体恤と実践(3)

1975年2月2日(日)
韓国ソウル・前本部教会
『文鮮明先生御言選集』76巻p117~157

 既成教会において10年でできることを私たちは1年でできる

 このように見れば、統一教会の教会員は、少しだけ精誠を尽くせば、既成教会が10年精魂込めてできることを、統一教会は1年だけ精魂込めれば到達できると見るのです。道が違うというのです。なぜ違うのですか? 私はこのように見ます。数多くの諸宗教は、このような円形があれば、人ごとに円形を描きながら、このように回るのと同じです。ある人はこのように回り……。

 この中心を中心として、この方向がないということです。上なのか、下なのか、方向がないのです。ですから、それが今分からないではないですか。神様のみ旨がどのようになり、どのように行くのか分からずにいます。自分勝手に回っているので、これがぐるぐる自分勝手に回っているということです。ですから、祈祷しても、中心がどこなのか漠然としているのです。それゆえに、神様が1から100まですべてしてあげるまでは、体恤的信仰の段階に入っていくのが難しいのです。

 しかし、統一教会はそうではありません。しっかりと観が立っているということです。神様のみ旨とは何ですか? 既成教会の牧師に、あるいは神学博士に「神様のみ旨は何ですか?」と尋ねてみると、「ああ! それはこの上なく簡単でありながらも難しいことです」、このように答えます。いくら牧師でも、「神様のみ旨は何ですか?」と尋ねれば、「そうですねえ…」と言います。「そうですねえ」ではないというのです。

 すでに統一教会は、神様のみ旨と言えば創造理想を完成すること、きちんと出ているのです。創造目的の完成です! 創造目的の完成とは何ですか? 個体においては個人完成であり、家庭においては家庭完成であり、このように全体が出てくるのです。それがきちっと確定されています。主体観が確立されているのです。そして、対象観が確立されています。ですから、すでに決定された方向に対しては、問題視する必要がないということです。

 しかし、既成教会の信仰は、方向に対して曖昧なので、これが大きな問題だというのです。「神様のみ旨はどのようになるのか?」と言えば、「ああ、世の中を火で審判する」、このように言います。それはどれほど曖昧ですか? 私は、どうしてそのような信仰をするのか、どうしてそれを信じているのか、本当に……。そのような観点で、方向がなければならないというのです。方向ができていなければなりません。「神様が父であるなら、本当の父なのか?」と言えば、「さあ、父と言うのだから父なのでしょう」、そのように言っています。

 しかし、私たち統一教会はどのようになっていますか? 目的観がはっきりしていることによって、方向がすでに制定されているというのです。目的がはっきりしていて、方向が定まっています。

 今、方向が問題です。世界がどのような目的をもたなければならないか? 人類がどのような目的をもたなければならないか? どちらの道に行かなければならないか? 民主主義か共産主義か? 目的観が確立されていないというのです。方向が民主主義の方向なのか、共産主義の方向なのかが確定されていないのです。ですから、右往左往して混乱が起こります。自分勝手なのです。

 しかし、統一教会は目的が確定されており、方向が確定されているので、これが動けばどこに向かうでしょうか? 前進しようとするのです。その前進度は、きのうときょうが違うというのです。努力すれば、方向に対して発展的な結果が成されるので、必ず短期間でその目的の場に到達することができ、あるいは目的の価値に対する感応を、生活圏内で感じることができると見るのです。それはどういうことかというと、既成教会では10年間、精誠を尽くして到達することを、統一教会では1年以内に到達することもできるのです。1年までかからないでしょう。1年までかからないというのです。私が知るところでは、1年までかかりません。すぐに体験するのです。

 私たち統一教会の教会員たちは、誰が教えてくれるのかというとき、神様が教えてくれるのではなく、先生がたくさん教えてくれるのです。統一教会が本当に不思議なことは、先生は生きている身ですが、今、アメリカならアメリカの食口に、ドイツならドイツの食口に、霊的にすべて教えてくれるというのです。皆さんもそうではないですか。夢示(むじ:夢の予示)や、夢の中や、あるいは祈祷する中で先生をたくさん見るでしょう? そのような体験がある人、手を挙げてみてください。それは100パーセントです、100パーセント。これがない人は統一教会の教会員ではありません。これだから統一教会が偉大なのです。統一教会が強いのです。先生の命令であれば何でも可能だという、そのようなことが起こります。それはなぜそうなのか分からないでしょう? 私だけが知っています。そのようなことが可能です。それはすでに体恤圏内に入っているのです。

