【今回深掘りする原理のみ言】
 新しい真理は、神の実在性に関することはいうまでもなく、神の創造の心情をはじめとして、神が御自身に対して反逆する堕落人間を見捨てることができず、悠久なる歴史の期間を通して彼らを救おうとして心を尽くしてこられた悲しい心情をも、我々に教えることのできるものでなければならない。(『原理講論』p31)

 

前回の【上編】では、神様の心情を知らなければならない理由と、神様の事情とは何かについて説明しました。

神様が人間を最も愛するための条件として定めた人間の責任分担という原理が、神様が人間の堕落を止められなかった事情になってしまったわけです。

今回の【中編】では、神様が被造世界を創造された心情的理由と原理的理由、そして神様が復帰摂理を展開されるとき、一つ一つの摂理にはそれぞれ心情的理由と原理的理由があることを解説していきます。

特に、復帰摂理の原理的理由の内容は、神様がこれまで誰にも語ることのできなかった神様ご自身の事情にあたるものです。

み言を中心とする神様の創造と復帰摂理

まずこちらの『原理講論』の一節をご覧ください。

 ヨハネ福音書一章3節に、人間はみ言によって創造されたと記録されている。従って神の創造理想は人間始祖がみ言の実体として、み言の目的を完遂しなければならなかったのであるが、彼等は神のみ言を守らないで堕落し、その目的を達することができなかったのである。
 それ故に、神は再びみ言によって、堕落人間を再創造なさることにより、み言の目的を達成しようとされたのであるが、これが即ち、真理(聖書)による復帰摂理なのである。(『原理講論』p152)

 

このように、神様の創造と復帰摂理は、み言が中心になっていることが分かります。

み言とはすなわち真理のことであり、成約時代における真理とは「統一原理」のことです。

それは、『原理講論』のp132に「原理によって被造世界を創造され、その原則に従って摂理を行い給う神」と記述されているとおりです。

そして、こちらの記事「み言と統一原理から見た神霊と真理【後編】」で解説したように、神様の愛の力が通る道筋が真理ですから、「統一原理」の中心概念である四位基台の形成過程が神様の愛の力の通り道になるわけです。

ですから、神様の愛の力は、神様を中心とする四位基台以外の道筋を通ることができないので、真の愛は真理、すなわち「統一原理」を通じて初めて顕現するということになります。

このように、神様の創造も復帰摂理もみ言を中心として展開され、そこに神様の真の愛が流れていくことにより、心情の復帰、愛の復帰、生命の復帰、血統の復帰という順序で神様のみ旨が成就していくのです。

それでは次に、神様の創造と復帰摂理における主要な出来事には、それぞれ心情的な理由と原理的な理由がありますので、その例をあげてみることにしましょう。

神様の創造における心情的理由と原理的理由

(1)神様が人間を創造された理由

神様が人間を創造された理由にも心情的理由と原理的理由があり、心情的理由としては、「神が人間を創造された目的は人間を見て喜ばれるためであった」(『原理講論』p134)ということになります。

そして、「被造世界が創造される前には、神は性相的な男性格主体としてのみおられたので、形状的な女性格対象として、被造世界を創造せざるを得なかったのである」(『原理講論』p47)ということが原理的理由になります。

(2)神様が人間に与えた二つのみ言

さきほどお伝えしたように、神様の創造と復帰摂理はみ言を中心として行われるのですが、創世記を見ると、神様はアダムとエバに対して、二つのみ言を下さっていることが分かります。

一つは「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」(創世記1:28)という祝福のみ言、二つ目が「取って食べてはならない」(創世記2:17)という戒めのみ言です。

一つ目の祝福のみ言はアダムとエバの2人に対して下さっているのに対して、二つ目の戒めのみ言は、エバが創造される前にアダムに対してのみ語られています。

この戒めのみ言について『原理講論』には次のような記述があります。

善悪の果を取って食べるなという善のみ言を、神はアダムに伝え、アダムはこれをエバに伝え、エバは天使長に伝えて、善を繁殖すべきであった。(『原理講論』p295)

 

