Q:「成約時代の摂理的同時性」(前編)には金明煕先生について書かれていませんが、金明煕先生はどのようなお立場なのでしょうか?
A:金明煕先生のお立場は次の3点だったと考えます。
①崔先吉女史と文聖進様のお立場を蕩減復帰されるお立場だった。
②崔先吉女史と韓鶴子女史をつなげるお立場だった。
③韓鶴子女史の相対となるエバ国家(日本)を立てるための基台を造成されるお立場だった。
金明煕先生について語られた文鮮明先生のみ言
【み言の考察】
み言の最後に「蘇生、長成、完成の3段階を経なければならなかった」とは、崔先吉女史、金明煕先生を経て韓鶴子女史を真の母として迎えたことを意味しています。
このみ言から見たとき、もし1950年代に「梨花女子大事件」などの国家的迫害が起きていなければ、そのまま韓国にみ旨を中心とする国家的基台が造成され、その基台の上で金明煕先生が真の母として立たれていたと考えられます。
しかし、それが成就せずに時が失われ、摂理が延長してしまったため、日本に行かざるを得なくなったということになります。
金明熙先生が歩まれた路程
金明熙先生は、サタン世界を象徴する統一教会宣教前の日本に行き、喜進様を生み育てて文鮮明先生のもとに復帰し、サタンに奪われた崔先吉女史と文聖進様の立場を蕩減復帰しなければなりませんでした。
その使命が果たされた基台の上で、蘇生、長成の段階を経て完成段階として韓鶴子女史が真の母になられましたので、金明熙先生はそのための基台を造成されたことになります。
また、喜進様は、1955年8月17日、東京都世田谷区奥沢の「さくら荘」で誕生されましたが、このとき文鮮明先生は、「梨花女子大事件」により1955年7月4日、ソウル中部警察署に連行され、その後、10月4日まで西大門刑務所に収監されていました。
そのため、日本に行かれたのは、もしそのまま韓国に残っていれば、金明熙先生と喜進様の身にも危険が及んだかもしれないという現実的な事情もあります。
いずれにせよ、結果的には、日本の地に再臨主の血統を中心とする父子の因縁を連結してくださり、同時に真の父母の愛で日本人と日本の地を愛してくださいました。
このことが、その後、日本に宣教師を送る条件になったことは間違いなく、日本にとっては感謝してもしきれないお方であると言えます。
以上、摂理から見た金明熙先生のお立場をまとめてみると、
①崔先吉女史と文聖進様のお立場を蕩減復帰されるお立場だった。
②崔先吉女史と韓鶴子女史をつなげるお立場だった。
③韓鶴子女史の相対となるエバ国家(日本)を立てるための基台を造成されるお立場だった。
ということになります。
金明熙先生との出会い
私が韓国の京畿道安養市で世界日報の配達をしながら任地活動をしているとき(1993~98年)、金明熙先生は京畿道の安山市にお住まいでした。
それで、一度だけご自宅に数人の食口とうかがい、お話をお聞きしたり、食事を御一緒させていただいたりしたことがあります。
一人ひとり自己紹介し、私の名前が「中村」だということを聞かれた先生は、「私と同じですね」と言われたことが印象に残っています。(金明熙先生の日本滞在時の日本名は「中村好江」、喜進様は「中村竹信」です)
いろいろなお話の中で、ご自身の立場と使命について、「私は最初のお母様(崔先吉女史)と真のお母様(韓鶴子女史)をつなぐ立場でした」とおっしゃいました。
これがお父様から聞かれたことなのか、それとも先生ご自身がそう悟られたのかは分かりませんが、金明熙先生はそのようにお考えになっていたようです。
また、真の父母様の巡回講演が京畿道で行われると、必ず最前列に参席していらっしゃいました。
金明煕先生は、2020年4月1日(陽)に聖和されましたが、康賢實真のお母様のように、最後まで真の父母様に対する絶対信仰を貫かれたお方でいらっしゃったと思います。
中村さん がんばっておられますね!!
金明煕先生が日本宣教の第1人者であり 崔ビショク先生の胎にも娘さんがおられたことを考えれば 理論は破綻します。
ですからあくまでも弟子であり 崔淳華 さんや崔淳実さんと三位基台であったことを考えた場合 あくまでも淳実さんの基台であり
韓鶴子の場合 基台に康オモニとダラスM??がおられた時点で サタンに破壊されることに対する
安全策であると感じます。
推測ではどうすることもできませんので 王様か 大きくなられた後の信俊様にお父様が入られたときにお聞きしたらよいかと感じます。
大変、貴重な情報をありがとうございます!
金明煕先生のお立場に関しましては、今後、より事実に基づいた理解と見解をもてるよう努力いたします。m(_ _)m