摂理から見たアベルたち(8/10)

1979年12月30日(日)
アメリカ・ベルベディア

※このみ言は、1979年12月30日の聖日に、新しく80年代を迎えるに当たって、私たち統一教会員のアベルとしての心構えとホームチャーチ摂理について、10時間にわたって語られたものです。また、日本では、『摂理から見たアベルの正道』というタイトルで小冊子になりました。

 ホームチャーチは最後の方法

 アベル圏に同参できる恵沢を誰もが受けることができる時に入ってきたので、最近は黒人たちが祝福を受けています。世界で有名な地位は黒人たちが出世しているということです。アメリカ内で有名な運動選手や、有名な活動をしている人たちは、すべて黒人たちだというのです。アメリカンフットボールをするときも、その半分は黒人ですね。黒人たちがどのくらいになりますか? そこに統一思想さえ入っていくようになれば、天才的などの博士よりも、アメリカの博士よりも、私が黒人たちをもっと立派な人にすることができるということです。白人に負けない思想を支援し、全白人世界を助けてあげようという思想を私がもつようにさせるでしょう。何の話か分かりますか?(「はい」)。レバレンド・ムーンが今、それをしているというのです。

 このようにすれば、人種戦争がアメリカから揺らぎ始めるのです。今後、共産党が、このネバタ州に15万から30万人になるというのですが、全体の共産党をネバタ州のようなところに投入して共産主義の州をつくり、「今中央政府は二重の国であり、二重に搾取することになるため、中央政府を脱退する」と言うときはどうしますか? ネバタ州が30万人になるといいますが、州政府をすべて共産党にして「私たちの州だけが必要だ。中央政府は税金をかけて二重に搾取してばかりいるから必要ない」と脱退してみてください。そのような州が三つだけできれば、アメリカがすっかり壊れるというのです。そのような州が三つできればアメリカは……。簡単です。簡単だというのです。では、中央政府が残るという保障がありますか?

 今日、イランは発展途上の国ですが、そのような国でも共産党に対して身動きもできず、後退する富者たちがいるのです。皆さんはそのようなことを考えますか? そこに人種戦争を起こし、黒人を動員して「恨みを晴らせ」と言うのです。武器を与え、服を与え、刃物を与え、お金を与え……。銃はいくらでも買うことができるのです。すでに人種問題が間違いなくこのようになることを心配し、これを防御しようというのです。そうすることによって、黒人が救われ、白人が救われるようになるということです。そうしてこそまっすぐになります。そうしなければ両方とも滅びるということです。

 それで、私たち統一教会の教会員たちは、犠牲の祭物になるのです。蕩減になる祭物は、強制でしてはいけないのです。自ら願わなければなりません。自ら願わなければならないというのです。そうでなければ祭物になりません。祭物になることができないということです。イサクも、父であるアブラハムの祭物になるときに反抗しなかったために、アブラハムの祝福を受けたのです。12歳になっていたので、父が自分を祭物として捧げようと、刃物で刺して殺そうとするとき、「なぜこのようなことをするのですか?」と反対することもできたのです。しかし、反対してはいけないのです。羊の象徴にならなければなりません。羊のような祭物です。何の話か分かりますか?(「はい」)。そのように困難があるのです。そうでなければ、生き残る道がありません。このような途方もないアベルの歴史を、天がすべて責任を担ってきたという事実を知らなければなりません。

 これを見るとき、皆さんが今までどれほど小心な考えをしていましたか? 神様がご覧になるとき、どれほどむかむかされるでしょうか? これが人間ですか? 考えてみなさいというのです。天の前にそれがどれほど恥ずかしく、先生にどれほど恥ずかしいことですか? 考えてみてください。現在、アメリカの立場がどのようなものか分かりますか?(「はい」)。

 ですから、これを何で防止しようというのですか? 最後の方法が何ですか?(「ホームチャーチ」)。ホームチャーチだというのです。攻撃のときになる前は忙しいということです。いつ攻撃してくるか分かりません。すでに攻撃しているのです。

 全体のために行くのがアベルの道

 私が1978年までに3万人をこの場で教育し、きちっと配置すれば、先生がいなくてもこれは完全に可能だと見るのです。3年間で1人が10人ずつすれば、30万人を越えるので、アメリカ全土に配置してあまりあるのです。そうすれば、すべてホームチャーチ圏内に入っていくのです。さあ、忙しいでしょうか、忙しくないでしょうか? 答えてみてください。休む間がありますか、皆さん?(「ありません」)。

