1 現代科学の限界とその克服
20世紀に入り、科学はついに哲学の領域に入って真理を追求するようになりました。東洋と西洋の古代哲学がそうだったように、科学は宇宙の起源に関する問題を扱わずにはいられなくなったのです。
特に物理学と生物学は、これまで長い間議論されてきたにもかかわらず、いまだに解決点を見いだすことができずにいる本体論の問題に直面しています。実際に量子物理学や分子生物学における一部の実験は、このような本体論的問題を探求するために行われました。
すなわち物理学は、科学的な実験を通して、物質の本質が何であるかという疑問をもって本体論を研究してきました。最初の回答は原子であり、二番目の回答は素粒子でした。結局、量子力学の回答は、物質の素粒子をエネルギー自体に結びつけるものでした。同様に、生物学では生命の本質とは何かという本体論的問題を扱った結果、生命の秘密はDNAの特性にあるという回答を得ました。
このようにして、宇宙の真理を追求する中で自然科学は多くの事実を発見し、驚くべき知識の数々を集めています。しかし、これらも人間が提起する問題を究極的に解決するにはほど遠いと思います。
量子物理学は、物質の土台がエネルギーであることを確信していますが、私たちはいまだにエネルギーの根源を知り得ず、それ以前の存在段階が何であるかも分からずにいます。また、エネルギーがなぜ、どのようにして、それ以前の段階から存在の段階へと移行するのかも分かっていません。なぜ多様な分子が存在するようになったのか、なぜ分子は陽イオンと陰イオンという独特な形態をもっているのかなどの問題は、いまだに明白になっていないのです。
分子生物学は、生命の本質がDNA情報に含まれていると主張していますが、そこにも重大な問題が残っています。すなわち、DNA情報を構成する四つの構成単位は、どのようにしてその情報を得るようになったのかなどの問題です。
科学が真理を追究する中で、驚くべき発展を遂げたにもかかわらず、このように、いまだに科学自体に多くの問題が解かれずに残っているという事実は、何を意味しているのでしょうか。これらの残された科学的問題は、今日の自然科学領域の外にあるものと考えざるを得ません。
今日までの科学は、真理を追究するに当たって、特定の現象に対する直接的原因を研究してきましたが、存在の全体的動機や理由に対する探求を扱ったことはありません。したがって、科学が直面した最後の挑戦は、存在の究極的理由に対する問題です。物質の本質とは何かという問題において、いまだに探求されていないのが「存在理由」です。生命の本質とは何かという問題において、生命の「存在理由」それ自体が探求されていません。
私が提起しようとする内容をさらに明確にすれば、まず目的性を認めなくてはならず、その目的性を認める前に、その目的をつくり出した意志、すなわち万物を超越する宇宙的意志を認識しなければならないということです。この宇宙的意志を「神様」と呼ぶとき、未解決の問題を明確にする第一段階は、神様の創造目的を悟ることであり、第二段階は、物質と生命の現象において、肉的、化学的要素とともに、各自を一定の目的へと向かわせる原因的動機の存在を感知することです。
以上の内容を整理すると、人間の幸福のために発展してきた科学は、今日、人間の生活に障害と被害までもたらしました。このような被害から抜け出す唯一の方法は、神様の愛を中心とする真の価値観のもとで科学を発展させるところにあるのです。
より多くの科学者たちが、科学が限界に達したことを認めるようになれば、その限界を超越する鍵が、すべての物質および生命的現象の背後で、神様の創造目的に従って動く動機にあることを、彼らは発見するようになるでしょう。
以上、私が申し上げた点が、今日、科学が直面している最も重要で切実な問題であると確信する次第です。(『文鮮明先生御言選集』 106-54~56 1979.11.23)
2 現代宗教が抱える課題とその対策
(1)価値観の相克とその原因