この神様からアダム、エバ、天使長というみ言伝達の流れは、アダムとエバが個性完成する前の成長期間に造成すべき四位基台と考えることができます。

このことから、この二つのみ言はどちらも同じ神様のみ言ですが、祝福のみ言はアダムとエバの2人を愛したいという神様の心情から下さったみ言であり、戒めのみ言は原理による四位基台造成のために下さったみ言と考えることができます。

このように、神様がアダムとエバに下さったみ言にも、心情的なものと原理的なものがあることが分かります。

復帰摂理に見る心情的理由と原理的理由

(1)アダム家庭

アダムが中心人物になれなかった心情的理由と原理的理由について、『原理講論』には次のように説明されています。

【心情的理由】
 なお、そのほかにも、ここには心情的な面におけるいま一つの理由があった。堕落したアダムは、事実上、神の心情に対して千秋万代にわたって消えることのない深い悲しみを刻みこんだ罪悪の張本人であった。それゆえに、彼は、神が直接に対応して復帰摂理をされる心情的な対象となることができなかったのである。(『原理講論』p299) 

【原理的理由】
 アダムの家庭が「メシヤのための基台」をつくるためには、アダム自身がまず「象徴献祭」をして、「信仰基台」を立てなければならなかった。それにもかかわらず、既に述べたように、アダムが献祭をなし得なかった理由は、アダムが献祭をすれば、その供え物には、神とサタンという二人の主人が対応するようになり、非原理的立場に立つようになるからである。(『原理講論』p298~9)

 

さらにアダム家庭の復帰摂理で、アベルを善の表示体に立てた心情的理由と原理的理由はこちらになります。

【心情的理由】
サタンは、そのとき、既に被造世界を占有する立場にあったので、未練の一層大きかった長子カインを先に取ろうとした。したがって、神はサタンが未練をもって対応するカインよりも、アベルと対応することを選び給うたのである。(『原理講論』p292) 

【原理的理由】
アベルは愛の二番目の実であるがゆえに、その二番目の過ちであったアダムとの愛による堕落行為を表徴する善の表示体として、神と対応することができる立場に立てられたのである。(『原理講論』p292)

 

このようなアダム家庭の復帰摂理における神様の事情について、文鮮明先生は次のように語られています。

 どうして神様は、アダム家庭と向き合うとき、無限に悲しい心情で向き合ったのでしょうか。アベルに対する心とカインに対する心に、どうして差があったでしょうか。本心からわき出るその心情においては、どちらも子女の立場でしたが、区別する心情をもって向き合わなければならないのが神様の事情でした。
 そのように悲しい立場にいらっしゃるのが神様だったので、「アベルの祭物は受けとられたのに自分の祭物は受けとられなかった」と、カインがアベルを殺したことは、神様を打つことより憤る事実でした。こうして人類の歴史は神様の心情と因縁を結ぶことができずに始まりました。(『文鮮明先生御言選集』8-239 1960.1.17)

(2)ノア家庭

ノア家庭で裸の摂理が行われた心情的理由と原理的理由はこちらになります。

【心情的理由】
四十日審判によりサタンを分立した立場にあったノアは、天地創造直後のアダムの立場に立たねばならなかった。ここで神はノアが裸でいても、その家族たちがそれを見て恥ずかしがらず、また隠れようともしない姿を眺めることによって、かつて彼らが罪を犯す前に、どこを覆い隠すでもなく、ありのままに裸体を現していた、汚れのない人間の姿を御覧になって、喜びを満喫されたその心情を蕩減復帰しようとされたのである。(『原理講論』p311) 

【原理的理由】
ノアは、アダムの身代わりとなって、アダムにサタンが侵入したすべての条件を除去すべき使命を担っていたのである。それゆえに、ノアの家庭は、裸を恥ずかしがらず、また、それを隠そうともしないという感性と行動とを見せることによって、サタンと血縁関係を結ぶ前の、アダムの家庭の立場を復帰するための蕩減条件を立てなければならなかった。(『原理講論』p312)

 

この裸の摂理でノアの息子ハムは失敗してしまったのですが、その理由について語られた文鮮明先生のみ言を見てみましょう。

ノアは一人で孤独でした。絶対信仰をもっていましたが、家庭が絶対心情一体になっていなかったので、すべて崩れていったのです。ハムもそうです。父親と愛で一体になっていれば、なぜ裸を恥ずかしく思うでしょうか。心情が一体になっていれば、裸でいても恥ずかしがることはないのです。自分も裸になってその横で昼寝をすればどれほどよいでしょうか。ところが恥ずかしく思ったのです。一つになりませんでした。心情一体ができなかったのです。(『文鮮明先生御言選集』268-293 1995.4.3)