 教会ができなかったので、仕方なくカープを前に立たせて1977年から始めたのです。1977年から1980年まで、この3年間でこれをしようとしたのですが、アメリカの人たちが責任を果たすことができなかったので、仕方なくタイガー朴を前に立たせたのです。これから共産党と闘いながらぶつかりなさいということです。闘う既成教会の牧師を訪ねていきなさいということです。ならず者がいるところを訪ねていき、淪落するあらゆるところを訪ねていきなさいということです。

 カープの学生たちは、学生である以上、勇敢でなければなりません。それが一般常識です。宗教家たちがそうするのは何ですが、学生たちは勇敢でなければならないのです。そして、ホームチャーチのメンバーは、今のカープに負けない活動をしなければなりません。何の話か分かりますか?(「はい」)。そのような戦略をもち、そのような闘いをしなければならないということです。

 これは統一教会のためではありません。既成教会のためであり、若者のためであり、共産党のためであり、アメリカのためにするのであって、統一教会のためにすることは一つもありません。統一教会のために闘うのではないのです。アベルは自分のために苦労するのではありません。全体のためにするのがアベルの行く道です。統一教会は、アベルのために行くのではないということです。何の話か分かりますか?(「はい」)。

 先生がアメリカと何か関係がありますか? 私がアメリカ国民ですか? 私がここでご飯をもらうためにこうしているのですか、何か家がよくてこうしているのですか? 私が家を願えば、すぐによい家を建てることができ、リンカーン車を12台、100台でも買うことができ、何でもすべてもつことができるというのです。すべてできます。最高によいステーキを毎日のように積んでおき、腐らせるほと食べることもできるのです。

 それでは、ここに来て何をしようというのですか? 全体のためにそのようにするのです。統一教会のためにするのではなく、世界のためにするということです。それが何かというと、アベルの正道であり、アベルの行く道だということです。それが分かりますか? 正道、正道、アベルの正道……。神様の復帰摂理から見るとき、このアベルの行く道が正道ということを皆さんははっきり分かりますか?

 さあ、皆さん、「私が3年路程を行ってこそ祝福を受けるだろう」という、これはアベルの行く道ではありません。「私がファンダレイジングをして教会のために生きてこそ、私によいことが来るだろう」という、これもアベルの行く道ではないのです。「私がこのように犠牲になれば、国がよくなり、より大きな世界がよくなる」、それがアベルの考えであり、アベルの行く道だというのです。何の話か分かりますか?(「はい」)。

 堕落したカイン圏は、神様に対して「私をこのようにしてほしい」と言える権利が何もありません。そのように考えることが恥ずかしいことであり、ひたすら悔い改めて、また悔い改めてもそのように言うことはできず、恥ずかしい重荷を背負っているのです。皆さんが苦労して涙を流すとしても、自分のために涙を流すのではなく、天を中心として涙を流しなさいということです。涙を流すところでは、天を中心として、アメリカを中心として、世界を中心として涙を流さなければならないというのです。自分のために泣くのではなく、天のために涙を流さなければなりません。国のために、世界のために、神様のために泣くことができなければならないのです。

 反対されてくやしければ、神様がどれほど無念であられ、人類がどれほど無念かを考え、声を上げて泣くのです。神様を慰労してさしあげなければなりません。何の話か分かりますか? 自分のために涙を流してはいけないのです。自分のために泣けば形式的なものにしかなりません。涙を流す場面があれば、「神様、どれほど復帰摂理のために苦労されていますか? 後代の人類がこの道を来なければならないので、どれほど大変でしょうか?」と代わりに泣いてあげることができなければなりません。

 不満を言うのであれば、「ああ、この民よ! 天を信じることができない呪われる民よ! 神様を知らないとは」と言いながら、国を中心として、世界を中心として、真の世界の人類を中心として不満を言うのです。そのようなことは通じるということです。ですから、私が個人の感情でカーターを憎むのではないというのです。世界と神様の名で……。私個人としては何もないということです。何の話か分かりますか?(「はい」)。

 では、皆さんに悲しいときがないでしょうか? 悲しいときがあるというのです。先生も悲しいときが多いのです。痛哭したいときがたくさんあります。そのようなときは、神様をしっかりつかんで、「私よりどれほど悲しまれましたか? あなたの愛する息子、娘がどれほど悲しむでしょうか? 人類が行くべき復帰の道がどれほど悲しむでしょうか?」と思いながら涙を流すということです。何の話か分かりますか?(「はい」)。自分のためにつまらない涙を流しません。それがアベルの行く道です。