今日の世界を一言で表現するならば、大混乱の世界だと言うことができます。洋の東西を問わず、世界の南北を区別することなく、国家の先進後進の区別なく、社会はすべて矛盾と不条理、否定と腐敗などによって病んでおり、世界の随所で紛争、衝突、反乱、戦争などが絶える日はなく、先進国は豊かな物質生活を楽しんでいますが、第3世界、特にアフリカでは、数多くの人々が飢餓に苦しんでおり、餓死する群れが続出しています。
このような世界的な混乱状態がより一層悪化し、より一層加速化されるならば、人類が滅亡の危機から抜け出すことは難しいのです。
このような世界的な混乱の直接的な原因は、果して何でしょうか。その原因は、さまざまな分析ができるかもしれませんが、最も根本的な原因は、価値観の相克にあると見なければなりません。何が真であり、何が善であり、何が美なのかということに対する見解が一人一人異なり、国家ごとに異なり、人種ごとに異なり、また思想によって異なるためにこのような混乱が訪れると見なすのです。
ある行為を、Aは善だと考え、Bは悪だと考えれば、Aはその行為を必ず実践しようとするはずであり、Bはその行為を最後まで反対するはずです。この時に対立、不和が生まれ、ついに衝突が生じるというのは必然な事です。このように、今日の混乱は、価値観の衝突、価値観の相違に起因すると考えざるを得ないのです。
それでは、そのような価値観の相違は、どこに起因しているのでしょうか。それは、第一に利己主義に起因しています。きわめて少数の例を除いては、個人は個人で利己主義に捕らわれており、国家は国家で、人種は人種で利己主義を追求しています。
第二に思想の違いに起因しています。世界にはさまざまな種類の思想があり、それぞれ多くの追従者の心をとらえ、特に共産主義と民主主義は、価値観をもって人類を大きく分けています。
(2)混乱収拾の方案
したがって、人類を滅亡の窮地から救出する道は、第一に、利己主義の清算にあり、第二に、思想的相違の解消にあると言わざるを得ないのです。利己主義を清算しようとすれば、まず人間が利己主義、すなわち自己中心主義に陥るようになった経緯を知らなければならず、思想的相違を解消しようとすれば、人間になぜ思想的相違が生じるようになったのかを理解しなければなりません。
人間が自己中心になり、思想が各々変わった遠因は、堕落によって神様を失うことによって、神様の愛を喪失したからであり、神様のみ言(真理)を失ってしまったからです。神様の愛は価値(真善美)の根本です。したがって、神様の愛は、絶対価値の基台であり、絶対価値はすべての徳目の根本、すなわち統一価値です。
そして、神様のみ言は、すべての真理(思想)の根本であり、したがって絶対真理です。また統一的な真理です。人間の堕落によって神様を失ってしまうことにより、絶対価値と絶対真理を喪失し、統一価値と統一真理を失いました。絶対価値と絶対真理から絶対的価値観が立てられます。「観」は観点であり、見解であり、理論です。したがって、今日の世界的混乱を収拾する方案は、絶対的価値観を確立することだと言わざるを得ないのです。
神様は、愛と真理を人間たちに伝えて人間を救済しようと宗教を立てました。一定の時と地域によってさまざまな宗教を立てました。例えば、2400年前にインドに仏教を立て、中国に儒教を立て、2000年前には、ユダヤにキリスト教を立てました。したがって、絶対的価値観は、神様を信奉する宗教を通して、初めて立てることができるという論理が成立するようになります。すなわち、宗教を基盤としない人の思想や哲学では、今日の混乱を収拾できる方案を立てることは難しいのです。これを言い換えれば、人類を混乱から救出するのは、ひとえに神様を中心とした宗教によってのみ可能なのです。
歴史を顧みるとき、事実において、儒教、仏教、キリスト教、イスラームなどは、各々一定の時代と一定の地域で社会的不安と混乱を一掃し、平和と安全の基台の上に、きらびやかな文化を花咲かせていました。例をあげてみましょう。中国の漢朝における儒教文化がそうであり、欧州の中世におけるキリスト教文化がそうであり、古代インドのアショカ王時代の仏教文化がそうだったのです。また、中東におけるイスラム文明(サラセン文明)もその顕著な例の一つです。
(3)宗教的価値観の崩壊とその原因
