日本で「キリスト教」と聞いてまず思い浮かぶのは、ゴシック様式の教会、パイプオルガン、ステンドグラス、あるいはヨーロッパ絵画に描かれた白人のイエス像ではないでしょうか。

しかし、ここで一つの問いを立ててみたいと思います。私たちが「キリスト教」と思い込んできたものは、はたして聖書が語る信仰の原型と本当に一致しているのか、と。

聖書の舞台は西洋ではありません。アブラハムへの召命も、イエスの宣教も、そのすべては中東の歴史と文化と共同体のただ中で起こった出来事です。

ところが歴史の中で、キリスト教はギリシャ哲学の二元論、ローマ帝国の制度化、中世から近代にかけての欧米神学の体系化という三つの大きな流れを経て、本来の姿から少しずつ遠ざかっていきました。

その結果、聖書が語る「全人的・共同体的な救い」は「個人の魂の救い」へと縮小され、「歴史の中に到来する神の国」は「死後に行く天国」へと変質し、「契約と血統による共同体の回復」は「個人の内面的信仰」へと置き換えられていきました。

本シリーズは、全10回にわたって、こうした「聖書と欧米型キリスト教のズレ」を丁寧にたどっていきます。パウロ神学とギリシャ化の衝撃、ローマ帝国による制度化、中世・近代神学の形成、近代宣教と文化的植民地主義の問題、そして救済観・人間観・歴史観における具体的なズレを順を追って考察します。

同時に本シリーズは、単なる批判にとどまりません。東アジア文化が持つ関係性・共同体性・身体性・歴史感覚は、ヘブライ的世界観と深く共鳴しており、むしろ聖書の本質に立ち返る新たな視野を開く可能性を秘めています。

日本・韓国・中国それぞれの文化的強みが、「文化を超えた聖書回帰」においてどのような役割を担えるのか――その問いにも向き合っています。

「真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ福音書8章32節)。この言葉を道標に、欧米文化という後からかぶさった層を丁寧に取り除き、イエスの福音の原点へと立ち返る旅に、ぜひご一緒ください。

聖書から見た欧米型キリスト教