 イエス様も十字架で亡くなるとき、「神様、怨讐のローマを許してください」と言いながら涙を流したのです。「あなたは私のために悲痛な思いをなさらないでください」と言いながら涙を流したというのです。許してくださいと言いました。そうでしょう? そう言いながら涙を流したでしょうか、流さなかったでしょうか? しかし、十字架に不満を言いました。「私が死んだあとに多くの人たちが、神様のために、人類のために死んでいくので、この十字架が無念だ」と言いながら不満を言いました。何の話か分かりますか?(「はい」)。

 レバレンド・ムーンを批判してもよいのです。「あなたは天のために責任を果たすことができず、世界のために責任を果たせなったので文句を言います」と言いなさいというのです。先生に向かってするのです。「私がレバレンド・ムーンよりもっとよくやります」と言うようになるとき、文句を言うのです。何の話か分かりますか?

 自分を中心に闘うのではなく神様と世界を中心として闘いなさい

 アメリカを中心として、世界を中心として闘いなさいというのです。自分を中心として闘ってはいけないのです。神様のために、世界のために自分が死の場にも行こうと考えなければなりません。私のために闘ってはいけません。ゴリアテの前に出ていったダビデは、自分自身のために闘ったのではありません。神様とユダヤ教のために闘ったのです。それで神様が共にありました。自分のために闘うのは罪です。自分のために闘うときは、神様が共におられません。レバレンド・ムーンが服を着るのは、レバレンド・ムーンの体のために着るのではありません。教会の威信や体面のために統一教会の指導者として着るのです。背広を着て、ネクタイをしめ、私がイーストガーデンに住んでいるのも、それでそのようにしているのです。分かりますか? アメリカ大統領がホワイトハウスに住むのもすべてそうですか? 世界のために住まなければなりません。

 家では誰がアベルかというと、自分のために闘う人ではなく、その兄弟と父母のために闘う人だというのです。その家の主人はアベルです。これを見るとき、統一教会自体も同じ道理になるというのです。何の話か分かりますか?(「はい」)。アベルの伝統を知らなければなりません。

 さあ、このような伝統が分かりますか? 黙々と祭物になり、すべて行ったあとには、私が嫌だと言っても、あらゆる福を神様がもってきて積んでくださるというのです。先生は、お金をたくさん集め、よいことはすべてしましたが、自分のためには一つもしたことがないというのです。教会の財産で私の名になっているものは一つもないのです。この服も、子どもにあげようとするのではなく、着たあとはすべて教会の人たちにわけてあげようと思います。

 それでは、アベルの家というものが分かりますか? 統一教会のイーストガーデンに住む人たちは、全員がそのような思想をもって暮らさなければなりません。この世の中でも、息子、娘にそのような教育をしなければならないということです。神様が来られるのは、レバレンド・ムーンを守ってくださるためではなく、天と世界の人たちのためにレバレンド・ムーンのところに来たと考えるのです。世界人類に代わってすべて捧げるというのです。人類がこのレバレンド・ムーンを必要とするため、レバレンド・ムーンを守ってくださるということです。

 このため、イーストガーデンに来ている人たちを私は叱責しないのです。叱責しません。ご飯を食べながらも叱責しないということです。これは天が責任をもたれることです。彼らは私のために来ているのではなく、人類のために来ていると考えます。それは何の話か分かりますか? 考え方がすべてそうなのです。

 私がどこかよいところに見物に行っても、私だけでは絶対に行きません。このカインたちを連れていきます。3人でも前に立てて行くのであって、絶対に1人では行かないというのです。3人以上……。最近はガード(guard:警護員)がついているので、ガードが自然とその代わりをしています。それがアベルの行く伝統です。それは何の話か分かりますか?(「はい」)。クリスマスになれば、子どもたちに何かをしてあげるのですが、先に食口たちにしてあげてから子どもたちにしてあげるというのです。そのように生きるのです。ですから、統一教会の食口が私のためにしてくれなければならず、神様が私のためにしてくれなければなりません。それゆえ、統一教会の食口がレバレンド・ムーンのために精誠を尽くそうとするのであり、神様が私を助けてあげようとする、という結論が出てくるのです。

