【今回深掘りする原理のみ言】
 旧約と新約の聖書を対照してみれば、旧約聖書の律法書(創世記から申命記までの五巻)、歴史書(ヨシュア記からエステル記までの十二巻)、詩文書(ヨブ記から雅歌までの五巻)、預言書(イザヤ書からマラキ書までの十七巻)は、各々新約聖書の福音書、使徒行伝、使徒書簡、ヨハネ黙示録に該当する。(『原理講論』p467)
 
 
前回の「第1章 総論と対照図の概要」では、「成約時代の摂理的同時性」と『ヨハネの黙示録』を対照するときに中心となる基点と概要について説明しました。
 
今回は、『ヨハネの黙示録』の「七つの教会」へのメッセージの中で、繰り返し登場する聖句に注目し、その聖句が記録されている章と、「成約時代の摂理的同時性」の時代区分がどのような関係にあるのかを明確にします。
 
これにより、『ヨハネの黙示録』をはじめ、聖書が神様の啓示によるみ言であり、神様が天の三代王権を通じて役事していらっしゃることが分かるようになります。
 
 
 

第2章 「七つの教会」へのメッセージと「成約時代の摂理的同時性」

 

第1節 「七つの教会」へのメッセージの時代区分とその基準となる聖句

 

(1)「七つの教会」へのメッセージについて

 
聖書の観点から見ても、「統一原理」の観点から見ても、七数は完成や完全を意味する数です。
 
ですから、「七つの教会」へのメッセージは、特定の教会に対するメッセージではなく、新約時代と成約時代のすべての聖徒たちに対するメッセージであると考えることができます。
 
実際に、『ヨハネの黙示録』が書かれた当時、アジアの教会は七つだけではありませんでした。
 
神様とイエス様、そして再臨主を信じ、侍る聖徒たちにとって、信仰生活における普遍的な教えが込められているのが「七つの教会」へのメッセージです。
 

(2)プロテスタントの「七つの教会」へのメッセージに対する時代区分

 
それと同時に、第一から第七までのメッセージの順序にも意味があります。
 
プロテスタントには、「七つの教会」へのメッセージはキリスト教史における各時代の特徴を預言的に表したものである、という解釈があります。
 
第1章で紹介した『ヨハネの黙示録』を歴史主義的に解釈する立場では、1世紀からキリスト教会の歴史、そして未来に起きるキリストの再臨、最後の審判、新天新地の到来が預言されているとしています。
 
これは、ルターをはじめとする宗教改革者たちの主張ですが、具体的には次のように区分されています。
 
 

(3)「統一原理」の「七つの教会」へのメッセージに対する時代区分

 
「成約時代の摂理的同時性」では、「統一原理」の摂理的同時性と聖書の七数概念から、次の二つの観点で「七つの教会」へのメッセージを区分しています。
 
①第一から第六までのメッセージと第七のメッセージを新約と成約に分ける
 
聖書の七数概念では、一から六までの縦的な段階を経て、七の段階で横的に展開して完成するとしています。
 
そのため、第一から第六までのメッセージを新約時代の六期間、第七のメッセージを成約時代全体とそれぞれ対応するとしています。
 
②第一から第六までのメッセージを三段階に区分する
 
神様の復帰摂理は、創造原理の三段階原則によって蘇生、長成、完成の三段階を経て展開します。
 
そして、完成期では、それまでの蘇生期と長成期の蕩減条件が加重されて展開するようになっているため、「七つの教会」へのメッセージも三段階に区分しています。
 

(4)時代区分の基準となる聖句

 
人間には、神様も干渉できないそれ自身の責任分担があるため、ある時代の中心人物が責任を果たせなかった場合は摂理が延長されるようになります。
 
そのため、人類救済のための復帰摂理歴史は、一定の期間と史実が同時性として繰り返すことになります。
 
このことから「七つの教会」へのメッセージを区分するときには、繰り返し記録されている聖句を調べ、それを基準として三段階に区分します。
 
「七つの教会」へのメッセージの中で3度繰り返し記録されている聖句は以下になります。
 
【第一の教会:エペソ教会】
2章2節:使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いた。
 
【第二の教会:スミルナ教会】2章9節:ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられている。
 
【第六の教会:ヒラデルヒヤ教会】
3章9節:サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。
 
 
「成約時代の摂理的同時性」では、上記の聖句を基準として、「七つの教会」へのメッセージを次のように区分しています。
 
 
 

