信仰とは何か。み言を知ることか、それとも行うことか。あるいはそのどちらでもない、もっと深いところにあるものなのか。
本シリーズ「聖書の中の心情圏」は、統一原理の教えをもとに、信仰の本質を「心情」という視点から掘り下げた全5回の記事です。各回では、文鮮明師の御言葉からの引用を軸に、聖書的な信仰の深みへと読者を導きます。
第1回「統一原理(み言)と実践」では、信仰の成長を四段階に分けて解説します。観念的な信仰から意識的な信仰へ、さらに習慣的な信仰を経て、最終的にはみ言が人格そのものとなる「心情的な信仰」へと至る道筋が示されます。知ることに満足し、行うことにとどまり、習慣の中に安住してしまいやすい私たちに、悟ったことを生活の中で実行することの大切さが静かに問いかけられます。
第2回「神が一男一女を創造された目的」では、創世記の「はなはだよい」という神の言葉に込められた意味を解き明かします。神の創造目的は、男女がそれぞれ本性を完成させ、真の夫婦となり、真の父母となって真の家庭を築くことにあると説かれます。人間の完成は個人で終わらず、関係と家庭の中にこそ実現されるという、この視点は現代においても深く考えさせられるものです。
第3回「数理的に摂理なさる神」は、神の摂理が偶然ではなく、一定の秩序と法則に従って展開されることを論じます。六数と七数をめぐる成長段階の構造、心情と結果の数理的なつながり、エジプトの十災禍に見られる神と人間の協働関係など、聖書の出来事を数理的な視点から読み解いた興味深い内容です。
第4回「心情の因縁を結ぼうとするならば」では、十字架上の右側の強盗とマリヤの姿を通して、「情的信仰」の意味が語られます。知識や行為の前に、主の事情を自分のものとして感じる心情的な共鳴こそが、天との真の因縁を結ぶ鍵であることが示されます。極限の苦しみの中にありながらイエスを思いやった強盗の姿は、日常の小さな実践の中にも通じる心情の真価を照らし出します。
第5回「哀れみの心情があってこそ心霊が結実」は、信仰の完成期において哀れみの心を失わないことを強く呼びかけます。他者を批判するのではなく心配する心、自己肯定の誘惑に勝って初めの姿勢を守り続けること、そして悔い改めの涙から生まれる他者への共感―これらが一つの流れとして結びつくとき、人は真の結実へと近づいていきます。
み言を学ぶことは出発点に過ぎません。そのみ言が心情によって生きたものとなるとき、信仰は完成に向かって歩み始めます。本シリーズがその歩みを深める一助となれば幸いです。

