先回の【partⅢ】では、イエス様の十二弟子であるピリポに注目して、一神教の伝統的な信仰と天が望む「正しい信仰」について解説しました。
今回の【partⅣ】では、復帰摂理歴史の中心人物たちの信仰に注目しながら、歴史的に継承されてきた一神教の信仰について深掘りしてみたいと思います。
そして最後に、私たちが受けている「内的な試練」を克服するために、最初に守るべきものとは何かをお伝えします。
<このページの目次>
【partⅢ】の復習
(1)イエス様の十二弟子ピリポについて
ピリポは、ペテロが伝道されたその翌日からイエス様に従うようになった最古参の弟子の一人です。
彼は素直で人柄がよく、争いごとは好まない性格だったようで、当時は食材調達の責任を担っていました。
イエス様が亡くなったあと、病人を癒すなどして多くの人々を伝道し、87歳のとき、異教徒たちにより十字架にかけられて殉教したといわれています。
(2)エピソードⅠ-パンと魚の奇跡での教訓
5000人の聴衆が集まっている場で、イエス様はピリポを試みるため、彼に「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」(ヨハネ福音書6章5節)と尋ねられました。
そのとき、ピリポは、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」(ヨハネ福音書6章7節)と答えました。
この返答は、食材調達の担当者としては正しいものでしたが、信仰者としてはイエス様が望まれた返答ではなかったようです。
これは、パン(肉的な現実生活)とみ言(霊的な信仰生活)のどちらを価値視しているかの試みだったと考えることができます。
そこに集まった5000人の聴衆は、パンも必要でしたが、それ以上に霊の糧であるイエス様のみ言を求めていたはずです。
その聴衆とイエス様とを仲介する立場にいたピリポに対して、イエス様はご自身と同じ価値観をもって一つになることを望まれたのではないでしょうか。
(3)エピソードⅡ-最後の晩餐での教訓
最後の晩餐のとき、ピリポはイエス様に「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」(ヨハネ福音書14章8節)と言いました。
それに対してイエス様は、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ福音書14章9節)と答えられました。
このみ言には、十字架の道を翌日にひかえ、最古参の弟子からこのように言われたイエス様の悲しみが込められています。
この世の救い主であると心から信じてきたイエス様が十字架で亡くなることになってしまったため、もしかするとピリポは「本当にこの道が正しかったのか」と不安に思い、動揺していたのかもしれません。
それで、イエス様の立場や事情を考えるより、自分の不安な思いを払拭するため、何か確証がほしくてこのように尋ねたのではないかと推察できます。
このときイエス様は、十字架の道は避けられなくても、弟子たちに対して、心情と事情を共有して自分と一つになってほしいと思われていたのではないでしょうか。
(4)天が望む「正しい信仰」をもつには
『新約聖書』の「ヘブル人への手紙」11章1節に、「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」とあります。
信仰をもつきっかけとして、何かの奇跡や現象を見て信じるようになることはあるかもしれません。
しかし、信仰が深まっていくと、現実的なものよりも目に見えない本質的なものを求めるようになるのがふつうです。
それでも、何か迷いが生じたり、将来に対する不安が大きくなると、信仰基準が相対的に下がり、目に見える確証がほしくなることがあります。
そういうときこそ神様に祈って尋ね求め、その基台の上でみ言を通して神様からの返答を受け取る、これが「正しい信仰」をもつために必要なことです。
天から召命された中心人物たちの信仰
(1)旧約時代の中心人物たちの信仰
「ヘブル人への手紙」の11章には、復帰摂理歴史(旧約時代)に天から召命された中心人物たちの信仰が次のように紹介されています。
【アベル】
信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。(ヘブル書11章4節)
【ノア】
信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。(ヘブル書11章7節)
【アブラハム】
信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。(ヘブル書11章8~9節)
信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。(ヘブル書11章11節)
信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。(ヘブル書11章17~19節)
【イサク】
信仰によって、イサクは、きたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した。(ヘブル書11章20節)
【ヤコブ】
信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。(ヘブル書11章21節)
【ヨセフ】
信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。(ヘブル書11章22節)
【モーセ】
信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。
信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。
信仰によって、滅ぼす者が、長子らに手を下すことのないように、彼は過越を行い血を塗った。(ヘブル書11章24~28節)
ここに登場した中心人物たちは、唯一絶対の神様を信じ、そのみ言を絶対視して行動した人たちです。
イエス様に「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」(ヨハネ福音書14章8節)と言ったピリポの信仰と比べると、その違いが分かります。
(2)イエス様の神様に対する信仰
そのピリポに対してイエス様は「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ福音書14章9節)と答えられました。
このみ言から考えると、神様ご自身が、ヤコブやモーセなどの中心人物たちの信仰や行動を通して、そのお姿を示されたということになります。
それでは、唯一絶対の父なる心情の神様は、どのような心情をもち、何を信じていらっしゃるのでしょうか?