第2節 「七つの教会」へのメッセージに学ぶ教訓

 
第1節の最後に紹介した聖句を見ると、蘇生段階と長成段階の第一と第二の教会へのメッセージでは、各教会の聖徒たちが、使徒あるいはユダヤ人と自称している人々からまどわされ、そしられているとあります。
 
完成段階の第六の教会へのメッセージでは、聖徒を惑わし誹謗する人たちを主が裁かれています。
 
このように、これらの聖句では、聖徒たちが蘇生期と長成期の試練を経て、完成期で試練に勝利することが預言されています。
 
それでは、聖徒たちを惑わす人たちの教えとして記録されているニコライ宗とバラムの教えについて調べてみましょう。
 

(1)ニコライ宗とバラム

 
ニコライ宗については、聖書の中で『ヨハネの黙示録』の2章にしか記録がないのですが、そこでは次のように記録されています。
 
 しかし、あなたに対して責むべきことが、少しばかりある。あなたがたの中には、現にバラムの教を奉じている者がある。バラムは、バラクに教え込み、イスラエルの子らの前に、つまずきになるものを置かせて、偶像にささげたものを食べさせ、また不品行をさせたのである。同じように、あなたがたの中には、ニコライ宗の教を奉じている者もいる。(ヨハネの黙示録2章14~15節)
 
 
上記の聖句に「同じように」とあることから、ニコライ宗の教えとバラムの教えは似ていると考えることができます。
 
バラムは『旧約聖書』の「民数記」に記録されている人物で、最初は神の預言者、代弁者として出発しましたが、最後は占い師となり悲惨な最期を迎えた人物です。
 
したがって、バラムの教えについて調べることで、ニコライ宗の教えも理解できるので、バラムがどのような歩みをし、聖徒たちの教訓となっているのかを見てみましょう。
 

(2)バラムの不信仰とは?

 
「民数記」の22章から24章には、モアブの王バラクがイスラエルを呪うためにバラムを雇おうとするときの話が記録されています。
 
バラムは、バラク王から使者を通じてイスラエルを呪ってくれるよう要請を受けますが、最終的には神様の指示どおりにイスラエルを祝福します。
 
ところが、バラク王から提示された報酬に目がくらんだバラムは、「イスラエルが神から呪われるような行いをするように仕向ければよい」と考え、バラク王に助言するのです。
 
 バラムは、バラクに教え込み、イスラエルの子らの前に、つまずきになるものを置かせて、偶像にささげたものを食べさせ、また不品行をさせたのである。(ヨハネの黙示録2章14節)
 
 
具体的にどのようなことを助言したのかというと、モアブ人の娘をイスラエルの宿営に送り込むように言いました。
 
その結果、イスラエルの男たちは、モアブ人の娘と不品行に走り、彼女たちが持ってきたモアブ人の偶像を拝むようにまでなり、それによってイスラエルに神様の罰が下ってしまったのです。
 
バラムは、自分からはイスラエルを呪うことができないため、彼らが自ら罪を犯すように仕向けることで富と名誉を手にし、自分の欲望を満たしたわけです。
 
これは天使長のルーシェルがエバに対して行ったことと同様の手口で、サタンは人間が自ら非原理的な方向を選択するように仕向けてくるのです。
 
バラムは、天使長ルーシェルと同じ立場と動機でイスラエルを偶像崇拝と不品行の道へとおいやったのです。
 

(3)バラムの教え

 
以上のように、バラムの教えとは、偶像崇拝と不品行の道へと陥らせる教えでした。
 
 彼らは正しい道からはずれて迷いに陥り、ベオルの子バラムの道に従った。バラムは不義の実を愛し、そのために、自分のあやまちに対するとがめを受けた。(ペテロⅡ2章15~16節)
 
 彼らはわざわいである。彼らはカインの道を行き、利のためにバラムの惑わしに迷い入り、コラのような反逆をして滅んでしまうのである。(ユダの手紙11 節 )
 
このことから、ニコライ宗の教えも、やはり偶像崇拝と不品行を意味しています。
 
「七つの教会」では、特に使徒やユダヤ人を自称する人たちによってこのような偽りの教えが広がり、聖徒たちを惑わしていたのです。
 
『ヨハネの黙示録』の「七つの教会」へのメッセージは、成約時代の聖徒たちがサタンから偶像崇拝と不品行の教えによる試練を受けながら、それに勝利して再臨主と一つになり、神様のみ旨を成就することが預言されています。
 
