【今回深掘りする原理のみ言】
人間を命の道へと導いていくこの最終的な真理は、いかなる教典や文献による総合的研究の結果からも、またいかなる人間の頭脳からも、編みだされるものではない。それゆえ、聖書に「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちについて、預言せねばならない」(黙一〇・11)と記されているように、この真理は、あくまでも神の啓示をもって、我々の前に現れなければならないのである。(『原理講論』p37~8)

 

「統一原理」を正しく理解するためには、神霊と真理の両面から認識する必要があります。

今回は、特に真理面から「統一原理」にアプローチするさいに、留意しておいたほうがよいと思われる「三つの壁」について考察してみたいと思います。

【前編】では、「統一原理」と「私」の間にある「三つの壁」とは何かを解説します。

「統一原理」と「私」の間にある「三つの壁」とは?

「UPMC」では、「統一原理」と「私」(朝鮮民族以外の人)の間には、少なくとも「三つの壁」があると考えています。

その「三つの壁」とは、「私」の側から見て、最初に「観念の壁」、次に「言語の壁」、最後に「表現の壁」のことを言います。

 

日本人であれば、日本語の『原理講論』や日本語に翻訳された文鮮明先生のみ言を中心に「統一原理」を学ぶことになります。

ですから、「私」が「統一原理」を理解するまでに、自分自身を含めて複数の人たちを経由しているため、そこには本来の「統一原理」にはない人間的な要素が混入している可能性があることを意味しています。

それでは、この「三つの壁」について、一つひとつその詳細を調べてみることにしましょう。

日本語『原理講論』と「私」の間にある「観念の壁」

第一の壁は、日本語『原理講論』と「私」の間にある「観念の壁」です。

日本語『原理講論』には、大きく分けて以下のような3種類の言葉があります。

1韓国語にも日本語にもない「統一原理」独自の言葉
例:二性性相 四位基台 信仰基台

2韓国語にはあるが日本語にはない言葉
例:탕감(タンガム 蕩減) 역사(ヨクサ 役事:日本語『原理講論』では「働き」と表記) 대신(デシン 代身:日本語『原理講論』では「身代わり」あるいは「代理」と表記)

3韓国語にも日本語にもある言葉
例:中和 主体 対象 相対

ここで言う「観念の壁」とは、3番目の「韓国語にも日本語にもある言葉」に関連するものです。

これに分類される言葉は一般的にも使われているので、人それぞれ独自の観念をすでにもっています。

それが「統一原理」の概念と一致していれば問題はないのですが、一致していない場合は、「統一原理」の正しい理解を妨げる要因になってしまうことがあります。

自分独自の観念が先入観として働いてしまうと、神様のみ旨や摂理に対して真逆の見解をもつようになることもあり得るのです。

その一例として、『原理講論』には洗礼ヨハネの責任完遂に関する問題が挙げられています。

洗礼ヨハネに関する問題が、その一つの良い例となるのであるが、我々は、イエス以後二〇〇〇年間も、洗礼ヨハネがその責任を完遂したという先入観をもって聖書を読んできたので、聖書もそのように見えたのであった。ところが、それと反対の立場から聖書を再び詳しく調べてみることによって、洗礼ヨハネは、その責任を完遂できなかったという事実が明らかにされたのである。(『原理講論』p562)

 

聖書の場合は、天倫に関する重要な問題が象徴と比喩で書かれているので、多様な解釈が生じやすいのですが、『原理講論』でもその問題は起こりえます。

例えば、「主体」という言葉は、一般的に「集合体の主要な構成部分」(広辞苑 第七版)という意味です。

例文:無党派の人々を主体とする団体

このような意味から、中心に位置する人や主従関係の「主」のような観念をもつことがあります。

極端な場合には、主体と対象を支配する側と支配される側といった観念をもってしまうことがあります。

しかし、「統一原理」でいう「主体」は、それとはまったく異なるものです。

これと同一なる原理によって、その主体は神の対象となり、神を中心として回転して神と合性一体化し、また、その対象が、このような主体と合性一体化するようになるとき、初めてその合性体は、神の二性性相に似た実体対象となる。(『原理講論』p55)

 

