共産主義はどこから生まれたのでしょうか。多くの場合、その答えはカール・マルクスの思想や産業革命後の経済格差、労働者の貧困に求められます。確かにそれらは共産主義が広がる上での重要な背景となりました。

しかし、それだけでは説明できない根本的な問いが残ります。なぜ共産主義は、よりによって神への信仰を文明の土台としてきたキリスト教圏の中から生まれたのでしょうか。

本シリーズ「聖書から見た共産主義の起源」は、この問いに正面から向き合う全6回の連続記事です。

本シリーズが注目するのは、共産主義の経済的・政治的側面ではなく、その精神的・信仰的な背景です。出発点となるのは、『原理講論』の「創造目的を完成した世界は、あたかも一人の人間のように、互いに有機的な関係をもつ組織社会である」という洞察です。

文明は一人の人間を拡大した姿であるとするならば、一人の人間の心の中に起こることは、文明全体にも起こり得ます。この視点から、本シリーズは共産主義の起源を人間の心の問題として捉え直します。

人は最初から神を憎んでいるわけではありません。神を愛し、神に期待し、神に助けを求めながら生きています。しかし、その期待が裏切られたと感じたとき、人の心には失望が生まれます。その失望が解決されないまま積み重なると、やがて不信へと変わり、最後には神そのものを否定するところにまで至ることがあります。

ヨブとカインという聖書の二つの姿は、苦難に直面したときに人が歩む二つの道―神への信頼を深める道と、失望から不信へと向かう道―を象徴的に示しています。

さらに本シリーズは、一神教が持つ固有の特性にも光を当てます。唯一神への絶対的な信仰は、人を大きく成長させる力を持っています。しかし同時に、その信仰が失われたときには、絶対的な否定へと転化する危険も持っています。多神教社会ではなくキリスト教文明圏から共産主義が生まれたのは、この一神教の特性と深く関わっているのです。

そして、初代教会が示した神への愛と隣人愛の精神が、歴史の中で形式化・制度化されていく過程を経て失われていったこと、その失望の蓄積の上に共産主義が台頭したことを、聖書と『原理講論』の言葉を交えながら考察していきます。

本シリーズが最終的に問いかけているのは、共産主義という過去の思想についてだけではありません。神への愛の道を歩むのか、それとも神への失望の道を歩むのか。その選択は文明だけでなく、今を生きる私たち一人一人にも委ねられているという、現代への問いかけでもあります。

聖書から見た共産主義の起源