 過去には縦的な面で天と関係していたため、これがどれほど難しかったでしょうか? ですから、自分の位置を犠牲にして離れなければならないというのです。そうでしょう? ですから体恤するのが難しいのですが、今日の統一教会は、横的基準ができているということです。そのまま行けばよいのです。ですから、どれほどやさしいですか? そのように次元が違う境地に入っているので、今日の統一教会では、短期間で体験できるのです。

 皆さんが神様の心情をどのように知るのですか? 神様の心情と言えば曖昧でしょう? 神様の心情を訪ね入ってみると、結局、入っていって感じてみると先生と近くなった、結論がそのようになるというのです。それが統一教会の教会員の秘訣です。

 体恤したことを世界化させなさい

 祈祷してみると、統一教会を信じてみると、結局は誰と近くなるかといえば、誰と近くなるのですか? 神様と近くなるというよりも、先生と近くなるのです。それが病です。それが統一教会の病だというのです。(笑われる)そうだというのです。神様と近くなろうとしたのに、結局は誰と近くなるというのですか? 先生と近くなるのです。ですから、「天国はあなたの心にある、天国はあなたの環境になければならない」ということです。天国は天上につくりあげるものではなく、地でつくりあげなければならないということなのです。環境天国をつくりあげなければ、天上天国が現れないのです。

 ですから、人を限りなく好む人は神様が限りなく嫌う人だ、そうですか? 考えてみてください。人を限りなく好む人は、神様が限りなく嫌う人ですか? (「限りなく好む人です」)。限りなく好む人だということです。皆さんは、人を限りなく好んでみましたか? 私を騙してもよく、私を捕って食べてもよく、焼いて食べてもよい、そのように好んでみましたか? (「したことがありません」)。人として、それをやってみたことがないのですからだめだというのです。私たち統一教会がそのようなところです。

 私が今回、約婚してあげるときも、女性たちに「この女性たち…」と言って、足で蹴飛ばし、頬を叩いたにもかかわらず、打たれてそのままそれで終わりです。(笑い)それはおかしいというのです。いくら目をむいて叱責しても、復讐しようとせず、いくら小突いても……。それは、「忘れるな」と言ってもどうしようもありません。すっかり忘れてしまうのです。それはおかしいでしょう?

 それを見れば、統一教会の教会員たちは子どもと同じだというのです。父母は、子どもが言うことを聞かずに要領よくふるまおうとすると、「こいつ! なぜ言うことを聞かないのか」と言って頬を叩いたり、棒で叩いたりするでしょう? そして、父母が一晩中、「ああ! あの子は叩かれたから、あすの朝は腹を立てているだろう」と思っていると、朝起きたら(何事もなかったように)「お母さん!」と言うのです。(笑い)そのような人が統一教会の教会員です。本当に不思議です。先生に一発叩かれても気分が良く、悪く思わないのです。そのような何かがあります。

 そのような観点から見るとき、統一教会は、ふつうの人がいくら研究しても分からないというのです。私たちだけが知っています。私たちはどうして知っているのですか? 私たちは体恤するので……。そのような何かがあるというのです。その体恤したものを先生と皆さんの間の体恤として残すのではなく、世界化させるのです。それが可能であれば地上天国ができる、このように見るのです。

 それは縦的な体恤ですが、横的化させなさい! 横的というものは四方の世界です。東西南北なので、民族を超越し、氏族を超越し、韓国の人だけでなく、世界万民の前に四方性をもって体恤化させなさい! そうすれば天国がつくられます。そのように生きる人は、天国に行くことができる資格を備えた人です。このようにきちんと公式として出てきます。それで、「食口」という言葉を言うのです、「食口」。その「食口」という言葉は、聞くと本当に気分の良い言葉です。逆さまにすると「口食」(クシッ:韓国語で「旧式」と発音が同じ)になってだめですが。(笑い)

 霊的指導者は、そのような体恤的な何かがなければ仕事ができません。本を見て説教の準備をし、本を見て説教をしても、その本の中に神様がいますか。いません。神様は霊的な中におられるので、神霊を通さなければならないということを皆さんは知らなければなりません。

 飛躍的な、革命的な霊的世界の発展を成し遂げた統一教会

 体恤的な信仰は最も貴いのです。それで、統一教会に入ってきた食口であれば、たいがい体恤するようになります。必ず体験するのです。どのようなことまで起こるかというと、皆さんの現実的生活圏内ですべて起こるのです。本当にみ旨のためにあらゆる精誠をすべて尽くせば、天が共にいてくださるのです。

