【今回深掘りする原理のみ言】
人間を命の道へと導いていくこの最終的な真理は、いかなる教典や文献による総合的研究の結果からも、またいかなる人間の頭脳からも、編みだされるものではない。それゆえ、聖書に「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちについて、預言せねばならない」(黙一〇・11)と記されているように、この真理は、あくまでも神の啓示をもって、我々の前に現れなければならないのである。(『原理講論』p37~8)

 

【前編】では、「統一原理」と「私」の間にある「三つの壁」について解説しました。

これらの壁を克服するための方法として、「UPMC」では哲学的なアプローチを推奨しています。

今回は、宗教と哲学を比較しながら、文鮮明先生のみ言と『原理講論』に対する「UPMC」の立場について説明したいと思います。

【前編】の復習~「三つの壁」とは?

【前編】の復習をかねてもう一度、「統一原理」と「私」の間にある「三つの壁」とは何か確認しておきましょう。

第一の壁は、日本語『原理講論』と「私」の間にある「観念の壁」です。

これは、一つひとつの言葉に対して自分がもっている観念や見解のことを言います。

自分のもつ観念が先入観になってしまうと、「統一原理」の理解を妨げる「観念の壁」になってしまいます。

第二の壁は、韓国語『原理講論』と日本語『原理講論』の間にある「言語の壁」です。

この第二の壁が形成される要因としては、主に翻訳自体の限界と翻訳者の技量の二つがあります。

日本語に翻訳されたものでも、意味自体はかなり正確に伝えることができますが(ただし、それでも100%ではなく、翻訳者の技量に大きく左右されます)、心情的なものに関してはまったく別ものになることもあります。

『原理講論』のp603には、「同一の喜怒哀楽の感情をもっていながら、これを表現する言語が異なるために、互いに通じあうことができないということほど不幸なことはない」とあります。

このように、「言語の壁」とは「心情の壁」と言うこともできますので、神様の心情体恤が人間の成長基準の一つであることを考えれば、これも「統一原理」の理解を妨げる大きな壁になります。

第三の壁は、「統一原理」と韓国語『原理講論』の間にある「表現の壁」です。

これは無形なものを目に見えるもので表現するときに生じる限界を意味します。

この壁をなくすことは永遠に不可能なのですが、このような「表現の壁」があることを自覚するのとしないのとでは、真理に対する姿勢がまったく異なるものになります。

自覚していなければ「もう充分に理解した」と判断してそこで学ぶことをやめてしまうかもしれません。

しかし、自覚していれば、常に「自分は初学者である」という姿勢で学び続けられるので、より一層深い真理に近づくことができます。

以上が「統一原理」と「私」の間にある「三つの壁」ですが、今回は、これらの壁を可能な限り小さくする方法を探ってみたいと思います。

真理に対する宗教的アプローチと哲学的アプローチ

(1)宗教的アプローチの問題点

率直に言ってしまうと、「三つの壁」を完全になくすことはできませんし、またそれを小さくすることも、かなり面倒で根気のいる作業になります。

そのため、自分でより深い真理の内容を求めることをせず、与えられたものを無条件に信じ続けることが信仰と考える人たちもいます。

宗教的な姿勢としてはそれも大切なことではありますが、「統一原理」から見たとき、それだけだといくつか深刻な問題が生じてしまうことがあります。

■思考停止状態になり自分の責任分担が果たせなくなる

神は天使と人間とを創造されるとき、彼らに自由を与えられたので、これを復帰するときにも、神は彼らに強制することはできない。それゆえに人間は、あくまでも自分の自由意志による責任分担としてみ言を探しだし、サタンを自然屈伏させてこそ、創造本然の人間に復帰することができるのである。(『原理講論』p117)

 

