このみ言によると、堕落前の人間は、神様の直接主管圏に入って初めて四位基台を完成するようになっています。
『原理講論』にはありませんが、「統一思想」には内的四位基台と外的四位基台という概念があります。
今回は、「統一思想」の観点から、アベルが立てる「信仰基台」とアベルの正道について深掘りしてみたいと思います。
「統一思想」から見た「信仰基台」と「実体基台」
(1)「統一思想」について
「統一思想」については、文鮮明先生が次のように説明されています。
「統一思想」は、文鮮明先生の思想であり、「神主義」あるいは「頭翼(とうよく)思想」とも呼ばれています。
この「統一思想」の「原相論」では、あらゆる存在は二段構造になっており、内的四位基台と外的四位基台によって成り立っているとされています。
このように、外的四位基台の主体は、その内部に四位基台が形成されていることが分かります。
「統一思想」の観点から見るとき、創造本然の人間が神様の直接主管圏に入って完成する四位基台は外的四位基台に相当し、その前の段階では内的四位基台が完成していると考えることができます。
それでは次に、この内的四位基台と「信仰基台」の関係について考えてみることにしましょう。
(2)内的四位基台と「信仰基台」
アベルが「信仰基台」を立てることによって、アベルは「実体基台」の中心人物の立場に立つようになります。
そして、この「実体基台」の中心人物の立場は、四位基台の原理から見ると主体の立場に相当します。
「統一思想」によると、この主体の中に内的四位基台が形成されているので、アベルが「信仰基台」を立てるということは、神様を中心として内的四位基台をつくることを意味していると考えられます。
つまり、神様とアベルの心が一つになり、そのアベルの心とアベルの体が主体と対象の立場で一体化して内的四位基台をつくるのです。
それに対して「実体基台」は、神様と一つになったアベルが主体となり、カインが対象の立場で一体化して外的四位基台をつくるということになります。
【「統一思想」から見た「信仰基台」】
内的四位基台:神様 ⇒ アベルの心 ⇒ アベルの体 ⇒ アベルの心身一体
【「統一思想」から見た「実体基台」】
外的四位基台:神様 ⇒ アベル ⇒ カイン ⇒ アベルカインの一体化
このように、アベル・カインの一体化の摂理では、アベルとカインが一つになって外的四位基台を形成する前に、「信仰基台」の段階でアベル自身の中に内的四位基台が形成されているのです。
アベルが立てる内的な「堕落性を脱ぐための蕩減条件」
「実体基台」は、カインが「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てることによって形成されます。
こちらの記事(四位基台と4つの堕落性の対応関係)で解説したように、四位基台の4つのポジションと4つの堕落性は対応しています。
「実体基台」でカインが「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てるとき、4つの堕落性を脱ぐための条件を立てながら、神様を中心とする四位基台を形成しています。
ですから、アベルが「信仰基台」を立てるときに内的四位基台を形成しているとすれば、アベル自身がカインよりも先に「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を内的に立てていると見ることもできるわけです。
このアベルが立てる内的な「堕落性を脱ぐための蕩減条件」の場合は、まずアベルの心が神様と一つになり、神様と同じ立場に立ちます。
そして、アベルの心がその位置を守りつつ、アベルの体がそれに従い、アベルの心の意のままに行動して善を繁殖した立場に立つという経路で成り立ちます。
「統一思想」の観点から見ると、カインが「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てる前に、先にアベルがその条件を内的に立てていることになるのです。
そして、復帰摂理は再創造の摂理なので、創造原理によって摂理されますが、内的な「堕落性を脱ぐための蕩減条件」の創造原理的な根拠は以下になります。
このような観点から、カインが立てる「堕落性を脱ぐための蕩減条件」は、アベルが立てた内的な「堕落性を脱ぐための蕩減条件」が実体になったものと見ることができます。
逆に言えば、アベルが内的な「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てていなければ、カインが「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てることができないと言えます。
み言の伝達経路から見た「信仰基台」と「実体基台」
モーセ路程以降の復帰摂理時代になると、それ以前の供え物を献祭する条件をもって「信仰基台」を立てる摂理から、み言を中心として「信仰基台」を立てる摂理に移行しています。
モーセ路程以降の「信仰基台」は、「40日サタン分立基台」+「神のみ言を中心として立つこと」によって成立するわけです。
「神のみ言を中心として立つ」とは「神のみ言を信じて従おうと決心し、そのとおりに行動を起こすこと」を意味しています。
※参考記事
