体恤と実践(1)

 

1975年2月2日(日)
韓国ソウル・前本部教会
『文鮮明先生御言選集』76巻p117~157

 

 私たちは信仰の道を行っています。信仰の道というものは、自分が体験し、悟って行く道にならなくては、一生を、あるいは生涯をかけて行くことはできない道と考えるのです。

 信仰者は体恤を通してのみ強くなり得る

 誰かの言葉を聞いて、その言葉どおりに従っていく人は、必ずその言葉を中心として、体験を通して実際に事実なのかそうでないのかを経験したいと思うのです。これが私たち人間の立場です。これと同じように、信仰の道を行くにおいて、み言を聞いて、あるいは聖書を見てすべて学びましたが、学んだそのとおりの事実が私自体で形成されるのか、ということを私たちはいつも体験したいと考えるのです。

 さらに、信仰の対象は見えない神様です。神様を中心として信仰していくので、その主体である信仰自体を考えれば考えるほど、それが確実に、現実的に私たちが体で感じ、触れ、体験できる内容として現れるのは難しいことです。私たちの五官を通してさっと見るように、私たちが平面的な立場で感じるように、そのように実感的な立場で感じることができません。これはどこまでも霊的であると同時に無形的な主体を相手としている以上、それ自体と私自体が体恤的な体験段階にまで進んでいくことは、簡単なことではありません。

 体恤は、私たちの信仰生活に必ず、絶対に必要なものです。その体恤を通して神様の人格について知ることができ、それと同時に、神様が私と共にどのような内情的な心情の因縁をもつのか、ということを感じることができるのです。この体恤の道を通してのみ、私たちはそのようなものを感じることができます。信仰生活を通して幸福感を感じ、また信仰生活を通してより理想的な新しい希望をもつことができるのも、この体恤の過程を経なければ、体恤の過程を通じなければ現れないと見るのです。

 過去のキリスト教の歴史を見ても、400年のローマ迫害時代において、そのような迫害を受けながら、ライオンの餌食(えじき)になりながら、屈せずに信仰の道を行くことができたのは、漠然とした立場でそのようになったのではありません。これは必ずそのような場を越えていくことのできる体恤的な内容、彼らには否定しようにも否定できない内容があったからです。環境がいくら難しくても、その環境が彼らを制圧できる、そのような与件になり得ない立場に立ったという事実それ自体が、殉教の道も無難に越えることができるようにしたということを、私たちはうかがい知るようになるのです。

 聖書を見れば、ペテロやパウロのような男性たちが、難しい問題を迎えるたびに、必ず天に祈り、その祈りを通して天は指示しました。「どこどこに行きなさい」や「行ってはいけない」という……。このような内的な信仰生活の基礎が必ずあったということは、私たちは聖書を通してよく知っているところです。

 このような生活の基盤やそのような伝統が各自にあればあるほど、その人は強い人なのです。そのような体恤を通した人は、誰にもできない新しい歴史的なこともすることができると思うのです。世の中の人たちが理解できず、世の中の人たちがいくら反対したとしても、自分が内的に体恤し、またそれを経験したことが、今日の実践世界で環境に適用される事実をたくさん感じれば感じるほど、その人は強く進んでいくことができるというのです。

 人々は信じることができませんが、自分は出発点と同時に、その事実を信じることができ、その結果が現れていませんが、結果以降のことまでも予想しながら、強く雄々しく環境を開拓していくことができるのです。それは、必ず体恤を通さなければ不可能だと見るのです。ですから、私たち信仰者に必ず必要なものが体恤だというのです。

 体恤の道は心の零点基準に合わせるところから始まる

 このような事実を皆さんはよく知っていると思いますが、体恤に関して、私たちはもう少し考えてみなければなりません。私たちが信仰の主体である神様を敬うその立場に立っているとしても、それは曖昧です。では、それ自体をどこから探すべきでしょうか。

 主体は確定していますが、自分は感じることができないのです。私たちが五官で分かるように、そうだということを確定づけることができないのです。これをどこから調べることができるかという問題を考えるとき、主体から調べることはできません。神様から調べることはできないのです。これはどこまでも、自分から調べなければなりません。