それでは、成約時代への預言という観点から、さらに詳しく「七つの教会」へのメッセージを見てみましょう。
 
 

第3節 「七つの教会」へのメッセージに見る成約時代への預言

 
 

(1)第一から第六のメッセージに見る成約時代への預言

 
成約時代は新約時代を横的に蕩減復帰する時代ですので、第一から第六のメッセージが新約時代の六期間と対応しているとすれば、それは同時に成約時代の六期間とも対応していることになります。
 
そこで、それぞれの教会の名称やメッセージから、成約時代への預言や予兆を示していると考えられるものを選んで紹介します。
 
①第一の教会-エペソ教会
 
「エペソ」とは「好ましい・望ましい」という意味ですが、エペソ教会の聖徒たちは、偽りの使徒を見抜き、偶像崇拝や不品行に陥ることなく自分たちの信仰を守りました。
 
その信仰姿勢が神様から見て好ましく、望ましい姿であったことを「エペソ」という教会名は象徴しています。
 
成約時代の「日帝及び基督教迫害時代」(1920~1960年)では、日帝が強制する神社参拝に応じたキリスト教徒たちと応じなかったキリスト教徒たちがいました。
 
神社参拝に応じなかったキリスト教徒たちは、神様の再臨摂理から見てアベル圏であり、好ましく望ましい立場でした。
 
一方で、2章4節には「あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」とあります。
 
「初めの愛から離れた」というのは、再臨主と一つになることができず、再臨主を通して注がれる神様の愛を受けることができなくなったアベル的なキリスト教徒たちを示す預言と言えます。
 
②第二の教会-スミルナ教会
 
「スミルナ」とは「没薬」を意味し、「没薬」は死者を葬るときに塗る香油で死を象徴します。
 
そして、2章9節に「わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている」とあるように、スミルナ教会の聖徒たちは厳しい迫害を受けていましたが、信仰を守り続けていました。
 
成約時代の「氏族メシヤ家庭教会時代」(1960~2000年)には、文鮮明先生の4人の子女様が殉教などでお若くして聖和されています。
 
 文恵進様 1964年8月4日 聖和
 文喜進様 1969年8月1日 聖和
 文興進様 1984年1月2日 聖和
 文栄進様 1999年10月27日 聖和
 
また、2章10節には「見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている」とあり、これは文鮮明先生がアメリカのダンベリー刑務所に収監(1984.7.20~1985.8.20)されたことを預言しています。
 
③第三の教会-ペルガモ教会
 
「ペルガモ」とは「結婚した」を意味し、キリストの花嫁として信仰を守る聖徒たちがいる一方で、バラムやニコライ宗などの異教の教えと結婚する人たちもいました。
 

成約時代の「天一国時代」(2001~12年)では、まず2002年4月27日、アメリカのワシントンにおいて「14万4000双聖職者祝福結婚式」が行われました。

翌年2003年2月6日には、第二の真の父母様の長成期聖婚式である「天地父母様天一国開門祝福聖婚式」が行われ、本来であれば、「基元節」(2013年1月13日陰)に完成期の聖婚式が行われるはずでした。

そして、2章14節から15節にバラムやニコライ宗の教えに奉じている者もいるとありますが、これは金孝南訓母や清平修練苑が偶像崇拝と不品行などで腐敗し、聖徒たちを惑わすことを預言しています。
 
また、2章17節にある「新しい名」とは、「いのちの木」(2章7節)としてこられる再臨のメシヤのお名前が「イエス・キリスト」ではなく「文鮮明」という新しい名だという意味です。
 
「新しい名」は、ヒラデルヒヤ教会へのメッセージの3章7節にも記録されています。
 
④第四の教会-テアテラ教会
 
「テアテラ」とは「継続した犠牲」を意味しますが、新約時代の「東西王朝分立時代」(919~1309年)のキリスト教では、アッシジのフランチェスコなど初代教会にも優る信仰や行いがある一方で、マリア崇拝に象徴される異教の女神信仰やさまざまな偶像崇拝が聖徒たちを惑わしていました。
 
成約時代の「天地王権分立時代」(2012~16年)では、再臨主の十字架に続き、天の三代王権への迫害が起き、文亨進二代王様ご夫妻と文国進様ご夫妻は継続した犠牲の道を行かれました。
 
