【今回深掘りする原理のみ言】
ピリポがイエスに、神を見せてくださいと言ったとき、イエスはピリポに、「わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか」(ヨハネ一四・9、10)と答えられた。(『原理講論』p258)

 

先回の【partⅡ】では、成約聖徒たちが受ける三つの「内的な試練」と、その克服には正しい神観をもち、神様と心情関係を確立する必要があることを説明しました。

今回の【partⅢ】では、ユダヤ教からキリスト教へと継承されてきた一神教の伝統的な信仰について、イエス様の十二弟子であるピリポに注目して深掘りしてみたいと思います。

【partⅡ】の復習

成約聖徒たちがサタンおよびその勢力から受ける「内的な試練」は、次の三つになります。

1.唯一絶対の神様を否定

2.「統一原理」の堕落論を批判し、原罪とメシヤの必要性を否定

3.み言と実体の不一致を批判し「統一原理」の真理性を否定

これらの目的は、神様とメシヤ、そして「統一原理」の絶対的価値を相対化させ、歴史的に継承されてきた一神教の信仰の軸をずらすことにあります。

一神教の信仰の軸とは、旧約時代の「唯一絶対の神様」に対する信仰、新約時代の「父なる神様」に対する信仰、そして成約時代の「心情の神様」に対する信仰のことです。

特にキリスト教信仰の基台が造成されていない日本人の場合、目に見えない神様や真理よりも、実体の人間に従いやすい傾向があります。

また、多神教の信仰が根強く、行って義とされる蘇生、旧約段階の復活に留まっているため、信仰生活が形式化、儀式化しやすい傾向もあります。

エデンの園でエバが天使から誘惑されたように、私たちは、常にサタンから侵入する機会を狙われています。

エバが神様と一つになったアダムと相対基準を結んでいれば、決して堕落することはありませんでした。

ですから、伝統的な一神教の信仰を継承し、メシヤによって与えられた「統一原理」を通して正しい神観をもち、神様との心情関係を確立することが、「内的な試練」を克服する鍵になります。

イエス様の十二弟子ピリポに見る信仰の教訓

(1)ピリポについて

ピリポは、新約聖書に登場するイエス様の十二弟子の一人で、弟子たちの中で食材の調達を任されていた人物だったそうです。

彼はイエス様が直接伝道された弟子の一人でもあり、そのことがヨハネ福音書に記録されているので紹介します。

そしてシモンをイエスのもとにつれてきた。イエスは彼に目をとめて言われた、「あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケパ(訳せば、ペテロ)と呼ぶことにする」。その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされたが、ピリポに出会って言われた、「わたしに従ってきなさい」。(ヨハネ福音書1章42~3節)

 

このように、ペテロが伝道されたその翌日に伝道されているので、十二弟子の中で最も古い弟子の一人ということになります。

また、イエス様の「わたしに従ってきなさい」というたった一言のみ言に素直に従っていることから、その人柄をうかがい知ることができます。

そして、彼は十二弟子のひとりナタナエル(バルトロマイ)を伝道していますが、このときの様子も、彼の人柄をよく表しているといえます。

このピリポがナタナエルに出会って言った、「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人、ヨセフの子、ナザレのイエスにいま出会った」。ナタナエルは彼に言った、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」。ピリポは彼に言った、「きて見なさい」。(ヨハネ福音書1章45~6節)

 

ナタナエルからイエス様を否定されたとき、彼は反論や口論などはせず、自分の目で直接見て確かめてみるようにすすめています。

これらのエピソードから、ピリポという人物は、とても素直で人柄がよく、争いごとは好まない性格だったようです。

イエス様がなくなったあとのピリポの伝道活動はすばらしく、病人を癒すなどして大きな実績を挙げています。

最後は異教徒たちに捕らえられ、二人の娘とともに十字架にかけられ、87歳で殉教したといわれています。

(2)エピソードⅠ-パンと魚の奇跡

ヨハネ福音書には、さきほど紹介したピリポがイエス様から伝道された場面の他に、イエス様とピリポのやりとりが3ヶ所記録されています。

その中の一つが、イエス様が5000人の人々に食物を与えようと、食材調達の担当だったピリポに話しかける場面です。

 イエスは目をあげ、大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て、ピリポに言われた、「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」。
 これはピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった。
 すると、ピリポはイエスに答えた、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」。(ヨハネ福音書6章5~7節)

 

マタイ福音書の20章2節に「彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った」とあるので、当時の1デナリは労働者の平均日給だったようです。

当時の平均日給を1万円とすると、イエス様の問いかけにピリポは、200万円分のパンがあっても、5000人を満足させるには足りませんと答えていることになります。

食材調達を任されていたピリポだったので、この返答はかなり適切で現実的なものではありました。

しかし、聖句にあるように、この問いかけは、イエス様のピリポに対する「試み」でした。

このイエス様のピリポに対する「試み」とは、一般的な解釈では、ピリポの信仰心や真理の理解度を試したのであり、何が人を生かすのかを教えたかったということになっています。

ここで想起されるのは、イエス様が荒野でサタンから三大試練を受けたときのことです。

その第一の試練に対してイエス様は、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」と答えて、その試練を退けられました。

