けなければなりません。

「伝え受けて」の原文を確認すると「전해 받음으로써」となっていて、「받다」という韓国語には「容認する・受け入れる」という意味があります。

ですから、「実体基台」におけるカインの最後の責任分担とは、アベルのみ言を受け入れることです。

カインは、アベルからみ言を聞かなければそれができませんから、アベルは必ず神様から受けたみ言をカインに伝えなければなりません。

このことから、カインが自己の位置を守って主管性を立てやすいように導き、そして神様のみ言を伝えることが「実体基台」におけるアベルの責任分担ということになります。

(4)神様のみ言を中心とする復帰摂理

ヤコブの時代までは供え物を中心として復帰摂理が展開されていましたが、モーセの時代になるとそれがみ言を中心とする復帰摂理になります。

復帰摂理時代においては、「四十日サタン分立基台」の上で、供え物の代わりに神のみ言を中心として立つことができさえすれば、それをもって「信仰基台」を復帰するようになっていたのである。(『原理講論』p353)

 

この「神のみ言を中心として立つ」とは、「神のみ言を信じて従おうと決心し、そのとおりに行動を起こすこと」と解釈することができます。

※参考記事
『40日路程実践プロジェクト』【基礎編】①「40日路程」の原理的意義と目的

 

以上のことから、復帰摂理時代以降の「信仰基台」と「実体基台」におけるアベルとカインの責任分担をまとめると次のようになります。

 

「信仰基台」:アベル自身が神様のみ旨とみ言を受け入れ、その道を歩むことを決意すること。

「実体基台」:アベルが神様のみ旨とみ言をカインに伝え、カインがそれを受け入れること。

 

このように、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」は、アベルとカインがお互いの責任分担を全うして初めて成立するわけです。

モーセ路程に見る「実体基台」におけるアベルの責任分担

それでは、モーセとヨシュアが神様のみ言を伝えたときの様子を『旧約聖書』で調べてみることにしましょう。

(1)神様のみ言を伝えたモーセ

モーセは、ホレブ山で神様と出会い、次のようなみ言を受けています。

 主はまた言われた、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせようとしている。
 いまイスラエルの人々の叫びがわたしに届いた。わたしはまたエジプトびとが彼らをしえたげる、そのしえたげを見た。さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」。(出エジプト記3:7~10)

 

その後、モーセは、神様から受けたみ言をすべて兄のアロンに伝えています。

モーセは自分をつかわされた主のすべての言葉と、命じられたすべてのしるしをアロンに告げた。そこでモーセとアロンは行ってイスラエルの人々の長老たちをみな集めた。(出エジプト記4:28~29)

 

モーセから神様のみ言を聞いたアロンは、それを受け入れたので、ここで家庭的な「実体基台」におけるアベルとカインの責任分担が成立しています。

神様 ⇒ 弟のモーセ ⇒ 兄のアロン

さらにその後、モーセとアロンは、イスラエルの長老と民たちに神様のみ言を伝えています。

そしてアロンは主がモーセに語られた言葉を、ことごとく告げた。また彼は民の前でしるしを行ったので、民は信じた。彼らは主がイスラエルの人々を顧み、その苦しみを見られたのを聞き、伏して礼拝した。(出エジプト記4:30~31)

 

ここでイスラエルの民がモーセとアロンを信じ、神様のみ言を受け入れたので、「実体基台」が家庭レベルから民族レベルに拡大しました。

神様 ⇒ モーセとアロン ⇒ 長老と民

これによってイスラエル民族は、モーセを中心として出エジプト路程を出発できるようになりました。

(2)神様のみ言を伝えたヨシュア

モーセが亡くなったあと、神様は、荒野で流浪する40年をひたすら信仰と忠誠で過ごしてきたヨシュアを、モーセの代理として召命されました。

そして、神様はそのヨシュアに次のようなみ言を語られています。

 わたしのしもべモーセは死んだ。それゆえ、今あなたと、このすべての民とは、共に立って、このヨルダンを渡り、わたしがイスラエルの人々に与える地に行きなさい。
 あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与えるであろう。
 あなたがたの領域は、荒野からレバノンに及び、また大川ユフラテからヘテびとの全地にわたり、日の入る方の大海に達するであろう。
 あなたが生きながらえる日の間、あなたに当ることのできる者は、ひとりもないであろう。わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。
 強く、また雄々しくあれ。あなたはこの民に、わたしが彼らに与えると、その先祖たちに誓った地を獲させなければならない。(ヨシュア1:2~6)

 

このようなみ言を受けたヨシュアが民のつかさたちを集め、その神様のみ言を伝えると、彼らは次のように答えています。

あなたがわれわれに命じられたことをみな行います。あなたがつかわされる所へは、どこへでも行きます。われわれはすべてのことをモーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。ただ、どうぞ、あなたの神、主がモーセと共におられたように、あなたと共におられますように。
だれであっても、あなたの命令にそむき、あなたの命じられる言葉に聞き従わないものがあれば、生かしてはおきません。ただ、強く、また雄々しくあってください。(ヨシュア1:16~18)

 

このようにイスラエルの民のつかさたちが、ヨシュアを信じ、神様のみ言を受け入れたので、ここで民族的な「実体基台」が成立しています。

神様 ⇒ ヨシュア ⇒ 民のつかさ

これによってイスラエル民族は、ヨシュアを中心としてカナン復帰路程を出発できるようになりました。

伝道とは「実体基台」におけるアベルの責任分担

「信仰基台」が成立すると、その人は神様の所有となるので、サタンが侵入できなくなり、アベルの立場に立つようになります。

アベルの立場に立つようになると、自分が長子権復帰すべきカインが誰なのか分かるようになります。

この時、すでにカインの背後のサタンも分立されているので、あとはアベルとカインが一体化すれば「実体基台」が成立します。

しかし、「私はアベルとして信仰基台を立てたので、あとはカインであるあなたの責任分担です」というわけにはいきません。

イエス様が語られたみ言の中に、神様の心情について語られた次のようなみ言があります。

 あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。
もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。
 そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。(マタイ福音書18:12~14)

 

これは、いまだサタンの主管圏内にいるカインに対する神様の心情を語られたみ言と言えるでしょう。

「信仰基台」が立っている人は、このような神様と同じ立場と心情でカインの立場にいる人を見ることができるはずです。

ですから、「信仰基台」を立てたあとのアベルは、僕の僕の立場でよりカインが従いやすいように侍り、その基台の上で神様から受けたみ言を伝えなければなりません。

ただ、実際には、神様のみ言を伝えることが簡単でないことのほうが多いでしょう。

しかし、アベルがみ言を伝えなければ、カインはいつまでたっても「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てることができません。

神様のみ言を受け入れるかどうかはカインの責任分担ですが、神様のみ言を伝えるのはアベルの責任分担なのです。