 例えば、日本の食口たちが人参茶売りをするのですが、責任量を与えていくらで売りなさいと言えば、人参茶が神様の代わりをするときがあるというのです。「あ! 先生が人参茶を…」、そのようなことが起こるのです。自分が苦労して売っていると、先生が霊的に人参茶を売ってくれます。そのようになるのです。そのような境地に入っていきます。今、現実で自分が人参を売り歩いているのですが、目で見ると先生がついてまわるというのです。どの家も、入っていく家々で売れるのです。そのようなことが起こります。それは不思議でしょう? それが可能だということです。

 あるときは、皆さんが、昔に食べることもできず、着ることもできずに苦労した先生を思うと、ただただ涙が出て、ご飯を食べることを忘れ、眠ることを忘れて狂ったようになれば、先生が良い洋服を着て気分良くさっと現れ、慰労してくれるということが起こるというのです。そのようなことが多いのです。

 今まで宗教で体恤できず、数十年精誠を尽くして初めて体恤できることを、統一教会では即座に体恤が可能なので、これは飛躍的な、何と言うか、革命的な霊的世界の発展を成し遂げた統一教会だと私は見ているのです。皆さん、全員、体恤しましたか? 体恤したことがありますか、ありませんか? (「あります」)。あるでしょう?(「はい」)。これは皆、なければならないというのです。

 その体恤したことを実践しなければなりません。ですから、先生のために生き、先生を好むのと同じように、自分の兄弟のために生き、兄弟を好んでこそ、これができるのです。そのようなことが可能になれば、その人たちは間違いなく天国に行きます。ですから、先生を中心として、皆さんが体恤的な一つのモデルをもっているという事実が驚くべきことです。その驚くべき体恤を、今日の現実的実践舞台に適用させるのです。

 現実的舞台で体恤が可能だということは宗教世界の偉大な革命

 次に、私たちは神様の心情を語ります。神様の心情がどこにあるかというとき、祈祷の中で声を聞いてみれば、「先生の話をよく聞きなさい。先生を悲しませてはいけない。先生を喜ばせてさしあげなさい」と言うのです。それしかありません。そのように教えてくれます。そして、先生に会いたくて眠らずにいると、霊界が開かれたというのです。最も早くそのようになります。霊界が開かれるのです。先生がアメリカで何をしているのか、座ったまま見るのです。そのようなことが起こるということです。

 これは、漠然としていた信仰の主体的対象を、現実的な実体的主体として、横的舞台で体恤できる圏を形成したのです。このような事実は、宗教世界に偉大な革命を提示することだということを、皆さんは知らなければなりません。ですから、体恤がなくてはならないのです。

 ここに新たしく来た教授もいらっしゃいますね。知性的な面とそのような面の……。論山(ノンサン)ハルモニは無学なおばあさんです。ここ本部にいる承道(スンド)ハルモニも無学なおばあさんです。先生が彼女たちをつれて今まで数十年一緒に来ましたが、今も証してくれるというのです。私が何がどうでこうでと証するよりも……。自己自慢する人は何ですか? 病人の部類に入るというのです。ですから、私が誇らなくても、そのような人たちが誇ってくれます。すべてラッパを吹いてくれなければならないというのです。それが必要です。私がそのようにしていたら何ですか、それは? (笑い) それはだめでしょう、だめだということです。

 それで、そのような人たちがすべて代わりにしてくれるので……。そのようなおばあさんたちが座っているのを見ると、おもしろいでしょう。世の中にそのようなことがあるのかというのです。何と言うか、様子が誰もいないようなかんじです。しかし、そこから新しい創造が起こるのです。創造する前には何がありますか? 誰もいないような状態でしょう? しかし、神様の力と神様の能力のみ手が及ぶようになれば、再創造の実績、あるいは実体の価値が形成されるのです。ですから、そのようなところに関心をもたなければなりません。

 そのようなおばあさんが「男性も座って用を足しなさい」と言えば、そのようにするのです。西洋の人はどっしり腰をおろして用を足し、東洋の人はしゃがみこんでしますが、「東洋の人もどっしり腰をおろしてしなさい」と言えば、そのようにしなければなりません。最初は出てこないのです。(笑い)それはそうです。違うのです。しかし、そのようにしようとすれば、習慣化されなければなりません。それが必要だというのです。ですから、極と極、高いものは、低いものを否定しては、円満というものが、完成というものがあり得ません。そのようなことをたくさん考えなければなりません。