しかし、残念ながら、今日に至って宗教は、種類の如何を問わず、混乱を収拾できる機能と、人間の精神を指導できる能力を喪失してしまいました。今日の宗教は、徐々にその生命を失いつつあり、信仰は徐々により形式化しつつあります。人類は今、宗教から徐々に関心が遠くなりつつあり、熱い火のように燃え上がるべき信仰の本然の姿勢は、少数の例を除外すれば、徐々に消えていきつつあります。これは実に重大な事態だと言わざるを得ません。なぜかというと、人類の精神を善導すべき宗教がその機能を完全に喪失したとき、世界は無法天地と化し、人類はあらゆる暴力と乱行と殺戮の海の中へと落ちてしまうからです。実際に今日、そのような現象が起こり始めているのであり、共産主義の策略によって加速化しています。これを一言で宗教的価値観の崩壊現象と表現することができます。
それでは、その崩壊の原因とは何でしょうか。それは、第一に、科学技術の発達と経済成長などにより、人間の精神が物質主義に流れているからです。第二に、共産主義をはじめとする各種の無神論と唯物論思想が急速、かつ広範囲に蔓延しつつあるからです。第三に、政治分裂の流れのもとで、国家の教育政策において宗教を教育科目から排除することによって、幼い時から無神論の思想を注入するという結果をつくりだしているからです。第四に、共産主義者たちが赤化工作のために、残された価値観さえも意図的に破壊する戦略を用いているからです。第五に、宗教的価値観を理論的に守護する確固たる本体論が欠如しているからです。
この中で最も重要なことは、五番目の本体論の欠如です。本体論というのは、絶対者に関する理論を意味します。宗教ごとにその教理が成立する根拠としての絶対者がいます。ユダヤ教の絶対者は「主なる神」であり、キリスト教の絶対者は「ゴッド」、すなわち「神様」であり、イスラームの絶対者は「アッラー」です。儒教や仏教は絶対者を明示していませんが、儒教の徳目の根本である「仁」は天命と連結されるので、「天」が儒教の絶対者と見ることができ、仏教では、諸法は常に変化し、真理は諸法の背後にある「真如」から見出すことができるとしているので、「真如」が絶対者だと見ることができます。
ところが、このような絶対者に関する説明が甚だしくあいまいなのです。絶対者の属性がどのようなものであり、創造はなぜしたのか、創造の動機は何であり、どのような方法で創造したのか、一体神様(絶対者)は実際に存在するのかなどに関する解明が宗教ごとに明確になっていません。したがって、各宗教の徳目が成立する根拠が明確ではないために、今日、宗教の説得力が弱化しているのです。
(4)本体論と宗教の紛争
あらゆる宗教の教えである徳目、すなわち実践要目がきちんと守られるためには、その宗教の本体である絶対者の属性と創造の目的、その絶対者の実存性などが十分に明らかにされていなければなりません。中世時代、または近世以前までは、人間の頭がそれほど分析的、論理的ではなかったので、「隣人を自分の体のように愛しなさい」、「王に忠誠を尽くし、父母に孝行しなさい」と言えば、無条件にその教えが正しいと思って従いましたが、科学が発達した今日においては、人間の精神はとても分析的になり、論理的になり、いくら宗教指導者が「何々をしなさい」と教えても、「なぜそうしなければならないのか」とその理由をしつこく尋ねるようになります。したがって、この反問に答えてあげなければ、その教えは説得力を失ってしまうのです。
宗教の教えに対する反問には、多くの種類があります。「神様は果たしているのか」、「神様が全知、全能、遍在し、至善、至美で、愛であり、審判の主であり、人類の父などと表現しているが、それをどうやって知ることができるのか」、「じっとしていてもいいはずの神様が、なぜ宇宙を創造したのか」、「神様の創造の目的は何なのか」、「創造には方法があったはずだが、その方法は何なのか」、「絶対的な神様が創造した世界に、なぜ弱肉強食という現象が起こっているのか」、「人間が堕落して罪の世界ができたと言うが、完全な神様が創造した人間がなぜ堕落するようになったのか」などがそれです。
