【今回深掘りする原理のみ言】
 旧約と新約の聖書を対照してみれば、旧約聖書の律法書(創世記から申命記までの五巻)、歴史書(ヨシュア記からエステル記までの十二巻)、詩文書(ヨブ記から雅歌までの五巻)、預言書(イザヤ書からマラキ書までの十七巻)は、各々新約聖書の福音書、使徒行伝、使徒書簡、ヨハネ黙示録に該当する。(『原理講論』p467)

 

先回まで、「成約時代の摂理的同時性」の観点から『ヨハネの黙示録』の解明を試みてきました。

今回は、正にこれから最後の審判の時を迎える私たち(成約聖徒を中心とする全人類)にとって、銘記すべきと思われるみ言を紹介してこの連載記事を締めくくることといたします。

第5章 「強く、また雄々しくあれ」

第1節 『ヨハネの黙示録』の預言と私たちの立場

『文鮮明先生御言選集』には、文鮮明先生と教会員との質疑応答が記録されているところがあります。

そのなかで、ある教会員が『ヨハネの黙示録』について、次のような質問をしました。

質問:『ヨハネの黙示録』に記録されているようなことが本当に起きるのでしょうか?

このような質問に対して、文鮮明先生は次のように答えていらっしゃいます。

回答:実際は現在、起きているが、分からずにいるのである。『ヨハネの黙示録』を人間に例えて説明すれば、すべて説明することができる。(『文鮮明先生御言選集』15-158 1965.10.7)

文鮮明先生のみ言によると、現在進行形で黙示録の預言が成就しているということになります。

一方で、文亨進二代王様は『ヨハネの黙示録』について、次のように語られています。

 默示録には多くの預言が含まれています。終わりの時をあらわす預言です。重要な聖句が入っているのです。(中略)サタン支配の終わりを黙示録は示しているのです。(2017年4月2日「黙示録の王国」文亨進二代王様)

 

このようなみ言から、今私たちは、正に悪の世界が終末を迎え、滅び去っていくさまを目の当たりにしていることになります。

そのような終末を霊肉共に乗り越えていかなければならない私たちにとって、銘記すべき文鮮明先生のみ言がありますので紹介します。

第2節 成約時代のヨシュアとカレブ‐文亨進二代王様と文国進監察総監様

(1)成約時代のヨシュアとカレブに従う成約聖徒たちの使命

「成約時代の摂理的同時性」では、『ヨハネの黙示録』8章13節の聖句が文鮮明先生の「聖和式」を意味すると解釈しています。

そして、そのように解釈する手がかりとなる文鮮明先生のみ言として、次のみ言を紹介しました。

 『ヨハネの黙示録』の11章では、「二本のオリブの木」について預言しています。これは何を意味するのでしょうか? 世界的なカナン復帰の路程を出発するのに先立ち、ヨシュアとカレブのような存在が現われることを預言しているのです。(『文鮮明先生御言選集』2-291 1957.6.23)

 

このみ言のあと、さらにヨシュアとカレブに従う聖徒たちに対して、次のように語られています。

 モーセに代わって現われたヨシュアとカレブがユダヤ民族を導き、カナンの地に入っていったように、今日にも、イエス・キリストの福音をもってヨシュアとカレブのような人たちが現われ、神様の民を導き、世界的なカナン福地、新しい希望のカナン福地に向かっていくようになるでしょう。
 また、ヨシュアとカレブに従ってカナンに入っていった群れがカナン七族を滅ぼしたのと同様に、皆さんにはサタンを滅ぼさなければならない責任があるのです。そのような天の勇将たちにならなければならず、そのような路程を歩まなければならない責任が、皆さんにあることを肝に銘じなければなりません。
 そして、新しいみ言を主張するヨシュアとカレブが、この地のどこに現われたとしても、人々が心の門を開き、そのみ言を聞いて天のために生きることができるようにする私たちにならなければなりません。(『文鮮明先生御言選集』2-291 1957.6.23)

 

(2)成約時代のヨシュアとカレブに従う成約聖徒たちの信仰姿勢

このみ言の中に「新しいみ言を主張する」とありますが、これは成約時代のヨシュアとカレブの立場にある文亨進二代王様と文国進監察総監様が、これまでなかったみ言を主張されることを意味しています。

例えば、韓鶴子女史の不信と罪状の詳細、新しい真の母は康賢實先生であること、鉄の杖は銃であることなどのみ言は、これまで文鮮明先生が直接的な表現では語られたことのないみ言です。

「鉄の杖」については、以下の『原理講論』の記述により、これまで「神のみ言」であると解釈されてきました。

 イエスが再臨されるときには、彼は地上で誕生されるので、黙示録一二章5節に、「女は男の子を産んだが、彼は鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者である。この子は、神のみもとに、その御座のところに、引き上げられた」と記録されているのである。ここで言っている鉄の杖とは、罪悪世界を審判して、地上天国を復帰する神のみ言を意味する。(『原理講論』p572)

 

このように『原理講論』では「鉄の杖は神のみ言」であると明記されていますが、文亨進二代王様は、鉄の杖とは銃であると語られています。

み言は人間の霊的な命を守ると同時に、審判の基準にもなり、銃は人間の肉的な命を守ると同時に、傷つけ奪うこともできます。

どちらもそれを用いる人が何を動機としてどのように用いるかによって、反対の結果をもたらすという側面があります。

神様の創造理想は、地上天国をつくり、そして天上天国をつくることですから、サタン世界にすでに銃が存在している以上、善なる人たちが正しく銃を管理し、それを教育、指導しなければ、実体のサタンを分別することはできません。