「統一原理」でいう「主体」は、神様の対象になって合性一体化した存在のことを意味しています。

ですから、自分が中心ではなく、神様の対象の立場に立って初めて「主体」になることができるのです。

このように、自分自身の人間的な観念が無意識のうちに入り込んでしまうことがあるので気をつけましょう。

韓国語『原理講論』と日本語『原理講論』の間にある「言語の壁」

第二の壁は、韓国語『原理講論』と日本語『原理講論』の間にある「言語の壁」です。

ここで言う「言語の壁」とは、日本語『原理講論』の3種類の言葉の中で、主に2番目の「韓国語にはあるが日本語にはない言葉」に関連するものです。

私は、韓国語のみ言を15年以上翻訳してきましたが、その経験から翻訳には、原文の正確な理解という点で少なくとも次の二つの問題があると考えています。

■翻訳自体の限界
■翻訳者の技量

以下に、翻訳自体の限界と翻訳者の技量の問題について、それぞれ解説します。

(1)翻訳自体の限界

さきほどの「観念の壁」とも通じますが、「하나님」(ハナニム 神様)という言葉に対して韓国人がもつ観念と、その訳語である「神様」に対して日本人がもつ観念は異なります。

言語が異なれば、文化も考え方も異なるわけですから、韓国語から日本語に翻訳した時点で、すでに原文が意味する内容の何割かは欠落してしまいます。

こちらの記事(韓国語と日本語の『原理講論』について)で、金元粥先生とのエピソードをご紹介しましたが、韓国語を日本語に翻訳する場合、特に欠落してしまうのが「心情」の部分です。

いくら言葉を正確に翻訳しても、その言葉がもつ心情的な部分はどうしても欠落してしまうのです。

「言語の壁」は「心情の壁」とも言うことができ、復帰の道では神様の心情を体恤することがとても重要であることを考えれば、この問題は看過できない問題です。

(2)翻訳者の技量

次は翻訳者の技量の問題ですが、少なくとも以下の四つの課題があると考えています。

1翻訳者の「統一原理」の理解度と韓国語の読解力

翻訳者の「統一原理」の理解度と韓国語の読解力によって翻訳の精度に差が出ます。

特に文鮮明先生のみ言の場合、韓国語の辞書にはない言葉も少なくないため、「統一原理」の理解度と韓国語の読解力がより必要とされます。

2直訳と意訳のバランス

翻訳には主に直訳と意訳があり、宗教の経典では直訳が基本ですが、直訳して意味が通じない場合には、意訳せざるをえません。

しかし、どの程度まで意訳するかが翻訳者によってその基準が異なるため、翻訳する人が異なれば、異なった訳文になります。

一つの書籍が複数の訳者によって翻訳されると、日本語の訳文に統一性がなくなり、読みづらくなることがあります。

3翻訳者の日本語文章力

意外に思われるかもしれませんが、韓国語の翻訳は、韓国語を読むことができても、日本語の文章力がなければできません。

韓国語の読解がインプット、日本語への翻訳がアウトプットとすれば、翻訳文の精度はこの二つのうち、レベルの低い方で決まります。

韓国語の読解力が高くても日本語の文章力が低かったり、日本語の文章力が高くても韓国語の読解力が低ければ、その低い方の基準にまでしか翻訳文の精度は上がりません。

4翻訳者のモチベーションやコンディション

訓読会などで文鮮明先生のみ言や『原理講論』を読むとき、あなたはどのくらい集中していることができますか?

ときにはお経を唱えるように、思考が止まって目と口だけが動いているような時間もあるのではないでしょうか。

日本語のみ言を読んでいるときでさえ、そういうことがあるとすれば、母語でない韓国語を読むとき、集中力を維持し続けることがどれくらい困難かご理解いただけると思います。

翻訳者も人間ですから、モチベーションの上がり下がりもあれば、体調が良いときも良くないときもあります。

以上のように、翻訳には、それ自体の限界と翻訳者の技量という大きな問題があるため、日本語の『聖書』も『原理講論』も、複数回にわたって翻訳改定が行われています。

日本語の『聖書』は、2018年末に「聖書協会共同訳」が発行され、口語訳(1954年~)、共同訳(1975年~)、新共同訳(1987年)につづく大きな翻訳改定が行われました。