このような反問に対して、合理的な答えが与えられないかぎり、今日の知性人たちは、宗教(例えばキリスト教)を受け入れようとしません。したがって、キリスト教の愛の徳目、儒教の家庭倫理の規範、仏教の修行の実践要目、イスラームのクルアーン(コーラン)の要目は捨てられたものになってしまうのであり、ときには、知性人たちが反宗教的な行動まで引き起こすようになるのです。
歴史的にキリスト教の世界であるヨーロッパの土壌に近世以降、唯物論、無神論が発生し、今日の世界を席巻しているのは、その根本原因が実にこの本体論の曖昧性にあるのです。その一番の顕著な例が、マルクス、レーニン、スターリン、ニーチェなどがキリスト教の家庭に育ちながらも、無神論者、反キリスト教者になった事実だと言えるでしょう。
さらに嘆かわしいことは、人間の争いを仲裁し、人間の精神を善導すべき宗教が、ときとして紛争を引き起こすことによって、宗教の威信と権威をよりいっそう失墜させているという事実です。ユダヤ教とイスラームが争い、旧教と新教が争い、キリスト教と仏教が争い、はなはだしくは同じ宗教の教派同士でも争っています。
このような宗教紛争の根本原因も、やはり本体論の曖昧さにあります。絶対者はただ一つであって、二つも三つもあり得ないにもかかわらず、各宗教の指導者たちは、自分の絶対者だけが正しい神であり、それ以外の神は真の神ではないと見ているので、結局宗教ごとに絶対者がいることになり、絶対者が多数いるという背理が成立します。したがって、結局これを言い換えれば、あらゆる宗教の神は相対的な神にすぎないという結論になり、各宗教を通じて立てようとした絶対的価値観、すなわち神様の愛と真理に関する理論は相対的なものにとどまってしまっていることが分かります。すなわち、これまでの宗教は、混乱を収拾できる絶対的価値観を立てることができなかったという結論になるのです。それは、すべての宗教が絶対者に対する正確な解明ができなかったために生じた必然的な結果と言わざるを得ません。
(5)新宗教の出現と絶対的価値観の確立
このような状況下で絶対的価値観を確立しようとすれば、文字通り唯一、絶対の神について、正確かつ正しい解明をしてくれる本体論をもった新しい宗教の出現が必然的に要求されるという論理が成立するようになります。
従来のさまざまな宗教は、神様が立てた宗教なので、これらの宗教を通して絶対的価値が実現されてきたと、一旦は見なしてきましたが、今日、宗教紛争が起こっていることを見て、各宗教の神が絶対神になり得ず、従来の宗教を通しては絶対的価値観が立てられないことを確認することができます。したがって、絶対的価値観の確立のためには、新しい宗教が出現せざるを得ないという結論が成立するのです。
新しい宗教のための本体論は、従来のすべての絶対者が各々別個の神ではなく、同一の一つの神であることを明かさなければなりません。それと同時に、その神の属性の一部を把握したものが各宗教の神観であったことと、その神の全貌を正しく把握して、すべての宗教は神様から立てられた兄弟的宗教であることを明らかにできなければなりません。それだけではなく、その本体論は、神様の属性とともに創造の動機と創造の目的と法則を明らかにし、その目的と法則が宇宙万物の運動を支配していること、そして人間が守らなければならない規範も、結局この宇宙の法則、すなわち天道と一致することを解明しなければならないのです。
宇宙の日月星辰(じつげつせいしん:日と月と星)の創造の法則、すなわち天道によって縦的秩序の体系を構成しているように、家庭においても、祖父母、父母、子女から成る縦的秩序と、兄弟姉妹から成る横的秩序の体系が立てられ、それと同時に、それに相応する価値観、すなわち規範が成り立っていることを明らかにしなければなりません。さらに、この本体論は、その理論展開が自然科学的知識とも矛盾してはならず、人間の良心の判断によっても納得できなければなりません。さらには、歴史の中で、「天に逆らう者は滅び、天に従う者は生きる」という命題が正しかったことが証明されなければなりません。
このような本体論によって立てられる価値観こそ、真の意味の絶対的価値観であり、このような価値観の確立とその絶対価値(絶対真、絶対善、絶対美)を理解し、実践することによって、人類の精神改革がなされると同時に、世界の混乱は次第に消えていくのです。