このように、父なる神様は、私が神様を信じる前から、私が真の子女として戻ってくることを信じ、忍耐をもって待ち続けてくださっているということです。
イエス様は、大祭司カヤパから「あなたは神の子キリストなのか」(マタイ福音書26章63節)と尋ねられたとき、「あなたの言うとおりである」(マタイ福音書26章64節)と答えられています。
この返答によって十字架の刑が確定するのですが、イエス様はどうしてそのように答えることができたのかについて、文鮮明先生は次のように語られています。
このようなイエス様の信仰から、どのような苦難にも屈せず、死をも越える信仰は、神様が私を信じてくださっていることを確信するところから始まると言えます。
歴史的な一神教の信仰と「内的な試練」の克服
(1)歴史的に継承されてきた一神教の信仰
本来、信仰とは、唯一絶対の神様と私との間に結ばれるものなので、次のみ言のように、信仰者にとって神様を知ることは、何にもまして優先されるべきことです。
心との関係がなくては、体の行動があり得ないように、神との関係がなくては創造本然の人間の行動もあり得ない。(中略)ゆえに、心を知らずには、その人格が分からないように、神を知らなくては、人生の根本意義を知ることはできない。(『原理講論』p82)
人間が、根本的に、神を離れては生きられないようにつくられているとすれば、神に対する無知は、人生をどれだけ悲惨な道に追いやることになるであろうか。(『原理講論』p31)
そして、人類の復帰摂理歴史は、正しい神観をもつ信仰へと段階的に発展してきました。
モーセを中心とする旧約時代は「唯一絶対の神様」、イエス様を中心とする新約時代は「父なる神様」を信仰しました。
そして再臨主を迎えた成約時代は、旧約と新約の信仰を基台とした上で「心情の神様」が信仰の対象となっています。
これを個人の成長段階で考えてみると、神様が存在すると認識するのが旧約前の段階、その神様は複数いらっしゃるのではなく唯一の存在であることを信じるのが旧約段階です。
そして、神様は私の父であることを実感するのが新約段階、さらに心情の神様であることを体恤するのが成約段階になります。
神様が存在されること、神様はお一人であること、神様は私の父であられること、そして抑えることのできない愛の衝動をもつ心情の神様であられること、これが歴史的に継承されてきた一神教信仰の軸になるものです。
(2)唯一絶対の父なる心情の神様への信仰を狙うサタン
このような一神教信仰の軸は、人体で言えば背骨のようなもので、背骨がずれると全身の至るところに歪みが生じます。
自分の信仰の軸がずれていなければ、それがずれている人と対したときに違和感を覚えるようになります。
その反対に、自分の信仰の軸がずれていると、それがずれていない人と対したときに違和感を覚えることがあります。
そのようになってしまうと、自分がサタン側の立場で神側の人を否定し、結果的にその人の行く道を妨げて神様の摂理に逆行してしまう危険性があるのです。
ですから、いつも祈りとみ言とその実践により、生活圏の中で神様の存在を身近に感じることができるようにしなければなりません。
サタンおよびその勢力は、本人に気付かれないようにこの信仰の軸を、少しずつ微妙にずらそうとしてきます。
(3)アブラハムの象徴献祭の教訓
私たちの生活圏内に潜むサタンおよびその勢力が、どこをどのように攻めてくるのかを知るには、アブラハムの象徴献祭の失敗がよい教訓になります。
アブラハムは、この蘇生を象徴する鳩を裂かずに捧げた結果、次のようになってしまいました。
このように、蘇生を象徴する供え物である鳩がサタンの所有物として残るようになったので、蘇生の基台の上に立てられるべき長成と完成を象徴する羊と雌牛にも、やはりサタンが侵入したのである。(『原理講論』p323)
アブラハムが供えた祭物のうち、蘇生期の鳩にサタンが入ったため、長成期と完成期の祭物も、すべてサタンに奪われてしまいました。
このことから、サタンが侵入しようとして狙ってくるのは、蘇生段階の信仰、すなわち唯一絶対の神様に対する私たちの信仰です。
特に日本人は多神教的な信仰と価値観に囲まれた生活圏で暮らしていますし、民族的にも善悪二元論的な価値観に陥りやすい傾向があります。
例えば、天国と地獄を光と影のようにとらえ、天国があれば地獄もあるというような善悪と陽陰を混同してしまうところがあるのです。
このような考え方だと、悪が天地創造の前から存在することになり、結果的に人間の堕落を否定することになるので、サタンは自分の正体と罪状を隠すことができます。
※善悪二元論の間違いに関する参考記事
神様が人間を創造された目的③三大祝福は善悪の基準
そして、サタン勢力は、善悪二元論から多神教的な信仰へとずらしていきながら、自分たちが入り込む余地をつくろうとします。
ですから、私たちの唯一絶対の神様に対する信仰を守ることが、今、私たちが受けている「内的な試練」を克服する第一歩になるのです。
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