 それできょうは、体恤がどれほど必要かについて話をしているのです。体恤をするためには、必ず祈祷しなければならず、精誠を捧げなければなりません。これを知らなければならないのです。そこで現れる啓示や夢示を絶対に無視してはいけません。それを調整して現実的生活圏内に、実践舞台にどのように適用させるか、ということが信仰生活で最も重要なのです。先生自身もそうだというのです。

 個人の体恤が世界化されていくところは個体が問題

 「さあ、これから時が来る。実体的3年路程を行かなければならない」。これから3年が重要です。大韓民国もこの3年路程にかかっています。共産主義と民主世界も、これから3年路程の限界線を越えなければならない時に入ってきます。キリスト教と統一教会も、この3年路程の限界線を越えなければならない時に入ってきます。キリスト教と統一教会もこの3年路程に……。潮が入ってきては出ていき、出ていっては入ってくるでしょう? それと同じように、これから出ていったものが入ってくる段階で交叉する時が来るのです。そのような世界史的な時代をどのように知るのですか? 公式は同じだというのです。

 個人の事情は家庭に反映され、その次には、このように高まるのです。(板書されながら語られる)これは同じ円形です。このように発展します。結局はこれが何ですか? 大きくなるのです。広がるのです。この形は同じです。結局は、個人の体恤は家庭の体恤として現れなければならず、家庭の体恤は氏族の体恤として現れなければなりません。これが大きくなるだけです。個人天国は家庭天国、家庭天国は氏族天国、氏族天国は民族天国、民族天国は国家天国、国家天国は世界天国へ、このように発展していかなければならないのです。その公式は変わりません。

 問題はどこにありますか? この基点がどこかというと私です、私。皆さん個人だということです。個体が問題なのです。私自体が神様を中心として……。この行く道はすべて90度です。すべて90度なのです。これもすべて同じです。結局はこれも? (「90度」)。すべて90度です。この点は同じです。ですから、誰が中心になっているのですか? すべて私個人が中心です。(板書されながら語られる)そのような意味で、宇宙を得ることよりも私1人の命を得ることがより価値があるという話は、そのような観点からする話です。ですから、私が秤竿にならなければならないのです。私が間違えば、世の中がすべて間違うというのです。

 したがって、批判というものは、自分が正しい位置での批判ではありません。神様でなければ真の判定をすることはできない、このように見るのです。ところが、キリスト教では、統一教会に対してよく判定してしまいます。判定を間違う日には、私が最後の判定をしてしまうというのです。そのような時が来るのです。問題は私です。

 それでは、私自体でそれが起こるのですか? 違います。天がいれば、統一教会の先生を通して皆さんと関係を結ぶところでは一対一だというのです。そうでしょう? それが私自体だけで、縮小された私個人自体だけで終結させるためのものではなく、拡大して全体を代表してやっていることを皆さんは知らなければなりません。ですから、そのような公式は、いつでも適用されなければならないということです。私が喜んでこそ、相手も喜ぶのです。

 説教をするときもそうです。必ず私が恩恵を受けて涙を流した、その体恤的な事実をもって説教をすれば、その環境は恩恵の海になるのです。事実がなく、体恤的なその内容がなくては、いくら叫んだとしても、その環境はすべて別々に回っていきます。公式とぴったり合えば、1から10、100、すべてきっちり合いますが、公式に合わなければ、すべてが反れて粒ごとに放蕩しだすということです。冷え冷えとして、かえって来なかったより劣るようになります。そのようなことが起こるのです。ですから、皆さん自身が問題です。

 統一教会は体恤と実践を兼ね備えた恐ろしいところである

 それでは今日、統一教会を中心として何を教えてあげるのですか? 統一教会の活動を教えてあげるのではなく、先生と皆さんとの関係を教えてあげるのです。その内的な関係を中心として、外的な関係に拡大させるためのモデルを形成するのです。それが絶対視され得る価値のものとして確定されない限り、環境的に絶対的な相対圏は形成されないということです。このようになるのです。ですから、これが教会生活で最も貴いでのです。

 私たち統一教会でもそうだというのです。皆さん、聖日の朝に、5時なら5時、先生のみ言を聞くために早朝から起き、何時間前から眠ることができずに疲れた体で電車に乗ってくれば、電車の中ですべて教えてくれます。そのようなことが起こるのです。「きょう先生が何々の話をする」と。来てみるとその話をするのです。その体恤と実践が一致します。そのようなことが起こるというのです。それが偶然ではなく、必然的にそのように当てはまっていくのを体験するのに、誰が否定しますか? その国の国民が挙国的に反対し、大統領がすべて抹殺しなさいと宣布して命令を下しても、それを否定することはできないのです。