『40日路程実践プロジェクト』【基礎編】①「40日路程」の原理的意義と目的
ですから、み言の伝達経路から見た場合、「信仰基台」は、アベルが神様のみ旨とみ言を受け入れ、その道を歩むことを決意することです。
そして、「実体基台」は、カインがアベルから善のみ言を伝え受けて、善を繁殖する立場に立つ(『原理講論』p295)ことによって成立するのです。
以上のように、アベルも「信仰基台」を立てるときに内的に「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てているわけです。
それは、「信仰基台」を立てる段階できちんと堕落性を脱げていないと、「実体基台」で失敗してしまいやすくなるからです。
この問題を詳細に知るために、「信仰基台」を復帰した後のアベルが歩む路程について考えてみましょう。
「信仰基台」復帰後のアベルの行く道
「信仰基台」を復帰したあとのアベルの行く道は、一度僕の僕の立場に降り、そこから僕、養子、庶子、実子へと復帰していく路程です。
そして、アベルは、神様から受けたみ言をカインに伝えて、カインが「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てることができるように協助しなければなりません。
そして、カインがアベルを通して受けた神様のみ言を受け入れることで「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てられ、外的四位基台がつくられるわけです。
ここで注意しなければならないのは、「信仰基台」を復帰した人はアベルの失敗を蕩減復帰しなければならないということです。
アベルが「実体基台」で失敗してしまった原因について、文鮮明先生は次のように語られています。
このことから、「信仰基台」を復帰した人は、アベルの失敗を蕩減復帰しなければならないので、「実体基台」の段階で驕慢な心をもちやすくなると言うことができます。
アベルの立場に立ったということは、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を内的に立てているのですから、ある程度は神様と同じ立場で見ることができるようになっているはずです。
そうなると、まわりの人たちのいろいろな堕落性がはっきりと見えてしまうことがあります。
ですから、堕落性が見える人たちに対して、僕の僕の立場に下りていくことが難しくなるのです。
アベルが神様に祭物を捧げたあと、カインに対してどのように接したかについて語られた文鮮明先生のみ言を見てみましょう。
ところが、アベルは神様が自分の祭物だけを受けとられたので、自分が優れていて、神様が自分だけを好まれるから受けとられたと思い、「お兄さん、見てください。私の祭物は受けとられました」、そのように誇ったでしょう。間違いなくそうしたのです。
そうでなかなったなら、じっとしているカインの顔がなぜ真っ赤になったのでしょうか。アベルが黙っていたのにそうなったのでしょうか。間違いなくアベルはカインに、「お兄さんは何ですか。私の祭物は受けとられました」としつこく言ったのです。(『文鮮明先生御言選集』34-271 1970.9.13)
このときのアベルは、カインの堕落性や欠点、不足なところがよく見えていたのでしょう。
しかし、それを言葉と態度に表して批判せず、神様の心情と愛をもって次のように行動していれば、アダム家庭の復帰摂理は失敗していなかったはずです。
そして「ああ、お父様、なぜ私の供え物だけ受けとられたのですか」と言って泣き、兄のところに行って「私の供え物だけを受けとられた神様は嫌いです」と言ったなら、神様はどうされたでしょうか。間違いなくカインを愛さずにはいられなかったでしょう。(『文鮮明先生御言選集』34-271 1970.9.13)
『原理講論』のp113には「イエスが弟子たちを真理によって立たしめ、愛をもって救おうとされた」とあります。
アベルは真理によって「実体基台」の中心人物の立場に立つことはできましたが、愛をもってカインを救うことはできませんでした。
「信仰基台」を復帰した人は、このようなアベルができなかったことを蕩減復帰しなければなりません。
その道は想像以上に孤独で、大変険しい路程になりますが、それは文鮮明先生をはじめ、復帰摂理歴史の中心人物たちが歩んできた道でもあります。
最後に、アベルの行く道について語られた文鮮明先生のみ言をご紹介しましょう。
たとえ人々からひどい扱いを受けても、その人に決して怒りの情をもってはいけません。自分の痛みで泣いてはいけません。その代わりに、よりつらい道をたどってこられた神様を慰めるのです。人類の身代わりに涙を流すのです。たとえどのようなことがあろうと、自分のことのために涙を流し、泣くようなことはしてはいけません。
皆さんにも悲しい時があるでしょう。先生にも悲しい時が多いのです。痛哭する時が多いのです。そのようなとき、神様に、「どれほど悲しまれたことでしょうか。あなたの愛する息子、娘たちの悲しみを見られてどれほど悲しかったでしょうか。人類が行かなくてはならない復帰の道はどれほど悲しいでしょうか」と語りかけながら涙を流すのです。それがアベルの行く道です。(『文鮮明先生御言選集』106-243 1979.12.30)