毛沢東元主席は「革命は銃口から生まれる」と言いましたが、サタン勢力は銃を使って共産主義革命を実現しようとしています。
 
共産主義思想が浸透し蔓延しているサタン世界に対して、新しい真理のみ言と思想によってそれらを駆逐し、人類を正しい方向に導かなければならないのです。

そして、「この地のどこに現われたとしても」とありますが、文亨進二代王様と文国進監察総監様は、アメリカのペンシルベニア州ニューファンドランドの地を拠点として復帰摂理を進めておられます。

再臨主である文鮮明先生が朝鮮半島に降臨されたことにより、天宙的カナン復帰路程は、第1次から第2次まで朝鮮半島を中心として摂理が展開しました。

しかし、第3次天宙的カナン復帰路程では、摂理の中心が朝鮮半島からアメリカのペンシルベニアに移っています。

「この地のどこに現われたとしても」というみ言は、このことを意味しています。

また、『ヨハネの黙示録』の14章には、罪からあがなわれた14万4000の人たちについて、次のように説明されています。

 彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。(14章4節)

 

偶像崇拝をしない彼らは、小羊の行く所へはどこへでもついて行くとあります。

これは、天の三大王権に侍り従う成約聖徒たちのあるべき信仰姿勢と言えるでしょう。

第3節 「強く、また雄々しくあれ」

さらに続けて文鮮明先生は、ヨシュアとカレブに従う聖徒たちに対して、「強く、また雄々しくあれ」と語られています。

最後にこのみ言を紹介して、本連載記事を締めくくりたいと思います。

 ヨシュアとカレブの行く道は、冒険の道でした。彼らが歩いた道は、難しい開拓の道であり、闘いの道でした。行く先々で開拓者の使命を果たさなければならない、厳しい道でした。時には個人的に、あるいは環境的にぶつかってくる試練と闘わなければならない路程が彼らにはあったのです。
 モーセがイスラエル民族を率いてカナン福地に向かって出発しようとする時、パロ王がモーセを殺そうとし、イスラエル民族の中にもモーセを不信して反対する人が多かったのと同じように、ヨシュアとカレブの時にもそのようなことがありました。このようなことをよく御存じの神様は、ヨシュアとカレブに「強く、また雄々しくあれ」(ヨシュア1章6節)と語られたのです。
 「強く、また雄々しくあれ」、このみ言は何を意味しているのでしょうか。それは、「人間的なすべての条件を乗り越えなさい」という意味です。それで、イエス様も、三大試練を通して人間的なあらゆる条件を乗り越えることに勝利されました。したがって、2000年が過ぎた今日の皆さんも、人間的なあらゆる条件を乗り越える道において、強く、また雄々しくなければなりません。(中略)
 今日、ヨシュアのような立場に立っている私たちだとすれば、私たちにも、行くところごとに個人的な怨讐がいるでしょう。環境も私たちを叩くでしょう。民族と国家も私たちを打つでしょう。
 しかし、選ばれた私たちが団結し、死を覚悟して最後まで闘うにおいて第二のヨシュアたちとなり、死を覚悟してイエス・キリストに従い、世界のキリスト教に責任をもつことのできる聖徒たちになれば、私たちは、私たちの前に展開するいかなる闘いの道も越えることができます。ですから、神様は、私たちが強く、また雄々しくあることを願っていらっしゃるのです。(『文鮮明先生御言選集』2-291 1957.6.23)

 

すべての成約聖徒たちが強く、また雄々しくあって、最後の審判の時を威風堂々と前進し、乗り越えていくことができますように!

 

■編集後記-執筆を終えて-

本連載は、『ヨハネの黙示録』の一つひとつの聖句について解明したものではありません。

『原理講論』が聖書を「統一原理」の観点から解説したものであるように、「成約時代の摂理的同時性」の観点から、預言書である『ヨハネの黙示録』の解明を試みたものです。

上記で紹介したみ言に「実際は現在、起きているが、分からずにいるのである」(『文鮮明先生御言選集』15-158 1965.10.7)とあるように、私たちは終末の最後の審判の時にいながら、それを認識できていません。

「統一原理」の観点で『ヨハネの黙示録』を解明することで、その現状を打開できるのではないかというのが本連載を企画した動機の一つです。

また、「統一原理」によって『ヨハネの黙示録』が解明されれば、それはすなわち『ヨハネの黙示録』が天の三大王権について預言されたものだということの証明になります。

残念ながら、このような動機と目的が今回の連載で充分に達成されたとは言えません。

今回は、『ヨハネの黙示録』8章13節の聖句が文鮮明先生の聖和を意味していると考え、それを基点に論理を展開していますが、他の基点をもってより原理的に整合性のある解明がなされることも充分ありえます。

これからもこのテーマについては、哲学的なアプローチによって、より真理に近いものを探究していく必要がありますので、さらに完成度の高い『ヨハネの黙示録』の解明がなされていくことを期待します。

ただ、この時期(2020年末)に『ヨハネの黙示録』解明の端緒を見出せたことには、大きな意義があったと思います。

それは、これから成就する14章以降の預言を成約聖徒たちに知らせ、最後の艱難・試練を乗り越えさせようとする天の意図があると感じるからです。

執筆にあたっては、自らの能力と経験の限界、未熟さを痛感させられたことが多々あり、投げ出したくなるほど苦しい霊的な闘いの伴う作業でしたが、それ以上に学びを得た経験となりました。

不足なゆえに構成が煩雑になり、分かりづらい表現になってしまっている点があること、なにとぞご容赦ください。m(_ _)m

 

UPMC(「統一原理」マスタークラブ)
中村仁史

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