【今回深掘りする原理のみ言】
 この時代においては、文芸復興の主導理念である人文主義と、これに続いて起こる啓蒙思想、そして、宗教改革によって叫ばれるようになった、信仰の自由などによる影響のために、宗教と思想に一大混乱をきたすようになり、キリスト教信徒たちは、言語に絶するほどの内的な試練を受けるようになるのである。(『原理講論』p483)

 

 上記のみ言の冒頭にある「この時代」とは、摂理的同時性の時代のうち「メシヤ再降臨準備時代」のことを意味しています。

 この時代にキリスト教徒たちは厳しい内的な試練を受けたのですが、今まさに成約聖徒たちもそれと同様、あるいはそれ以上の「内的な試練」を受けています。

 今回は、成約聖徒が受ける「内的な試練」とはどのようなもので、サタン勢力はどのようにして試練してくるのかについて深掘りしてみたいと思います。

※この記事は、2019年11月、本ブログに連載した記事を加筆・修正し、まとめたものです。

第2章 サタンおよびその勢力の戦略戦術

(1)サタンおよびその勢力の戦略戦術を見抜くために

 堕落した人間にとって、神様の業とサタンの業を見分けることはとても難しく、『原理講論』には次のように書かれています。

 堕落人間は、神もサタンも、共に対応することのできる中間位置にあるので、善神が活動する環境においても、悪神の業を兼ねて行うときがある。また悪神の業も、ある期間を経過すれば、善神の業を兼ねて行うときがときたまあるから、原理を知らない立場においては、これを見分けることは難しい。(『原理講論』p120)

 

 「統一原理」を完全には理解できていない私たちが、サタンおよびその勢力の戦略戦術を知り、かつそれを見抜くことは相当に困難と言えます。

 それを少しでも補うため、参考として「ゆでガエル理論」と「プロスペクト理論」、そして「サラミ戦術」の考え方をご紹介します。

 ①「ゆでガエル理論」

 「ゆでガエル理論」は、「ゆでガエル症候群」や「ゆでガエルの法則」とも呼ばれ、企業経営やビジネスの教訓としてよく用いられる寓話です。

 その内容は、カエルを常温の水に入れて少しずつ熱していくと、カエルは温度変化に慣れてしまい、そのままゆであがって死んでしまうというものです。

 

 もし急激に温度が上がれば、カエルは驚いて飛び出すはずですが、温度が上がる速度があまりに遅いと、それに気付かないということですね。

 実際には、ゆっくり温度が上昇しても、熱さが限界にくればカエルは外に飛び出すので、科学的な根拠のある話とは言えないでしょう。

 しかし、人間の心理や行動の本質をよくついていますし、私たちの経験から考えても説得力のある内容です。

 例えば、業績の悪化が続いている状況なのに、過去のやり方に縛られて改革に着手できない経営者や、その間違いを知りながら、保身のためにそれを指摘できない部下などは、ゆでガエル状態の典型例と言えます。