 それでは、自分自身を中心として見るとき、自分という存在には、体と心があります。体と心があるのに、体を中心としてはこれを調べることができません。心を中心として調べなければならないのです。

 堕落した群れである今日の人間たちについて見てみるとき、その心自体が、1000人なら1000人、1万人なら1万人がすべて同じですか? その根本は同じかもしれませんが、心自体は素性(=本来の性質)によって違うのです。一つの円形を描くとすれば、水平線を引き、ここから1度、2度として、さっと十字をきることによって、360度の円形を描くことができます。

 一つの水平線を引き、一つの垂直線を引く、ここから90度の分別度数が定まるのと同じように、私たちの心が必ず円形のような立場にいるとすれば、これをどのように引くか、ということが問題です。その水平線は、引く人によってその水平線の形態がそれぞれ違うのです。私たちの顔が違うように、皆さんの本性もすべて違います。

 ここの零度から360度を引いていくところは、度数は必ずこの基準を中心として、数が加算されていくのです。そのように、360度の形態と私たちの心が、心の根本がこのような円形であれば、その角度を測定する基準がすべて違うということを、私たちは知らなければなりません。すべて同じではないのです。

 それはなぜそうなのでしょうか? 私たちの顔が違い、私たちの趣味が違い、私たちが感じる感情が違うのと同様に、その度数を描くことができる平行線と垂直線が違うのです。ある人はこのようになっていれば、ある人はこのようになっていて、それがすべて違います。その度数を合わせなければならないという結論が出てきます。

 そのようにしようとすれば、どのようにしなければなりませんか? 零点の位置を求めなければなりません。零点の位置がどこですか? それがあるのです。皆さん自体に、その心の心性をこのように表示すれば、必ず零点があるということです。零点があり、その零点自体を水平線にすれば、その水平線を中心として、ある垂直線が引かれます。天が主体であれば、その主体の前に私が対象的な立場に立つのです。主体となる神様は、人間に対象として感応できる根本を必ず与えたので、心の根本にある平面的な基準の前に垂直に向かう、そのような方向がなければなりません。これが必ずあります。必ずあるのです。

 私たちが水平線を見るようになるなら、これは平面になっていますが、これが垂直に立つようになれば、この垂直線の基準が全部違うのです。では、その零点基準をどのように合わせるかというのです。こちらに行けば、必ず反対になるために、その零点を合わせなければなりません。

 皆さんが発電所に行ってみれば、メーター器がたくさんあります。メーター器に零点基準のようなものがあって、それを中心としてすべての加減を調整して、その方向というか、力というか、量の対比をつかむのと同様に、そのような零点基準がなければならないのです。

 では、零点基準とは、どんな位置でしょうか。ありながらもないようであり、ないながらもあるような位置です。その位置があるのです。それゆえ今日、座禅をする人たちが「無我の境地」という言葉を使いますが、それもやはりそのような境地なのです。そのような霊的基準に接近できる自分にならなければなりません。そのような基準になれば、必ず自己の水平線基準が反応することができる、そのような何かがあります。

 天の心の門と私の心の門を合わせる生活が重要

 それゆえ、心も見てみると、心の門があります。「心門」と言います。そうでありながら、その門がいつも一面だけで開かれているのではなく、心自体が回っているために、その門も移動するのです。それゆえ、この門を通らずには、プラスならプラスを中心として、マイナスの立場で関係を結ぶことができないのです。人にはこのような「心門」があるのです。

 皆さんが祈祷をしてみれば、時間によって感じが違います。午前1時に祈祷するのと、3時に祈祷するのとでは違います。それは皆さんが体験してみれば分かります。神秘的な深い境地に入って祈祷してみれば、祈祷する時間によって違うのです。感じが違うのです。朝に感じるのと、真昼に感じるのと、夕方に感じるのと、夜に感じるのと、すべて違います。

