【今回深掘りする原理のみ言】
被造物が成長期にある場合には、原理自体の主管性、または自律性によって成長するようになっている。したがって、神は原理の主管者としていまし給い、被造物が原理によって成長する結果だけを見るという、間接的な主管をされるので、この期間を神の間接主管圏、または原理結果主管圏と称するのである。(『原理講論』p79)

 

このように、人間が完成するまでの成長期間では、神様は直接、人間を主管されず、原理によって成長した結果だけを見て主管されます。

これだけを聞くと、神様が結果論者であるかのようなイメージをもつ人がいるかもしれませんが、復帰摂理歴史をよく見てみると、そうではないことが分かります。

今回は【前編】として、結果論的思考とその弊害、そして「統一原理」から見た結果論的思考について深掘りしてみたいと思います。

結果論的思考について

(1)結果論とは?

まず、「結果論」という言葉を辞書で調べてみると、次のような意味になっています。

【結果論】
原因や経過を無視して、結果だけを見てする議論。
[広辞苑 第七版]

物事は、主に原因、過程(経過)、結果の三段階で進行しますが、結果論は、この原因と過程を考えずに、現われた結果だけに基づいて議論する、ということです。

※「過程」と「経過」について
「経過」は変化していく様子そのものに焦点が当てられた言葉で、「過程」は結果に至る段階を意味する言葉です。今回の記事では、原因と結果の中間に発生する変化よりも、その段階自体に注目しますので、この記事内では「経過」の代わりに「過程」という言葉を使います。

 

例えば、結果が出たあとに、「ああすればよかった」「そうするべきではなかった」と考えたり、「だから言ったのに」と言うことがあります。

このときの思考は「結果=原因・過程」になっていて、結果を見て原因や過程がすべて分かったかのように感じている状態です。

そのため、原因や過程についてそれ以上深く探ったり、検討したりすることがなくなってしまうのが結果論です。

私たちが日常生活で、無意識のうちにやっているのがこのような結果論的な思考です。

それは、自分自身の行動に対してもそうですし、家庭や職場で見聞きする人の行動に対しても、そのように考えるケースが多くあります。

(2)結果論的思考の弊害

このような結果論的思考には、神様を中心とする全体摂理にとっても、私たちひとり一人の成長にとっても、かなり深刻な弊害をもたらします。

結果論的思考の主な弊害として、今回は以下の三つを挙げておきたいと思います。

 

【弊害①】一貫性のある正しい判断ができなくなる

「結果=原因・過程」と考えてしまうと、よく検証をしないまま、良い結果=良い原因・良い過程、悪い結果=悪い原因・悪い過程と断定してしまいます。

そうなると、良い結果が出たとき、原因や過程に改善すべきことがあっても見過ごしてしまいます。

反対に、悪い結果が出たとき、原因や過程に継続すべき良いことがあっても、それを改悪してしまうことがあります。

このようになると、一貫性のある正しい意思決定ができなくなるので、一時的に成功することはあっても、長期的に成功し発展し続けていくことがとても難しくなります。

 

【弊害②】不当な評価や過度な批判をしてしまう

「結果=原因・過程」と考えた場合、良い結果を出した人の話は無条件に受け入れ、よくない結果を出した人の話には関心をもちにくくなります。

関心をもたないだけならよいですが、それが人に対する不当な評価や過度な批判につながることがあります。

成功した人の話はとても参考になりますが、それを同じようにやるのは簡単なことではありません。

しかし、失敗した人の教訓は、それをやらなければよいだけなので、すぐに実践することができます。

 

【弊害③】思考停止状態になってしまう

私たちが生きているこの世界は複雑系なので、原因が一つではないことの方が多く、複数の要因が結果に影響しています。

その複数の要因を大きく分けると、自分自身の能力や実力といった要因と、運や偶然といった要因があります。

実際には運や偶然といった要因の方が結果に大きく影響するので、現われた結果の原因を私たちが完全に把握することはほぼ不可能です。

それにもかかわらず、「結果=原因・過程」と考えてしまうと、結果を通して原因と過程をすべて理解したかのように誤解してしまいます。

そうなると、それ以上、自分の頭で考えようとせず、思考停止状態になって成長がストップしやすくなります。

 