 こういったことはビジネスの世界だけに限らす、日常の人間関係でもよく見られることです。

 成果が出ないまま間違った方向に進んでいるのに、どうしてそのやり方を改善できないのか、それを行動心理学的に説明しているのが次の「プロスペクト理論」です。

 ②「プロスペクト理論」

 「プロスペクト理論」とは、投資やギャンブルで大損してしまう原因を説明するときによく使われる行動心理学の理論です。

 簡単に言うと、「人は、利益はすぐにでも手に入れようとするが、損失はすぐには確定できない性質をもっている」ということです。

 損失を確定するということは、言い換えると、自分の過ちや失敗を認めることとも言えます。

 ですから、人間というのは、自分の間違いを簡単には認めたくないという性質をもっていることになります。

 それと同時に、自分の判断は正しかったと思いたいという欲求もあるので、それを裏付ける情報しか目に入らなくなるという傾向があります。

 さきほど説明した、「ゆでガエル状態」になっているにもかかわらず、そこから脱け出せない心理的な理由はここにあるわけです。

 そして、このような人間の心理を利用しているのが「サラミ戦術(サラミ・スライス戦略)」です。

 ③「サラミ戦術(サラミ・スライス戦略)」

 「サラミ戦術(サラミ・スライス戦略)」とは、懐柔などによって敵対する勢力を少しずつ滅ぼしていく手法のことです。

 敵対勢力ではなくても、外交交渉などでは、議題や措置を少しずつ出して、交渉相手から対価獲得や時間稼ぎを行うことがあり、これも「サラミ戦術」と言えます。

 ビジネスの世界でもこの手法が使われていて、自動車が定期的にモデルチェンジしたり、ソフトウェアが随時更新されたりするのがその例です。

 このようにすると、開発途上の商品でも販売できますし、継続して使用してもらうことで固定客化させることが容易になります。

 「プロスペクト理論」で説明したように、長く使えば使うほど、ユーザーは自分の判断が間違っていないという思いが強くなります。

 ですから、その商品がすでに自分のニーズに合わなくなっていても、なかなか他の商品に切り替えづらくなってしまうのです。

 サタン及びその勢力は、このような人間の心理を利用し、少しずつ、段階的に浸透、侵入する戦略戦術を取ります。

 いきなり大きな変化が起きると、自分たちの正体と目的がすぐに見抜かれてしまうからです。

 このようにサタン勢力は、成約聖徒たちに気付かれないよう、唯一絶対なる神様に対する信仰を少しずつ、段階的にずらしながら悪の方向に誘導しようとしてきます。

(2)神様、再臨主、「統一原理」を否定しようとするサタン

 サタンおよびその勢力は、神様の存在、文鮮明先生が再臨主であること、「統一原理」が真理であることに対して疑心を抱かせ、その絶対的な価値を相対化させようとしてきます。

 つまり、この世の神観や人物、思想の情報を示しながら、唯一絶対の神様を神々の中の一人の神にすぎない、文鮮明先生を偉人の中の一人にすぎない、「統一原理」を数多くある教義や思想の一つにすぎないと考えるように誘導するのです。

 例えば、エデンの園で天使長ルーシェルは、エバに対して次のように言いながら神様のみ言を否定し、神様の戒めのみ言に対するエバの絶対信仰を試練してきました。

 あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです。(創世記3章4~5節)

 

 これと同じように、現代の成約聖徒たちに対しても、サタンは神様、再臨主、「統一原理」の絶対価値を相対化させ、その信仰を試練してきます。

 ①唯一絶対なる神様を否定

 サタン及びその勢力の究極的な目的は、唯一絶対なる神様に対する私たちの信仰を失わせ、神様は存在しないと思わせることにあります。

 『原理講論』には、自己否定できないはずのサタンが、その目的を果たすため、自分をも犠牲にして神様を否定しようとしたことが次のように記述されています。

 サタンは歴史の終末をよく知っているので自分が滅亡することもよく知っている。したがって、結局はサタン自身も尊ばれないときが必ずくることを想定していながら、自分の犠牲を覚悟して神を否定したのがすなわち弁証法的唯物論なのである。(『原理講論』p554)

 

 このように、サタンは総力を挙げ、それこそ命懸けで神様を否定し、弁証法的唯物論を中心に無神論の世界をつくろうとしてきました。

 しかし、ソ連を中心とする共産主義国の崩壊により、弁証法的唯物論による無神論世界の構築は一度失敗に終わったのです。

 そして、東西の冷戦体制が神側の勝利で終結したのち、1994年5月、韓国では「世界基督教統一神霊協会」が「世界平和統一家庭連合」へと名称変更が行われました。

 それと同時に『私の誓い』が『家庭盟誓』に代わったのですが、これは神様の復帰摂理が個人救援の時代から家庭救援の時代になったことを意味しています。

 そこでサタンは、家庭救援の摂理を妨害するため、国家体制を共産主義化する戦略から、家庭破壊を第一目的とする文化共産主義を浸透させる戦略へと切り替えたのです。

 そして、ひとり一人の信仰に対しても、最初から無神論者にしようとするのではなく、まず一神教的(一元論的)な信仰から多神教的(善悪二元論的)な信仰に移行させる戦略に変えました。

 「ゆでガエル理論」や「サラミ戦術」のように、多神教的な信仰にすることで、サタンが正体を見抜かれることなく、その中の一人の神として潜入できる余地が生じます。

 そうして多神教の中に紛れ込み、そこで勢力を拡大して唯一絶対なる神様を相対化させ、自分が創造主の立場に立って人間世界を支配しようとしているのです。

 『原理講論』の「総序」に「欲望が概して善よりは悪の方に傾きやすい生活環境の中に、我々は生きている」(p21)とあります。

 これは、私たちが暮らしている生活環境そのものが、サタンを中心とする唯物的かつ相対的な価値観とその目的を果たすための環境になっているということです。

 ②「統一原理」の堕落論を批判し、原罪とメシヤの必要性を否定

 サタンは自分の存在を犠牲にしたとしても、自分の罪状は絶対に知られたくないため、「統一原理」の堕落論を徹底して否定してきます。

 宗教界は天使界の立場になりますが、原罪を教理として定めているのはキリスト教だけです。

 イエス様は「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ福音書3章3節)と語られ、復帰摂理歴史で初めて原罪清算の必要性を明らかにされました。