 そのように、私たちの心の状態からも、感じるその基準が違うのです。私たちの肉体的な感情が、四季の季節の変化によってその感じる感度が変わるのと同様に、心の世界もそうなのです。それゆえ、祈祷をするにも、どのような時間によくできるかを知るべきです。それはどういうことかというと、神様との感応の度が近いということです。よく祈祷できるという、そこにだんだん入るようになれば、門に出会うようになるのです。神様の心の門と人間の心の門がぴったりと合い、ある基準にまで合わせて入るようになる場合には、神様が感じることを体恤する道が生じるのです。

 皆さんがこのような場に入っていくためには、どのようにしなければなりませんか? 心を中心として、心を磨かなければなりません。心の状態を私たちが求めてみなければなりません。これが本来は、この基準が零点になければならないのですが、堕落したためにこれが180度に来ている、ということです。この度数が零点になければならないのですが、自分勝手になっているというのです、自分勝手に。

 ですから、これを回してこのように正常に戻さなければなりません。(絵を描きながら語られる)ところが、ある人は、零点がここにあるにもかかわらず、ここに来ているので、このように(時計の針が回る方向に)回っていかなければならないのに、この距離が違うために、この零点を中心としてこのように動けば、マイナス的感度を感じるのです。そうするとどのように考えるかというと、このように(時計の針と反対方向に)行こうと考えるのです。そのように行けば、1000年行ってもだめです、1000年行っても。これは戻らなければなりません。そのような現象が起きるというのです。

 今日の宗教も同じです。宗教も、目的の時に対しては、終わりの日だ、末世だということを、すべてわきまえなければなりません。ところが、このように発展してきた宗教は、このように行けばよいのですが、この場に来て留まっているなら、このように回っていけばよいのですが、もし反対にここにいれば、この宗教は、終わりの日になると跡形もなくやられるということです。

 ある人は、角度と方向が違うので、その場に行こうとすれば、反対の道を行くようになる現象も起きるのです。神様のみ旨を中心として広がった宗教もありますが、サタンの意向を中心として広がった宗教もあるのです。これがすべてこのように混ざっているため、それをよりわけて進んでいくことは限りなく難しいのです。

 このような結果と同様に、私たちの心の世界も同じなのです。心も、善の心があるのと同時に、悪の心もあります。では、皆さん自身の心が「ああ! 私は善だ」と、このように考えていますが、そのような心自体も善ではありません。堕落の結果によって成されたために、悪の心の圏、悪なるサタン圏に感染した心をもった人もいて、善の圏内の心をもった人もいます。千態万状の差によって広がるのです。

 ですから、最も重要なことは何かというと、この零度をどのように求めるか、零度を。零度をどのように求めるのか、心の門をどのように合わせるのかという問題が、信仰生活で最も重要な問題ではないか、このように考えるのです。

 それゆえに、皆さんが信仰過程で常に注意しなければならないことは、心の門が開く時を知って、天の心の門とどのように合わせるかということです。それは、皆さんが常に準備しなければならないのです。もしやこの時間が心の門に合う時間ではないか、あるいは学生であれば、勉強するこの時間がもしやそのような時ではないか、あるいは私が世の中のことを忘れて楽しく遊ぶ、その時間がそのような時間になることもあるのではないか、常に、いつでも求めて合わせる生活態度が必要なのです。事実がまたそうだというのです。

 それゆえ、いつもその深度をわきまえていきながら、心の門を開くようにして、そうしながら天が向かう門とどのように一致化させるかという問題が、信仰生活で最も貴いと考えるのです。

 心の門が合えば立体的な感じ、暗示を受けるようになる

 この相対的立場にだんだんと立つようになれば、どんな現象が起きるでしょうか。今まで感じたことのない、新しい立体的な感じが来るのです。それが、何だか分からずに来るのです。昔は冬のような気分だけ感じたのに、秋のような気分を感じるようになり、秋のような気分だけではなく、夏のような気分も感じられ、春のような気分が感じられるのです。なぜそうなのでしょうか。この宇宙は回っています。心も回ります。それゆえ、回りながら春夏秋冬の変化を引き起こすのと同様に、我々の心の世界も、回りながらそのように変化する感じを感じるようになっています。

