【今回深掘りする原理のみ言】
今まで神を信ずる信徒たちが罪を犯すことがあったのは、実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、実感を伴うものではなかったからである。神が存在するということを実感でとらえ、罪を犯せば人間は否応なしに地獄に引かれていかなければならないという天法を十分に知るなら、そういうところで、だれがあえて罪を犯すことができようか。(『原理講論』p34)

 

先回の【partⅠ】では、成約時代の聖徒たちが受ける「内的な試練」がいつ始まり、どのような試練なのかについて説明しました。

そして、それを見抜くためのヒントになる二つの理論と一つの戦略をご紹介しました。

この土台の上で、今回は、サタンおよびその勢力が具体的にどの点を試練してくるのか、その試練を克服するのに大切なことは何かを深掘りしてみたいと思います。

【partⅠ】の復習

「成約時代の摂理的同時性」から見たとき、新約時代の「メシヤ再降臨準備時代」(1517~1918)を蕩減復帰する期間は、2018年9月から2022年8月の4年間になります。

この路程を歩む成約聖徒たちは、「メシヤ再降臨準備時代」のキリスト教徒たちと同様に、「言語に絶するほどの内的な試練」を受けます。

その「内的な試練」とは何かというと、実体と心情の試練であり、実体の試練とは健康問題及び経済問題です。

また、心情の試練とは、霊的に堕落する前のエバのように、どこに中心をおくべきか分からず心情的に混沌となるという試練です。

そして、試練してくるサタンおよびその勢力の攻勢を見抜くために参考になるのが、「ゆでガエル理論」、「プロスペクト理論」、「サラミ戦術」です。

 

■「ゆでガエル理論」
カエルが入った水の温度を急激に上げると、そこにいるカエルは飛び出してしまうが、少しずつゆっくり熱していくと、カエルは温度変化に慣れてしまい、そのままゆであがって死んでしまうという寓話で、人間の思考や行動の本質を言い表している。

 

■「プロスペクト理論」
人には、利益はすぐにでも手に入れようとするが、損失はすぐには確定できない性質があるという理論で、その根底には、損をしたくないという欲求や、自分の間違いや失敗を認めたくないという思考が存在する。

 

■「サラミ戦術(サラミ・スライス戦略)」
懐柔などによって敵対する勢力を少しずつ、段階的に滅ぼしていく手法。急激な変化を起こすと、こちらの戦略が相手に見抜かれるため、このような戦術をとる。

神様、再臨主、「統一原理」を否定しようとするサタン

サタンおよびその勢力は、神様の存在、真のお父様のメシヤ性、「統一原理」の真理性に対して不信させ、その絶対的な価値を相対化させようとしてきます。

つまり、この世の神観や人物、思想の情報を示しながら、唯一絶対の神様を神々の中の一人の神、真のお父様を偉人の中の一人、「統一原理」を数多くある教義や思想の一つにすぎないと考えるように誘導するのです。

例えば、エデンの園で天使長ルーシェルは、エバに対して次のように言いながら神様のみ言を否定し、神様の戒めのみ言に対するエバの絶対信仰を試練してきました。

あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです。(創世記3章4~5節)

 

これと同じように、現代の成約聖徒たちに対しても、サタンは神様、再臨主、「統一原理」の絶対価値を相対化させ、その信仰を試練してきます。

(1)唯一絶対なる神様を否定

サタン及びその勢力の究極的な目的は、唯一絶対なる神様に対する私たちの信仰を失わせ、神様は存在しないと思わせることにあります。

『原理講論』には、自己否定できないはずのサタンが、その目的を果たすため、自分をも犠牲にして神様を否定しようとしたことが次のように記述されています。

サタンは歴史の終末をよく知っているので自分が滅亡することもよく知っている。したがって、結局はサタン自身も尊ばれないときが必ずくることを想定していながら、自分の犠牲を覚悟して神を否定したのがすなわち弁証法的唯物論なのである。(『原理講論』p554)

 