この他にも、結果を過度に重視するあまり、短期目線になって目の前の実績だけに執着しやすくなったり、よい結果を出したいがために、自分ができる範囲のことだけをやり、失敗しないことだけをやるようになるなどの弊害もあります。

(3)結果論的思考の危険性

結果論的思考が生み出す心理的傾向の一つに「後知恵バイアス」があります。

「後知恵バイアス」とは、結果が出たあとに「そうだと思った」と感じやすいという人間がもつ思考の偏りのことです。

スポーツニュースで、結果が伴わなかった指導者の采配に対する批判記事などが、「後知恵バイアス」の典型的な例です。

このような、過程を一切考慮せずに結果だけを見て物事の良し悪しを判断する思考はとても危険です。

例えば、飲酒運転をして(過程)、無事故で帰宅できた場合(結果)、これを結果論的に考えると、飲酒運転しても問題ないことになってしまいます。

また、信号を無視して横断しても無事故だったという場合も同じことになります。

逆に、飲酒せずに運転しても、信号を守って横断しても、事故に遭う時は遭ってしまいます。

ですから、私たちの日常では、自分がコントロールできることと、コントロールできない運や偶然とが影響しあって一つの結果が出るものです。

その運や偶然の要素を考慮せず、結果だけを見て人を不当に批判したり、過度に自分を責めたり、逆に過度に傲慢になってしまうところに、結果論的思考の危険性があります。

(4)み言から見た結果論的思考

結果を通して多くの学びや教訓を得ることができるという点で、結果はとても重要です。

しかし、結果と同等、あるいはそれ以上に重要なのが、結果を生み出す原因であり、結果に至るまでの過程です。

文鮮明先生のみ言には、原因と過程と結果に関して次のようなものがあります。

 統一教会が天の国のみ旨を成し遂げることができる団体ならば、原因究明において間違いがあってはいけません。先生の行く道が間違いなく原理的な路程でなければならないのです。これが間違っていくようになるときは、何が生じても(正しく)認識できません。これが天の戦法です。
 その次には、その原因に従っていくにおいて間違いがないのか、即ち原因と過程に違いはないのか、ないというときには、出てくるなと言っても結果は出てくるのです。
 なぜでしょうか? 蘇生と長成はサタンが主管します。蘇生は出発であり、長成は過程です。神様を中心とする蘇生、これもプラスとマイナスです。その次に、長成はアダムとエバが一致して実を結び始めるのです。実を結ぶようになる時がこの時です。これはプラスアダム、これはマイナスアダムです。この時、初めて神様の前にプラスとマイナスが一つになるのです。これが過程です。
 この過程は、いくら分かれているようでも、復帰原理に立脚したものです。このように見れば、蘇生は神様であり、長成はアダムであり、完成は子女だというのです。そうであってこそ、アダムとエバが完成すれば四位基台が復帰されるのではないですか?
 ですから、これは過程です。過程でしょう? このように行くので過程ではないですか? 過程だというのです。歴史は過程でしょう? 目的までは過程だというのです。原因と過程が一致すれば、その結果はどうですか? そのような原因による結果は、自動的に現れるのです。ですから、千年たっても万年たっても、それは変わらずに存在します。
 もしすぐに死んだとしても、それは死んだのではありません。その原因は、生きて歴史を動かし結果をもたらすのです。それで聖人の道理は、世界を支配できる結果的な版図を開拓するようになるのです。
 イエス様の思想は、原因と過程が一致していたので、世界を支配し、世界にそれが結実するということは正常なことです。(中略)
 天の戦法は、原因が(原理と)一致し、原因が正しく、その次に過程が正しいのです。手段と方法を選ばずにするのではなく、真で正しい愛と真で正しい生命力をもってするのです。そうしてこそ、真になります。(中略)
 神様の作戦は、原因と過程を重要視します。しかし、サタンの作戦には、原則も、過程も、何もありません。「勝ちさえすればよい」と言うのです。(『文鮮明先生御言選集』47-315 1971.8.30)

 

このように、原因と過程を軽視して結果がすべてと考える結果論的思考は、神様の考え方とは相容れないサタン的な思考と言うことができます。

そして、『原理講論』には、善神の業と悪神の業について次のような記述があります。

 堕落人間は、神もサタンも、共に対応することのできる中間位置にあるので、善神が活動する環境においても、悪神の業を兼ねて行うときがある。
 また悪神の業も、ある期間を経過すれば、善神の業を兼ねて行うときがときたまあるから、原理を知らない立場においては、これを見分けることは難しい。(『原理講論』p120)