 それが1年について見れば春夏秋冬があり、1年を縮小したのが1日ですが、1日にも春夏秋冬があるのです。朝は春に該当し、昼は夏に該当し、夕は秋に該当し、夜は冬に該当します。このように、春夏秋冬の季節的形態が、1日の間に繰り広げられているのです。また、春に該当する朝もそうです。そこでも、春のようなものを感じ、夏のようなものを感じ、秋のようなものを感じ、冬のようなものを感じることができます。大きなものは大きなものを中心として単位の形態を備えていますが、小さなものも相対的なその単位の形態を備えているのです。

 我々の心もそれと同様です。それゆえ、心に感じられる感じがいつも同じではないということです。季節によって自分が春だというのを知ればいいのですが、分からないのです。秋だということが分からないのです。これを多くの体験を通じて、多くの祈祷生活を通じて「あ! 今、時がこのような時に置かれているな」ということを、わきまえるすべを知らなければなりません。

 そのような境地に入るようになれば、どんな現象が起こるのでしょうか。我々の言葉に「暗示」という言葉があります。それはどういう言葉でしょうか。自分が道を何気なく歩いていて、ある良い家の塀にとまっていた鳥が飛んでいくのを見たとき、鳥は飛んでいってしまうのですが、ばたばたと鳥が飛んでいく、それ自体を通じて内的に何かを教えてくれる、ということが起きるようになるのです。実際の生活で、そのような形態が展開され始めるのです。暗示的条件が多くなるのです。ある人が偶然に言ったことに何かを悟らされるようになります。このような事実が、だんだん多くなるのです。

 夢示(むじ)とは心の状態が共鳴できる圏内に入ることを意味する

 この段階を過ぎていくようになれば、どのような形態になるかというと、夢示(むじ:夢の予示)のようなものを体験するようになります。夢の中で起きることですが、夢でも深い眠りの中での夢ではないのです。夢うつつの間に……。パウロのような男性も、夢うつつの間に三層天(第三の天)を体験したというのです。夢のようでもあり、夢でないようでもあり、夢の中にいるのか、事実の中にいるのか……。横で誰かが話すのをすべて聞きながら、3分の2はキャッチしながら、夢うつつの間にそのような現象や、あるいは声というもの、この五官で感じることのできる、そのような感覚が来るのを感じるようになります。

 そのようなことを、何気なしに流して過ごしてはいけないというのです。それを総合して、どんな方向の因縁を自分につなぐために現れるのかということを、科学的な面でデータを出しなさいというのです。必ずその結果が現れます。それゆえ、皆さんが忘れることができない夢のお告げのようなことは、100パーセント的中するようになります。そのような体験があるでしょう。

 夢うつつの間に、ある人なら人、物なら物が因縁づけられたので、それが事実の中で実際につながるのです。誰かが夢の中で誰かと歌っているのに、その歌が夢の中の歌ではなく、そばで誰かが歌う歌が正にその歌だった、このようなことが起こるのです。これはどういうことを意味するのかというと、霊的次元において、心の状態が共鳴できる圏内に入ることを意味するのです。音叉というものがあります。共鳴できる圏内に入ることを意味します。このようなことをこの上なく貴く思わなければなりません。

 体恤と実践は生命の因縁をもたらす

 そのようになれば、どうなるでしょうか。神様がいるなら、その神様がどこに現れるのでしょうか。空中に現れるのではなく、心を通じて現れるのです。皆さんが、そのようなことを感じられないのは、なぜでしょうか。心がまだ存在を確立できなかったためであり、体に引きずり回される人になったからです。その心が存在を確立して、また一つの主体だという、そのような人格的な次元の立場が形成されれば、それは必ず違ってきます。

 祈祷をして次元が高くなれば、心と話すのです。共鳴する現象が起こるのです。これは次元の高いことですが、そのようになれば、心の中で語ることを自分が聞くのです。そのような境地で発展していくのです。最初の段階では、暗示のような事実が皆さんの生活で起こります。

 それゆえ、信仰者はこのような膨大な資料を収集しなければなりません。向き合う人がいれば、何気なく向き合ってはいけないというのです。彼が自分に何をもたらしてくれるのか、いつもお腹を空かせた人の心情になるべきです。彼が自分に何をもたらしてくれるかと、そのように求める心がなければなりません。結局、彼自体は何でしょうか。自分がいつも主体になるとか、対象にならなければなりません。それは、確定的な主体であり、確定的な対象の立場にいるという事実を意味するのです。