このように、サタンは総力を挙げ、それこそ命懸けで神様を否定し、弁証法的唯物論を中心に無神論の世界をつくろうとしてきました。

しかし、ソ連を中心とする共産主義国の崩壊により、弁証法的唯物論による無神論世界の構築は一度失敗に終わったのです。

そして、東西の冷戦体制が神側の勝利で終結したのち、1994年5月、韓国では「世界基督教統一神霊協会」が「世界平和統一家庭連合」へと名称変更が行われました。

それと同時に『私の誓い』が『家庭盟誓』に代わったのですが、これは神様の復帰摂理が個人救援の時代から家庭救援の時代になったことを意味しています。

そこでサタンは、家庭救援の摂理を妨害するため、国家体制を共産主義化する戦略から、家庭破壊を第一目的とする文化共産主義を浸透させる戦略へと切り替えたのです。

そして、ひとり一人の信仰に対しても、最初から無神論者にしようとするのではなく、まず一神教的(一元論的)な信仰から多神教的(善悪二元論的)な信仰に移行させる戦略に変えました。

「ゆでガエル理論」や「サラミ戦術」のように、多神教的な信仰にすることで、サタンが正体を見抜かれることなく、その中の一人の神として潜入できる余地が生じます。

そうして多神教の中に紛れ込み、そこで勢力を拡大して唯一絶対なる神様を相対化させ、自分が創造主の立場に立って人間世界を支配しようとしているのです。

『原理講論』の冒頭に「欲望が概して善よりは悪の方に傾きやすい生活環境の中に、我々は生きている」とあります。

これは、私たちが暮らしている生活環境そのものが、サタンを中心とする唯物的かつ相対的な価値観とその目的を果たすための環境になっているということです。

(2)「統一原理」の堕落論を批判し、原罪とメシヤの必要性を否定

サタンは自分の存在を犠牲にしたとしても、自分の罪状は絶対に知られたくないため、「統一原理」の堕落論を徹底して否定してきます。

宗教界は天使界の立場になりますが、原罪を教理として定めているのはキリスト教だけです。

イエス様は「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ福音書3章3節)と語られ、復帰摂理歴史で初めて原罪清算の必要性を明らかにされました。

それまでは、だれ一人としてあらゆる罪悪の根である原罪を認識できず、清算することもできなかったのです。

すべての罪は、その根に該当する原罪から生ずる。それゆえに、原罪を清算しない限りは、他の罪を根本的に清算することはできない。しかしながら、隠されているこの罪の根はいかなる人間も知ることができないもので、ただ人間の根として、また、真の父母として降臨されるイエスのみがこれを知り、清算することができるのである。(『原理講論』p121)

 

このように、生まれながらにして原罪をもっている堕落人間が原罪を認識することはできず、無原罪のメシヤでなければそれを認識することはできません。

原罪は人類の過去の過ちとも言えますが、「プロスペクト理論」にあるように、堕落した人間は自分の罪や間違い、失敗を簡単に認めようとしない性質をもっています。

もし原罪をもって生まれたことを認めなければ、それを贖うために降臨されるメシヤの必要性も感じないのです。

ですから、サタンおよびその勢力は、人間の堕落が不倫の性関係によって起きたとする堕落論を必死に否定してきます。

原罪さえ否定してしまえば、それを清算するために降臨されるメシヤを待ち望むことも、受け入れることもなくなるからです。

2000年前にサタンは、自分が支配する人類を失ってもメシヤであるイエス様を葬ろうとしたことが『原理講論』に記述されています。

 サタンは、自分の側に立つようになった選民をはじめとする全人類を、たとえ、みな神に引き渡すようになったとしても、メシヤであるイエスだけは殺そうとしたのである。
 その理由は、神の四〇〇〇年復帰摂理の第一目的が、メシヤ一人を立てようとするところにあったので、サタンはそのメシヤを殺すことによって、神の全摂理の目的を破綻に導くことができると考えたからである。(『原理講論』p422)

 

サタンおよびその勢力が「統一原理」の堕落論を否定し、原罪を否定する目的は、再臨のメシヤの必要性を否定し、神様の復帰摂理を破綻させることにあるのです。

(3)み言と実体の不一致を批判し「統一原理」を否定

こちらの記事(アダムとエバの堕落③アダムはなぜ堕落したのか?)で解説したように、私たちは神様のみ言と現実が一致していないときに信仰が揺らぐ傾向があります。

一般的にも、言行の不一致は批判されますし、信頼を損なう主な要因になり得ることです。

ですから、み言と実体が一致していない教会組織や聖徒たちの姿があるとき、サタンおよびその勢力は、その点を集中して批判してきます。

その次の段階になると、現実の実体の方を肯定し、み言と一致していない実体に対して「人間ならみなそうだ。不足だから人間だ」と言いながら、み言の方が間違っていると考えるように誘導します。