 

このみ言を見ると、神様の心情を中心として一つになることが復帰摂理において勝利する重要なポイントだということが分かります。

そして、この裸の摂理の前に、神様はノアに対して箱舟をつくるように命令されますが、その大きさは「長さは300キュビト、幅は50キュビト、高さは30キュビト」(創世記6章15節)です。

1キュビトはだいたい44.4センチだそうなので、メートルにするとおよそ「長さ133.5m、幅22.2m、高さ13.3m」になりますね。

かなりの大きさになりますが、このような命令をしなければならなかった神様の心情と事情について、文鮮明先生は次のように語られています。

 神様は、このように一時を用意するために千六百年という長い歳月を準備しました。そして、一人の人を立て、彼に命令しなければならない神様なのですが、ここでは通常の立場で命令できない理由が介在していることを知らなければなりません。(中略)
 誰でも自然に信じることができる立場で信じなければならなかったアダムとエバが信じることができなかったのです。言い換えれば、通常の立場で信じるべきものを信じることができませんでした。ですから、これを反対に復帰するためには、信じることができない立場で信じなければなりません。通常の立場で罪を犯したので、それを蕩減するためには、非通常の立場で蕩減しなければならないというのです。
 皆さんも、もし罪を犯せば、五年なら五年、十年なら十年の刑を受け、刑務所に入っていって服役しなければなりません。服役するのは通常ではなく非通常です。そこは、あらゆる体制が自由を許さず、制裁圏内で自分自身の立場を見つめながら、その刑期が満ちる時まではその環境を通常と考えて突破し、越えていってこそ解放されるのです。
 このように考えるとき、ノアに神様がそのような命令を提示したのは、ノアが憎いからではなく、堕落した根本、その原則から外れたことを立て直すためだったのです。私たちはここで、そのような命令をせざるを得なかった神様の心情がどれほど悲惨だったかを知らなければなりません。そのようにしたくなくても、そうせざるを得ない神様の内的な心情がどれほど悲惨だったでしょうか。(『文鮮明先生御言選集』57-289 1972.6.5)

 

『原理講論』のp159に「人間は堕落によってサタンの主管下におかれ、本心の自由が拘束されるようになった」とありますが、神様ご自身も人間の堕落によって自由を奪われてしまったことが、このみ言からよく分かります。

(3)アブラハム家庭

象徴献祭に失敗したアブラハムを再び立てることができた心情的理由と原理的理由はこちらになります。

【心情的理由】
 第三に、アダムは、直接に献祭はできなかったけれども、摂理的に見て、ノアは、アダムと同じ立場におりながら、蘇生「象徴献祭」に成功したアベルの心情の基台の上にあったため、箱舟をもって、直接「象徴献祭」をすることができた。
 このように、アブラハムは、蘇生「象徴献祭」に成功したアベルの基台と、長成「象徴献祭」に成功したノアの基台の上で召されたことから、完成「象徴献祭」をすることができたのである。
 それゆえ、アブラハムは「象徴献祭」に失敗したけれども、神はアベルやノアが、「象徴献祭」に成功した歴史的な心情の基台を条件として彼を再び立てて、もう一度献祭をせしめることができたのである。(『原理講論』p326) 

【原理的理由】
 第一に、「メシヤのための基台」を復帰なさろうとする神の摂理は、アダムの家庭を中心とした摂理が第一次であり、ノアの家庭を中心とした摂理が第二次で、アブラハムの家庭を中心とした摂理が第三次であった。この三数は完成数(後編第三章第二節(四))なので、「メシヤのための基台」を復帰なさろうとする摂理が、第三次まで延長されたアブラハムのときには、この摂理を完成すべき原理的な条件があったのである。(『原理講論』p325~6)

 