 統一教会でそのような体験をした人は、出て行ったら事故です。これに反対したので、入ってこようとしても入ってくることもできず、入っていくまいとしても、それもできず……。それで、自分たち同士で群れになって歩き回り、「何がどうでこうで」と言うのです。そうしてどこに行くのですか? 破産したり、自ら滅亡に陥らざるを得ないというのです。それはかわいそうなので、私が抱き込む運動もしてあげます。いくら他のところの教会や既成教会に行ってみても……。お酒で言えば、ウイスキーを飲んでいてサイダーの味がするようなものです。(笑い)だからといって来ることはできず……。そのような人が本当に多いのです。そのようにしていると、心が動揺して病気になり、体の病気にもなって不遇な運命にぶつかる境遇を、私は本当にたくさん見たというのです。

 統一教会に反対して成功した人を、私は1人も見たことがありません。私が思うには、統一教会は本当に恐ろしいのです。私がそれを知っています。統一教会は恐ろしいところだということを感じます。私がもし怒って歯を食いしばり、歯を削りながら祈祷する日には、めちゃくちゃになるのです。そうでなくても、心で「こいつ! けしからんやつ」と思えば、何ヵ月もたたずにすぐ損害を被ってしまいます。そのようなことを本当にたくさん見ました。統一教会は恐ろしいところだというのです。私はそのように思います。

 ですから、軽挙妄動するのではなく、自分の思いどおりに世の中で生活していた、そのような習慣性で向き合うことができないところが統一教会であることを、私はよく知っています。その代わり、先生がそのようなことをよく知っているがゆえに、先生は深刻な人です。原理原則には一歩も譲歩しません。国が反対し、共産党が反対し、民主世界が反対したとしても、一歩も譲歩しないというのです。反対すれば反対するほど、ねじがもっとねじれこむだけです。そのように考えます。「反対しろ、反対すれば私はもっと入っていく」ということです。もっと入っていくので、「お前と私を比べて、お前が弱くなるときは……」。「ねじがばかになる」という言葉があるでしょう? 「ねじが傾かないためには、お前が後退しなければならない、ナットとボルトを合わせて締めるのだから、ボルトが回らなければならない」、それと同じです。ですから、私が動く日には、反対したとしても入りこんでいくということです。「私が“ばか”にならないようにしようとすれば、お前が後退しなければならない」、そのような作戦を今までしてきているのです。

 それでは、統一教会では、実際どのように動くのですか? 先生と皆さんが感じるその心情的なものが核心となり、相対的な世界に応用しなければならないということです。また、先生自身はどのようにするのですか? 神様と先生とで感じたものを皆さんに応用しなければなりません。同じことなのです。それで、先生が知っていることは、皆さんは分からないでしょう。しかし、皆さんが先生について感じたことは、皆さんのものとして分かるのです。

 ですから、皆さん自体において、信仰世界の心の門を開き、心の畑を啓発することを今までしてきているのです。それが啓発される日には、それで終るのではなく、それを相対的な世界に適用させることができなければなりません。

 体恤と実践は二つの世界を調整するために絶対必要

 皆さんは霊的に体恤するでしょう? 先生を通して体恤するでしょう? (「はい」)。その体恤したものを実践舞台に適用させなさいというのです。分かりますか? そうすれば、そこから必ず天国が広がります。神様を中心として見るとき、私が2番目なら、実践環境は3番目です。蘇生、長成、完成です。自分は中心の位置に立っているので、自分が天も完成させることができ、世の中も完成させることができる、このような話が展開します。

 ですから、聖書を見ても、いつも2番目が問題になっているのです。その2番目の位置はどのような位置ですか? 天地万物の中で、神様と宇宙について見てみるとき、人は2番目の位置にいます。人は、一つの線を中心として見ると、3点を連結したものです。この地点が人間です。人だと見るのです。ですから、人間が完成することによって、神様の完成を見ることができ、人間の完成を見ることによって、宇宙の完成を見ることができるのです。

 そのような私が、今開拓する途上で絶対に必要なものは、この二つの世界を調整するための体恤と実践です。体恤が霊的な面を意味すれば、実践は真理的な面を意味し、体恤が右側であれば実践は左側です。これが一致する平行線を描き、自分の人格基準に完結させることによって、宇宙を代表する神様の息子として登場できるということを、皆さんが分かってくれることを願います。

 

 

翻訳責任:当ブログ管理者

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ サンクチュアリ教会へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村

Print Friendly, PDF & Email