 

結果だけを見て物事の良し悪しを判断していると、神様を中心とする善悪判断ができず、サタン勢力に惑わされる確率が高くなってしまうのです。

もしも神様が結果論者だったら…

(1)人間の堕落行為に干渉されなかった神様

神様にとっても人間にとっても、堕落はとてつもない衝撃的な大事件であり、大失敗です。

それにもかかわらず、神様は堕落しそうなアダムとエバに対して、それを止めようとはされませんでした。

神様が堕落前のアダムとエバに対して一切、干渉されなかった理由は次のとおりです。

 神は絶対者であり、完全無欠なる創造主であられるがゆえに、神が定められた創造原理も、また絶対的であり、完全無欠でなければならない。
 それゆえに、神は創造原理の絶対性と完全無欠性のために、未完成期にいた彼らの堕落行為に対して干渉されなかったのである。(『原理講論』p130)

 

神様が創造原理の絶対性と完全無欠性のために干渉されなかった結果として、そのままアダムとエバは堕落してしまいました。

もし神様が結果論者だったら、結果だけを重視して「成長期間に直接主管しない」という創造原理の原則を無視し、堕落させないようにされていたはずです。

また、人間の堕落という結果を見て、その創造の動機や目的、そして過程をすべて間違いとして、最初からもう一度、原理をつくりなおし、創造をやり直されていたでしょう。

(2)原理原則を守られる神様

『原理講論』には、神様が堕落した人間たちを一度に救済されない理由について次のように説明されています。

神の救いの摂理が非常に長い期間を通じて延長してきたのは、復帰摂理を担当した中心人物たちが、神も干渉できないそれ自身の責任分担を遂行するに当たって、常に失敗を繰り返してきたからである。(『原理講論』p80)

 

このように、召命された中心人物たちが責任を果たせずに失敗し、もう一度摂理をやり直さなければならなかったため、今日まで復帰摂理が延長してきたわけです。

それは、天地創造の前に神様ご自身が定められた次のような原理原則があるからです。

予定論によれば、神はある摂理のために予定された人物が、彼の責任分担を果たさなかったときには、その張本人を再び立てて、摂理なさることはできない。(『原理講論』p325)

 

神様は、召命した中心人物たちが失敗したとしても、この原理原則を変更されずに守ってこられました。

失敗と延長が繰り返されてきた復帰摂理歴史において、今まで原理に対して変更も修正も一切されなかったとすれば、それは神様が結果論者ではないということを意味しています。

人間が結果論的思考をもつようになった理由

人間が結果論的思考をもつようになったのは、以下のみ言のように成長過程でサタンに侵入されて堕落したからです。

創造原理によれば、人間は正分合の三段階の過程を経て、四位基台をつくって初めて、神の創造目的を成就するようになっているのである。ところが、人間はその四位基台をつくっていく過程において、サタンの侵入を受け、創造目的を成就することができなかった。(『原理講論』p417)

 

このみ言にある「正分合の三段階の過程」とは、神様の創造、人間の成長期間、そして神様の直接主管圏という三段階のことを意味します。

 正:神様の創造 ⇒ 原因

 分:人間の成長期間 ⇒ 過程

 合:神様の直接主管圏 ⇒ 結果

この成長期間に人間は、自らの責任分担を完遂することによって完成し、神様の直接主管圏に入るようになるのが創造原理です。

ところが、主体の立場のアダムとエバを、対象の立場にいる天使長が逆に主管してしまいました。

そして、その過程でアダムとエバは天使長の要素を受け継ぎ、偶発的に生じた性稟を堕落性として受け継ぎました。

アダムは、エバと一体となることによって、エバがルーシェルから受けたすべての要素を、そのまま受け継ぐようになったのである。そのようにして、この要素はその子孫に綿々と遺伝されるようになった。(『原理講論』p111)

 

このように天使長から受け継いだものの一つにサタン的な思考があり、それが結果論的思考です。

それは、主体である原因や過程よりも、対象である結果をより重視する思考なのです。

 

次回の【中編】では、結果論的思考とは真逆の思考であり、神様の考え方に近い確率論的思考について解説します。

 

~【中編】につづく~