また、アブラハムを再び立ててイサク献祭の摂理をされた神様の心情と事情について、文鮮明先生は次のように語られています。

 アブラハムが百歳のときに生まれたイサクを、モリヤ山に連れていって祭物として捧げなさいというのですから、信じられるでしょうか。ですから、絶対的な信仰が必要であり、息子よりも誰よりも神様をもっと愛する絶対的な信仰を願う神様の原則的な内容があるがゆえに、そのような命令をする神様はどれほど胸が締めつけられ、どれほど悲しみを感じられたでしょうか。
 もしそれが失敗する日には、歴史的な苦労が水の泡になるので、心が締めつけられながらもサタンが公認する最後の時まで、このようなことをせざるをえないのが神様の事情なのです。(『文鮮明先生御言選集』54-149 1972.3.22)

 

さきほどのノアの場合と同じように、神様はアブラハムに対して愛児イサクを捧げよという命令をしなければなりませんでした。

ここにも神様の言うに言えない悲しい心情と事情があることが、「統一原理」と文鮮明先生のみ言から理解することができます。

 

(4)モーセ路程

モーセが磐石を二度打ったことが罪となった心情的理由と原理的理由はこちらになります。
 
【心情的理由】
 モーセが磐石を二度打ったことは、いかなる結果をもたらしたのであろうか。モーセが磐石を二度打ったことは、不信に陥っていくイスラエルに対する血気を抑えることができなかった結果であるので(詩一〇六・32、33)、この行動は結局、サタンの立場で行ったこととなるのである。(『原理講論』p388)

【原理的理由】
 ところが、モーセが天の側から一度打って水を出すようになっている磐石を、もう一度打ったという行動は、将来復帰した石として来られ、万民に命の水を飲ませてくださるはずのイエスを打つことができるという表示的な行動となったのである。このように、イスラエル民族の不信と、それを目撃したモーセが血気をもって石を二度打った行動は、将来イエスが来られるときにも、イスラエル民族が不信に陥るならば、磐石(岩)の実体となられるイエスの前に、サタンが直接、出現し得るという条件を、成立させたことになるので、それが罪となったのである。(『原理講論』p387)

 
 
人は、ときとして自分の血気や怒気に争うことができずに行動してしまうことがありますが、そういうときに「しかたがなかった」と考えがちです。
 
しかし、その心の根本を探ってみると、実は血気や怒気という感情を利用して相手を自分の思い通りに支配したいという動機と目的があることが分かります。
 
つまり、人間は血気や怒気を自らコントロールすることができるということです。
 
もしこれが人間が創造されたときからできないことであれば、モーセの血気による「磐石二打」は罪にならなかったはずです。
 
モーセの場合、自分の血気を抑えることができましたが、イスラエルの民に対して神様と同じように愛する立場で向き合うことができなかった結果として「磐石二打」という行動になったと言えます。

まとめ

神様のひとり子として地上に降臨されたイエス様も、神様と同じように自由を拘束された立場で苦難の路程を歩まれました。

そして、ご自分が再び来るときのことについて「人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」(マタイ24章30節)と語られました。

このように語られた理由について『原理講論』ではこのように説明されています。

 イエスが、雲に乗って再臨されると言われたのには、二つの理由があった。第一には、偽キリストの惑わしを防ぐためであった。もしイエスが地上で肉身誕生によって再臨されるということを言われたとすれば、偽キリストの惑わしによる混乱を防ぐことができなかったであろう。イエスが卑賤な立場から立ってメシヤとして現れたのであるから、いかに卑賤な人であっても霊的にある基準に到達するようになれば、それぞれが再臨主であると自称するようになって世を惑わすからである。
 第二には、険しい信仰の路程を歩いている信徒たちを激励するためであった。(中略)イエスが雲に乗り、神の権威と栄光の中で、天からの天使のラッパの音と共に降臨され、稲妻のごとくにすべてのことを成就されると言われたのも、多くの苦難の中にある信徒たちを鼓舞し、激励するためだったのである。(『原理講論』p580~1)

 

第一の理由が原理的理由、第二の理由が心情的理由に相当すると考えることができます。

以上のように、復帰摂理歴史には心情的理由と原理的理由があり、「統一原理」を習得していない私たちには、理解しがたいこともあります。

そのようなとき、「自己を中心として天の側に立っているノアを批判し、またそのことを行動に表した」(『原理講論』p313)ハムの失敗を繰り返して神様を悲しませないようにしなければなりません。

 

【下編】につづく