 アベルの伝統

 そうであってこそ不満がないのです。そうしてこそそれが原則です。ですから、私1代では滅びません。少しも死なないということです。どこに行っても私が死ぬときに同僚がいて、私のために涙を流す人がいると考えるのです。そのように考えるのは間違っていますか?(「いいえ」)。どこに行っても、アフリカに行ったとしても、3ヵ月以内に私のために命を捧げる人が現れるのです。南米に行っても、どこに行こうと、皆さんがいなくても、私1人が行けば、3ヵ月以内にそのような人が現れます。アベルの伝統がこうなので生き残るのであって、もし間違っていれば生き残ることができず、復帰摂理の基盤で死んで犠牲になったあらゆる聖人たちは、打たれて残るものが一つもないということを知らなければなりません。

 孔子や釈迦牟尼が反対されたため、死んだ後に世界の人々が推戴するのです。世界の人々が推戴するということです。それがなぜそうなるのか、歴史家たちは分からなかったのです。カイン・アベルの歴史の伝統がこうだからだということを、今皆さんははっきりと分かったのです。神様が立ててくれ、後代の人類が立ててくれるということです。神様のために生き、人類のために生きたので、そのようになるのです。

 私が38度線を越えて北朝鮮に行くとき、生きるのが難しいと思ったのです。そのように思いながら、自由世界と神様のために越えると考えたということです。今回、韓国に行きましたが、韓国が大変なことになったのです。ですから行きました。私は行く計画もなく、行く心もありませんでしたが、世界と神様と韓国のために行ってきたというのです。

 国が、世界がひっくり返るかもしれない危機がありましたが、私が行くことによって……。天が中心となられ、緊急にカーター政府がそのように処置したのです。レバレンド・ムーンを先に送ったので、天が威信を立て、そのような条件をもってそのようにできたのではないかと思います。アメリカが朴大統領の死後に緊急に処置して防御するようになりましたが、このような不思議な環境でそれが起こったのです。すべて天が共にある、そのような何かがあったのでそのようになりました。私が涙を流し、この民族の将来のために天の前に訴え、人類のために、それこそ精誠を尽くして祈祷したのです。

 韓国の地で朴大統領の葬儀が行われる日、私が出発していなければ、出てくるのが難しかったのです。「天よ、韓国に責任をもってください」と涙を流して祈祷しました。神様のために、人類のために、自由世界のために、韓国のために私は涙を流しました。それを知らなければなりません。「金日成、こいつ! 私がこのように愛する地を侵犯するためには、私よりももっと愛することができる心をもたなければ、越えることはできない!」、そのように祈祷してから飛行機に乗って出てきたのです。そして、出てくると、心がどれほど軽かったか分かりません。来年の4月まで無事に越えていかなければならないのです。私が行くや否や、「来年の4月まで韓国は危機だ。祈祷しなさい」と言ったのです。私が行くや否やそのように言ったのですが、そのような事故が起きたというのです。来年の4月まで危機だと言いました。国の危機があると言ったのです。何の話か分かりますか?(「はい」)。

 私がニクソンに会ったのは、レバレンド・ムーンのためにそうしたのではないのです。世界のためであり、神様のためでした。ニクソンを支持したのは、ニクソン個人のために、私と統一教会のために支持したのではないというのです。神様の権威とこれからの自由世界の権威のためにそのようにしたのです。

 自由世界がニクソンを追い出して、どれほど滅びましたか? 共産世界がどれほど利益を得て、自由世界がどれほど損害を受けましたか? 皆さんはそれを知っていますか?(「はい」)。私がアメリカ国民を激しく恨み、悪く言うのは、神様の名によって、人類の名によってするのです。分かりますか? レバレンド・ムーンが皆さんのために、人類のために、神様のために働くことを知らなければなりません。それがアベルの教会であり、アベルの家です。犠牲にすることも神様が責任をもってくださり、復活させて天国に送るのも神様が責任をもたれるのです。私が責任をもつのではないということです。それがアベルの行く道なのです。

 統一教会は、自己弁明をすることができません。私が闘いなさいということも皆さんのため、統一教会のためではないのです。人類と神様に被害が及ぶので闘いなさいということです。はっきりと知らなければなりません。神様の利が訪れ、人類の利が訪れるので闘いなさいと命令するのです。何の話か分かりますか?(「はい」)。私のために、レバレンド・ムーンのために闘いなさいというのではないというのです。神様と人類のために……。

(『文鮮明先生御言選集』 106-241~249)

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ サンクチュアリ教会へ
にほんブログ村

Print Friendly, PDF & Email