責任分担を果たすために必要なみ言は天から与えられますが、それを探しだすのは人間自身がやらなければなりません。

その上で、そのみ言を中心としてサタンを自然屈伏させることが人間の責任分担です。

■新しい摂理に相対できなくなる

堕落した人間は神霊に対する感性が非常に鈍いために、たいていは真理面に重きを置いて復帰摂理路程を歩んでいくようになる。従って、このような人間達は、古い時代の真理観に執着しているが故に、復帰摂理が新しい摂理の時代へと転換していても、彼らはこの新しい時代の摂理にたやすく感応してついてくることが難しいのである。(『原理講論』p174)

 

神様の復帰摂理は、人間の責任分担の遂行如何によって段階的に発展したり、あるいは中心摂理が他のところに移行したりします。

そのような復帰摂理が次の段階に進んだり他に移行したりしたとき、自らの自由意志によってみ言を探しだそうとする姿勢がないと、古い時代の真理観に執着して新しい摂理に相対できなくなります。

■指導者が神様の復帰摂理から外れたときに気付くことができない

宗教や思想においても、その枠内にある人々にとっては、その教理とその思想が指向する目的に順応することが善であり、それに反対することは悪となる。しかし、いったんその教理や思想が変わるか、あるいは他の宗教に改宗するか、または他の思想に転向するようになれば、それに従って、目的も異なってくるので、善悪の基準もおのずから変わるようになるのである。(『原理講論』p119)

 

もし自分が従っている指導者が神様の復帰摂理から外れてしまったとき、何も考えずに従うという姿勢だけでは、自分も同じ道を進んでしまいます。

特に日本人は、真理を求めて従うより「人」に従う傾向が強いので、注意が必要です。

(2)哲学的アプローチの必要性

かつてイエス様は、弟子たちに「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ」(マタイ福音書10:16)と語られました。

ここには蛇と鳩が例えで使われていますが、蛇に例えられたことについて『原理講論』には次のように説明されています。

イエスは、その弟子たちに、蛇のように賢くあれ(マタイ一〇・16)と言われた。これは元来、人間始祖が悪い蛇に誘惑されて堕落したのであるから、これを蕩減復帰するために、イエスは善なる知恵の蛇として来られ、悪なる人間たちを誘って善に導かなければならないし、弟子たちも善なる蛇として来られたイエスの知恵を習い、悪人たちを善導しなければならないという意味で、そのように言われたのである。(『原理講論』p362)

 

素直に従うだけでは、サタンを自然屈伏、つまり「悪人たちを善導」させることができないということになります。

ここで必要になってくるのが、真理に対して哲学的にアプローチするということです。

宗教的アプローチが真理に対して鳩のように素直であることだとすれば、哲学的アプローチは、この蛇のように賢くあることだと言えます。

哲学的アプローチとは?

哲学的なアプローチについて言及する前に、まず宗教と哲学がどのような関係にあり、どう違うのかを確認しておきましょう。

(1)宗教から生まれた哲学

哲学が誕生したのは、今から2500年くらい前になりますので、宗教よりもあとに生まれたことになります。

哲学が生まれた背景を探っていくと、宗教が抱える問題を解決するために生まれたのが哲学だということが分かります。

宗教の教えは、理性的に納得しないと信じられない人たちにとっては、受け入れにくいところがありました。

また、宗教は信仰によって結ばれた共同体を形成しやすく、そこに参加することによる幸福感、安心感、生きがいなどをもつことができますが、一方で、信仰が異なると共同体も異なり、その共同体同士で争いが起きることがあります。