日本語『原理講論』も、1967年に発行されて以来、より原文に近い訳文にするための修正作業が現在も行われています。

このように、韓国語『原理講論』と日本語『原理講論』の間には「言語の壁」があるのです。

「統一原理」と韓国語『原理講論』の間にある「表現の壁」

第三の壁は、「統一原理」と韓国語『原理講論』の間にある「表現の壁」です。

ここで言う「表現の壁」とは、日本語『原理講論』の3種類の言葉の中で、主に1番目の「韓国語にも日本語にもない『統一原理』独自の言葉」に関連するものです。

究極の真理である「統一原理」は無形ですから、それを文字や文章で完全に表現することは不可能です。

有形の文字で表現した時点で、すでに「統一原理」そのものではなくなってしまうわけです。

また、内容面から見ても『原理講論』が「統一原理」のすべてを表現しているとは言えません。

ご存知の方も多いかと思いますが、文鮮明先生のみ言に次のようなものがあります。

皆さんは、タマルに関して研究すれば、原理のすべてのことを知ることができます。(『文鮮明先生御言選集』35-168 1970.10.13)

 

ここで語られている原理とは「統一原理」のことなのですが、『原理講論』にはタマルについてはまったく言及されていません。

そして、『原理講論』の総序の最後には、次のような一文も記述されています。

ここに発表するみ言はその真理の一部分であり、今までその弟子たちが、あるいは聞き、あるいは見た範囲のものを収録したにすぎない。時が至るに従って、一層深い真理の部分が継続して発表されることを信じ、それを切に待ち望むものである。(『原理講論』p38)

 

韓国語の『原理講論』は1966年に発行されていますが、その後、摂理的な勝利の基盤が形成された段階で、文鮮明先生によって次々とより深い真理が発表されています。

【前編】の最後に

以上のように、真理面から見れば、「統一原理」と「私」の間には「三つの壁」が存在しています。

このことから考えると、日本語のみ言や『原理講論』だけで「統一原理」を学ぶことには限界があると言えるのではないでしょうか。

ただ、これは真理面を中心として言えることで、神霊面ではこういった「三つの壁」を超越して、誰もがダイレクトに「統一原理」にアプローチできるはずです。

また、たとえ「統一原理」のすべてを理解していなくても、神様の三大祝福を実現することはできます。

そのために必要なみ言はすべて解明され、私たちはそのみ言と自由に接することができます。

しかし、真理面での理解が欠けていると、次のような問題に直面することがあります。

堕落人間は、神もサタンも、共に対応することのできる中間位置にあるので、善神が活動する環境においても、悪神の業を兼ねて行うときがある。また悪神の業も、ある期間を経過すれば、善神の業を兼ねて行うときがときたまあるから、原理を知らない立場においては、これを見分けることは難しい。(『原理講論』p120)

 

このように、神霊面だけだと、未完成な私たちは一定の霊的基準を維持し続けることが難しいので、どうしても雑霊や悪霊に惑わされてしまうことがあるのです。

そのため、真の救いの道を最後まで歩みきるためには、次のような過程を通して真理を体得しなければなりません。

 終末に処している現代人は、何よりもまず、謙遜な心をもって行なう祈りを通じて、神霊的なものを感得し得るよう努力しなければならないのである。次には、因習的な観念にとらわれず、我々は我々の体を神霊に呼応させることによって、新しい時代の摂理へと導いてくれる新しい真理を探し求めなければならない。
 そして探し出したその真理が、果たして自分の体のうちで神霊と一つになり、真の天的な喜びを、心霊の深いところから感ずるようにしてくれるかどうかを確認しなければならないのである。このようにすることによってのみ、終末の信徒達は、真の救いの道をたどって行くことができるのである。(『原理講論』p175)

 

生涯かけて「統一原理」を探求したとしても、真理面においてはそれを完全に理解することはできないかもしれません。

しかし、それでもみ言を探し求めることが人間の責任分担の一つなのですから、探求する姿勢と努力はいつまでも持ち続けていかなければならないのではないでしょうか。

「統一原理」の理解が深まれば深まるほど、悪の勢力からの惑わしを避け、復帰の道を歩みやすくなることは間違いないでしょう。

 

~【後編】へつづく~