そして、マタイ福音書には、み言とパンに対してイエス様がどのような価値観をもっていらっしゃったのかが推察できる聖句があります。

だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。(マタイ福音書6章31~3節)

 

このことから、イエス様のピリポに対する「試み」とは、み言とパンのどちらに価値をおき、どちらを優先するのか、というものだっと考えることができます。

もしこのときにピリポが、「主よ、パンのことは心配なさらず、彼らにみ言をください。そうすれば彼らは満たされるでしょう」というような返答をするべきだったのかもしれません。

実際には、とても素直だったピリポは、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」と言ってとても現実的な返答をしています。

このような、イエス様のピリポに対する「試み」やイエス様の三大試練から、み言とパンは、それぞれ信仰生活と衣食住の日常生活を象徴していると考えることもできす。

これは、サタンが経済問題で苦しむ人に対して、み言や信仰よりも現実の生活問題の解決を優先するよう誘惑してくることを意味しています。

ピリポは食材調達の担当ですから、ある程度、お金も動かせる立場にいたため、イエス様は、サタンの誘惑を退けられるよう、このような「試み」をされたのではないでしょうか。

(3)エピソードⅡ-最後の晩餐にて

もう一つのエピソードは、冒頭で紹介した『原理講論』のみ言にある、ピリポがイエス様に「神様を見せてください」と言った話です。

 ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。
 イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。
 わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。(ヨハネ福音書14章8~10節)

 

この出来事は、最後の晩餐のときのことですから、イエス様が十字架上で亡くなられる前日のことです。

ここでイエス様は「こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか」と語られています。

さきほど説明したように、ピリポはペテロが伝道された翌日にイエス様と出会っているので、弟子の中では最も長くイエス様と一緒にいた一人です。

そのピリポから「神様を見せてください」と言われたのですから、イエス様は相当な精神的衝撃を受けられたのではないかと思います。

イエス様としては、「それではなぜ今まで私についてきたのか」という思いだったのではないでしょうか。

このときのイエス様の心情について、文鮮明先生はある祈りの中でこのように祈られています。

ここで(ヨハネ福音書14章5節)でトマスは「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません」と言い、ヨハネ福音書14章8節でピリポは「父を示して下さい」と言いました。このように「父を示して下さい」と求める弟子たちを見るとき、イエス様の悲しみがどれほど大きかったかということを、ここにいる群れたちが共に感じるようにしてください。(『文鮮明先生御言選集』5-137 1959.1.11)

 

このようなピリポの中に、目に見えない神様や真理よりも、実体の人間に従いやすい日本人の信仰姿勢が重なって見えます。

最後の晩餐でのこのエピソードから、今の私たちの信仰姿勢をもう一度見直してみる必要があるのではないでしょうか。

天が望む「正しい信仰」とは?

『新約聖書』の「ヘブル人への手紙」には、信仰とは何かについて次のような聖句があります。

信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。(ヘブル書11章1~3節)

 

このように、見ていない事実を確認するのが「信仰」であって、もし見て、はじめて信じるのであれば、それは「信仰」ではなく、ただの「確認」と言ったほうがいいかもしれません。

このような「正しい信仰」をもつにはどうすればよいのか、『原理講論』には次のように記述されています。

我々が正しい信仰をもつためには、第一に祈祷により、神霊によって、神と直接霊交すべきであり、その次には、聖書を正しく読むことによって、真理を悟らなければならない。イエスが神霊と真理で礼拝せよ(ヨハネ四・24)と言われた理由はここにある。(『原理講論』p191)

 

まず祈りと通して神様と霊的に交流し、その基台の上でみ言を正しく読むこと、これが正しい信仰をもつために必要なことになります。

また、『原理講論』には、「正しい信仰」をもつことの妨げになるものについても、次のように指摘されています。

我々は、因習的な信仰観念と旧態を脱けでられないかたくなな信仰態度を、断固として捨てなければならないことを、この洗礼ヨハネの問題を通じて教えられる。使命を果たして行った洗礼ヨハネを、使命を果たさなかったと信じることも不当であるが、事実上、使命を果たさなかった洗礼ヨハネを、よくも知らずに、全部果たしたと信じることも正しい信仰ではない。我々は神霊面においても、真理面においても、常に正しい信仰をもつために努力しなければならない。(『原理講論』p205)

 

そして、文鮮明先生は、信仰とは神様と私との関係性の中で成立するものであることを次のように語られています。

「信仰」というものは信じて仰ぎみることです。「信用」というのは人間社会で使われる言葉ですが、「信仰」というのは人間と天の間で成立するものなので、信じて仰ぎみるというのです。(『文鮮明先生御言選集』60-260 1972.8.18)

信仰の道におけるその対象は、「私」ではなく「神様」です。どこまでも神様を対象にしていく道です。言い換えれば、主体と対象の関係が神様と私の間に結ばれ、主体から成される事実が対象に及び、対象から成される事実が主体と関係を結ばなければならないということです。(『文鮮明先生御言選集』40-275 1971.2.7)

 

成約聖徒が受けている「内的な試練」の狙いは、神様と私との関係を断ち切ることにあります。

その一つのチェックポイントは、日常の生活圏内で神様の存在を実感しているかどうか、頭の中だけの観念的な信仰になっていなかどうかということです。

 

~【partⅣ】につづく~

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