これもまた「プロスペクト理論」にある、自分の間違いや失敗を認めたくない堕落人間の心理を利用した戦術です。

しかし、『新約聖書』の「ローマ人への手紙」(口語訳) の7章を見ると、パウロの嘆きが次のように記録されています。

わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。(ロマ7章22~24節)(注)

 

このようにパウロは、自分自身の矛盾した状態に気付いていましたが、大概の人は自分の矛盾を認識できない、あるいは認めようとしないことが多いのです。

このような堕落人間に対してサタンは、信仰生活と日常生活を分断し、信仰生活を形式化させつつ、日常生活では唯物論的価値観を中心に行動させるように誘導するのです。

「内的な試練」を克服するために大切なこととは?

以上のようなサタンおよびその勢力からの「内的な試練」を克服するのに最も大切なことは、唯一絶対の神様に対する正しい神観をもち、その神様との心情関係を確立することです。

なぜなら、冒頭のみ言に「今まで神を信ずる信徒たちが罪を犯すことがあったのは、実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、実感を伴うものではなかったからである」(『原理講論』p34)とあるからです。

それではここで、ユダヤ教からキリスト教へと伝統的に継承されてきた一神教の信仰を確認してみましょう。

(1)旧約時代の神観-唯一絶対の神様

まず旧約聖書の中心である「十戒」の第一と第二の戒律は、主が唯一の神であり、他のものを神としてはならず、偶像を崇拝してはいけないとなっています。

あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。(出エジプト20章3~5節)

 

当時の宗教は多神教が主流で、唯一絶対の神様以外のものも神として祀られ、そこにサタンが入り込む余地が充分にありました。

そのため、神様はモーセに十戒を与え、その中で主なる唯一の神以外は崇拝してはいけないと語られたのです。

(2)新約時代の神観-父なる神様

イエス様は、「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである」(マタイ福音書6章8節)と語られ、神様が人間の父であることを明らかにされました。

旧約時代の唯一絶対の神様に対する信仰の基台の上に、新約時代は「父なる神」を信奉してきたのです。

イエス様は、この「父なる神」のひとり子ですから、「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ福音書14章9節)と語られました。

そして、「人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来る」(マタイ福音書16章27節)と語って再臨することを約束されたのですが、サタンが偽キリストとして侵入してくる可能性がありました。

そのためイエス様は、神様が十戒を通して唯一絶対の神だけに仕えよと言われたように、「人の子が天の雲に乗って来る」(マタイ福音書24章30節)と語られて、聖徒たちが天だけを仰ぎ見るようにされたのです。

(3)成約時代の神観-心情の神様

再臨のメシヤによって解明された「統一原理」は、唯一絶対の父なる神様が心情の神様であることを明らかにしています。

この「統一原理」は、蘇生段階の旧約時代を経て、長成段階の新約時代の信仰基準に到達した人たちが受ける完成段階の神様のみ言です。

そのため、唯一絶対の神様が存在し、その神様と人間は父子関係だということが大前提になっているのです。

そして、神様とはどのような方で、私たち人間とはどのような関係にあり、その心情と事情とはどのようなものなのかを教え、実感できるのが「統一原理」です。

『原理講論』のp31には「人間が、根本的に、神を離れては生きられないようにつくられているとすれば、神に対する無知は、人生をどれだけ悲惨な道に追いやることになるであろうか」とあります。

「統一原理」が父なる神様の心情と事情を教えてくれるのは、私たちが真の幸福に至るためなのです。

 

~【partⅢ】へつづく~

 

※注
キリスト教界では、このパウロの言葉について、彼がキリスト教の信仰をもつ以前のことなのか以後のことなのか意見が分かれています。

「七章後半のパウロの告白的体験は、彼の回心前の出来事かそれとも回心後の経験か、学者たちの意見は大きく二つに分かれている。ブルトマン、キュンメル等は回心以前の出来事であると考え、バルト、ニグレン等は回心後の経験であると主張している。」『新聖書註解』(いのちのことば社)

「統一原理」では、霊的救いの限界という観点から、キリスト教信仰をもったあとのキリスト者の姿ととらえています。

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