新しい本体論によって神に関するあらゆることが解明され、すべての宗教の神が結局、唯一の絶対神として、すべてが同一の一つの神であることが明らかにされれば、ここにあらゆる宗教は、各自の看板をそのまま維持しながらも、実質的な宗教の和合統一が成し遂げられ、神様の創造理想である地上天国を実現するにおいて共同歩調をとるようになるのです。
そして、あらゆる宗教の教理の不完全な点、未解決の点が新しい本体論によって補完され、実質的な教理の一致化までも実現されます。こうして、あらゆる宗教は、神様がその宗教を立てられた目的を、ついに完全に達成するに至るのです。
今日の世界的な大混乱を収拾できる絶対的価値観に関する諸問題点を解決するために、新しい宗教として登場したのが統一教会であり、その内容は、広範囲で理論的であり、知性人たちまでも洗脳すると言われる有名な「統一原理」と「統一思想」なのです。(『文鮮明先生御言選集』 122-298~305 1982.11.25)
※『原理講論』「総序」p34より
今まで神を信ずる信徒たちが罪を犯すことがあったのは、実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、実感を伴うものではなかったからである。神が存在するということを実感でとらえ、罪を犯せば人間は否応なしに地獄に引かれていかなければならないという天法を十分に知るなら、そういうところで、だれがあえて罪を犯すことができようか。
3 新しい本体論を提示する「統一原理」と「統一思想」
真理はあらゆる根本問題を解決できる内容を備えなければなりません。それが「統一原理」です。この「統一原理」は文総裁が発表しましたが、文先生のものではありません。統一教会のものでもありません。天のものであると同時に、人類が行くべき理想的な内容を展開したものです。(『文鮮明先生御言選集』 289-271 1998.2.1)
「統一原理」には、キリスト教の内容だけがあるのではなく、仏教の内容も新たに明らかにしています。仏教について造詣を深めた人間として、仏教の骨髄を見てみるとき、あいまいだというのです。しかし、「統一原理」には、仏教で備えることができていない内容が具体的により明確に完備されています。
それだけでなく、父母に孝行しなさいという儒教思想はもちろん、政治的な内容や、そのほかのあらゆる内容がすべて「統一原理」に入っているというのです。また、老子の道教の内容も「統一原理」に入っています。このように、あらゆる内容が備わったものが「統一原理」です。「統一原理」は、キリスト教だけでなく、世界のあらゆる宗教を糾合してあまりあるのです。(『文鮮明先生御言選集』 37-226 1970.12.27)
先生はかつて、長きにわたる祈りと瞑想の生活で、ついに実存する神様と出会い、この絶対真理を伝授されました。それは、全宇宙と人生と歴史の背後に隠されたあらゆる秘密を明らかにする驚くべき内容でした。この内容を社会に適用すれば社会問題が解決され、世界に適用すれば世界の問題が解決されるものでした。それだけでなく、宗教の未解決問題や哲学の未解決問題も解決されるものでした。特にこれを共産主義の理論批判に適用したとき、共産主義のあらゆる虚構が白日の下に暴露されると同時に、共産主義に対する代案も立てられるものでした。
これは、かつてなかった新しい世界観であり、新しい宇宙観であり、新しい人生観であり、新しい摂理観であり、新しい歴史観です。これはまた、あらゆる宗教の教理や哲学の特性を生かしながら、全体を一つに包容できる統合原理でもあるのです。私は、この思想を「統一思想」、または「神主義」と名付け、世界的に統一運動と勝共運動を展開しています。(『文鮮明先生御言選集』 135-347 1985 12 16)
「統一思想」とは何でしょうか。この宇宙の根本問題に対して、唯物史観や唯心史観という二つの史観が展開したので、根本的で哲学的な問題を扱って解決するための方案を考究し、体系化したのが「統一思想」です。すべてのものを統合して、新しい世界観、新しい人生観を提示する目的で、新たに定立し、新たに編成したのが「統一思想」です。(『文鮮明先生御言選集』 65-337 1973.3.5)