このような宗教の問題を背景に、物事の本質を論理的に探究し、異なる宗教間でどうすればお互いの共通点を見出し、共存共栄できるかを探ろうとして生まれたのが哲学です。

「統一原理」の観点から見ると、哲学は主体と対象が相対基準を見つけ出し、より建設的な授受作用をするための思考方法と考えることができます。

このように、哲学は宗教を母として生まれたと言うこともでき、宗教が抱える課題や不足なところを補うという役割もあるのです。

(2)宗教と哲学の違い

現実世界を扱う科学に対して、同じ本質世界を扱うのが宗教と哲学ですが、真理に対する考え方や表現方法に違いがあります。

ここでは、宗教と哲学の違いについて、以下の3点を挙げておきます。

1 絶対的真理に対する考え方の違い

宗教は教祖の教えが絶対的真理と考えるのに対して、哲学は、人間には絶対的真理は分からない、だがそれに近づくために物事の本質を探究し続けなければならないと考えます。

2 表現方法の違い

宗教では神話などのストーリーで表現しますが、哲学の場合は対話形式で表現されたり、自分の主張をそのまま表現することが多いです。

ちなみに、ストーリーが形成されるためには、少なくとも次の三つの構成要素が必要になります。

・登場人物
・台詞またはパフォーマンス
・時の流れ

つまり、誰々が、いつどこで、何をした&何を語ったという要素があれば、ストーリーが成立します。

聖書にしても日本の古事記にしても、この形式で表現されていますが、哲学の書物にこのようなストーリーはありません。

3 師弟関係の違い

宗教では教祖の教えを絶対視しますので、弟子や信徒がそれを批判するとか否定することはありません。

しかし、哲学の場合は、師の教えに不十分な点や間違いがあれば、弟子はそれを批判し、これが正しいと自分の考えを堂々と主張します。

そして、そういった姿勢や態度を哲学では否定せず、むしろ意見の違いや対立があれば、議論することによって共通の理解を探りながら発展してきました。

(3)真理に対する哲学的アプローチ

哲学では、人間には絶対的な真理は分からないとし、人それぞれの解釈が存在するだけだと考えています。

冒頭のみ言のように、「人間を命の道へと導いていくこの最終的な真理は、いかなる教典や文献による総合的研究の結果からも、またいかなる人間の頭脳からも、編みだされるものではない」(『原理講論』p37)わけですから、「絶対的な真理は誰にも分からない」という哲学の見解は正しいことになります。

同時に哲学は、人間には理性があるので、何が正しいのか、どこに真実があるのかを知りたいという欲求をもっているとしています。

そのため、哲学では、絶対的な真理は分からないが、対話と議論によってお互いが納得できる見解を見出すことはできると考えます。

ですから、哲学とは、思考と対話を武器に誰もが納得できる物事の本質を洞察するものなのです。

「統一原理」から見ると、このような哲学は、より深い真実を知りたいという欲求を相対基準とし、対話という授受作用を通して共通の理解を見出そうとするものと言うことができるでしょう。

このようなことを2500年も続けてきた哲学の手法は、「自分の自由意志による責任分担としてみ言を探しだ」(『原理講論』p117)さなければならない私たちにとって、とても有効なものになるはずです。

また、哲学では、「Aが正しいか、Bが正しいか」という二者択一の議論はまったく意味がないことが分かっています。

なぜかというと、人間には誰もが納得する絶対的な答えを見出すことは永遠にできないからです。

このような議論では、常に批判のための批判に終始してしまい、相手を論破しようとするだけの空しいものになってしまいます。

ですから、どちらが正しいかという二者択一の議論が建設的な議論にならないことは、すでに哲学の歴史で証明されていることなのです。

それよりも、「統一原理」が教示する一つひとつの言葉や概念の本質を洞察し、互いの意見を共有しながら「一層深い真理の部分」(『原理講論』p38)を探究していく必要があるでしょう。

真理に対する「UPMC」の考え方

(1)文鮮明先生のみ言に対する「UPMC」の考え方

「UPMC」では、文鮮明先生のみ言を絶対的真理と信じ、『文鮮明先生御言選集』に対して、現存する書物の中で「統一原理」を学ぶための最高峰の文献と考えています。

冒頭のみ言に、「この真理は、あくまでも神の啓示をもって、我々の前に現れなければならないのである」(『原理講論』p37)とありますが、一方で『原理講論』には次のような記述もあります。