 それゆえ、主体となり得る存在が現れたり、対象的な存在が現れれば、一遍に分かります。自分が誰か伝道する人がいれば、一遍に分かるのです。むしょうにただ心がうれしくて行くのです。それを「心波」と言うでしょう? 心の波長があるのです。そのようなことがあるのではないですか。

 皆さんを見れば、肉の商売をする人は、肉屋のにおいがして、布(生地)の商売をする人は、布のにおいがします。皆さんの体からもにおいがするのと同様に、心のにおいがするのです。その心のにおいをかぐのです。そのようなことが起こるのです。

 私たちの体には触覚のようなものがあり、すべて接触する、このように考えるのです。それで、見えない電波のようなものを発射し、相対的対象を求めています。事実、そうだというのです。私の心はこちらに行こうとしても、拒絶するのです。磁石の方向性と同じように、プラスとマイナス……。このように行っても、「あ?」とそのような作用を悟ることができる段階に入っていきます。このようなことを皆さんは考えなければなりません。

 それゆえ、信仰する人の態度は、すべて自分と関係していると考えなければなりません。なぜそうすべきなのでしょうか。堕落によって、すべての関係を失ってしまったのです。自然に対する関係、本然の人間に対する関係、神様に対する関係を、すべて切断してしまったのが堕落です。切断した関係の世界を、私たちが再び接続させるためには、いつも自分自体が接続させることのできる作用をしなければなりません。そのような作用をしてこそ関係が開拓されるのであって、接続しようとする態度をもたなければ開拓されません。これは、最も理論的だというのです。

 ですから、皆さんは、何かを探し求める心がなければなりません。皆さんが朝に祈祷し終えると、「あ、きょうは良いことがある」というのが分からなければなりません。そして、「良いことがあるから、ただ良いことが現れるだろう」と、これではいけません。それを探し求めなければならないのです。このような生活態度が、皆さんの信仰生活にならなければなりません。それゆえ、体恤と実践ということは、生命の因縁をもたらすというのです。夢うつつの中に、このような事実が起こるのです。

 啓示段階が過ぎるようになれば黙示段階が訪れる

 その段階が高くなれば、どのようなことが起こるでしょうか。啓示とか指示とか、このようなことが起こります。啓示というものを、私たちは分析しなければなりません。指示というものは、直接教えてくれるものですが、啓示は違います。それゆえ、問題が起こるのです。これは、必ず解釈をしなければなりません。何かを教えてくれるには、声で聞かせてくれたりもしますが、幻想でも見せてくれます。良い春の日を迎えて、鹿が一対、小川のほとりで水を飲みながら、遠い山を眺める、このような幻想は、限りなく幸福な希望を象徴するのです。そのように、いろいろな現象が起こるのです。

 そのようなことは、偶然の事実ではありません。自分の心の畑を啓発するための天の役事です。なぜそうすべきなのでしょうか。私たちの心の畑というものが、ガラス板のように平らになっていないのです。でこぼこしています。形は水平のような面をもちましたが、それ自体はでこぼこなのです。でこぼこしたところに天の感度が反射して来るようになると、光の屈折と同様に、入ってくる方向と反対の方向に反射して出ていくのです。それで全部が違うのです。部分部分を啓発しようとするので、そのような役事をするのです。

 啓示の段階を過ぎるようになれば、次は黙示の段階です。一日中霊界に入って体験をするとか、そういうものです。そのような世界にまでつながるのです。神様に対する、生活的な感情圏まで到達することができます。皆さんがこのような体恤的な信仰をしなくては、偉大な天のみ旨の結果世界を、私たちの生活の場、生活舞台に適用させることはできません。それゆえ、体験をもたない信仰者は、信じることができません。ですから、体恤的な信仰がどれほど高貴なものかということを皆さんが理解して、これを啓発していかなければなりません。

 

~つづく~

 

 
翻訳責任:当ブログ管理者

 

 

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