そして、2章20節に記録されている「イゼベルという女」とは、文鮮明先生を背信した韓鶴子女史のことを預言しています。
 
 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。(ヨハネの黙示録2章20節)
 
 
イゼベルとは、北イスラエルの王アハブの妻で、バアル信仰をイスラエルに取り入れて、イスラエルを完全な異教の国にしてしまった女性です。
 
 オムリの子アハブは彼よりも先にいたすべての者にまさって、主の目の前に悪を行った。彼はネバテの子ヤラベアムの罪を行うことを、軽い事とし、シドンびとの王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、これを拝んだ。
 彼はサマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築いた。アハブはまたアシラ像を造った。アハブは彼よりも先にいたイスラエルのすべての王にまさってイスラエルの神、主を怒らせることを行った。(列王記Ⅰ16章30~33節)
 
 
そして、2章21節を見ると、神様は彼女に対して悔い改める機会を下さったことが分かります。
 
 わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。(ヨハネの黙示録2章21節)
 
 
この期間が、文鮮明先生が聖和されたあとの「天地王権分立時代」(2012~16年)の4年間でした。
 
このときに韓鶴子女史が天の三代王権に侍り、従うべきでしたが、まったく反対の道を行ってしまいましたが、この聖句はこのことを預言しています。

また、2章27節には「彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう」とあり、この時代から「鉄のつえ」の摂理が始まることが預言されています。

⑤第五の教会-サルデス教会
 
「サルデス」とは「逃れる者」を意味し、中世のキリスト教界がますます腐敗、堕落していくなか、ジョン・ウィクリフやヤン・フスなど宗教改革の先駆けとなる人物たちにより信仰が守られていきました。
 
成約時代の「真の母捕虜・帰還時代」(2016~18年)の2017年1月、康賢實真のお母様が『天一宮』に入宮され、「家庭連合」から文亨進二代王様ご夫妻の元に復帰されたことは、正に「逃れる者」を象徴する出来事です。
 
そして、3章1節の「生きているというのは名だけで、実は死んでいる」というのは、この時代の「家庭連合」にいる聖徒たちのことです。
 
第一から第四までの教会に対しては、叱責もありましたが、必ず称賛の言葉もありました。
 
しかし、第五のサルデス教会に対してのメッセージには、称賛の言葉がひと言もありません。それは、すでに霊的に死んでしまっているからでしょう。
 
その一方で、3章4節には「しかし、サルデスにはその衣を汚さない人が、数人いる。彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう」とあります。
 
霊的に死んでしまった「家庭連合」の中でも、信仰を失っていない人たちが天の三代王権に復帰し、「世界平和統一聖殿」の聖徒として天の三代王権と共に歩むことが預言されています。
 
⑥第六の教会-ヒラデルヒヤ教会
 
「ヒラデルヒヤ(フィラデルフィア)」とは「兄弟愛」を意味するのですが、成約時代の「三代王権完成準備時代」(2018~22年)の文亨進二代王様と文国進様による真のアベル・カインの一体化を象徴しています。
 
そして、当時、ヒラデルヒヤという町はギリシヤの前哨基地で、ヒラデルヒヤ教会は神の国の前哨地であり世界宣教の前哨地でもありました。
 
「世界平和統一聖殿」は、文亨進二代王様ご夫妻を中心に、フィラデルフィアのあるペンシルベニア州を拠点として歩んでいますが、ここが正に神様と天の三代王権による世界宣教の前哨地ということになります。
 

そして、3章8節には、「見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである」とあります。

この聖句に「門を開いておいた」とありますが、この門について文鮮明先生は次のように語られています。

 人類が偽りの父母として出発したので、天国の門を開いて入るには、「真の父母」が出てこなければなりません。(『文鮮明先生御言選集』42-286 1994.11.20)

 祝福結婚を通して真の父母様と天的な因縁を結ぶようになれば、それは永遠不変の因縁となります。祝福結婚は天国の門を開く鍵になるのです。(『文鮮明先生御言選集』504-332 2005.8.20)

 

天国の門を開くには真の父母がいなければならないのですが、「三代王権完成準備時代」(2018~22年)の前の2017年9月23日に「天宙完成祝福聖婚式」が行われ、第三の真の父母が現われています。