個性を完成した人間は、神から何か特別の啓示を受けなくても、理知と理性によって神のみ旨を悟り、生活するように創造されているので、人間は本性的に理知と理性を追求するようになる。(『原理講論』p515)

 

堕落人間の場合は神様の啓示によらなければ真理を知ることはできないのですが、個性完成した人間は、神様の啓示がなくても、自らの理知と理性で神様のみ旨を悟ることができます。

メシヤとは個性完成した人間であり、そのメシヤである文鮮明先生がどのようにして真理を悟られたのかについて『原理講論』には次のように説明されています。

先生は、幾十星霜を、有史以来だれ一人として想像にも及ばなかった蒼茫たる無形世界をさまよい歩きつつ、神のみが記憶し給う血と汗と涙にまみれた苦難の道を歩まれた。人間として歩まなければならない最大の試練の道を、すべて歩まなければ、人類を救い得る最終的な真理を探しだすことはできないという原理を知っておられたので、先生は単身、霊界と肉界の両界にわたる億万のサタンと闘い、勝利されたのである。そうして、イエスをはじめ、楽園の多くの聖賢たちと自由に接触し、ひそかに神と霊交なさることによって、天倫の秘密を明らかにされたのである。(『原理講論』p38)

 

ですから、究極の絶対的真理とは、メシヤによって人類にもたらされるものであり、文鮮明先生のみ言こそ、私たちに与えられた神様の啓示です。

このような理由から、「UPMC」では、文鮮明先生のみ言に対しては宗教的なアプローチをとります。

(2)『原理講論』に対する「UPMC」の考え方

「UPMC」では、『原理講論』に対して次のみ言を根拠に哲学的なアプローチをとります。

ここに発表するみ言はその真理の一部分であり、今までその弟子たちが、あるいは聞き、あるいは見た範囲のものを収録したにすぎない。時が至るに従って、一層深い真理の部分が継続して発表されることを信じ、それを切に待ち望むものである。(『原理講論』p38)

 

そして、『原理講論』のp30に「聖書は真理それ自体ではなく、真理を教示してくれる一つの教科書」とあり、『原理講論』に対しても「統一原理」を教示してくれる一つの教科書と考えるのが適切と考えています。

これは、『原理講論』を永遠不変なものとして絶対視するわけでもなく、また完全否定するわけでもありません。

文鮮明先生のみ言を中心に、『原理講論』に対する哲学的アプローチを通して、「統一原理」と「私」の間にある「三つの壁」を克服しながら、いまだ完全には解明されていない「統一原理」を探求し続けること、これが「UPMC」の基本姿勢です。

最後に ~「統一原理」を哲学する~

日本語を中心に「統一原理」を学んでいる方は、まず「観念の壁」に留意しながら学習していただきたいと思います。

当ブログの「統一原理」関連のカテゴリーに記載されている記事は、原理用語や『原理講論』に使われている言葉の概念に言及していますので、参考にしてください。

また、「言語の壁」については、まずは日本語の『原理講論』を韓国語の原本に近づけることが最優先です。

そのために「UPMC」では、「原語で『原理講論』を読むプロジェクト」を行っており、その成果を随時こちらに掲載していきますので参考にしてください。

https://unification-principle.com/category/upmcproject/hangleproject/

 

そして、「表現の壁」についてですが、当ブログの記事は、文鮮明先生のみ言を中心に「統一原理」を解明しようとするものです。

さきほどもお伝えしたように、「三つの壁」を克服することは容易ではなく、とても根気のいることです。

立場や所属を越えて共に「統一原理」を哲学できる、そのような人たちとの出会いを心から楽しみにしています。

 

■おすすめ書籍

 

 

 

『み言に学ぶ統一原理』【前編】

 

 

 

 

『み言に学ぶ統一原理』【後編】

 

 

 

 

 

『はじめての哲学的思考』