 それまでは、だれ一人としてあらゆる罪悪の根である原罪を認識できず、清算することもできなかったのです。

 すべての罪は、その根に該当する原罪から生ずる。それゆえに、原罪を清算しない限りは、他の罪を根本的に清算することはできない。しかしながら、隠されているこの罪の根はいかなる人間も知ることができないもので、ただ人間の根として、また、真の父母として降臨されるイエスのみがこれを知り、清算することができるのである。(『原理講論』p121)

 

 このように、生まれながらにして原罪をもっている堕落人間が原罪を認識することは不可能であり、無原罪のメシヤでなければそれを認識することはできません。

 原罪は人類の過去の過ちとも言えますが、「プロスペクト理論」にあるように、堕落した人間は自分の罪や間違い、失敗を簡単に認めようとしない性質をもっています。

 もし原罪をもって生まれたことを認めなければ、それを贖うために降臨されるメシヤの必要性も感じないのです。

 ですから、サタンおよびその勢力は、人間の堕落が不倫なる性関係によって起きたとする堕落論を必死に否定してきます。

 原罪さえ否定してしまえば、それを清算するために降臨されるメシヤを待ち望むことも、受け入れることもなくなるからです。

 2000年前にサタンは、自分が支配する人類を失ってもメシヤであるイエス様を葬ろうとしたことが『原理講論』に記述されています。

 サタンは、自分の側に立つようになった選民をはじめとする全人類を、たとえ、みな神に引き渡すようになったとしても、メシヤであるイエスだけは殺そうとしたのである。その理由は、神の四〇〇〇年復帰摂理の第一目的が、メシヤ一人を立てようとするところにあったので、サタンはそのメシヤを殺すことによって、神の全摂理の目的を破綻に導くことができると考えたからである。(『原理講論』p422)

 

 サタンおよびその勢力が「統一原理」の堕落論を否定し、原罪を否定する目的は、再臨のメシヤの必要性を否定し、神様の復帰摂理を破綻させることにあるのです。

 ③み言と実体の不一致を批判し「統一原理」を否定

 私たちは、神様のみ言と現実が一致していないときに信仰が揺らぐ傾向があります。

 一般的にも、言行の不一致は批判されますし、信頼を損なう主な要因になり得ることです。

 ですから、み言と実体が一致していない教会組織や聖徒たちの姿があるとき、サタンおよびその勢力は、その点を集中して批判してきます。

 その次の段階になると、現実の実体の方を肯定し、み言と一致していない実体に対して「人間ならみなそうだ。不足だから人間だ」と言いながら、み言の方が間違っていると考えるように誘導します。

 これもまた「プロスペクト理論」にある、自分の間違いや失敗を認めたくない堕落人間の心理を利用した戦術です。

 しかし、『新約聖書』の「ローマ人への手紙」(口語訳) の7章を見ると、パウロの嘆きが次のように記録されています。

 わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。(ロマ7章22~24節)(注)

※注
 キリスト教では、このパウロの言葉について、彼がキリスト教の信仰をもつ以前のことなのか以後のことなのか意見が分かれています。
 「七章後半のパウロの告白的体験は、彼の回心前の出来事かそれとも回心後の経験か、学者たちの意見は大きく二つに分かれている。ブルトマン、キュンメル等は回心以前の出来事であると考え、バルト、ニグレン等は回心後の経験であると主張している。」『新聖書註解』(いのちのことば社)
 「統一原理」では、霊的救いの限界という観点から、キリスト教信仰をもったあとのキリスト者の姿ととらえています。

 

 このようにパウロは、自分自身の矛盾した状態に気付いていましたが、大概の人は自分の矛盾を認識できない、あるいは認めようとしないことが多いのです。

 このような堕落人間に対してサタンは、信仰生活と日常生活を分断し、信仰生活を形式化させつつ、日常生活では唯物論的価値観を中心に行動させるように誘導するのです。

 

~「第3章 イエス様の12弟子に見る正しい神観と信仰観をもつための教訓」につづく~

 

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