それにより、偽りの聖酒によって一旦はサタン圏に落ちた祝福家庭が、「真のお父様の権威に戻る祝福」を受けることができるようになりました。3章8節に「門を開いておいた」とあるのは、このことを預言しています。

また、3章10節には「全世界に臨もうとしている試錬の時」とあり、この時代に起きる最後の艱難、試練のことが預言されています。
 
 

(2)第七の教会-ラオデキヤ教会へのメッセージに見る成約聖徒たちへの教訓

 
聖書の七数概念から見たとき、第七の教会のラオデキヤ教会に対するメッセージ(3章14~21節)は、再臨主降臨以降の成約時代全体に対するメッセージです。
 
そのメッセージの最初に次のように記録されています。
 
 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。(ヨハネの黙示録3章14~16節)
 
 
このなかに「冷たいか熱いかであってほしい」とありますが、この聖句について文鮮明先生は次のように語られています。
 
 これでもあれでもない中間状態にいてはいけません。中間状態は爆破させなければなりません。これでもなく、あれでもない位置は、停止状態にある位置です。そのような位置にいれば、自然と滅びます。ですから、聖書の黙示録3章に「冷たいか熱いかであってほしい」(3章15節)とあるのです。(中略)中間状態は天が願わないのです。(『文鮮明先生御言選集』32-30 1970.6.14)
 
 
「統一原理」でも、アダムとエバが堕落した直後の立場は神様とサタンの中間位置にあるとして、次のように説明されています。
 
 堕落直後、まだ原罪だけがあり、他の善行も悪行も行わなかったアダムとエバは、神とも、またサタンとも対応することができる中間位置におかれるようになった。それゆえ、アダムとエバの子孫たちもまた、そのような中間位置におかれるようになったのである。(『原理講論』p272)
 
 
このように、善でも悪でもない中間状態というのは、堕落したあとの状態と見ることもでき、そのままの状態でいれば自然と滅んでしまうのです。
 
また別の観点から、愛の世界での善と悪に対する姿勢について、文鮮明先生は次のようにも語られています。
 
 『ヨハネの黙示録』を見ると、「冷たいか熱いかであってほしい」(3章15節)、中途半端ではいけないとあります。愛の世界で中途半端な態度はいけないのです。愛の心をもてば、むち打ってもよいというのです。
 子女を育てるとき、愛を与えたのにその心を忘れてしまったときは、冷たく対すべきときもあります。子女が間違ったとき、皆さんがしかってあげなければ分別力を失います。
 先生がよく見えても、一方では厳しいということを知らなければなりません。悪に対しては無慈悲です。しかし、善に対しては何千度の溶鉱炉のように熱いのです。(『祝福家庭と理想天国Ⅰ』1979.7.19)
 
 
第七のメッセージの中にも、次のような聖句があります。
 
 すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。(ヨハネの黙示録3章19節)
 
 
比喩と象徴で記された聖書を中心とする新約時代までは、どうしても善悪の基準が人間を中心とする相対的なものにならざるを得ませんでした。
 
しかし、イエス様が「もはや比喩で話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう」(ヨハネ一六・25)と言われたように、成約時代は、再臨主によって誰もがはっきりと理解できる真理のみ言が下賜されます。
 
この真理のみ言によって善悪の絶対的な基準が明確になるため、すべての人がそのみ言に対する態度をはっきりさせなければならないのです。
 
そしてまた、それを自分の中だけにとどめるのではなく、多くの人々に述べ伝えなければなりません。
 
マーチン・ルーサー・キング牧師の有名な言葉に次のようなものがあります。
 

最大の悲劇は、悪人の圧制や残酷さではなく、善人の沈黙である。

問題になっていることに沈黙するようになったとき、我々の命は終わりに向かい始める。

 
 
さきほどの中間状態のように、問題になっていることに対して善人が沈黙することは、終わりの始まりです。
 
成約時代はみ言による審判の時代でもありますが、主権を奪われまいとするサタン勢力がこれに対して全力で抵抗し、最後の発悪をしてきます。
 
したがって、成約時代にはありとあらゆる試練や問題が起きるようになるのです。
 
そのとき、私たちが最も避けなければならないことは「善人の沈黙」だと言えるでしょう。
 
再臨主のみ言と原理を中心に、善悪に対する自らの態度を明確にして「善人」の立場に立ったあと、私たちは、すべての人々に対して、何が善か、何が悪かをはっきりと提示していかなければなりません。
 
 
~後編 第3章へつづく~
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