この世の中には多くの思想がありますが、「統一思想」が主体思想です。思想を立てるのは、神様が立てようとすることです。人間が立てようとすることではありません。「統一思想」は神様の思想に通じるので、主体思想なのです。民主主義と共産主義を一つにする思想です。その次に、宗教者と非宗教者を和合させます。その目的は、統一世界であり、一つの世界をつくることです。(『文鮮明先生御言選集』 102-130 1978.11.27)
完全に与えれば、その世界を主管します。与える方法には千万の種類があります。言葉でも与えることができ、行動を通しても与えることができます。その方法は無数にあります。そのような立場で、相対のために生きる世界観をもって出てきたのが「統一思想」です。聖書のすべての道理は、ここにおいてすべて解かれるのです。
いかなる経書も、この原則に置き換えれば、その核を正確に知ることができます。そのような点から見るとき、「統一思想」の内容をもって進めば、驚くべき内的統一が成し遂げられます。外的統一ではなく、根本的統一が成し遂げられるというのです。ですから、神様の心情を掲げて出てきたのが「統一思想」です。(『文鮮明先生御言選集』 60-291 1972.8.18)
今まで、人間世界では個人の価値観が異なり、家庭の価値観が異なっていました。この異なる価値観を総括的に収拾できる主流的な能力をもっているのは、神様の愛だけです。「統一思想」は、神様の愛と心情を中心として個人統一、家庭統一、民族統一、国家統一、世界統一を成し遂げ、最後には神様統一を経て、絶対価値観の世界を成し遂げようというのです。その時には、相対的な主権もありません。主権者が高いのでもなく、相対者が低いのでもありません。主権者は相対者のためのものであり、主体も相対のためのものです。そのような世界が来てこそ、今日、人間が追求してきた支配者や被支配者というすべての対立関係が解決するのです。
それは、ほかのいかなる論考を通してもあり得ません。ただ、神様の愛のほかにはないという結論が出てきます。今は、人間の愛にも相対的価値観があります。「私はお金のために愛する。何々のために愛する」と言う人がいるのですが、それは純粋ではありません。そのため、相対的価値観を超越できる神様の愛を訪ねていこうというのが「統一思想」です。これから民主主義世界も、共産主義世界も、この愛の基準に吸収させて一つにしなければなりません。そのようにしなければ、理想世界が訪れないのです。(『文鮮明先生御言選集』 60-283 1972.8.18)
※『統一思想要綱』「第一章 原相論」p158~159より
宇宙の根源をいかに把握するか、あるいは神の属性をいかに理解するかによって、人間観、社会観、歴史観が変わり、それによって現実問題の解決の方法が変わるのである。したがって正しい神観、正しい本体論を立てることによって、現実の人生問題、社会問題、歴史問題を正しく、そして根本的に解決することができるという結論になるのである。
統一思想の本体論すなわち原相論によれば、神の最も核心的な属性は心情である。心情を中心として、性相の内部で内的性相(知情意)と内的形状(観念、概念など)が授受作用を行い、さらに性相と形状(質料)が授受作用を行っている。そのようにして神は存在しているのである。そして心情によって目的が立てられると、授受作用は発展的に進行し、創造がなされるのである。
しかるに従来の本体論では、理性が中心であったり、意志が中心であったり、概念が中心であったり、物質が中心であったりした。そして精神または物質だけが実体であるという一元論が現れたり、精神と物質が両方とも宇宙の実体であるという二元論が現れたのであった。統一思想から見るとき、従来の本体論は神の属性の実相を正しく把握しえず、また属性相互間の関係を正しくとらえることができなかったのである。
統一思想の本体論によって、神の創造の動機と目的、神の属性の一つ一つの内容が詳細に明らかにされ、属性の構造まで正確にまた具体的に紹介されることによって、現実問題の根本的な解決の基準が確立されるようになった。今残されている問題は、世界の指導者たちがそのことを理解し実践することである。